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荘子ー14 [気づき]

 心を労して、むりにすべてを一つにしようと努力し、実はすべてが自然のままに一つであることを知らないもの、これを朝三という。それでは朝三とは何か。
 こういう話がある。あるとき、猿回しの親方が猿どもに栃の実を分配しようとして、「朝に三つ、暮れに四つでは、どうか」と相談した。すると猿どもははらをたてて「それでは少なすぎる」といった。そこで親方が「それなら朝に四つ、暮れに三つでは、どうかね」といったところ、猿どもは大喜びをしたという。名実ともに何の変わりもないのに喜怒の情がはたらくのは、自分自身のあさはかな是非の心に従うからである。
 だから聖人は、是非の対立を和合させて、差別の人為がない自然の境地ー天鈞(てんきん)に安住するのである。別のことばでいえば、是も非もそのままに是認して、両者をそのままに行かせることーこれを両行(りょうこう)というのである。

天鈞:自然のままに、すべてをひとしいとする境地。
両行:是非のいずれかを取捨選択することなく、両者をそのままに放任する。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P182 」斉物論
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 心を労して、むりにすべてを一つにしようと努力し、実はすべてが自然のままに一つであることを知らないもの、これを朝三という。それでは朝三とは何か。

 自然に働くままの社会的な「私」で世界を観察しています。社会的な「私」は、矛盾を含み曖昧な言葉を使って思考しています。「美」という言葉は単なる言葉であって「美」という文字や「bi・ビ」という音が美しいのではありません。「豊か」という言葉を何回唱えても実際に「豊か」になるわけではありません。真言を何かを叶えるために使うのは社会的な「私」に従っているだけで万物斉同から離れていくようです。無駄な思考から離れるためにこそ真言を使い、万物斉同であるとの見抜きを促すようにしたほうがいいかもしれません。

 二元対立が前提となっている社会的な「私」の観点では、世界は一つであるとの思い込みだけで終わってしまうようです。言葉以前(=定義以前の分離のない世界)の区別・差別のない「一つ」を見抜くことができないようです。言葉は物事や事象を分離・分割して切り刻んで分析するために使われているようです。この言葉によって分離される以前の一なるものをつかもうとすることは不可能のようです。顕微鏡で地球全体を見ようとしても見れるものではありません。地球全体(=分割されていない全体)を見たいのなら俯瞰した視点で見る他ありません。google earthでどんどん上昇するような視点です。水平的な視点から一旦離れて、垂直的な視点で全体を見る他ありません。
 思考で思考を鎮めようとしてもてきません。食べれば食べるほど痩せると一生懸命やっていようなものではないでしょうか。

朝三(=決めつけ)だけを見て、全体が一つであることを見ることができないようです。

 自らの観念の一つである「非(=朝三=朝は三つだけでは不足)」とすれば、他の案が「是(=朝四)」となる可能性があります。合計の七つは何ら変わりがないということに気づきません。自身の思い込みが「是」であって他は「非」として決めつけています。社会的な「私」は状況や時代や場所によって「常識」や「正義」が異なります。
 自分が「赤」と認識しているのに、自分以外の全員が「青」と認識していれば「青」です。常識は多数決であって正しいというのは状況によってどうにでもなるものだと言えるのではないでしょうか。

 戦時の最中に「平和」を訴え「全面降伏せよ」と言う人がいたらどうでしょう。平和な時に「戦争」して土地を奪いかえしましょうという人がいたらどうでしょう。
 戦争中では、相手を殺した打ち負かすというのが「常識・正義」となっているようです。全員が異常でも、異常が全員なので異常な人が正常と見なされます。「戦争=常識」であって「平和=異常」となります。

 実は現在の我々は異常のど真ん中に既にいるかも知れません。プラスチックゴミの海洋汚染・海洋資源の消滅・原発の廃炉・汚染水・森林火災・経済戦争・温暖化等の喫緊の問題があるにもかかわらず、防衛費や天体望遠鏡や宇宙開発や数千億円もの素粒子の実験装置などに優秀な人の頭脳と時間とお金を費やしていいるか、費やそうとしているようです。宇宙空間でも戦争を起こそうとしています。宇宙戦争の戦禍のゴミはどこに降り注ぐのでしょうか。何年か後に、なすべき事を後回しにした愚かな未開人と歴史に刻まれているかもしれません。

 ある国で「聖者」と言われている人は社会的な「私」はもう用がなく社会からドロップアウトして「本来の自己」だけで生きていこうと決めた人かも知れません。社会生活している人から見れば、何もしないで世話をしてもらい講釈しているだけ。社会生活している人から見れば社会に適応できない人引きこもっている人とあまり相違がない。探求している人以外には役に立っていない人かもしれません。
 探求を主として僧院で社会からお世話になっている人から見れば、獲得ゲームをやるよりは探求ゲームの方が価値があると思っているかも知れません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
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荘子ー13 [気づき]

 すべての物は、彼(か)れとよびえないものはなく、また是れとよびえないものはない。それなのに、なぜ離れているものを彼とよび、近いものだけ是れとよぶか。
 離れている彼れの立場からは見えないことでも、自分の立場で反省してみれば、よく理解することができる。だから身に近いものを是れとよんで親しみ、遠いものを彼れとよんで差別しているにすぎない。
 だから次のようにいえる。彼れという概念は、自分の身を是れとすることろから生じたものであり、是れという概念は、彼れという対立者をもととして生じたものである。つまり彼れと是れというのは、相並んで生ずるということであり、たがいに依存しあっているのである。

 しかしながら、このように依存しあっているのは、彼れと是れとだけではない。生に並んで死があり、死に並んで生がある。可に並んで不可があり、不可に並んで可がある。是をもとにして非があり、非をもとにして是がある。すべてが相対的な対立にすぎず、絶対的なものではない。
 だからこそ聖人は、このような相対差別の立場によることなく、これを天に照らすー差別という人為を越えた、自然の立場から物をみるのである。このような聖人は、是非の対立を越えた、真の是に身をおくものといえよう。

 もしこのような自然の立場、相対差別という人為を越えた立場からみれば、是れと彼れとの区別はなく、彼れと是れとは同じものになる。たとえ是非をたてるものがあったとしても、彼れは彼れの立場をもととした是非を立てているにすぎず、此れは此れの立場をもととした是非をたてているにすぎない。それに、もともと彼れと是れという絶対的な区別がはたして存在するのか、それとも彼れと是れとの区別が存在しないのか、根本的に疑問ではないか。

 このように彼れと是れとが、その対立を消失する境地を、道枢(どうすう)という。枢(とぼそ)ー扉の回転軸は、環の中心にはめられることにより、はじめて無限の方向に応ずることができる。この道枢の立場にたてば、是も無限の回転をつづけ、非もまた無限の回転をつづけることになり、是非の対立はその意味を失ってしまう。先に「明らかな知恵をもって照らすのが第一である」といったのは、このことにほかならない。

道枢:扉の回転軸。万物斉同の境地を表すことばとして用いられる。
環中:環は、枢を受ける穴。彼此(ひし)や是非の対立は、すべて環の周囲におかれて無限に回転するが、環中におかれた枢は、そのいずれにもとらわれることがない。環中も、万物斉同の境地を表すことばとして用いられる。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P177 」斉物論
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 私たちが自然に身につけた習慣(=脳の癖)によって、自身(=これ・主体)と対象(=あれ・客体)という概念(=前提)があります。
 常に変化して止まない社会的な「私」でありながら、言葉(=不変と定義づけされた文字と音)と記憶からなるレッテルによって「私」を定義づけているようです。誰もが「本来の自己」を意識することなく知っています。仮(=レッテルだけの実体のない)の社会的な「私」と「本来の自己」がゴチャゴチャになって世界を見ているようです。

 社会的な「私」はその都度変わっている状況や現象に対応してコロコロと変化(=思考や感情や感覚)しています。社会的な「私」が全てであるかのように振る舞い活動するので、社会的な「私」を生きながらえさせようと望むようになっているようです。

 社会的な「私=アイデンティティ=自我」は様々なレッテルを貼ったり剥がされたりして社会の中で生きています。レッテルは恒常不変なものではなく、社会の中だけに通じる仮の「私」です。
 小学生(=レッテルの一つ)であった「私」はもういません。今の自分を自己紹介するレッテル以前のレッテルは、ただ履歴書に書かれた文字だけかもしれません。
 誰かに会っても、お互いに履歴無しで付き合ったほうがいいかもしれません。履歴や格好を見て態度を変えるのは差別・区別で人と接していることを公言しているかのようです。

 本源は何も染まっていない透明で境界のない、一つの意識かもしれません。また今のレッテル(=アイデンティティ)を取り去った「私」は透明であり境界のない「空っぽ」ではないでしょうか。

 社会的な「私」は社会で生きていくために必要な「私」です。思考や記憶をおろそかにしたら社会に適応できません。あくまでも社会で適応していくため便宜的に他人に説明できる「私」です。全てのレッテル(=アイデンティティ)を取り去って性別も年齢も出身も◯◯国の人でもない「素のあなた」は、一体誰なのでしょうか。

 今ある「私」は存在しないわけではなく、仮のレッテルを取りされば何も定義づけされていな「何でもない存在」としてあるだけです。
 あらゆるものに意味があり価値があり特別であるならば、特別などはないのと同じです。毎日が特別なら、特別が当たり前(=普通となり)であり何でもない日となります。どれもこれもユニークであって比較する意味などあるでしょうか。
 社会的な「私」は何でもないもので、対象としているものも特別でない何でもないものである。
 自己を主体と見なしているかぎり、対象(=客体)としての相対・対立的な視点以外から観ることは困難なように思われます。
 
 社会的な「私」の視点から離れ、「あれ」と「これ」という対立概念なく一切が名前のない「ただの何でもない存在」があるだけ。是非も社会的な「私」の立場や環境によって生じている一時的なものでしかないかもしれません。


「人間が自分で意味を与えないかぎり、人生には意味がない。」エーリッヒ・フロム


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荘子ー12 [気づき]

 もし、特定の一本の指をさして「これが指だ」というと、他の多くの指は除外されて、指ではなくなってしまう。だから特定の一本の指だけをさして、これを指だというのは誤りだ。

 「指でないもの」というのは、特定の指から除外された多くの指をさす。特定の個物から出発しないで、個物でない普通の(万物斉同の立場)から出発し、そこから個物の姿をながめ、個物が絶対的な実在ではないことを知る。

 白い馬をさして「これが馬だ」といえば、他の毛色をした多くの馬は除外されてしまい、馬でなくなってしまう。だから白い馬をさして、これが馬だというのは誤りだ、というのである。
 正しい真理の見方は、まず普通の立場、万物斉同の立場にたち、そこから個物の世界をながめることである。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P179 」斉物論
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 特定の個物から出発しないで、個物でない普通の(万物斉同の立場)から出発し、そこから個物の姿をながめ、個物が絶対的な実在ではないことを知る。

 「指」という言葉を知らない子供にとって「指」は最初から意味のあるものではありません。単に動く何かであり、意味などなく動きとして見えていただけかもしれません。「指」として教えられ「指」と認識するようになり、この世界で共通に使われているルールであり「声」に出すことに意味があるものと理解できるようになっていくようです。

 しかし、このルールも場所や人が変われば何とでも変化するもので「ゆぴ」と発音しても、通じれば何でもいいということです。
 私たちは、意味づけして「言語ゲーム」を楽しんでいるかもしれません。ドイツ人の哲学者が真剣に思考して解き明かして構築された「論考」であってもドイツ語で言われても鳥のさえずりよりも迷惑に聞こえるかも知れません。モフモフ君たちには、人の立ち話には何の興味も湧かないことも至極当たり前のようです。
 
 一旦、言葉をまったく知らない状態に戻ったとして万物を見ると一切存在にはラベルはついていません
 あらゆるものに「名前」があるというルールを前提として世界を見ると、あらゆる物が分離していてる世界となっています。存在の一つ一つが形や色によって分離されていると見るのではなく、そもそも一切は一つであって境界もなく分離のない「あるがまま」に存在している万物斉同(=区別差別のない顕れ)であると見る。 

 「愛している」と言えば、その言葉を発した時以外は「愛していない」ことになる。一度「愛している」と言えば常に言い続けるはめになります。毎日言い続けるとただの挨拶のように感じられ感動もなくなるかも知れません。
 「おいしい」と言ったことがない人が、「おいしい」と言えばいままでの料理は「おいしくない」と勘ぐられます。

  ここでは「真理」の見方は個々の事象を識別して見るのではなく、差別区別のない視点で見てはどうでしょうかと提案しているようです。

 「真理」も個々人で異なる解釈があるので、頭の中での「言葉ゲーム」が繰り広げられているだけかもしれません。


 数学記号や音符や図面や化学記号などは、誰もが間違いなく使える共通表象かもしれません。言葉は後期ヴィトゲンシュタインでの「言語ゲーム」として使われているかもしれません。

 音が聞こえるということは静寂があるということです。分かるということは分からないがあったということです。知るということは知らないがあったということです。

 もし目覚めていな前提で、「目覚める」ゲームをするのならば眠っている自分が、自分を眠っている自分だと設定する。眠ったままの状態で、眠った自分を眠った自分が起こさなければなりません。わざわざ眠った自分という設定がなければなりません。眠った自分を眠った自分認識しているという面倒なことを眠った自分ができるのでしょうか?すごい想像力が必要です。

 もし、眠った自分をどうにか眠った自分を目覚めさせたとします。目が覚めたのならば、眠った自分はそこにはいません。目が覚めた人が他の人を観察すると、他の眠っている人は眠った状態のままです。目覚めた人が催眠術をかけて眠らせているわけではないので、眠っている人の目を覚まさせることはできません。もし目覚めた人が眠っている人を目覚めさせることができるのなら、お釈迦様や覚者ならすぐにでも目を覚めさせているはずです。

 覚者に目を覚めさせていもらった人は、目が覚めて覚者になったのですから他の眠っている人を目覚めさせることができるはずです。ネズミ算よろしく、あっという間に全員が目を覚ますことになります。
 しかし、覚者は眠った人を目覚めさせることはできてはいません。なぜなら架空の物語に他ならなからです。
 すでに「それ=一つの意識」であり、眠ってもいないし目覚めてもいないからです。すでに「それ」であるのですが、社会生活での「私=アイデンティティ」だけが働いているとの前提があります。知らず知らずのうちに「◯◯ゲーム」の中で生きているようです。「言語ゲーム」の中でさらに「◯◯ゲーム」に夢中になっています。

 覚者は「悟りを開いた」とか「悟った」とかは言わない・言えないようです。何故なら悟りはないからです。共通の状態とは何もない「空っぽ」だから、だれもがそうだったのかと分かる筈です。何かあるのなら、あなたの得たものと私の得たものを比較対照して検証しなければなりません。比較検証しなくても誰もがそうなんだという「空っぽ」。
 何年も何もしないで坐っている只管打坐と庭掃除などの作務で何を掴んだり得るのでしょうか。掴むことも得ることもできないと分かることに時間がかかるのには、脳の掴む得るという癖を取るためです。

 すでに「それ」であることを見抜くだけです。「それ」開かれていて不生であり進歩とか高次とするものではない完成されている「それ」です。すでに「それ」でなかったら「それ」になることなどできません。もし人間がちっぽけな身体と脳だけの存在なら、数十年瞑想したり坐禅したり公案したりしただけで「それ」に変容できるでしょうか。瞑想者の身体がだんだん金色になるとか、脳が変容して身体的な苦しみも精神的な苦しみも消滅できるバイパス回路ができたとか。
 臓器が傷ついて痛みの信号な出なかったら大変です。
 死は問題でもなんでもありません、ただ当たり前の現象であって思考や修行で解決するようなことではありません。囚われて考えている方が問題です。

「神は動詞であって、名詞ではない」トーマス・フラー


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。
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荘子ー11 [気づき]

 さて、ことばというものは、口から吹き出す単なる音ではない。ことばを口から出すものは、何事かを言おうとするのである。ただ、その言おうとする内容が、人によって異なり、一定しないところに問題がある。

<略>

 それでは、道は何におおいかくされて、真と偽の区別を生ずるのであろうか。ことばは何におおいかくされて、是と非の対立を生ずるのであろうか。もともと道というものは、どこまで行っても存在しないところはなく、ことばというものは、どこにあっても妥当するはずのものである。それが、そうでなくなるのはなぜか。ほかでもない。
 道は小さな成功を求める心によってかくされ、ことばは栄誉とはなやかさを求める議論のうちにかくされてしまうのである。
 だからこそ、そこに儒家と墨家との、是非の対立が生まれれる。こうして相手の非とするところを是としたり、相手の是とするところを非としたりするようになる。もしほんとうに、相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非としようと思えば、是非の対立を越えた、明らかな知恵をもって照らすのが第一である。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P176 」斉物論

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 道は小さな成功を求める心によってかくされ、ことばは栄誉とはなやかさを求める議論のうちにかくされてしまうのである。

 道は言葉で表現できるようなものではないようです。何時でも(=永遠)どこでも(=無限)道が存在しないことはないようです。言葉や文字は人間の最高の発明だと思われます。実体がないのに、概念やイメージを結合することで現実化する手助けになっているようです。
 私たちは定義づけされただけで本当は実体などないただの「私=アイデンティティ」を第一としているようです。コロコロ変わり実体のない「私」と実体のない言葉を操って(=振り回されて?)生きているようです。「あるがまま」がある(=認識している)ようでない(=刻々と変化し常住でない)ものであり「瞬間の生滅」の繰り返しとしてあるにもかかわらず、掴んだり得たりできるという前提で生きています。

 「思いの世界=こうあってほしい」と「あるがまま=生滅の世界」との間に「葛藤(=思いと現実の差)」があります。この「葛藤」を思考(=言葉=実体がない)を使って解決できると脳が諦めません。脳は言葉を使って答えを出そうと際限なくチャレンジしているのが実際のようです。
 答え出し(=概念で掴む)ゲームを終わらせない限り、回し車の中にいるモルモット、飽きることなく空気切りしている子供と大差がないかもしれません。

「人間こそ笑いかつ泣くところの唯一の動物である。つまり人間こそあるがままの事実と、あるべきはずの事実との相違に心をうたれる唯一の動物であるからだ」ハズリット

 既に道の真っ只中にいて道からはずれることなどできまぜん。道から外れた自分など存在しませんが、あえて道から外れた自分を設定することで探求できます。探求ゲームは自作自演するしかありません。心ゆくまでゲームを楽しむことも道の中で受け入れられています。探求ゲームもあり人生ゲームもありです。ゲームに優劣や是非などあるでしょうか。ゲームオーバーになったら、どこに落ち着くのでしょうか。普段の何気ない生活以外に何かあればいいのですが・・。何かの導きなのか新たな幻想が続いているのか、教団を作った人がいたようですが・・。

 社会生活での「私=アイデンティティ」が主でありアイデンティティを確固(=たよりにしていたい)たるものにしようと奮闘しているようです。自我は実体がないにもかかわらず、実体があるように振る舞いたいのです。そのためには「私」として存在するために考え(=我=思考)続けなくてはなりません。物質が存在しているように見えるには、素粒子や原子や電子が高速回転によるのに似ているようです。

 この探求ゲームの自我に実体がないことを見抜くのに、坐禅や公案というものがあるのではないでしょうか。公案で導かれる答えらしいものには実社会での問題を解決してくれる「諦め」の答えがあるようです。この答えは思考の無意味さを見抜いてくれます。
 また、思考し尽して答えらしいものはないのだと、思考そのものの無意味さを見抜くものがあると思われます。思考で何でも解決できると思っていた自身の愚かさに笑うことになります。何で悩んでいたかというと思考して(=現実と思考のギャップ)悩んでいたのですから、思考する事自体に意味がないという見抜きで悩みがなくなるのは当然の結果のようです。

 私たちはどうでも良いことでも知りたいという脳の癖がついてしまっているようです。もし自我によってはげしい「葛藤=苦悩」がおさまらないというのなら、自我(=思考したい・知りたい・記憶していた)が存続しているという基盤(=思考しているという私がある)が嘘(=妄想・マヤカシ)であると見抜くしかありません。

 坐禅は身体が固定されていて何もしていない状況を強制的に作られます。何もしていないのに、思考があるというのは思考が勝手に浮かび上がっている事実を観ることになります。あってはならない思考(=身体は何もしていない)があるというのは、坐っている時の思考はすべて偽りであるとだれでも見抜けることになります。
 坐っていることだけ事実であるのに、事実(=なにも行動していないで坐っている)以外の思考は夢と同じで幻想なんだということの見抜き。眠っているときは身体は何もしていません。身体が何もしていない時にイメージにあるものはただの夢(=幻想)ということになります。
 坐禅中に足が痛いという感覚は事実ですが、痛い以外の楽になりたいとか仕事のことや家庭のことを考えていることは全部作りごとであると見抜けます。今ある事実からかけ離れた勝手な希望や期待を扱っているということです。考えるのは当たり前と思っていますが、只ここに坐っている事実とはかけ離れているんだということ。

 何年坐わろうが、何分坐わろうがそこに差があるでしょうか。思考が勝手に湧いてくる嘘(=事実でないただの思い)だと見抜けばそれで終わりです。只今の事実とかけ離れた思考が出てきたら「思考さんご苦労様」と慈しんで見てあげればいいのではないでしょうか。
 それでも思考がおさまらなければ、呼吸に注視して呼吸と共に「吸っている」「吐いている」と何回かしているうちに綺麗サッパリどこかに消えています。また、真言の「どうでもいいですよ」「関係ない」も思考を断ち切るのに有効かもしれません。

「われわれは自分で考えているほど幸福でもなければ不幸でもない」ラ・ロシュフーコオ


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荘子−10 [気づき]

 ①さて、ことばというものは、口から吹き出す単なる音ではない。ことばを口から出すものは、何事かを言おうとするのである。ただ、②その言おうとする内容が、人によって異なり、一定しないところに問題がある。
もしことばの内容が一定しないままに発言したとすれば、その言ったことが、はたして言ったことになるか、それとも何も言わなかったことになるか、わかったものではない。
 ③たとえ自分では単なる雛鳥(ひなどり)のさえずりとはちがうと思っていても、はたして区別がつくかつかないか、あやしいものである。

 それでは、道は何におおいかくされて、真と偽の区別を生ずるのであろうか。ことばは何におおいかくされて、是と非の対立を生ずるのであろうか。もともと道というものは、どこまで行っても存在しないところはなく、ことばというものは、どこにあっても妥当するはずのものである。それが、そうでなくなるのはなぜか。ほかでもない。
 道は小さな成功を求める心によってかくされ、ことばは栄誉とはなやかさを求める議論のうちにかくされてしまうのである。
 だからこそ、そこに儒家と墨家との、是非の対立が生まれれる。こうして相手の非とするところを是としたり、相手の是とするところを非としたりするようになる。もしほんとうに、相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非としようと思えば、是非の対立を越えた、明らかな知恵をもって照らすのが第一である。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P176 」斉物論

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③たとえ自分では単なる雛鳥(ひなどり)のさえずりとはちがうと思っていても、はたして区別がつくかつかないか、あやしいものである。

 誰かが表現(=出力)したものは、その時点(=出力・表現)で表現者の手を離れ表現者のものから公共のものとなるようです。天賦の才能が努力によって開花されますが、環境や支援があるからこそであり自力では無理であると誰でも認識していることと思われます。公共の助けがあり、世間が受け入れてくれるからです。価値があると思われればそれなりの対価を受け取ることができます。
 表現を受け取ってくれる人がいなければ、雛鳥のさえずりと区別がつかないかもしれません。ただ勝手に一人で騒いでいるだけです。
 この文章を読まれている時は、この文章の所有者は「あなた」であり自由に扱うことができています。

 受け取る人が表現者を生み育てていると言ってもあながち間違いではないようです。
 表現者(=個々の存在)が主役ではなく世界(=一切の存在)が受容体(=主役)であると、観点を変換する必要があるかもしれません。我々は世界から受け入れられている客体であり、世界が無条件に受け取ってくれる主体と見てもいいのではないでしょうか。表現している時は主体ではなく見られている客体、開かれた存在(=受容)は客体ではなく無条件に受け入れる主体であると。

 受容があるからこそ表現が許されています。表現者が表現したものを受容者(=存在)が拒否(=無視)するなら、表現されたものはだれのものでしょうか。表現されたものは表現者自身が処理しなければなりません。悪意を持った言葉を投げかければ相手にされず、天に唾を吐くように自身に戻ってくることになります。

 「私=アイデンティティ」のない透明で境界のない空っぽである存在(=本来の自己)は、無制限・無自覚・無条件で「あるがまま」全てを受け入れています。何よりも先立つ意識が自動的に働いています。毎朝、瞼を開くと見ようとせずとも見えることに驚きます。
 当たり前のように眠って、当たり前のように目が覚めます。全てを任せきって、目が覚めれば見えたり聞こえたり最初に受容が起こっています。日々奇跡的な出来事で始まっているのに、記憶や脳の癖である「当たり前」が驚きをだんだんと減少させているようです。
 意識(=本来の自己)は、誰にも教わることなくあらゆる命に備わっていて勝手に働き続けています。修行して「本来の自己=すでにある意識」が高次になったり変化することなどあるでしょうか。この自然の受容(=意識)こそが「愛」かもしれません。あらゆる生命にくまなく与えられている受容性こそ「愛」そのもの。
 与える以前に自動的に存在へ受容(=認識、意識)されていますが、受容体の中で分別する「私=我=固定観念」によって拒否されることもあります。全ては拒否されず、必ず一旦は受容されているということを分からなければなりません。「本来の自己」を見つけなくても、常に「本来の自己」が働いていて全てを受け入れているという事実を認めること。穢れたものや忌み嫌うことも自動的に受け入れているという事実があります。見なければよかった、聞かなければよかったと思う以前にすでに見ているし聞いています。我々はすでに「それ」であり、「それ」から離れた何かではないということ。

 「愛」と思って(=勝手な思い込み)与えたのに拒否され、「愛」という思いから「憎しみ」に変わることもあります。

 一切の存在は必然的に受容という「愛」の働きをもって現れているのではないでしょうか。「愛」は探さなくても存在するもの全てに予めそなわっているようです。五感による感受(=受容=愛)を拒否することはできません。見たくなくても目が開いていれば見ないでいられません。

 「本来の自己」=「愛=受容」そのものとして機能しています。社会生活で使われている「私=アイデンティティ」は表現(=出力)に主眼があり、本来そなわっているもの(=受容性=愛)を見逃しているかもしれません。

<まとめ>
1.誰かが表現したものは、受け取った人のものであり受け取った人の自由といえるかもしれません。
2.誰もが持ち合わせている比類のない才能が「受容=意識」であるかもしれません。
3.個性を伸ばすにも、公共の支援が必須であることを否定できません。表現者の成果物も公共物かもしれません。
4.命あるものは、常に開かれていて境界がなくあらゆるものが自然に受容(=愛)されます。
5.あらゆる存在が受容(=愛)であれば、世界は「愛」そのものと言えるかも知れません。
6.一旦は無条件に受容されますが、「我=固定観念」によって曲げられたりレッテルを貼られたりします。
7.「本来の自己」は、すでに「それ」であって「私=我=分別=思考」が手を加えたり教わったり修行したりして得たり掴んだり達成するものでしょうか。発見しても一部であり一瞬であり、その一部や一瞬を表現できるでしょうか。


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荘子ー9 [気づき]

 ①さて、ことばというものは、口から吹き出す単なる音ではない。ことばを口から出すものは、何事かを言おうとするのである。ただ、②その言おうとする内容が、人によって異なり、一定しないところに問題がある。
もしことばの内容が一定しないままに発言したとすれば、その言ったことが、はたして言ったことになるか、それとも何も言わなかったことになるか、わかったものではない。
 たとえ自分では単なる雛鳥(ひなどり)のさえずりとはちがうと思っていても、はたして区別がつくかつかないか、あやしいものである。

 それでは、道は何におおいかくされて、真と偽の区別を生ずるのであろうか。ことばは何におおいかくされて、是と非の対立を生ずるのであろうか。もともと道というものは、どこまで行っても存在しないところはなく、ことばというものは、どこにあっても妥当するはずのものである。それが、そうでなくなるのはなぜか。ほかでもない。
 道は小さな成功を求める心によってかくされ、ことばは栄誉とはなやかさを求める議論のうちにかくされてしまうのである。
 だからこそ、そこに儒家と墨家との、是非の対立が生まれれる。こうして相手の非とするところを是としたり、相手の是とするところを非としたりするようになる。もしほんとうに、相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非としようと思えば、是非の対立を越えた、明らかな知恵をもって照らすのが第一である。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P176 」斉物論

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②その言おうとする内容が、人によって異なり、一定しないところに問題がある。

 言おうとする内容が一定しないのは、各人の成長過程で獲得した観念の相違であることであると推測できます。「私=自我=固定観念」が正義であって「自分かわいい」が主として働いていることを認識していればいいのですが、認識できないと我を張って「葛藤」することになるのではないでしょうか。

 右手と左手・右足と左足・右肺と左肺・右腎臓と左腎臓・右目と左目・右耳と左耳・・左右対称で一対であり一体なるものにどちらかの優劣や善悪であるとの判断を下すことができるでしょうか。
 自身の体で左右があるという見かけ上の分離を見ることができます。しかし、見かけ上であって本質的な分離はないようです。左右が均等であり、差別なく一体となって働いていることを見れば争う必要もありません。
 二つの物理的な眼で見ていても、景色は二重には見えません。二元対立の見方(=左派右派・善悪・美醜・是非等々)となっても、本質はただ「あるがまま」で存在しています。最初から善悪のラベルが貼ってものなど一つもありません。

<人によって伝えたい内容が異なるのは>
1.万物斉同での「本来の自己」からの視点がないかぎり、社会生活において「私=自我=アイデンティティ」が優位に働いています。それぞれが異なる「影の世界」(=社会生活のために構築した「私」)を持っていて、同じ情報が入力されても異なるフィルター(=影の世界)での分別(=出力)があります。
2.社会生活で働いている「私」は、固定観念によって「こうすべき」「こうあるべき」と自らの意見の正当性を主張することになります。
3.話す言語の違いによって、言語が持っている語彙によって解釈されるようです。フランス人は多彩な心情の表現ができるようです。
例:素敵に感じたときに:心を揺さぶられた、五感に衝撃を受けた、高揚させられた、雰囲気を盛り上げた、また来たくなる、もてなしが一味違う、華やかにさせてくれる、エレガントに立ち回っていた、ワクワクさせてもらった、天にも昇る気持ちになった、色の組み合わせに驚かされた、空気感がピッタリあった、控えめな音楽が好感度をあげた、秀逸な味、季節感を味わえた、歴史をしっかり受け継いでいた・・・・
4.自身の感情や気分によって左右されることもあります。
5.周りの人の意見に従ったり影響をうけて、自身の思いがそのまま表現できないこともあります。
6.誰に話しかけているのかで話す内容も異なります。
部下、同僚、上司、友人、親、近所の人、専門家、見しならぬ人、姿の見えない人・・相手の能力に応じて内容を変えて伝える。
7.社会的状況・環境変化に応じて内容を変えざるを得ないこともあります。

 同じ状況にいて、同じ情報を受け取って(=同じものを見たり、聞いたり、食べたり、感じたり・・)いても、異なった感覚となるようです。
 社会生活での「私」だけが働くのならば、固定観念というフィルターを通して自動的に分別されてしまいます。頭で処理され出力される言葉は、各自の持ち合わせている語彙を組み合わせて思考され、一定しない内容となるようです。

 受け取る人(=聞き手)が伝える人(=話し手)の真意を理解できなければ、鳥の囀り(=意味不明の音)を聞くのと同じになってしまうようです。

「自分のことのみ考え、あらゆることに自分の利益を求めるものは、幸福ではありえない。自らのために生きんと欲するなら、他人のために生きよ」セネカ


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
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荘子−8 [気づき]

 ①さて、ことばというものは、口から吹き出す単なる音ではない。ことばを口から出すものは、何事かを言おうとするのである。ただ、その言おうとする内容が、人によって異なり、一定しないところに問題がある。
 もしことばの内容が一定しないままに発言したとすれば、その言ったことが、はたして言ったことになるか、それとも何も言わなかったことになるか、わかったものではない。
 たとえ自分では単なる雛鳥(ひなどり)のさえずりとはちがうと思っていても、はたして区別がつくかつかないか、あやしいものである。

 ②それでは、道は何におおいかくされて、真と偽の区別を生ずるのであろうか。ことばは何におおいかくされて、是と非の対立を生ずるのであろうか。もともと道というものは、どこまで行っても存在しないところはなく、ことばというものは、どこにあっても妥当するはずのものである。それが、そうでなくなるのはなぜか。ほかでもない。
 道は小さな成功を求める心によってかくされ、ことばは栄誉とはなやかさを求める議論のうちにかくされてしまうのである。
 だからこそ、そこに儒家と墨家との、是非の対立が生まれれる。こうして相手の非とするところを是としたり、相手の是とするところを非としたりするようになる。もしほんとうに、相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非としようと思えば、是非の対立を越えた、明らかな知恵をもって照らすのが第一である。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P176 」斉物論

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①さて、ことばというものは、口から吹き出す単なる音ではない。

 人間の話す言葉は、その言葉を理解できる人以外にとっては単なる音(=振動)として認識されるようです。
 何事かを伝えることは、伝えたい何事かを理解してくれるという前提があるからではないでしょうか。コミュニケーションは受け手の能力が優先されます。「釈迦に説法」「猫に小判」「馬の耳に念仏(馬耳東風)」「一を聞きて以って十を知る」

 「りんご」と「apple」と「apfel-独」と「pomme-仏」のどれが正解でどれが間違いでしょうか。自国の言語では正解であり、言葉が理解できなければ不正解であり、関心がなければ正解でもなく不正解でもない。
 戦勝国と戦敗国のどちらが正義でどちらが侵略者でしょうか。正義だから勝ったのか、勝ったから正義となったのでしょうか。戦争を煽っていたメディアは正義だったのでしょうか。
 煽り運転を各局が煽り合戦している現状、何時間も平気で煽っている報道も異常ではないかと疑う人もいるかもしれません。結局は、煽るだけ煽ってあとは知らん顔がいつものパターンと言われています。面白おかしく取り上げながら、正義の味方というスタンスが見え隠れしているようです。これほどまでに乗りが良いのを見せられると、戦争になったら中立でいられるかどうか疑わしくなるのもうなずけます。スポンサーがいて中立でありうるかどうかチョット考えれば誰でもわかります。

 生き物に自然にそなわっている「知るという能力」は、全てをありのままに受け入れる能力に他なりません。歌手は聞いてくれる人がいる、旅館は泊まってくれる人がいる、農家は食べてくれる人がいる、報道は見てくれる人がいる、車は乗ってくれる人がいる。社会は、受け取ってくれる人や使ってくれる人がいるからこそなりたっています。人生が得ることや達成することや掴むことや知ることだけが全てなら、あらゆる努力は死によって水泡に帰すことになります。
 私たちは、この世のあらゆる事象(=苦・楽・その他体験)をそのままに受け入れて味わうことができます。あらゆる「存在」に触れることができ、受け入れられているという実感。一切が平等で一体であるという感覚で生きられます。

 私たちの小学生時代の我々はもうここにはいません、完璧に消え去っています。はっきりした記憶もありません。今日の一日も1年後には完全には思い出せないでしょう。120年後には、現在のほぼ全員が跡形もなく消え去っています。
 人生の終わりにおいて、得ることにそんなに執着しなくてもよかったのかな、それよりもあらゆること(=苦も楽も)を受け入れておいてよかったと。苦も楽と同じに、受け入れるという体験かもしれません。何故こんなにも「苦」を毛嫌いし逃げ回っていたのか。もっと味わい尽くしておけばよかったと感じるかも知れません。他人の苦を経験することはできません。せめて自身の「苦」をそのままに受け入れる。苦は苦としてOKなんだ、世間で生きている「私=身体」が解決できることはではないようです。

 モフモフと戯れ、互いの「本来の自己=一つの意識」が自然に受け入れているようです。坐禅をして「存在」と一体になるもよし、旅行をしてご馳走を食べてそのままを受け入れてもよし。景色と一体となってシャッターを切る、花や動物や建物をしっかり観察して一体となります。何の執着もなく、あるがままに一期一会とともにあります。獲得したものでないからこそ誰にでもシェアできます。 
 得ることや思いの通りにしたいという自分からシフトチェンジして、あるがままを受け入れることで自身も受け入れられるようです。

「幸福は分かちあうようにつくられているかのようだ」ラシーヌ

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荘子−7 [気づき]

 もし、自分に自然にそなわっている心に従い、これをわが師とするならば、だれでも自分の師をもたないものはないことになる。この師は自然に備わるものであり、あれこれと、これに代わるものを探したすえに、自分の心が選び取ったわけのものではない。だから、この心の師は、どんな愚かものでもこれを心にそなえているのである。
 日頃感じている苦しみ、悩み、迷い、幸福感などは、すべて影の世界から生み出されたものです。
 ところが、この自然にそなわる心を師としないで、いたずらに是非の判断をするものは、たとえば「きょう、越の国に旅立つのは、きのう、越の国に到着したのと同じである」といった詭弁を、もてあそぶことになる。これは、ありえないことをあるとするものである。ありえなことをあるとするものには、たとえ神にひとしい知恵をもつ王でも、手の施しようがないであろう。まして私の手に負えるはずがない。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P174 下段」斉物論
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 あらゆる生命にそなわっている「自然にそなわっている心=それ=一つの意識=本来の自己=仏心=自性清浄心」が私たちの本質であり本体のようです。何処かに本当の「本来の自己」があると思い込み、あちこちに尋ね歩き回って「私=アイデンティティ」が掴み取るようなものではありません

 宗教家や特別に選ばれた人だけが修行や何らかの儀式や指導者に導かれて手に入れたり変化したりするものではありません。特別な人と誰がわかるというのでしょうか。誰もがすでに「それ」だから、誰もが入門でき誰もが発見できるようです。あらゆる生命すべてに平等にそなわっていることは信じるまでもないようです。

 修行して得られるとか師がいなければならないとか教義を学ばなければならないとか聖地に行かなければならないとか誰かだけが高次元だとか真言を唱えなければならないとか坐禅しなければならないとか・・・すべてはただのこだわりや「盲信」かもしれません。しかし、何もしないで棚からぼた餅もないようです。

 仏陀も老子も荘子もネコちゃんもワンちゃんも蛇も蛙も「自然にそなわっている心」に相違があるでしょうか。犬や猫などはモフモフとした現れであり、あなたを見てあなたをいつでも受け入れています。あらゆる生命が透明で境界のない心を持ち合わせているかもしれません。見知らぬものに怯えたり吠えたりするのは単なる影の世界(=本能)の出来事。

 社会生活を円滑に送るために必要な「私」という機能は、親や大人に教えられたり自らの体験によってつくられるもののようです。思考は止めどなくわき起こり、止まることがないようです。常に考えが湧き起こっていることが当たり前になっています。その思考を「私」だと思わないで下さい。状況が生み出したものでことさらに責任を感じる必要はありません。気づいて修正することができます。

 本源(=自然にそなわっている心=本来の自己)よりも実体のない「私=思考=アイデンティティ」が影の世界として働いています。頭の中での試行錯誤は幻であって実際に掴んだり得たりはできません。
 影の世界(=自分かわいいからくる分別)が、苦しみ、悩み、迷い、幸福感などを生み出しているようです。

 言葉は単なる概念であって、「存在」を表象として互に共通したやり取りの記号として定義されています。言葉は「存在」そのものではなく、ただ表象(=シンボル、レッテル)としての音や形(=文字)でしかないということです。本物ではなく伝達手段の道具です。
 「sio」という音を聞いたり、「塩」という文字を見ても”しょっぱい”と現実には感じられません。イメージのやり取りで分からせようとしたり、分かったつもりでいるとういうのが本当のところです。我々のやっているコミュニケーションは元来適当なものです。ひどい言葉を言われても、本質はただの「音」であり日本語のわからない人には何の意味もないただの「音」でしかありません。

 詭弁:あらゆる概念を駆使して、ありもしないことを問いかけます。頭の中では実体がないものをどうにでも扱うことができます。

富士山を荒縄で縛ってもってきなさい
例: 富士山(=真理、本来の自己)を荒縄(=概念、言葉、仏典の知識・・)で縛って(=捉えて、概念化、頭で理解)して持ってきなさい(=言葉で説明してみなさい)
 影が本体を概念で捉えようとすることは、単なる言葉遊び。宇宙いっぱいを限られた言葉でつかまえられるわけがないことを知らしめる。頭ではなんでもできますが、どうしようもないことを頭でやっているということ。「地球上の海水をコップで汲んで持ってきなさい」も同じです、無限なる本来の自己をちっぽけな限られた言葉しか持たない「私」がどうして概念で捉えられるでしょうか。

千尋の底の一つの石を、我が身を濡らさずにもってきなさい
例: 千尋の底(=輪廻)で一つの石(=魂)を、我が身(=今生の自分)を濡らさずに(=今生のそのままで次の世も)もってきなさい(=そのままに生きているのか)
 人間が勝手に作った概念である輪廻や魂や地獄や天国です。人間だけの概念ですから好き勝手に頭の中で遊ぶことができます。我々の身体の中の死滅した細胞は天国に行ったのかそれとも地獄でしょうか。死んだ細胞を気にしていますか?もし、100光年離れて地球と同じような星に同じような人間のようなものが存在していて、見ることもできない無に等しい存在が天国に思いを馳せているとして。その認識できない何か(=人間のような存在)が気になるでしょうか?
 今この地上で、この姿を自身で選んだわけでもありません。ただこの現れがあります。どこでだれがどうしたのかなど説明できないし知ることもできません。なんでもかんでも、知ろうとすることが「私」たちの特性なのかもしれません。たとえ知り得たとしてもコントロールできるわけでもありません。

「隻手の音声」
例:
片手は「私=主体」、もう一方は「他人=客体」。
片手は「私」、もう一方は思考対象。
両手は二元対立(=是非、善悪、美醜、表裏)
片手(=本来の自己、一つの意識)だけで世界を見れば、音(=葛藤)が出るでしょうか。常に「自分かわいい」で分別すれば騒音が出続けるかもしれません。

 思考で解決しようとする習性があります。頭の癖に気づくことは大変なことです。
 頭でもがき苦しむことに対しては、自身で解決しなければなりません。経典を読み尽くしても答えを掴むことはできません。生きている事自体が答えではないでしょうか。
 どんなに思考していようと、食べたり歩いたり坐ったり立ったりを妨げることができません。思考は単なる概念のお遊びであって、「本来の自己」を頭(=思考)で探しだすことはできないようです。

 元来は名前もなく性別もなく国籍もなく、あらゆるアイデンティティを取り去ってしまう。無色透明であり破壊されることもなく生まれたこともなく死滅することもない「それ=空っぽ=何でもない」。 「私」が「それ」を掴み取ったり得たりする対象とすることができるでしょうか。概念を駆使して掴んだり得たり開いたり成就したりすることができるでしょうか。無に等しい「一滴の海水」が海水を飲み込もうと(=掴み取る)頑張っているようなことです。このメタファーも人間の空想の力かもしれません。

<まとめ>
1.年齢、性別、国籍、命の現れを問わず、一切が「自然にそなわっている心=それ=一つの意識=本来の自己=仏心=自性清浄心」がそなわっています。だれもが心の故郷を既にそなえているようです。

2.社会で生きていくために日々「私」を構築しています。これも脳の癖(=習性)であって普通のこと。様々なアイデンティティを身にまとい「自然にそなわっている心=それ=一つの意識=本来の自己=仏心=自性清浄心」を忘れてしまうことになっていくようです。

3.「私=自我」こそが身近にあり自己を支えています。生きている主体ですが、「自分かわいい」が前面に出ることで葛藤(=苦)となります。

4.どうしても、「自然にそなわっている心=それ=一つの意識=本来の自己=仏心=自性清浄心」という故郷に戻りたいという衝動にかられます。

5.言葉や概念に縛られている自分に気づきます。思考では問題は解決しません。思考が無かった時にひとときの「安らぎ」を憶えます。思考のパラドックスで、求めていない時に求めているものに出会っています。求めないからこそ「そのまま」と一体となっています。

6.我々はもともと空っぽで何もないということをひたすら認めていくしかないようです。本源では、平等であり差別区別はありません。社会での「私」と本源の「自然にそなわっている心=それ=一つの意識=本来の自己=仏心=自性清浄心」が同時に働いていますが、気づいている割合を9:1からせめて5:5にするようにしたいものです。


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荘子ー6 [気づき]

 あるとき庖丁(ホウテイ)が文恵君のために牛を料理したことがあった。

<略>

 これを見た文恵は、「ああ、みごとなものだ。技術もここまでくるものかな」と嘆息した。
 すると、庖丁(ホウテイ)は刀をおいて答えた。
「私が好きなのは道でありまして、技術以上のものです。私が牛の料理をはじめましたころは、目に映るものは牛の姿ばかりでした。ところが三年後には、牛の全体の姿がまるっきり目につかないようになりました。

<略>

これを聞いた文恵君は、感にうたれていった。「なるほどすばらしいことだ。わしは庖丁の話を聞いて、養生(ヨウセイ)の話を聞いて、養生の秘訣を知ったよ。」

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P204 下段」養生主篇

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 庖丁(ホウテイ)が到達した境地は、意識的な作為なく無意識で行われています。今で言う「ゾーン」のようなものかもしれません。老子の「為すなくして、為さざる無し」の境地かもしれません。
 作為を持って意図的に働きかけ、自身の思いの通りにしようとするということ。自身が主体であって、”こうあるべきだこうしたほうがいい”が最優先することで葛藤することになります。自身が現象に従いさえすればあえて作為する必要はないと思われますが、自身の力で現象を変えられるという前提であれば葛藤から脱することは難しいと思われます。

 自身は自身の平坦で安定していたいという基準(=固定観念)があります。しかし、固定した基準は柔軟に対処できません。湖や海の表面は、自然に起こる風雨や干満によって必ず波立つことになります。自然現象の力は個人の力を遥かに超え、太刀打ちできるものではありません。
 昔の人が真剣に雨乞いをしていたことを笑うかも知れませんが、それが無知だったという証拠です。
 猛暑を人間の力で抑えることはできません。現代では、ありがたいことにエアコンの効いた部屋で過ごさせていただくことができます。起こることには贖えないことを悟らない限り、常に葛藤と隣合わせに生きなければなりません。
 
<無為の実証例>
 包丁と魚:三枚に卸す。
 サーフィン:波と一体となる。
 卓球:ラケットが自身の体の一部となり自由自在に操れる。
自転車(達人になるとハンドルもブレーキも不要となる)
 最初は補助輪⇒補助輪なし⇒手放し⇒ハンドルもブレーキもない一輪車⇒一輪車で曲芸
ソロバン(達人になるとソロバンは不要になります)
 足し算・引き算ー掛け算・割り算ー暗算
ピアノ 叩くー打つー弾くー奏でる
合気道 殆ど触れずに相手の攻撃力を利用して投げ飛ばす
柔道  組んだ瞬間に投げられている
馬術
 乗る人と乗られる馬がいます⇒乗る人の意のまま⇒乗る人も乗られる馬もいない(人馬一体)
水泳 水の中でもがいている⇒水を捉える⇒水と一体
ヌンチャク、バトン、竹刀、弓、鉄棒、BMX、ローラースケート
サーフボード、バイク、自動車、重機、飛行機、電卓、ラケット、ボート、スキー、スケート靴、カヌー、ハンググライダー、サッカー、ボーリング、カーリング、各種楽器、職人・・・等々

「下手な大工は道具と喧嘩する」「弘法筆を選ばず」
「稽古とは一より習い十を知り 十よりかえるもとのその一」
「千日の稽古で技を習得し、万日の稽古でその技を練り上げる。」

  「身体や心や思考・アイデンティティ」が「私」というのは、社会生活する上で必要なレッテルです。生活する上でアイデンティティを明示することでスムーズに生活できることは否めません。

「私=身体・心・アイデンティティ」だけが活動しているのではなく、常に「本来の自己」とともにあることを見抜くこと(=一瞥)。限定(=死)された「私」だけではないと気づけば、年収を比べたり、知識量を比べたり、会社での役割を比べたり、スキルを比べて競ったりすることだけが人生ではないと気づくかもしれません。
 あらゆる「存在」の本質的根源は一つであり、比較することに意味がないことに気づくかも知れません。闘ったり羨んだり憎んだりすることにも意味がないと気づくかも知れません。世間で言われている幸福を、必要以上に求めなくてもいいのだとの認識にいたるかも知れません。平凡な日常で満たされているとの認識で生きることができるかもしれません。

 地獄とか輪廻とか人間が勝手に作った概念に振り回されることもなくなるかもしれません。我々がすでに「それ=本来の自己=たった一つの意識=まったく同じエネルギー」かどうか。常に「本来の自己」を通して世界を見ていて、あらゆることをありのままに受け入れているということを確認していきます。
 まったく歳をとっていない自分を感じることがありませんか。性別もありません。言葉を失っているときには「それ」だけで見ています。被写体と一体となって、写真を撮っている時も「それ」だけが働いているはずです。それこそが「それ」です。

 ◯◯歳の、性別が◯◯で、どこどこに住んでいる◯◯という名前の人として振る舞っている時は、社会生活上の「私」です。この文章を読んで、何かを掴もうと意図しているのなら社会生活上の「私」として働いています。「本来の自己」と社会生活上の「私」は分離したり別々ではないようです。

 「信ずる者が疑う者よりも幸せだという申し立ては、酔っぱらいのほうが、しらふの人間よりも幸せだという申し立てと同じく、まったくの的はずれである」バーナード・ショー

 「信じる」とは無知でいて下さいということかもしれません。「信じて」崖から飛び降りる人がいるでしょうか。習わなくても、どうなるかは身についています。「信じる=知らないままでいてください」は、真実を見つけることを阻むことかもしれません。



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荘子ー5 [気づき]

荘子―5
 あるとき庖丁(ホウテイ)が文恵君のために牛を料理したことがあった。

<略>

 これを見た文恵は、「ああ、みごとなものだ。技術もここまでくるものかな」と嘆息した。
 すると、庖丁(ホウテイ)は刀をおいて答えた。
「私が好きなのは道でありまして、技術以上のものです。私が牛の料理をはじめましたころは、目に映るものは牛の姿ばかりでした。ところが三年後には、牛の全体の姿がまるっきり目につかないようになりました。

<略>

これを聞いた文恵君は、感にうたれていった。「なるほどすばらしいことだ。わしは庖丁の話を聞いて、養生(ヨウセイ)の話を聞いて、養生の秘訣を知ったよ。」

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P204 下段」養生主篇

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 私たちは子供時代を経ずに大人になることはありません。子供は大人がするような経験をまだしていません。したがって、大人の要求を理解することも満たすこともほぼ不可能です。
 大人は自身の子供の頃の気持ちは忘却の彼方にあり、子供に対して余裕をもって接することができなくなっているかもしれません。子供は失敗の連続です、思いがけず大人に怒られたり叱られることになります。
 怒るとは、自分自身の正当性を優先し他を責めることのようです。叱るとは、相手を優先し今後のために注意することのようです。子供は今を生きています、既に過ぎ去ったことを大人が怒ったり叱ったりするポイントがよくわかりません。特に無我夢中で遊んでいて憶えていないことに対して何故叱られているのか理解できないかもしれません。大人の感情に影響され、自身の感情もコントロールできないままにいます。このような体験を重ね、子供なりに混乱した状態から抜け出せるように頭を使い始めるのではないでしょうか。 

 子供には、大人の正解など分かりません。泣きわめいて感情を発散するしかありません。感情を発散し尽して、自分は空っぽだったふと気づくことがあるかもしれません。

 成長とともに自分(=思考)が解決するしかないと思う(=脳の癖)ようになります。この癖によって、思考している自分という幻想が定着していきます。思考は状況によって勝手に起こっていて、それを自分が起こしていると勘違いしているかもしれません。ある状況に思考が起こらなかったら状況に対処できません。自分が状況を作っていないので自分が思考を起こしているわけではないのですが・・・

 帰宅中に雨が降ってきたら、雨に対処しなければなりません。通勤中に電車が止まりエアコンが切れたら、会社に連絡するなり何らかの対処のために思考が起こります。
 雨も停電も自分が状況を作っている(=主体)のではなく、何が起こるか分らない中で生きています。自然に思考が湧いてこなかったら大変です。自分が思考していて、周りの状況にまったく影響されずに思考すると決めてみてください。しかし、状況が優先され状況に対処するために働きます。

 思考=「私」とは言えないのに、後出しジャンケンと同様に思考を自分の所有物のように扱います。我々は、常に勝っていたいかもしれません。思考が自分であり思考して導き出された決断を責めるということは、思考=「私」という幻想を認めずに、幻想を是認しているかのようです。
 思考は自分ではないので、決断して思い通りにならなくても何の問題もありません。今の状況は縁によって、今あるようにそうなっているというだけのことです。

 傘を持ってくればよかった、飲み会を30分早く切り上げれば雨に濡れずに済んだ。もう1本早い電車に乗っていれば、ひどい目にあわなくてすんだ。もう1日早い飛行機に乗っていれば台風を避けられた。不幸だとしている原因を探し出せば幾つでもあります。
 そもそも生まれてこなければ一切の不幸が無かったのにと極端な考えにまで行き着く人もいます。一体誰に責任転嫁すればいいのでしょうか。私を生んだ親が原因、人類が原因、地球が原因、宇宙が原因・・ちょっとしたことも不幸であるとすれば、果てしなく原因追求をし他の責任にします。自分で生まれてきたわけでもないし、自分の身体でもないし、自分の思考でもない、自分が作った自然でもない、自分が起こしている状況でもない、何処にも誰にも責任はないという事実。

 思い通りになったら誰も苦労することはありませんが、誰かが苦労しているから生きていけるということを知らなければなりません。インフラや薬や食料やゴミ・・・誰かが何処かでやってくれている。
 自分かわいいということは、他はどうなってもかまわないというところへ向かいます。そうゆう思いが思い通りにならない。宗教家が平和を願っても叶ってはいません、力があるとかないとか関係なくその彼らの思いもエゴかもしれないと疑ってもいいかもしれません。

 自分は身体であり、身体が自分という一体感が脳の癖として作られます。身体は「存在」と「本来の自己=空っぽの意識」の中間にあるインターフェイス(両者間のデータのやりとりを仲介するデバイス)かもしれません。
 
 そもそも「私=身体・心・アイデンティティ」は「本来の自己」ではなく、脳の癖から作られた「私」として確立されているようです。自身で作り上げ慣れ親しんでいる「私」です。身体と心が「私」であることをわざわざ疑わなくても幸せに生きていけます。何か得たとか何かに達したとか勘違いしている人よりもよほど自意識が正常です。

 思いの通りになるはずもない「私=身体・心・アイデンティティ」にすがっているかもしれません。ただ脳の癖で「私=身体・心・アイデンティティ」であり、この大前提が「嘘」かもしれないと見抜いてみよう。この見抜きができないといつまでも幻想の「私」に振り回されているかもしれない。経済的にも肉体的にも恵まれて、やれることはやり尽くしたといえる人生であれば何の問題もありません。
 
 腑に落ちない人生で終わりたくない。どうしても「私=身体・心・アイデンティティ」が解決したい、そのために「私」が考える。考えても考えても幻想の「私」ですから、存在しない「私」が存在しない「私」を救えないという錯覚ゲームをし続けることになります。セミナーに出かけ出費を重ねては、輪郭を浮かびあがらせてもらう「私」を作る程度かもしれません。どう頑張っても幻想は幻想ではないでしょうか。

 「私=身体・心・アイデンティティ」を解決するためには「私」を知らなければなりません。しかし、「私」を知る対象とするには「私」から離れて「私」を観察しなければなりません。残念なことに「私」から「私」が離れることなど物理的にも精神的にもできません。「私」から離れている「私(=実体のない幻想)」は「私」でしょうか。もし離れている「私」がいるなら、「私」がいない元の「私」は一体何でしょうか?「私」が立ち去った「私」でないものを「私」を知ることの意味はあるのでしょうか。永遠に「私」を知ることはできないということです。知ることの出来ないものを制御したり管理したり解決したり解放したりできるでしょうか。誰が誰をどうやって自由にできるのでしょうか?

 私たちは既に「それ」であり、何かになる必要もなく、何かを達成することもなく、何かに変わることもないようです。なりようがなく、変化しようがなく、自身で変化させようがありません。

 たかだか数十年の寿命の間で、身体のある部分(=例えば脳)が突然に進化することがあるでしょうか?なるほど、今ある筋肉を効率よく使えるようになるかもしれませんがたかがしれています。どんなに頑張ってみても人間のできる範囲内のことです。猫の運動神経や犬の嗅覚や他の生物が備えている能力の足元にも及びません。

 宇宙が身体を動かしています。「本来の自己=仏=仏性」が身体を通して「存在」を見ています。感覚や感情や思考はその都度の状況によって勝手に起こっているようです。「私が思考している」というのは、自らに貼り付けられているアイデンティティの中で自作自演の物語から自然に湧き起こっているかもしれません。
 この身体と思考が「私」であるという強烈な脳の癖(=呪縛)を辛抱強く見抜いていく。

<実証実験>
1.第二の矢による分別が起こらないようにしする。また分別が起こっても起こったと気づいていられるようにする。庖丁のように人為という不自然を積み重ねることによって自然に分別に気づく、識別作用を一々働かせなくてもいいようにする。
2.分別過程にスペースがないので、観察する余裕がありません。瞬時に自動的に分別されています。観察できるようにするには、無意識的に行われている感受から分別の間を意識的に観察します。3.無意識行動をヴィパッサナー瞑想により意識的に観るようにします。意識することで観察するスペースができてきます。
4.分別の処理スピードを人為的に遅くして、入力と処理の間にスペースを作り出す必要があります。
5.このスペースを作り出すために、身体の動きを止める。身体の動きを緩やかにする。
6.身体と思いは別々である。太極拳、ヨガ、坐禅、瞑想、◯◯道(=剣道、弓道、茶道・・・)、何もしない、等々。

上記6番などで、身体をなるべく動かさないように集中しているのに、身体に働きかけていること以外でまったく関係のない思考が湧いてきます。今の現状(=身体の停止、身体の微妙な運行制御)とは異なる思考、過去や未来を持ち込んだ思考。現在の事実と反している思考に振り回されているという事実によって、この思考は妄想だということを見抜けます。そして出てくる思考に手をつけず放おっておく。思考が消えていくことをただただ体験します。


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荘子ー4 [気づき]

 あるとき庖丁(ホウテイ)が文恵君のために牛を料理したことがあった。庖丁の手がふれるところ、肩をゆるがすところ、足のふむところ、膝(ひざ)をかがめるところなど、あるいはばりばりと、あるいはざくざくと、牛刀(ギュウトウ)がたてる音はさえわたり、どれも音楽の調べに合っている。その姿は「桑林の舞」もこのようであるかと思わせ、その音は「経首」の楽章の演奏そのままである。
 これを見た文恵は、「ああ、みごとなものだ。技術もここまでくるものかな」と嘆息した。
 すると、庖丁(ホウテイ)は刀をおいて答えた。
「私が好きなのは道でありまして、技術以上のものです。私が牛の料理をはじめましたころは、目に映るものは牛の姿ばかりでした。ところが三年後には、牛の全体の姿がまるっきり目につかないようになりました。
 いまでは、私は心だけで牛に向かっており、目では見ておりません。感覚のはたらきは止まってしまい、ただ心の作用だけが動いているのです。ひたすら自然のすじめのままに刀を動かし、骨と肉とのあいだにある大きなすきまを切り開き、骨節にある大きな穴のところに刀を通し、牛のからだにある自然のすじめを追っておりますから、刀が骨と肉のからみあった難所にぶつかることはありません、まして大骨にあたることはありません。
 腕のよい料理人でも、一年ごとに刀を取り替えますが、それはすじのところを切り裂くことがあるためです。普通の料理人は一ヶ月ごとに刀を取り替えていますが、それは骨をむりにきることがあるためです。ところが私の刀は、いまでは十九年になり、料理した牛は数千頭にもなっていますが、まるで砥石からおろしたてのようで、刃こぼれひとつありません。

<略>

これを聞いた文恵君は、感にうたれていった。「なるほどすばらしいことだ。わしは庖丁の話を聞いて、養生(ヨウセイ)の話を聞いて、養生の秘訣を知ったよ。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P204 下段」養生主篇

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 私たちと物は別々にありますが、物と緊密に接することで自身の身体の一部となり自由自在に使いこなせるようになります。身体も「本来の自己」とは別物であり「存在」との接点の役割を担っているだけかもしれません。「本来の自己」は物質(=身体)ではなく掴んだり得たりすることはできません。
 身体は「存在」との接点としての現れであり、「存在」としての働きがあります。身体は五感という入力装置を備えていいます。情報が入力されてから思考(=感覚を言葉に変換)するスピードが速く隙間がありません。いつも「私」という主体が存在し、決断(=分別)していると疑うことなどありません。
 しかし、思考は「私」が思考しているのではなく状況に左右されて勝手に湧き起こっていることに気づかなければなりません。

 幼少の頃には靴下を履いたり、下着を着ることが思うようできなかった記憶はないでしょうか。自身の身体でありながらうまく使えない歯がゆさです。今でも利き腕の反対の手で歯磨きや箸を思い通りに使えない感覚を体験できます。
 身体は「本来の自己=意識」とは別物であり、社会生活を送るための「存在」の現れであり様々な働きをしてくれるものではないでしょうか。
 身体は言うまでもなく、大切なものでありメンテナンスを怠らずに「本来の自己」と一体となって生きていくもの。生命として誕生した身体には耐用年数があり、壊れたり機能停止になるのは当然のことです。

 幼少の頃は初めて感受するものがほとんどであり驚きの連続です。感覚も感情も勝手に起こり翻弄されます。感覚や感情に翻弄されてばかりいては社会生活がうまく送れないと感じるようになります。感情や身体が思い通りにいかないことに対して、うまく対処していかなければなりません。
 思考によってなんとか制御できるという感覚が芽生えてきます。単なる思考でしかないのに、思考(=葛藤・混乱)している「私」という勘違いが生み出され強固なものとなっていきます。

  生きていくために自らの本能が勝手に働いています。日々の行動は、庖丁が身につけたように為そうとすることなくなされます。日々何度も何度も繰り返してる動作があります。服の着替え、歯磨き、身体を洗う、歩く、走る、箸を使って食べる、物を掴む等々は一々確認しなくても、見なくてもできるようになっています。

 物事を知ろうとか、状況に応じてどう対処するとかの心の働きも意識することなくできています。
 生きるために当たり前に身についていることは自然にできます。自分でよかれとして身につけてきたことを、わざわざ疑う人はいません。心や思考(=葛藤・混乱)で、自然に作られた幻想の「私」がいます。「私」が「私」を探していること自体が自作自演の物語を紡いでいます。
 身体や思考が「私」であると付き合ってきました。なかなか脳の癖を見破ることは難しいことです。脳が勝手に働いている癖であれば、庖丁のように三年をかけて脳の癖をとることも可能ではないでしょうか。

<まとめ>
1.庖丁は三年で牛刀を自由自在に使えるようになりました。
2.意識しなくても、勝手に無理無駄なく自分の身体の一部のように使いこなしています。
3.文恵君は庖丁の話を聞いて、養生(=人生を生きる根本原理)の秘訣を知りました。
4.生きるために身体=私という強い観念は、自然に身についたもののようです。
5.身体が痛い心地よいという感覚があるだけなのですが、「私」が痛い心地よいと解釈しています。「私」の足が痛いではなく、単に足の痛みを感じているだけかもしれません。
6.「私の」が拡張して自己同一化すると、「私の車」が傷つけられ心労となります。単に車という物質が物理的に変化しただけかもしれません。車が廃車寸前なら殆ど気にしませんがどうでしょうか。他人の車ならまったく気にしないかもしれません。
7.苦しむ癖がついたのなら、苦しまない癖もつけることができるかもしれません。
8.苦しみの根本原因が「思考する私=葛藤・混乱」という幻想を見抜いてみてはどうでしょうか。



<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
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荘子−3 [気づき]

  このことを自分の身体についてためしてみよう。
 私の身には、百の骨節、九つの穴、六つの内蔵がすべてそろっている。私には、いずれかの部分を特に親しみ愛するということはない。君はこれらを一様に愛するのか、それとも特定のものだけを愛しようとするのか。おそらく私と同じであろう。①とするならば、身体のどの部分も、ひとしい価値をもつことがわかる。
 もし、同じ価値をもつとすれば、身体の各部分は、ひとしく召使いの身分にあるということになるであろうか。②もし召使いばかりだとすれば、命令するものがなくなり、統一がとれなくなるのではないか。それとも、身体の各部分が、交替に君主となり、臣下となるとでもいうのであろうか。
 そうではなくて、やはり③真の君主、真の主宰者が存在するのではあるまいか。そのありかを求めて得られるか得られないかは、その真宰が存在するという事実とは無関係である。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P172 下段」斉物論

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①身体のどの部分も、ひとしい価値をもつことがわかる。

 単細胞から徐々に進化して、口(=入力)と排泄口(=出力)からなる一本の管(=処理機能)ができていきました。さらに、管(=処理機能)から様々な専門臓器が作られ精密化・複雑化して分業するようになってきたようです。元来は一つの管から様々に分化したものです。まったく同じものであり優劣はつけられないのは自明のことと思われます。
 それぞれの細胞によって全体となり、全体がそれぞれの細胞と協調して全体として存在しています。

②召使いばかりだとすれば、命令するものがなくなり、統一がとれなくなるのではないか。それとも、身体の各部分が、交替に君主となり、臣下となるとでもいうのであろうか。

 身体のあらゆる部分に優劣がなく働いているということであれば、各部分が特別な主導者となっていません。それゆえ、召使いという表現かもしれません。
 食事をする時に、手が口に食べなさいと命令し、口が食道に胃に送り胃に消化せよと命令し、胃は腸にや膵臓にインスリンを分泌せよと命令し・・・・。
 身体の各部分が君主と臣下になっているわけではなく、各々の役割を逐一効率的に遂行されているようです。各臓器が情報伝達物質を出し合って食物からエネルギーを取り出し、身体にエネルギーを行き渡らせて生命活動を維持している。
 体内での物質の分泌と神経経路を通しての電気信号のやり取りで全体が統制されているようです。
 もし各部分や各細胞を統率する「私」が存在するのなら、病気になる前に司令を出して未然に防ぐでしょう。そんな都合の良い「私」は存在しないので、病気や老化という現象は避けることができないようです。

③真の君主、真の主宰者が存在するのではあるまいか。

 身体の各部分に統率者など存在せずに、身体が勝手に動いているという事実を観察します。何らかの力(=宇宙、道、自然、意識、・・・)によって身体が動かされているというほかありません。「私」が逐一指示命令しているでしょうか。消化せよとか、便の硬さを指示したり、血圧を指示したり、血液中のコントロールをコントロールすることもできません。
 ただ動いた後に「私」をあとづけして「私」が動かしたとしているようです。

 人間として生まれたからには、統率者の所在を知りたいところですが、「それ」の一部である我々は既に「それ」であって、「それ」から離れることができません。
 離れて見ることができなければ「それ」を知ることはできません。雲は雲の形を知ることはできません。身体の部分が身体全体を知ることはできません。海の一部である海水が海全体を知ることはできません。目は目を見ることができません。自身で自身の顔を直視できません。見ている主体と思っている限り、見えているものは客体となっています。
 見ている者と見られるものが異なるものでない斉同(=等価)であるというのが荘子の説いているところではないでしょうか。
 熟睡している自身を知ることはできませんが、確かに眠っています。知ることはできませんが既に熟睡を経験しているという事実があります。

 既に「それ」であるものが「それ」にはなれません。一度自らが凡夫にならなければ「仏」になるという物語を紡げません。日本人の両親から生まれ日本語の読み書きができれば「日本人」です。日本語で「私は日本人ではない」と言い張っても誰も同意してくれません。「猫」は「猫」になれません。「仏」は「仏」にはなれません。
 
 自らを「仏」であると他言することは、「頭がおかしい」と言われるのが落ちですが、言葉にすることなく「仏」であると認識することはなんでもありません。白隠禅師も「衆生本来仏なり」と認めています。あまりにも脳の癖や誤解が強く、抜け出すことができないのを見て言葉にしたかもしれません。
 袈裟を着てお経を唱える人だけが、「仏」になる切符を持っているのでしょうか。聖なる経典を読まなければ救われないのなら、子供は救われていないことになるのでしょうか。文字が読めて聖なる言葉を理解する人だけが救われるのでしょうか。聖なる経典が無かった以前に生まれた人たちは救われようがない人たちでしょうか。

 事実として宇宙(=真理)で生まれ、宇宙(=真理)で生きています。宇宙がマヤカシであれば我々もマヤカシです。特別な誰かだけが「仏」に変身できる蛹(さなぎ)として生まれているのでしょうか。真言や瞑想をすると、その蛹が脱皮して「仏」に変身するのでしょうか。
 宇宙には何でもあるようです。灼熱の世界、絶対零度の世界、無機質の世界、暗闇の世界・・。
もがき苦しんでいる「仏」、怯え苦しんでいる「仏」、怒り狂う「仏」、遊ぶ「仏」、笑う「仏」、石でできた「仏」、一重瞼の「仏」、立った「仏」、年老いた「仏」、生まれたばかりの「仏」、・・・。何でも無いから何でもある、何にでもなれる。あらゆる表現が許されている。何でも既に救われている。 


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。
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荘子−2 [気づき]

 それにもかかわらず、自分に①喜怒哀楽の情をもたらす根源のありかは知るよしもない。そこには必ず真宰(しんさい)―かくれた真の主宰者があるように思われるが、しかもその形跡を見つけだすことは、まったく不可能である。
 ②それがはたらきをもつことは、疑う余地のない事実でありながら、しかもその形を目に見ることはできない。その事実は存在しながら、それを示す形がないのである。
「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P172 下段」斉物論

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①喜怒哀楽の情をもたらす根源のありかは知るよしもない。

 存在は常に振動(=光、音等)していて互いに情報を送受信しているようです。感受(=受信して情報が入力される)している我々自身も振動(=光を反射、音を出す)して情報を発信している存在でもあります。
 五感から入力される情報は自動的(=自身で逐一処理命令を出しているでしょうか)に処理され、何らかの感覚・感情・思考に変換されています。自身の経験や記憶から構築されている固有のフィルターを通して個別的な反応となっているようです。

 自然に湧き起こってくる感情の源を知ることはできません。感情の起こる過程は誰かに教えられたわけでもなく、自身で学んで身につけたわけでもありません。生まれた時に既に身についていて、源がどこにあってどのように働くかなど探し出すことなどできません。
 逐一の感受は、生活環境や経験や知識で培われてたもので、宇宙で自身だけが知ることのできる唯一の感覚だと言えます。かけがえのないものでありながら、必ず消え去っていく幻想のようなものです。囚われてもどうしょうもない(=必ず消滅する)ことなので、サラサラ流していくしかありません。

②それ(=かくれた真の主宰者)がはたらきをもつことは、疑う余地のない事実でありながら、しかもその形を目に見ることはできない。

 初期の生命は単細胞であり、伸びたり縮んだりするだけで、外部から何らかのエネルギーを摂取していたようです。最も単純な口(=入力)と処理と排泄(=出力)を備えていただけです。生命は動き回っては分裂して増殖し、徐々に複雑化していったと推測されます。
 人間のような複雑な形態に進化したとしても、行動を単純化すれば行住坐臥(=各部分の伸び縮み)を行なっているだけです。複雑な動きに見えても、伸び縮みの単純なものの組み合わせのでしかないのではないでしょうか。

 我々を動かしている実体(=エネルギー)を形として見ることはできません。
 まったく同じ意識が使われていて、まったく同じエネルギーが働いていて、まったく同じ空間に生きていて、まったく同じ瞬間を生きています。人間という現れ(=各々の姿)が異なっていて、成長過程が異なるだけのようです。

 存在の本質(=意識、エネルギー)はまったく異なるところのない一つであるといえるのではないでしょうか。一でありながら多(=様々な現れ)である一即多、多のように見えても一つである多即一。
 高次、霊性進化、悟りという勝手に人間が作り出した区分以前に、まったく同じ宇宙(=真理)の中で生まれています。誰もが宇宙(=真理)の中で生まれ、真理の中で生きているということは否定することはできません。
 我々が言葉を駆使して、区分された対象を勝手に作り出す癖があるので見かけ上の区分があります。自身の努力で、何かをすれば何かに成ると思いこんだり、何かを得て持ち続けられるような錯覚があるかもしれません。

 本来誰もが真理の中で、既に仏(=仏が人間の姿をしている)であることを認めていく。脳の誤った癖(=修行すれば仏に成れる)から脱するためには、どこで生まれどこで生きているかを日々実感する必要があるのではないでしょうか。我々は単なるアイデンティティで定義される社会で生きている定義されている「私」という狭い「私」ではない。存在の一つの現れてとして一つとともにある。

 お釈迦様は坐禅によって、古い人間から脱皮して「仏」へ変身したのでしょうか。お釈迦様の言葉であると言われているスッタニパータには、坐禅しなさいという言葉は見当たりません。ただ観察によって識別作用(=分別)が消滅するなら苦しみが起こることがないと言っています。(参照:スッタニパータ 二種の観察 724)


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荘子−1 [気づき]

 もし喜怒哀楽の情をもたらす根源がなければ、自分という人間も存在することはできないであろう。逆に、もし自分という人間が存在しなければ、その根源から喜怒哀楽の情を取り出すものもないであろう。とするならば、その根源と自分とは、至近の距離にあるはずである。
「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P172 下段」斉物論

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情報(=光、音、匂い、味、感覚等々)は開かれた五感を通して勝手に入ってきています。情報は脳内で電気的・化学的な変化を伴って現実として捉えられています。
 各自の脳の各自の固有の感覚で受け取られた各人だけの唯一の感覚(=現実)です。各人が各人の世界を持っています。自分が他人の世界(=頭の中)に入ることもできません。他人が自分の世界(=頭の中)を覗くこともできません。山を描いても十人が十人ともまったく一致する絵を描くことなどありません。各自の頭の中にある「山」は異なっています。

 各自固有の五感から入ってくる情報が各自固有に処理されて各自の見えるまま見え、聞こえるままに聞こえています。自身が存在している証拠はまさに感受して感覚を自らが分かっていることにほかなりません。

 もし人間が存在しなければ、存在を存在として発見するこもなく存在から何かを感じ取ることはできません。また、存在から受け取った感覚を味わうこともできません。存在からの情報が自動的に入力されて感覚として根源(=意識)によってわかります。また、根源(=意識)によって感情や思考として出力できます。入力と出力のプロセスはほぼ同時に行われています。

 根源(=意識)を持った自分という人間の存在によって、存在が存在としてあるということがもたらされます。根源(=意識)を持った自分という人間が存在することで、存在が何であるかを見いだされています。

 存在を見出して、存在が何であるかを理解する。意識が意識を見出して、意識が意識のなんたるかを知っているかのようです。
 存在が存在を見つけることができなければ、存在が存在として在ることは永遠にわからない。存在が存在であるためには起伏(=振動、二元)がなければ感覚として捉えることができません。存在は苦も楽もただの振幅の山でしかないかもしれません。単なる左右の広がりであってプラスやマイナスで表現するのは人間の勝手な思い込みかも知れません。

<まとめ>
1.情報は五感を通して勝手に入ってきています。
2.情報を意図して遮断することはできません。
瞼を閉じれば光の情報は遮断できますが、耳栓でもしなければ耳からの情報は遮断できません。
3.各自が固有の五感と固有の感受によって固有の感覚を持っています。
4.意識がなければ存在を存在として認識できません。インプット
5.意識によって存在がいかなるものかを認識できます。アウトプット
6.存在は振幅(=二元)があることによって理解される。
7.振幅には良いも悪いもなく、単なる人間の概念によって定義づけされているだけ。
8.ある国の正義は、他の国の悪になります。見る視点によって異なって見えるだけで、本質はただのデータ。


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無明ー20 [気づき]

バーヒヤ経

<略>
「バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。
『①見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。
バーヒヤさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。バーヒヤさん、まさに、あなたにとって、
見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、
バーヒヤさん、それですから、②あなたは、それとともにいないのです。

バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。

バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、バーヒヤさん、それですから、③あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。 これこそは、苦しみの終極“おわり”です」と。

<略>
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 カメラのレンズ(=眼)を景色に向けます。ファインダーから景色が見えています。分別(=綺麗とか汚いとか、良いとか悪いとか)を抜きにただ見えている景色があります。そのに景色だけがあれば景色と一体(=ワンネス)となっていて、見られる景色も見ている誰かもなく、ただ景色そのものだけがただ在る、在る、在る・・・。

 自身の感性に合ったところでシャッターを切れば映像として記録されます。カメラなしで、普通に自身の眼を通して見たときは、その見えているそのままがそのままにあります。見えているモノの「名前」を思い浮かばないままに見えている時間が在るはずです。
 「何でもないも(=見えている全体)」を「何でもない者(=我見を持ち込んでいない空っぽな自分の本性)」に映しだされています。

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<実証実験>
 名前の分らない、石や草や虫や鳥等々をそのままに見る。見ている「それ」が何かを知りたいという欲求が出てきても「それ」という名前にしてただ見てみる。
 名前を知っていても、強制的に大きな概念である「それ」として見る。質感や色や艶や重さ等々を見えるがままに見る。同様に聞いたり、思ったり、識ったりしたままをそのままにしておきます。
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 レンズを向けているだけで、レンズ自体には取捨選択などありません。レンズが景色に対して良いとか悪いとかの感情は持ち合わせてはいません。
 見えたもの(=勝手に見えて認識されているもの)は、ただ見えたものだけであってそのままです。分別(=良い悪いとかの判断)が起こる以前の状態では「空っぽ=ただの目撃者=本来の自己・・」です。

 ②それ(わたし=自我=分別)とともにいないのです。
見えたものは見えたものだけであって「わたし=分別」が見ているのではなく、勝手に見えているだけです。「わたし=分別」が発動されていません。「わたし」がいなければ認識作用は起こりません。そのままがそのままにあるだけです。すでにそのまま(=取捨選択していない、苦も楽もない)だけです。すでに涅槃(=煩悩が起こる以前)を経験しています。

 煩悩の火が点火されていない状態(=煩悩の火が消えている状態=涅槃)です。もし分別が起こっても分別したことに執着しなければ何ら問題はありません。美しいものを選択したり安全を求めることは本能に備わったもので否定することではありません。ただ、今やっていることの他に期待や希望で頭の中で葛藤を起こし思いをめぐらせ続ければ妄想となります。
 妄想しつづければ、煩悩を燃やし続けていることになります。ただ感受するのが第一の矢であり、第二の矢がどれほどであったとしても振り回されなければいいだけです。思考のダンスと一緒に踊らなければ問題ありません。

③あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。

 あなた(=自我=分別)は、まさしく、この世(=今ここ)になく、あの世(=未来)になく、両者の中間(=今と未来の間)において存在しないのです。
 見たまま、聞こえたまま、感じたままであれば分別して執着する苦しみに囚われることのない状態を体験しています。評価する以前のまま。お茶を飲めば飲んだままの味でしかありません。飲めなければ身体が勝手に吐き捨てます。ただ味わっているこの味があるだけです。

 耳鳴りはするし、たまに目眩はするし、肩は痛いし、膝も痛いし、腰も痛いのですがただそうなっているだけのことです。経年劣化するのは当たり前のことです。あと何年か付き合うものなので適切に対処すればいいだけです。

 ずっと涅槃に留まっていたいとは最強の欲望です。煩悩を滅せよと言いながら何と欲深いことか。

 我々は、日々の何気ない中で気づかずに涅槃を経験をしているかもしれません。涅槃に留まっていたいとか涅槃を知ろうという「私」を起これば、「私=自我=知ろうという心」が涅槃を対象として設定してしまいます。もう二元にになり、知るものと知られるものとなり一体ではなくなっています。

 最高の境地は、死にものぐるいで修行するものだ。いくら修行しても得られる体験は一瞬の出来事です。身体が無くなったとかワンネスを体験した記憶がまったくなかった等々です。一瞥であって常にその状態であれば生活はできません。
 バーヒヤさんのように、一瞥しているのに気づいていません。自分は修行もしていないし、聖なる生活のしていない。関係のないことだと自ら「気づき」と距離を置いているかもしれません。

 あまりにも平凡で何時どこにでも手の届く所にあるはずです。探さなくてもよかったということが大悟かもしれません。
 最初から迷ってもいなかったし、最初から救われていたし、最初から悟りなんてなかった。そんな馬鹿な・・・。これがパラドックスであり発見かもしれません。

 真理は何時か何処かにあって探して出して掴む対象ではなかった。このままであり、あるがままでありそのままであり続ける。探し回るから探し出せない。必死で自分の顔を直視しようと頑張っているようなものです。

 あらゆる生命に「気づき」があるということは、あらゆる生命が真理の中にあって、一つの意識とともにあるということを認めることです。宇宙(=真理)の只中で生きている我々は真理そのものである。

 思い通り(=自我=分別からくる思い)になったら大変です。チョット気にいらない思い起こり、その思いが現実になったらどうでしょう。思われた人は、怪我をしたり病気になったり最悪は死んでしまうことになります。最後には誰もいなくなります。思い通りにならなし、何が起こるか分らないから生きていられます。未知というものがなく、◯年◯月◯日◯時◯分に死にますと分かってしまったらどうでしょう。種の分かっているマジックなど見る気もしないのと同様です。

  純真な子供のように一なる意識に委ねてみます。無為自然な時間をチョットずつ重ねて実感していく。只〜している、〜していて時間を忘れてしまったという体験。


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