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無明ー19 [気づき]

 困ったときや苦しいときに真言を呟いたりすることがあるでしょうか。どんな音でも宇宙(=真理)の中で発せられている音であり、宇宙開闢以来今その瞬間の1回限りの真理の音です。すべてが一期一会の真言といえます

 虫の鳴き声も、鳥の鳴き声も、雨音も、風の音も、雷鳴も、蜂の羽音も、換気扇の音も、洗濯機の回転音も、エンジン音も、犬の吠え声も、物を落とした音、食事の時の食器の音、地球上の至るところで発生しては消え去るすべての音(=空気を伝わる振動)・・・本質はただの振動であって、一切の貴賎もなく善悪もないただの音(=振動)。「静寂=無」から突然生まれいつの間にか虚空へ消え去り何事もなかったように「静寂=無」へと収まります。

 ただの音(=振動)なのに、人間は自分たちで作ったルール(=概念)の中だけで通じています。同一地域の限定された人たちだけで通じる音を、言葉(=言語)として使っています。動物が聞いてもチンプンカンプン、二本足で動く得体の知れない物体が音を出しているだけかもしれません。赤ちゃんや他の国の言語の人からすれば意味のない音です。

 特定の地域の特定の音に意味を持たせ、意味がある音として送受信しています。意志の疎通に役立つので、知識や文化やコミュニケーションの為の欠かすことのできない言葉となっています。
 人間は言葉を解釈する能力によって、気持ちが落ちついたり腹が立ったりします。一言が人間の感情を左右することも事実です。


 真言の音(=言葉)がどのように自身に影響するのか試してみるのもいいかもしれません。
 子供には理解できないかもしれませんが、その道の人にとっては意味のある真言があります。
 例えば、般若心経の「ぎゃていぎゃてい・・・」光明真言の「おん あぼきゃ べいろしゃのう・・・」不動明王の「のうまく・さんまんだーばーざらだん・・」阿弥陀如来、法華経・・・と色々あります。本によっては、ただの音ではなく特別なエネルギーを持った振動でありパワーがあるそうです。犬にとってはご主人様の声の振動数が最高の刺激を与えるパワーを秘めているかもしれません。

 真言を忘れても仏様の姿を思い浮かべるだけで救われるそうです。イメージや真言の覚えが悪かったり、また緊急時で焦ってしっまたらどうするのか心配です。恐いものほど印象が強く記憶に残るものです。もし、鬼とか悪魔しか思い出せなかったらどうなるのでしょうか、くれぐれも子供には怖い世界のイメージを見せないほうがよいかもしれません。困ったことに世間では、外見がと心の内が同じとは限りません。イメージで決めつけたり押し付けるのは人間の自然な性かもしれません。

<実証実験>
 何かに引っかかている時に、それから離れたいとか消してしまいたい時に口に出してみたり頭の中で呟いてみます。

先程の仏典・経典・宗派で用いられている真言。
だいだひかるさんの
「どーでもいーいですよー」⇒「どうでもいい」
小島よしおさんの「そんなの関係ねぇ」⇒「関係ない」「それがどうした」
木枯らし紋次郎の
「あっしには関わりのないことでござんす」⇒「関知しない」
「気にしない」「興味ない」
さんまさんの「意味ないじゃん」⇒「無意味だ」「知らぬが仏」
仏⇒ほとけ⇒ほっとけ⇒「放っとけ」
素のまま⇒「そのまま」等々
巻き込まれていると感じる都度試してみる。現実の苦悩が馬鹿らしく感じられるかもしれません。
また、思考に巻きこまれている時に今に立ち帰る方法があります。「呼吸」だけに集中して吸いながら「吸ったー」吐きながら「吐いたー」と、だんだんとひと呼吸を長くしていきます。やっていると今に在り、生の感覚そのものになるようです。

 何か投げやりで無責任で無関係でありたい言葉が並んでしまいました。ですが実際に試してみると思考の悪循環サイクルから抜け出せるかもしれません。効果がなければ止めればいいだけのことです。ただの実験ですお気楽にお試しください。

 人は人と関係があってはじめて人であるようなことが言われていますが、日本での殺人事件の半数以上が親族間だということです。
 関係性が濃いと当然に親密になりますが、身近にいることでこじれやすく不満が蓄積していくようです。「可愛さ余って憎さ百倍」

 我々は関係が強ければいいように感じますが、そもそも最初から関係性など「何もない」空っぽです。無明−18でも書きましたが「何でもない人」と「何でもない人」が出会うのですから一切の垣根なく自由自在に無限の関係性が作れる可能性を秘めています。

 あらゆることに自分が関係を持っているとしたら大変なことになります。怖いお兄さんと目があった瞬間に関係ができたらどうでしょう。こちらが何とも思っていなくても、勝手に相手が深い関係性を築いたと思い込み「ストーカー」されたりするかもしれません。近所の人も勝手に悪い関係性を増大し「嫌がらせ」となるかもしれません。学校の先生に身勝手な関係性を主張し「モンスター」のような振る舞いをする親となることもあります。当然のこと「反社会勢力」と関係を持つことは慎まなければなりません。
 死ぬ時は一人で死ななければなりません。個人的な悩みも解決できなければ専門のカウンセラーに任せることも大切なことです。

<まとめ>
・音は振動の組み合わせであって善悪も是非も含んでいません。
・すべての音が一期一会です。必ず消え去ります。無常
・音が言葉と認識されると意味を持つようです。
・言葉は理解や伝承やコミュニケーションのツールです。
・自分自身に適した真言を実験してみる。
・言葉の意味で困るなら、意味を消し去る言葉で対処してみる。
・思考の悪循環を断ち切るには、強烈に今に在る(呼吸だけに集中する)
・悩みごとも必ず消え去る。過ぎ去ったことを再現しているのは自身の記憶だけのことです。記憶が自分自身を苦しめていることに気づく。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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無明ー18 [気づき]

・我々の身体の中に「わたし」は見つかるのでしょうか。

 自身の身体や他人の身体から「わたし」という「何か」が出入りした瞬間を知覚でき人がいるでしょうか。「わたし」というものが一体どこに、どんな風に鎮座して、どのように働いているのでしょうか?
 今探し出そうとしているその「わたし」は、自身の体温を調節したり、血液を巡らせたり呼吸をするように司令をだして身体を常に監視しているのでしょうか。体中を隈なく監視しながら、外部の情報を関知したりキョロキョロ辺りを見回したり、気ままに動き回っているようです。「わたし」なのに管理したりコントロールしようとする「わたし」が別にいるようです。その「わたし」を見ている何かの存在に気づいている「何か」を感じている存在も感じられます。

 不変の「こころ」があり固定したままであれば成長できません。こどものままの「こころ」では社会に対応して生活ができません。様々な状況に対応していく「こころ」で生きています。生滅変化して、生じてはかならず消えている。「こころ」はとらえようのない実体のないものです。あるようでないものなので自由自在に使えるということです。

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<実証体験>
 我々が見知らぬところ(=外国や惑星でもありです)に一人でポツンと佇んでみます。実際に散歩してみて体験するのがいいかと思います。

 誰もいないところであれば、目にするあらゆるものは未知であり何も知りません。同様にあなたを見ているあらゆる存在にとってあなたはまったく知られていない「何でもないもの」でしかありません。特に動物や虫はあなたを記憶すべき対象としていないし記憶する能力も無いかもしれません。また、ほんの一瞬の出来事ですので意にかいすこともありません。

 あなたも別に記憶するために来たわけでもなくただ状況を眺め、普段の脳の働きにまかせて(危険かどうかに注意して)歩いています。ですから、見たり聞こえたり感じたりしていることは「何でもないこと」です。
 自身からすると、「何でもないこと」をに出会ってきて戻ってきた。散歩の途中であなたを目撃した(=知覚した)ものや触れられたもの一切もあなたを「何でもないもの」としています。
 ここが重要です、私たちが電車に乗って誰かを目撃(=認知、視界に入っている)しても知り合いでもなければ「何でもないもの」でしかありません。他人もあなたを目撃(=認知、視界に入っている)しても「何でもないもの」なのです。

 我々(=主体)という「何でもないものが」、目撃される対象(=客体)である「何でもないもの」と出会っています。あなたを目撃(=主体)している「何でもないもの」が、あなた(=対象、客体)という「何でもないもの」を目撃(=認知、視界に入っている)していました。

 例えば家族や知人であっても、あなたのアイデンティティを知っているだけで、コロコロ変わる内面を知る術はありません(=知っていたら恐ろしい)。今のままでOKなのですから常に知りえない未知なる「何でもないもの」です。お互いにある程度知っていても表面的なことで、それ以外は「何でもないもの」と言っても過言ではないと思います。
 この文章を打ち込んでいる者も「何でもないもの」であり、この文章に目を通している方もサッパリ知覚できない「何でもないもの」であると感じられるでしょうか。
 「何でもないもの=空っぽ」が「何でもないもの=空っぽ」と出会っている。すべてが「空っぽ=空」ですが、実体は実体としてあり感覚は感覚としてあります。有るようでない、無いようであります。

 一切は「何でもない」から「何ででもある」ことができるかものしれません。一切は、すでに自由で解放されていると感じとり。すべてがお互いに区別・差別のない「あるがまま」を「あるがまま」にお互いに目撃しているということを見抜く。


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無明−17 [気づき]

・我々は変容すべき何かなのか、それとも完成されているのか。
・我々は救われるのか、それとも既に救われているのか。

真理とは、辞書では「ほんとうのこと。まことの道理」とあります。
 宇宙はほんとうのことでしょうか。宇宙は完全か不完全のどちらでしょうか。不完全だとしたらどこが不完全でしょうか。不完全と言える人間は宇宙を創造したものを超えているようです。
 人間という得体のしれない何かが存在を不完全である、と。不満をあらわにすることさえ許されています。何を言おうが全てが自由であり完全なのかもしれません。
 我々は自身を変容し宇宙をも変革できる力をもっている傲慢な生き物でしょうか。それとも自然の中で生かされている敬虔な生き物でしょうか。両面を兼ね備えている生き物かも知れません。
 宇宙の中で、多くの物理法則は発見されるでしょうが、物理法則を利用することはできても物理法則を変えることはできません。

 宇宙は間違っていると天に向かって唾を吐いてもどうにもなりません。宇宙は真理そのものであるということは自明であり逆らうことはできないようです。銀河も地球も人間も宇宙の一つの要素です。それぞれが宇宙の顕れです。それぞれがそれぞれの動きがあり法則の通り動いている筈です。
 宇宙=真理、知覚できないもの∈宇宙、一切の存在∈宇宙、銀河∈宇宙、地球∈宇宙、人間∈宇宙。

 宇宙が真理であり、宇宙の一つの要素である人間も真理であることは疑う余地はないようです。真理の中で真理でないものは存在していません。我々人間は真理(=「それ」)の中で生まれています。何を見ても何を感じてもすべてが真理(=「それ」)でないものはありません。
 あなたは変容すべき不完全なものですよ。修行しなさいと指導している人も「それ」の中で行われている変容物語の登場人物です。
 それぞれが既に「それ」でありながら、変容、所有、権力、勝負、闘争の物語を紡いでいるようです。

ーー
・「真理の言葉」について 
 例えば「カムリャチャペ」と発音しても、真理の中(=宇宙の中)での言葉なので「真理の言葉」といえます。「それは真理の言葉ではない」という言葉も人間(=真理)から発せられているので「真理の言葉」です。宇宙で生滅している、現象や感覚やあらゆる出来事が真理そのもの。今この瞬間に接しているあらゆることは真理でないことはありません。

 私たちは真理から離れたこともないし、離れられないのです。世界中で話されている訳のわからない言葉も、すべて真理です。物が落ちて発生する音も「真理の音」、蝉の鳴き声も「真理の鳴き声」、カラスの鳴き声も「真理の鳴き声」、罵声も「真理の罵声」です。目にするもの、聞こえるもの、感じるもの、すべて。
 ヘレン・ケラーが水を感じ取ったように、いたるところに驚きに満ちた真理が溢れているのではないでしょうか。真理は特別の何かではなく、周りにある平凡と言われているすべてです。何でも写真に撮っておきたくなります。特別は人間が常に欲している「ご馳走」に他なりません。この気持ちも「それ」であってOKです。

 宇宙が真理なら、真理でない存在(=人間、植物、動物、昆虫・・・惑星、恒星、銀河・・)は存在していないということです。一切が真理であれば、真理を探し出す必要はないというとこになります。真理に触れるための秘密や特別の秘法はあるでしょうか?
 
 聖者と言われる人が、私は修行して真理(=目覚めた)となりましたが、あなたは真理ではない(=目覚めていない)修行しなさいと言うなら。私は宇宙の中にいるが、あなたは宇宙の中にはいないと言っているようなものです。

 第一の矢を受けない人はいません、第ニの矢に対処する分別に振り回されると苦しむようです。頭の中で思考の戦争をして、自らを自らが苦しませている一人相撲をとっています。思考は放っておけば消えてしまいます。思考は自分のものではないと見抜かなければなりません。

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実験1:2分後に、ブラジルのカーニバルについて考えよう、3分後には至仏山の中腹にいる蟻について考えよう。思考が自分のものかどうか試してみて下さい。
実験2:数メートル先の四つ角か電柱などの目印を決めて、その場所に着くまで近くの犬のことをずーっと考え続けて下さい。

 四つ角で鳥の鳴き声がしたり、誰かが飛び出してきたり、光る物を見つけたり、風が吹いてホコリが目に入ったり、雨が降り出したり、躓いたり、声をかけられたり、・・・・様々なことが起こって
「あっ鳥の鳴き声だ」「おっと危ない」「何だモノが落ちている」「目が痛い」「雨だ傘はどこだ」「躓いた、気をつけよう」「だれ?」という風に思考はあなたのものではなく、勝手に湧いてくることが実感できるかと思います。
 会社のプロジェクトを考えるのは半強制的な思考であり自分の思考だとは言えません。旅行したいという思考を遡れば、旅行したい何かが湧き起こってきただけです。

<まとめ>
・宇宙は真理であり、真理の中にあるものはすべて真理です。
・宇宙の中で生まれてきた我々も真理(=「それ」)です。
・真理であるものが、真理から外れて非真理になったことはありません。
・目覚めたい、救われたいは自我が勝手に作っている妄想。
・既に真理であるのに認められないのは、分離しているというしつこい脳の繰り返し。他を認識するという脳の習性。
・完成されているのに、別の何かになることはできません。
・真理が救われることはありません。すでに真理そのものです。
・肉体が経年劣化し、機能が衰えついには全機能がストップするのも真理です。
・たった一つの意識であり、意識にヒエラルキーなどありません。
・聖と凡の区別は人間が勝手に作った概念で遊んでいるだけです。


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無明−16 [気づき]

 私たちは地球上で、一つの生命体として生きています。この現実と事実を否定したら、私たちには考察する糸口はありません。当たり前なのですが当たり前すぎて考察しないという選択肢もあります。直感で解っている人は無用な考察かも知れません。

 生きているとう大前提の中で、しっくりこないことがあれば一度立ち止まって考察してみましょう。

<メイン考察>
・我々は自由意志で行動しているのか?
<サブ考察>
・小さなモノが大きなモノを制御したりコントロールしているのでしょうか?

 海水の一滴が、全ての海流であったり潮の満ち干きを制御したりコントロールできることはありません。試しに海水の一滴を取り出しても海流が変わったり潮の満ち干きが変化することはありません。
 海水は地球創成という宇宙的規模の偶然(=結果からみれば必然)によって地球に海水が現前しています。端的に言ってしまえば宇宙が海を創ったと集約できます。
 同じように生命の一つ(=例えば一匹の蟻)が地球を制御したりコントロールしているということはありません。生態系の中で一本の花が枯れたとしても、地球の自転や公転や銀河系そのものが変化することはありません。

 今この地上に存在しているあらゆるものは、宇宙的規模での特殊条件によって存在することができています。小惑星の石ころを調べるよりも地球そのものを調べたほうが安価で確実だと言っている人もいます。優秀な科学者・化学者であれば、喫緊の問題であるプラスチックゴミの解決のほうに力を注いでもらうほうがありがたいのですが・・・

「灯台もと暗し」の例
 エンジンが壊れた船が何日も漂流していました。数日前に水が底をついて死を覚悟するまで追い詰められていました。夜が明けて辺りが白々としてきた時、一人の船員が小舟を見つけました。小舟に乗っている人を見ると自分たちとは明らかに違っている人種のようです。言葉が通じないと思い「水、水・・」と必死にジェスチャーを交えて大声で呼びかけました。小舟の人は訳のわからない言葉と訳のわからないジェスチャーと必死の形相を見て「水」だとすぐに理解できました。小舟の人は、人差し指を下に向け腕を振っています。
 船の人たちはすぐには理解できませんでしたが、小舟の人が手で水をすくって飲んで見せました。
 そう、彼らは海ではなく両岸も見えないほど広い川に漂っていたのです。すでに求めるものに囲まれていたということです。
 すでに「ここ」に答えがあるのに探し求めていたということです。探究することはなかったのでした。

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 一滴の海水が海を動かしていません。一本の木が森を作っていません。ひと粒の砂がサハラ砂漠ではありません。一部であって「それ」ですが、「それ」全体を知ることはできませんし「それ」を制御したりコントロールすることもできません。
 我々が宇宙(=「それ」)を動かすことはできません。海が地球を回転させている訳でもありません。
 宇宙(=エネルギー)があらゆる存在を動かしているし動きそのものです。宇宙に銀河があり宇宙が銀河を動かし宇宙が動きそのおもの、宇宙が太陽系の惑星を動かしている。宇宙によって太陽が活動させられている。太陽系が地球を公転させ自転させている、地上では太陽によって生命活動が維持されています。

 生命活動によって我々は活動できている。日が昇れば自動的に目が覚め日が沈み暗くなれば自動的に眠くなり就寝する。お腹が空けば否応なしに食物を補給する、食物を生命エネルギーに変換して生きている。排泄物が貯まれば排泄する。どこかが痒くなれば自然と適度な力で掻く。
 我々が地球を動かしているわけではなく、宇宙そのものがエネルギーであって、地球が存在していてます。地球が命を育み、地球が生命を動かしているといっていいのではないでしょうか。その生命の一つが人間であり、日本に住んでいる人間も動かされている。日本の◯◯県に住んでいる◯◯さんも動かされている。エネルギーは動きであり、すべては宇宙の力(=エネルギー)で動かされている。
 今ここでパソコンの画面を見ることができる何らかの力(=エネルギー)は宇宙の力(=エネルギー)と言って語弊があるでしょうか。

 私たちがの全ての行動や動きは、元をたどれば宇宙(=エネルギー)です。つまり、あらゆる事象や現象や自身の何気ない仕草や行動や思考や五感も全て宇宙がやっています。あなたの呼吸も手を叩くこともキーボードを打つことも鼻歌を歌うことも貧乏ゆすりも会話も爪を切るのも全てが宇宙がやっているということです。

 私が動いているというより宇宙が動いている。あらゆる生命や事象や出来事の動きそのものが宇宙であり宇宙の動きが現れているのではないでしょうか。
 人間の一つの細胞が動くから人間全体が動くのではなく、人間が動くと同時に身体の中の細胞も一緒に動きます。人間が動くと(=例えば食べると)、口が動いて胃が動いて腸が動いて胆嚢や膵臓や様々な臓器が連動して動きます。そして細胞の生滅が繰り返されています。フラクタル(=部分と全体が自己相似(再帰))であり、小宇宙は大宇宙と同じであると推測できます。
 自身の体内での細胞の生滅が気に滅入ることはありません。宇宙(=全体)も我々の生死は当然のことであって、全体がいちいち気にかけることではありません。今現在1年で5500万人、1分で100人程度の人が死んでいますが、日本では1分で3人程度死んでいるようです。人の死が悲しいのならば、常に悲しんでいなければなりません。しかし、勝手なもので自身に関係のある人の死だけが悲しいだけなのです。生きているとうことが有り難い、稀なことであると感じているということではないでしょうか。
 全体(=存在)が人間の生死に対してどうのこうのがあるでしょうか。生まれた瞬間に、死ぬことは確実なのですからそう深刻に考えても解決しません。答えが出ているのですから問題になりません。それよりも、生きている感覚(=私はある)ということの実感です。

 地球上で起こっているあらゆることは宇宙が動かしている。動いていることが宇宙そのものの表現と考察してみて下さい。宇宙が動かしていなければ何によって我々は動いているのでしょうか?
 一切の動きや一切の事象や出来事が宇宙の現れでないとしたら?宇宙の外からの何処かからの指示を受けていると考えることもできます。この思考さえも宇宙の力の恩恵かもしれません。


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無明ー15 [気づき]

「何でもないが何かになる」

 私達は生きていく中で様々な体験をしています。成人になるまでに大きな影響力の下に生きています。生活環境・家族・先生・先輩・友達・TV・SNS・本その他から勝手に入ってくる情報や習慣等です。世界では、強制的に◯◯教徒になっている人もいます。”いのち”の本質が何でもない「空っぽ」だから、なんにでもなれるということかも知れません。

 周囲の環境によって大きく左右されているにもかかわらず、自らが自己を確立したように感じてしまいます。生まれる(=「私」という幻影の自我)前は何者でもありません。生まれようと意図して生まれてきたわけでもありません。ただ「在る」という感覚だけはいつでもあるようです。確認してみて下さい。

 各人の主義主張や思想や観念は知らないうちに更新されているようです。アイデンティティは不変ではなく常に変化しています。会社員というアイデンティティは退職によってあっけなく消え去ります。アイデンティティ=「私」とは無常であり実体があると信じることはできません。

 現代社会は非常に便利で必要な情報は手軽に入手出来るようになっています。逆に「知らなくてもいいこと」も無防備な五感を通じて「知る」ようになっています。五感は常にオープンであり、氾濫している情報から逃れることが難しくなっています。意識して情報を遮断しないと情報の底なし沼に足を引っ張られることになりかねません。

 探究の欲はとどまることを知りません。普通に日本で生活していて他国に知り合いや移住する必要がない状態であるなら。「太陽の黒点」「ブラジルの天気」「アメリカでの殺傷事件」「セレブのゴシップ」「深海の状況」「宇宙空間にあるデブリ」等々は「知らなければならない」ことでしょうか。心配の種を購入して、自らが水をやって育てて大きな「不安」の果実を刈り取らなければなりません。
 どんなに考えても「太陽の黒点」を減らしたり増やしたりはできません。どんなに考えても「ブラジルの天気」を変えることはできません。
考えても行動にできなければ空論です。空論のために頭を使うほど無駄なことがあるでしょうか。しかし、見せられていることに気づきません。

 見ているのか見せられているのか。知ろうとしているのか知らされているのか。聞こうとしているのか聞かされているのか。味わっているのか味わされているのか。生きているのか生かされているのか。思考しているのか思考させられているのか。

 何もないのが寂静なのか、何かあるのが寂静なのか。寂静は求めて手に入れるものなのか、寂静であることを発見すればいいのか。求めることが既に乱している。生を求めなくてもすでに生きています。バラ色の生を求めなくても平凡な生でどこがわるいのか。・・・・
 なるべく思考をつかわないで、一息ごとに「今ある」と共にただ「今ある」。そうすると「ただいま」となり、あるべき本源がそこにある。


「今ここ」に立ち戻るには、手動瞑想(=https://www.youtube.com/watch?v=gcBeC6Qdg9k&t=2s)やヴィパッサナー瞑想の実践によって身体が教えてくれます。精神があって身体があるのでしょうか。身体があって精神があるのでしょうか。精神が身体を鍛えるのでしょうか身体が精神をきたえるのでしょうか。身体と精神が一致して一体となった時、ただ見ている、ただ聞こえている、ただ味わっているすべてがエネルギーのダイナミズムと共にある。誰もが体験しています。
 カメラのファインダーを覗いている見ている景色とすでに一体になっています。撮ってやろうという「私」はいないはずです。ただ「今」のまま。そのまま=素のまま、物心のない仏心でいる。

<ポイント>
・固定観念は人間の習性で自動的につくられる。
・「私」など存在しないのに、アイデンティティ=「私」となっています。
・無防備の五感へ情報が降り注いでいます。
・「知らなくてもいい」ことを「知らされている」ことに気づきません。
・一切は差別・区別はない。自身も本来はニュートラルです。
・「知りたい」という本能によって「知るべき」という強迫観念があるようです。
・「知らなくても生きていける」ということを知る必要があります。
・時間の観念によって、不安は自らが作り出しているということに気づく。
・「今ここ」は不安も葛藤も何もありません。
・「今ここ」にいることを身体に教え込むには実践が必要です。

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