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無明ー20 [気づき]

バーヒヤ経

<略>
「バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。
『①見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。
バーヒヤさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。バーヒヤさん、まさに、あなたにとって、
見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、
バーヒヤさん、それですから、②あなたは、それとともにいないのです。

バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。

バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、バーヒヤさん、それですから、③あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。 これこそは、苦しみの終極“おわり”です」と。

<略>
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 カメラのレンズ(=眼)を景色に向けます。ファインダーから景色が見えています。分別(=綺麗とか汚いとか、良いとか悪いとか)を抜きにただ見えている景色があります。そのに景色だけがあれば景色と一体(=ワンネス)となっていて、見られる景色も見ている誰かもなく、ただ景色そのものだけがただ在る、在る、在る・・・。

 自身の感性に合ったところでシャッターを切れば映像として記録されます。カメラなしで、普通に自身の眼を通して見たときは、その見えているそのままがそのままにあります。見えているモノの「名前」を思い浮かばないままに見えている時間が在るはずです。
 「何でもないも(=見えている全体)」を「何でもない者(=我見を持ち込んでいない空っぽな自分の本性)」に映しだされています。

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<実証実験>
 名前の分らない、石や草や虫や鳥等々をそのままに見る。見ている「それ」が何かを知りたいという欲求が出てきても「それ」という名前にしてただ見てみる。
 名前を知っていても、強制的に大きな概念である「それ」として見る。質感や色や艶や重さ等々を見えるがままに見る。同様に聞いたり、思ったり、識ったりしたままをそのままにしておきます。
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 レンズを向けているだけで、レンズ自体には取捨選択などありません。レンズが景色に対して良いとか悪いとかの感情は持ち合わせてはいません。
 見えたもの(=勝手に見えて認識されているもの)は、ただ見えたものだけであってそのままです。分別(=良い悪いとかの判断)が起こる以前の状態では「空っぽ=ただの目撃者=本来の自己・・」です。

 ②それ(わたし=自我=分別)とともにいないのです。
見えたものは見えたものだけであって「わたし=分別」が見ているのではなく、勝手に見えているだけです。「わたし=分別」が発動されていません。「わたし」がいなければ認識作用は起こりません。そのままがそのままにあるだけです。すでにそのまま(=取捨選択していない、苦も楽もない)だけです。すでに涅槃(=煩悩が起こる以前)を経験しています。

 煩悩の火が点火されていない状態(=煩悩の火が消えている状態=涅槃)です。もし分別が起こっても分別したことに執着しなければ何ら問題はありません。美しいものを選択したり安全を求めることは本能に備わったもので否定することではありません。ただ、今やっていることの他に期待や希望で頭の中で葛藤を起こし思いをめぐらせ続ければ妄想となります。
 妄想しつづければ、煩悩を燃やし続けていることになります。ただ感受するのが第一の矢であり、第二の矢がどれほどであったとしても振り回されなければいいだけです。思考のダンスと一緒に踊らなければ問題ありません。

③あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。

 あなた(=自我=分別)は、まさしく、この世(=今ここ)になく、あの世(=未来)になく、両者の中間(=今と未来の間)において存在しないのです。
 見たまま、聞こえたまま、感じたままであれば分別して執着する苦しみに囚われることのない状態を体験しています。評価する以前のまま。お茶を飲めば飲んだままの味でしかありません。飲めなければ身体が勝手に吐き捨てます。ただ味わっているこの味があるだけです。

 耳鳴りはするし、たまに目眩はするし、肩は痛いし、膝も痛いし、腰も痛いのですがただそうなっているだけのことです。経年劣化するのは当たり前のことです。あと何年か付き合うものなので適切に対処すればいいだけです。

 ずっと涅槃に留まっていたいとは最強の欲望です。煩悩を滅せよと言いながら何と欲深いことか。

 我々は、日々の何気ない中で気づかずに涅槃を経験をしているかもしれません。涅槃に留まっていたいとか涅槃を知ろうという「私」を起これば、「私=自我=知ろうという心」が涅槃を対象として設定してしまいます。もう二元にになり、知るものと知られるものとなり一体ではなくなっています。

 最高の境地は、死にものぐるいで修行するものだ。いくら修行しても得られる体験は一瞬の出来事です。身体が無くなったとかワンネスを体験した記憶がまったくなかった等々です。一瞥であって常にその状態であれば生活はできません。
 バーヒヤさんのように、一瞥しているのに気づいていません。自分は修行もしていないし、聖なる生活のしていない。関係のないことだと自ら「気づき」と距離を置いているかもしれません。

 あまりにも平凡で何時どこにでも手の届く所にあるはずです。探さなくてもよかったということが大悟かもしれません。
 最初から迷ってもいなかったし、最初から救われていたし、最初から悟りなんてなかった。そんな馬鹿な・・・。これがパラドックスであり発見かもしれません。

 真理は何時か何処かにあって探して出して掴む対象ではなかった。このままであり、あるがままでありそのままであり続ける。探し回るから探し出せない。必死で自分の顔を直視しようと頑張っているようなものです。

 あらゆる生命に「気づき」があるということは、あらゆる生命が真理の中にあって、一つの意識とともにあるということを認めることです。宇宙(=真理)の只中で生きている我々は真理そのものである。

 思い通り(=自我=分別からくる思い)になったら大変です。チョット気にいらない思い起こり、その思いが現実になったらどうでしょう。思われた人は、怪我をしたり病気になったり最悪は死んでしまうことになります。最後には誰もいなくなります。思い通りにならなし、何が起こるか分らないから生きていられます。未知というものがなく、◯年◯月◯日◯時◯分に死にますと分かってしまったらどうでしょう。種の分かっているマジックなど見る気もしないのと同様です。

  純真な子供のように一なる意識に委ねてみます。無為自然な時間をチョットずつ重ねて実感していく。只〜している、〜していて時間を忘れてしまったという体験。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
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