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一切顛倒ー11 [仏道]

 光は「波」と「粒」、両方の性質を持っています。水や空気、その他の物質に当たると、「吸収」「透過」「反射」「散乱」といった性質があります。物体に当たった光は様々な方向に跳ね返され反射光となります。対象を見ているのではなく、反射した光を網膜に像として認識しています。
 我々は光を見ることはできません。日中明るいのは、太陽の光が地球の大気中のさまざまな粒子や分子に当たり、「散乱」するので明るく見えます。青い光(波長)が強く散乱されるので晴れた日の空は青く見えます。夕方は、太陽の位置が低くなり、大気中の長い距離で光が通り青い光は多く散乱され弱くなります。波長の長い赤い色が残って目に届くからです。
 太陽から届く光は、白色光線といって、実はさまざまな色が混ざって白く見えている光です。
波長を識別する感覚があるということです。その波長の違いによって光線を識別できる感覚が色覚です。脳が波長によって色を塗って識別しています。色は物質によっています。

 光と闇がありますが、深海では光が届かず暗闇の世界です。地上では太陽の光の恩恵を受けています。光で溢れている世界では、光を遮ることで闇となります。闇から光を出現させるには、遮っているものを取り払えば済むことです。光の世界で闇を作り出すことはできません。 遮ることによってのみ闇となります。

 次に光のない闇だけの世界では、闇を遮っても光となるわけではありません。闇を操作して反対の光が出現したり、闇から光を生成することはできません。闇の世界では、光が欲しければ作為的に光を創り出すほかありません。闇の中で、光を作り出すにはエネルギーが必要です。光は闇の一部ではなく、闇の中に光が存在しているのでもありません。闇に光を作り出すエネルギーはあるでしょうか。エネルギーの不在が闇です。

「衆生本来佛なり」(白隠禅師坐禅和讃)
 人が最初から「闇=無明」だけの存在ならば、「光=智慧」を作為的に作り出すほかありません。この「光=智慧」が「知識や知恵」であるならば、だれもが教育によって得られるはずです。
 人が最初から「光=智慧」を備えた存在であれば、遮っているもの「無明」を払拭すれば「光=智慧」が出現します。
 ここでいう無明は、不浄を浄、一切皆苦を楽、諸法無我を我はあるという我見、諸行無常を常住とすることです。
 人はそもそも「光=智慧」が備わっている(仏である)のに、無明によって「光=智慧」が遮られているので「光=智慧」が現れることができません。

無明を払拭するには、四念処を修することです。
身念処:身体の不浄を観ずる。身体は、汚物を包んだ皮袋である。
受念処:一切の感受による想起は苦であると観ずる。思慮分別によって執着や厭離のどちらも苦となる。
心念処:無常を観ずる。あらゆるものは消え去るので執着するものは無い。
法念処:法(事象)に対して無我を観ずる。

 我々の心は所在がなく、五感から入ってくる情報を「知る」という働きだと思われます。入力された情報が「我が身」にとって「安全か危険か」を常に感知するセンサーのような働きです。「知る」ということは「我が身」を存続させるためになくてはならない最重要な機能です。「知る」ことが間違っていると疑う人はほとんどいません。積極的に「知る」ことが「苦」を生み出しています。知ろうが知るまいが、自然に起こっていることでしかありません。我々は「主体」ではなく、無常である刹那を感受しているだけのことです。刹那に善悪も何もありません。

知らぬが仏」という言葉があります。「知る」ことでいちいち分別をめぐらせていては「寂静」ではいられません。
 人は猫の言葉とか犬の言葉も知りたいようです。川のせせらぎの意味や、月の見える形や明るさも概念化して意味づけします。猫や犬が何を言っているのかを知ったり、鳥のさえずりの意味を知ったり、あらゆる自然の意味を知ろうとしたい。対象に「名前」を付けて「我」と別の存在として「敵か味方」かを認識して安心していたい。

 もし、あらゆる対象が語りかけてくることを「知る」ことができたら、自分の思っていることとのギャップや対象の語っている意味を処理するのに頭が使われるとどうなるでしょうか。
 脳は休むことができなくなり、悲鳴をあげることでしょう。
 釣り上げられた魚は釣り人に何と言っているのでしょうか?
 ホルモンを食べている人に、牛は何と言っているのでしょうか?
 花を摘まれたバラは何と言っているのでしょうか?
 首をはねられるスッポンは何と言っているのでしょうか?
 殺虫剤をかけられているゴキブリは何と言っているのでしょうか?
 踏みつけられる蛾は何と言うのでしょうか?
 あなたの飼い犬は汚い言葉を浴びせているかもしれません。何も知らずにかわいいと思い込んで餌をやっているほうが幸せです。
 人の心など分からない方がいいのではないでしょうか。病院に行って医師や看護師の心が分かったら二度と医者には行きたくなくなるかもしれません。常に、あれもこれも識別し分別すれば精神的な安定が失われることは必然です。「知る」ことは「苦」を生み出していると想像できるでしょうか。

 仏道において「知る」ということはどうでしょうか。
 主体となる、我はいない。対象は常住でなく無常である。この身を不浄とみて「身びいき」を止めなさい。この世では楽などない、一切が苦であるから執着など抱くな。
 「我が身」など無い。「知る」ことでどれだけ「知識や記憶」をため込んだとしても寿命によって全てがご破算となります。この世のことについて「知る」ことに時間を割くよりも、一切の囚われから解き放たれた境地を体験してはどうですかということです。
 仏道修行は、修行をしない(日常がそのまま修行となる境涯)ようになるために修行するのではないでしょうか。只管打坐は、ただただ打ち込んでいる姿そのものが仏道そのもの。

 公案は、考えることを止めさせるために徹底的に考えさせます。公案は、答えが大事ではなく囚われを見つけその囚われから解き放たれることです。バカバカしいと思える公案ほど効果があります。今まで「意味がないこと」を考えていたのかが分かり己の愚かしさに気づきます。人間の知的欲求が無意味だということに気づかせるための方便です。
 知的欲求を満たすためにどれだけの時間が費やされ、費やされた時間に比例して心が清浄になるのでしょうか?「私は知ることができた・私は法則を発見した」と言う自己満足で慢心とはなるが清浄には遠いような気がします。

 「知識」の増加が智慧の発現に役立つなら、お釈迦様の時代の人は現代人に及びもつきません。「知識」がいっぱい詰まった容器よりも、空っぽのコップのほうが使い勝手はよいと思われます。
 何も知らずに純真爛漫に遊んでいる子供と、日々時間に追われ「どうでもいいこと」を真剣に考え悩んでいる大人。どちらが幸せかは誰もが了解していることです。若いころの悩みを引きづっているのなら、成長とはほど遠いかもしれません。

「当所即ち蓮華国  此身即ち佛なり」(白隠禅師坐禅和讃)
 坐禅はなにもしない、なにも考えない姿そのものが仏。仏がいちいち考えをめぐらせるでしょうか?
考えることは煩悩を作っていることに他なりません。知る事や考えて概念を見つけて知識にすることは仏でしょうか。求める人に必要な時に必要なことを的確にアドバイスを与える。これが真の智慧ではないでしょうか。一日中考え続けている仏がいるならば、穏やかな顔にはならないでしょう。

 頭で作りだすことはなんであれ光を遮る雲でしかありません。雲によって闇となり光は届きません。瞑想は考えないようにすることで、心「知る機能」を働かせないことです。心が働かなければ解放されます。知りたいという働きが自我そのもの、心そのものの働きです。知識を主人とせずに、無知(知る必要のない生き方、知る意味が無いと解っている)なる智慧を現すことです。

 人は知りたいし答えを見つけたい。しかし、知りたいや分かりたい、みて見たいという欲望から解放されたらどうでしょうか。パラドックスの罠があります。知れば知るほど真理から遠くなり、知識を得ようとすればするほど仏道から離れていきます。
 我々の自我(実体はない)は、自我(実体のないもの)を守るために「知る」という機能にたよって存続しているだけなのです。何もしないことが最も困難な修行です。「知る」ことを諦めることも最も困難なことです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


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