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無明−14 [気づき]

「分らないをどうする」「分らないを分かるには」「分らないを受け取る」

<「言葉や文字」で表現できないこと>
 広大無辺なことは表現しようにも表現しつくすことはできません。常に移り変わる「無常」。見るものと見られるものが一体となっている。「私はいない=無我」等々。
「拈華微笑」「不立文字」「教外別伝」「啐啄同時」「阿吽の呼吸」「以心伝心」などと「言葉」で表現するしかありません。

「月を指す指」
 先覚者は、月そのものを見てほしいのですが、言葉(指)だけで伝えられるとは思っていません。受け取る人の「体験」と先覚者の「言葉」のニュアンスとの一致がなければ受け取る人の「洞察」はできないようです。
 「冷暖自知」という言葉があります。「冷たい」という言葉の真意が分かっていない幼児に「冷たい」という言葉を理解してもらうには、氷に触れている時に「冷たい」という共通認識を持つことです。人生でたった一度の共通認識があがればそれ以降は迷うことはありません。仏道においてもたった一度の体験(=頓悟)でいいのです。

 伝えたいことが伝えたい人に「そのまま」伝わった瞬間です。
 伝えたいことを受け取りたい人に「そのまま」受け取られた瞬間です。 
 受け取りたい人が伝えたい人から「そのまま」受け取った瞬間です。
 受け取りたい人が受け取りたいことを「そのまま」受け取った瞬間です。

 言葉に隠された真意が伝わればどのような表現でも正解です。しかし、どのように工夫した表現でも伝わらなければ、すべて「嘘」と糾弾されてもしかたがありません。
 ともかく自己の真相が何かを一度確かめない限り腑に落ちないことでしょう。空っぽとか無であるとか発見するかも知れません。それでも「そうだったのか」と心底納得がいくように生きていきたいものです。

 伝える人よりは、受け取る人にウェイトや責任があるようです。伝える人は対機説法でその受け取る人の気根や状況に応じて適切な説法をしなければなりません。もっと重要なことは、言外の意味を受け取れるかどうかの主役は受け取る人だということです。

 質問者のレベルで、質問者が独力で謎解き(=問題が無くなる)ができるレベルでなければなりません。1+1=2,1+1=10,1+1=1,1+1=0,1+1=∞
2進法では10 コップの水に水を足しても1 水に熱を加えれば蒸発して水が消えるので0  重水素+三重水素で核融合すれば∞

 信心できていない人には「神はいる」と言い。神を盲信して自分で確かめない人には「神はいない」と言い。自分で自分を省みる事が出来る人には「神はいるかもいないかも分らない」と言ったほうがいい。相手の状況によって相手の描いている世界で分かって(=気づいて)もらうしかないようです。

 多数の人に同じ言葉を語りかける場合も、既に各自が各自の世界を構築してると認めなければなりません。受け取り方は様々であり「啐啄同時」は困難をきわめることになります。この文章を読んでいる一人一人が自分の世界を持っていて、全く受け取り方が違うということです。

 「慧可断臂」という伝説(=真実かどうかは別として)があります。インドから来たといわれている達磨大師(=中国語で詳細に説明できたかどうか)に慧可が切なる求道の思いを示した行動と言われています。
 この逸話によって、仏法を洞察することは命がけでやらなければならないと思い込まれています。そして、仏法を洞察した人は価値あること成し遂げたという欺瞞となることがあるようです。この欺瞞から抜け出せない方も多くいるようです。また、それほど大変なことだという観念ができているのも歪めません。
 お釈迦様の言葉である、「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」を何度も何度も再認識する必要が在ります。(参:無明ー10)

 「それ」は宇宙全体と言ってもいいし、宇宙の働きと言ってもいいかもしれません。無明ー10で表現している「言葉」の概念かも知れません。しかし、我々は既に「それ」であることは確かです。「それ」は何時生まれたかも分からず、「それ」はいつ滅するかもわかりません。  

 我々は望んで生まれてきたわけでもなく、どういう経緯(=縁)で今こうして存在しているかも分かりません。今後どのようになっていくかなど自分自身でさえも分かりません。「ふと」気がづけば、今ここに「得体の知れない身体」がキョロキョロしているというのが現状です。

 我々は既に「苦行」真っ最中です。意志があっても出来ない身体があるという現実をみてください。頭では分かっているのに身体が言うことをきかない。身体は「私」でしょうか。この「人間の習性」に日々苦しめられています。
 思い(=頭)の通りにならない現実を思いの通りにしようともがいて(=苦行)います。ただ一つの世界(=一つの宇宙)でありながら、一人一人の独自に世界(=70億以上の世界、全てのいのちを含めたら膨大な数の世界)を自分の世界に合わせようと必死です。
 サハラ砂漠の「ひと粒の砂(=自分)」がサハラ砂漠全体を飲み込むようなことを願っているようです。

 いつまでも老いないとか病気をしないとかあり得ない思いが脳裏をかすめているのではないでしょうか。それは希望と現実のギャップからの「恐怖」から来ています。徐々に病気になっているし、徐々に死んでいるのです。受け入れて気にせず、病気の時は病人に成り切ればいいだけです。病気は滅多に無いので味うべきです。
 不可能とは分かっていても夢を諦められない。高価な薬や安易な健康器具に頼るようになる。まずは意志(=頭)と身体を一致させたいものです。

 老病死という避けられないことから目をそらし、自らを永遠に「苦行」の中に閉じ込めることのないようにしたい。本来は自由で満たされているということの一瞥さえあればいいのです。

<まとめ>
・「言葉や文字」では直接に理解できない。「教外別伝」
・「冷暖自知」:自身の体験と先覚者の体験との一致
・自己の真相を知ることで納得できる人生を送る
・自分のレベルを知ることが大切です。本来はだれでも仏です
・各自が各自の世界を持っている
・身体は「私」ではありません。

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<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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無明ー13 [気づき]

「発見するための自己観察眼」

明歴々露堂々〈めいれきれき ろどうどう〉
 すべての存在は隠されてはおらず明らかになっています。すべての物事・事象は常に眼前に現われています。
 一切は隠されることなく露わになっています。我々が発見できていないだけのことです。

 重力そのものを見た人などいません。陸地を発見してから「アメリカ大陸」と命名したのであって、「アメリカ大陸」と名札がついている大陸に上陸したのではありません。当たり前のことですが、発見する前から存在していました。
 発見されるすべては、既に体験されていたり事象として常に起こっているはずです。ただ観察者が「当たり前のこと」として見過ごし、起こっている現象を観る目(=智慧)が覆われているからにほかなりません。
 もし発見したいのであれば、脳の習性(=癖)を全面的に疑う必要があります。今まで思考しても発見できなければ、思考しても発見できないと他の手法を選択する必要があります。物理学者は物理という観察眼を持っています。考古学者は考古学という観察眼を持っています。本来の自己を発見するには、自己観察眼によって必ずや発見するに違いありません。

 自己観察眼を曇らせているのは、自身で作っているプログラムだったり、脳の癖であったりします。また、”いのち”の壮大な歴史から完成に至っている潜在意識だったりします。DNAに刻み込まれ受け継がれてきました。おいそれとあがなえることではありません。
 さらに、自身では「罠」といつまでも気づきません。巧妙なパラドックスであったりもします。

 歴史上で飛び抜けた自己観察者(=お釈迦様等々)が残してくれた、発見するための「キーワード」を頼りに覆いを剥がしていかなければなりません。
 既に一切が悉有仏性という「当たり前」を発見するかしないかは自身に委ねられています。

 「真実」は受け取る人の世界で、どう受け取るかに委ねられています。”いのち”の数だけ宇宙は存在しているのではないでしょうか。
 ブータンの子供と日本の子供の見ている世界は同じでしょうか?同じ小学校で隣に座っている子供でもまったく同じ世界を感じているのでしょうか?一卵性双生児でも同じ世界を感じているのでしょうか?
 一卵性双生児でも全く同じ経験をしているわけではありません。
 同じ根からも異なった葉や異なった花が咲きます。同じ頭だからといって全てが同質の髪の毛でしょうか。ある臓器の細胞は全く同じ細胞でしょうか。あらゆるものは生滅を繰り返し遂には消え去っていきます。消え去らなければ、生じてくることができません。全くそのままであれば成長することはできません。

<まとめ>
・一切は隠されることなく露わになっています。
・自己が何者(=本来の自己)かを知るには、自己観察眼が必要となります。
・脳の癖を知らなければなりません。
・自分自身の習性や脳の癖を疑ってかかることです。
・先駆者の残してくれた「鍵」を応用して「本来の自己」を発見するように努めます。
・各人には各人固有の世界があるようです。
・各人の世界で各人が「本来の自己」を発見しなければなりません。
他人が他人の世界で発見した「鍵」は自身の世界ではそのまま使えないようです。

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無明ー12 [気づき]

「言葉」と「思考」
事実(=Fact)実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。
異なる世界に生きる人々が共通認識できるもの。
例−1:犬が吠えていた。例−2:リンゴが木から落ちる。

真実(=Truth)本当のこと。嘘偽りではないこと。
あなたの世界を構築する情報や経験から導き出されたもの。

問い−1:犬の吠えていた声はどのように聞こえましたか?
聞こえたとおりに真実(=本当)を教えて下さい。
日本人:ワンワン、ドイツ人:ハフハフ

問い−2:第二次世界大戦は正しいですか?
戦時中の日本人:正しい 正しくなければ戦争にはなりません。
現在の日本人:愚かである。

 戦時中の日本人は狂っていたのでしょうか?もし狂っていたのなら、その子孫である我々は?常識とは時代と地域でそれぞれ変化するということです。つまり、その時代・地域で集団的な多数決で常識となってしまいます。少数は非常識として扱われてしまいます。

 何が正しく何が間違いなのかは、単なる多数決のような気がするのですがいかがでしょうか。
「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が(殺人を)神聖化する」<ポーテューズ>
「良い戦争もなければ、悪い平和もない」<フランクリン>
「軍人の誇りとするするものは必ず小児の玩具に似ている」<芥川竜之介>

 そもそも「言葉」は、人によって様々な解釈があり時代と共に変わる。哲学的な定義や仏教的定義や論理学定義といくらでも概念化できます。私は哲学の立場で話していると詭弁がまかり通ります。ある人には正しくある人には偽り。イデオロギーや国によって異なるようです。
 この世は「嘘・偽り・適当」だと初めから分かって接していれば問題ありません。

 「言葉」に振り回されずに見えたまま、聞こえたまま(=言葉以外)、感じたまま、味わったまま、匂ったままの事実のまま。
 「言葉」は共通の地域に住んでいる人の伝達手段であって、自分たちが都合よく概念化してシンボル化したもの。簡単な音や文字を使って物事を伝えられる便利な音と記号です。その地域以外の人にとっては「デタラメ・まやかし・嘘・口パクパク」。
 BS放送などで他国のTVドラマを字幕無しで見ていると、よくもこれだけ「デタラメ」を言い続けられるのかと感じることはないでしょうか。(聞き慣れない外国語:フランス語、韓国語、タイ語、ベトナム語等々)

 「思い」も他の五感と同じで感覚だと思われます。感覚が音になっていったこ勝手に想像してみました。
 何か尖ったものを踏んだ時に日本人の祖先がとっさに「いたっ!」と発音した。皆でその「発音」を真似して「いたっ!」となったかも知れません。ドイツ人の祖先は「Sie!」。最初から何の意味もなくただの「音」。後から「いたっ」は痛いという感覚であると定義されたかもしれません。自分たちでそう言っていて、今もそう言っているだけかもしれません。

 一切が諸行無常であり、感覚も自然に消えるものです。思考も自然に消えるのですが、あらゆる感覚を「言葉」というツールを使って「文字と音」にしています。「視覚と聴覚」を使っているので簡単に記憶できるようになっています。短期記憶を利用できるので、思考が消える前に一時記憶できます。この一時記憶された思考(=感覚)を次の思考(=思考する人=幻想)で取り扱ってしまいます。

 思考と「思考する人=幻想」という分離が生じます。過去や未来を「思考する人=幻想」によって「言葉」で取り扱うので悩みや苦しみを生じさせることになっているようです。
 思考が記憶され思考が次々と起こり終わらない(=思考の輪廻)。このプロセスが脳のプログラムであり脳の「癖」となっているので見破ることが難しくなっているようです。
 思考をただ見ていれば消えるということを確かめてコツコツと実践していくほかありません。


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無明ー11 [気づき]

 我々の脳は、問題に対処するために自分自身の経験や記憶にもとづいて脳内にプログラムを自動的に生成しているようです。この一連の過程で好き嫌いや固定観念がプログラム化されて自己保身や自己正当化することになっているようです。いわば自己の自己による自己のための判断プログラムです。
 自分では生成している意識はないのですが度々自動的に更新されたり、新しい環境に対応するために新たにプログラムが生成されているかもしれません。
 自身が生成し自身の為のプログラムです。どうしてわざわざ疑う人がいるでしょうか。
 いつもどおりプログラムにしたがって生きていけば、自覚することなく人生を送ることになりかねません。それも一つの生き方です。
 
 しかし、人生を真剣に生きてみると何か満たされない空虚感があるかもしれません。この空虚感やいらだちを感じるの原因が「苦」です。
 「苦」を感じさせてくれる出来事や人は本当は有難いかもしれません。目を覚まさせてくれる契機になることがあります。「苦」を「思考」によって解決できるなら誰も苦しむ人などいません。

 お釈迦様が法を説いてから何年になるのでしょうか?どれくらいの数の先人たちが学び思考してきたことでしょう。「思考」だけでは釈然としないし解決できていないようです。優秀な人の「思考」で解決できていれば理路整然とした文章で数ページで足りるはずです。

 計り知れない文字数を要して一生懸命に伝えようとしているという事実。正確に上手く表現できない証拠です。「思考」の限界を如実に見せてくれています。
 伝えたいことは「言葉・文字」を尽くしても語ることができない。「無」なのか「無限」なのか「常に変化してとらえられないこと」なのか自身で確証を得るしかありません。

 日本の中学生以上で、諸行無常や諸法無我の「言葉」の意味がわからない人は殆どいないと思われます。「言葉」の意味を理解しても何の解決のもなりません。

 個人的な悩みや葛藤を「思考」で解決できないのは、悩みや葛藤を作り出しているのが「思考」だからです。「思考」が自作自演の劇を永遠につづけていて劇を終わらせることがありません。自分で雑音を出しておきながら、雑音を雑音で消そうと一生懸命になっています。火を別の火で消そうとしたり、匂いを別の匂いで消そうとしたり、痛みを別の痛みで消そうとしているようなものです。

「聞こえる音(Input)」と「発音(Output)」の関係
犬の鳴き声は、母国語によって影響されます。
日本:ワンワン ポルトガル:アウアウ ロシア:ガブガブ
韓国:モンモン フランス:ウワウワ イタリア:バウバウ
スペイン:ジャウジャウ ドイツ:ハフハフ 英語:バウワウ
中国:ウーウーだそうです。
 本来は、人間と犬では喉や声帯が異なり使い方も違うので正確に再現するには、声帯模写の方のように「発声」する必要があります。しかし、人間は自身の「言葉」で表現しようとします。「言葉」では正確に発音するには最初から無理があります。
 犬の鳴き声は何処の国でも同じはずです。聞こえていることをちゃんと表現できていません。どこの国の人でも、とりあえず簡便に(=発音できる音)だけで表現しているようです。
 つまり、「言葉=発音」はただのシンボルであって、正確には伝えられないということを如実に物語っています。
 
 日々耳にする犬の鳴き声でさえ適当な音でしか伝えられません。正確に伝えることなどできないということです。
 覚者と言われている人が体験したことを狭量で限定された「言葉」で正確に伝えることなどできないのではないでしょうか。「塩」の味をそのままに表現できるでしょうか。考察してみて下さい。

 「釈尊四十九年一字不説」とあるように、知られたものはすでに「それ」そのものではないので「嘘」であり「方便」だということではないでしょうか。「それ」そのものを、有限で曖昧な概念である「言葉」で表現できることや伝えることなど不可能です。ただ「月を指す指」の役割しかできません。
 
 どこの国の人であろうが、犬の鳴き声は確かに同じように聞こえているはずです。その鳴き声は真実であり、真実を聞いていた時は「あるがまま」の音です。「あるがまま」をそのまま見聞覚知しているのが「仏」の状態であるとしか言いようがありません。一切の不純物のないダイレクトな音をただそのまま聞こえました。善人でも悪人でも男でも女でも若者でも老人でも◯◯国人でも・・・なく空っぽ・透明・名札が張っていない「何か」が聞いているとしか言えません。

 その後の分別や解釈や意味づけや価値づけで俗っぽくなります。犬の鳴き声でお分かりのように、真実は自然に歪曲されて「あるがまま」からかけ離れた「偽り・まやかし・嘘」としてアウトプットされ続けることになります。極端に言えば「言葉」は全て「偽り・嘘」であって、互いの合意で成り立っているだけだということです。隠語など勝手に作れるただの記号。
 ここに書かれている文章も全てが「方便」として読んでおられることと思います。くれぐれも、他のもっともらしい文章とか自分が納得する文章に出会ったとしても真に受けないほうがいいかもしれません。

<まとめ>
・”いのち”は生き残ることが大前提であり、自己保身のためのプログラムを自動生成しているようです。
・自分自身の為のプログラムを疑う人は多くはいません。
・自分が正しいのなら、迷ったり葛藤する必要はありません。
・人生を見つめ直すのには「苦」が契機となります。
・あくまで個人的な問題では、思考では解決しないようです。
・同じように聞こえたものでも、そのままに表現することも正しく伝えることもできないようです。
・自身の洞察や見性を有限で限定されている「言葉」では伝えられないようです。
・思慮分別以前の見聞覚知は、誰でもない「仏・それ・・・」が「あるがまま(=真実・真理)」をそのままに見聞覚知しているようです。
・「言葉」や「文字」は、「方便」であってダイレクトに表現したりあらわにすることはできないようです。
・受け取る人も「自灯明」とあるように、自身の身体で確かめる必要があります。



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無明ー10 [気づき]

 私達は、普段の生活を送る中でどこかしっくりいかない。私は宙に浮いた存在のようだ。深いところでは「私」としての存在感覚を感じています。なんとなく、本当の自分として生活できていない。何故か迷っているような気がする。何とかして迷いから抜け出したいと感じているのではないでしょうか?
 もし、迷っていると感じているのならば「その迷っている」という感じこそが、偽り・仮の「私」が主人公として生きている(=迷い)という証です。

 そして、心の奥底で「本来の自己・本来の面目等々」で生きているという繋がりがあるという証拠なのです。迷いが無ければすでに悟っています。迷い(生死の決着がついていないところ)を抜けて、本源へ戻り一体になりたいという渇望があるのではないでしょうか。
 探究しているのは「ワタシ=自我」ではなく、本源なる「私=本来の自己」の方ではないでしょうか。
 思考の癖によって常に分離・孤立しています。既に本当の自己でありながら、迷っています。「父母未生以前の本来の面目」・「隻手の音声」等々の公案により洞察を得る必要があります。

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 お釈迦様が悟りを開かれた後に発せられた言葉に、「奇なるかな、奇なるかな、①一切衆生悉く皆な②如来の智慧徳相を具有す。ただ③妄想執着あるがゆえに証得せず」とあります。
 次の疑問を考察してみて下さい。
 日本で生まれ、上記の文章を読むことができます。我々は日本人になれるでしょうか?

 お分かりのとおり、既に日本人なので新たに日本人にはなれません。日本人の国籍から外れて日本人ではありませんと宣言しても、日本人として疑う人などいません。姿を見て一言話すだけで、誰一人として日本人であることを疑う人はいません。だれもが日本人であるとかないとか考えずに見た通りで判断できるはずです。日本人であることに疑いの余地はありません。

①一切衆生
 我々が既に日本人であるのと同じように、衆生(=自分が仏であると気づいていない人)が仏に変化(=トランスフォーム)することはできません。すでに日本人であると同様に、既に「仏」です。
 我々が「如来・仏」を探している(=自身が仏であることを拒否しているか否定している)限り、自身の「仏性」を否定し続けて生きてくことになります。
 どう見ても日本人でしか見えないのに、日本語で「私は日本人ではありません」と言い続けるようなものです。

 覚者は、証得した時に自身が既に「如来・仏」であったと知ったでけのことです。覚者であっても、感覚の痛みも、病気の苦しみもあります。しかし、それは自然で当たり前のことです。逃れたり消滅させたりできるものではなく、いつかは過ぎ去る無常の一つであると了解しているだけです。「如来・仏」だから痛みも苦しみもないなんてことはありません。お釈迦様の死に際も、吐いたり下痢したり汚物だらけになったに違いありません。普通の人間と同じ肉体であったから死んだだけのことです。

 苦を消滅できるのではなく、苦はあるがままにあるのでどうしょうもない。どうしょうもないことをいちいち気にかけない。ただ、自身をわざわざ苦しめる欲望に振り回されることはしないでしょう。無駄な思考で無駄なエネルギーも使わないでしょう。知らなくてもいいことを積極的に知ろうとはしないでしょう。過ぎ去って存在していない過去にとらわれないでしょう。存在しない未来を憂えないでしょう。羽目を外す時は羽目を外すだけでサラサラと流れるがごとし。癌にもなるし、あらゆる肉体的な苦しみを同じように感じるだけです。

②如来の智慧徳相を具有す。
 既に如来の智慧徳相を具有しているのが我々です。 
 人間が得意になって振り回している有限の概念(=言葉)では「それ」を知ることはできません。  ②の如来と同義語と思われる「言葉」を列挙してみます。参考にしてみて下さい。
「思考以前であり思考では定義できないモノ、言葉では表せないモノ、本源、究極、原初、故郷、自由、天、大いなる存在、ありのまま、あるがまま、当たり前、普通、それ、それそのもの、遍満、ゲームの終了、自己欺瞞の終焉、自己正当化の終焉、不生不滅、超意識、ハイヤーセルフ、至高の存在、永遠者、真の光、想像を越えるもの、遍在者、真実の者、真理、真実、真如、大いなる叡智、無限の愛、大神、真我、本来の面目、本来の自己、本当の自分、神、ゼロ、一、無、虚無、虚空、無限、永遠、久遠、悉有、全て、全一、全宇宙、解脱、無位の真人、素、空、阿、知りえないもの(=知りたいからの脱却)、理解できないもの(=理解しなければならないという呪縛からの脱却)、探究の終わり 等々」

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気楽な実験です。次の「」内の言葉の意味はなんでしょうか?
「今日は楽しい」「ケヌペジェギュ」
「It is fun today」
ミャンマー語「သင်တစ်ဦးဗ ဒများမှာ」
韓国語「당신은 부처님입니다」
ヒンディー語「तु म बहो」
タイ語「คุณคือพระพุทธเจา 」
ロシア語「Ты будда」
 今まで、学習したことがあるとか記憶にあれば意味を探ることができますが全く初めてであれば、読むこともできずに固まったことと思います。
しかし、目は思考以前に、文字だろうということと文字のような形を認識できているはずです。
 この、文字のようなものが既に見えていて認識出来ています。「分別以前の只の見聞覚知のみ」の刹那(=0.01秒)の間隔が「如来・仏」の領域です。分別が起こらず「只の見聞覚知だけ」なら多くの刹那(=如来・仏)が継続することでしょう。0.01秒後に自動的に動作するプログラムが思考のクセではないでしょうか。今、見えたものとか聞こえたものとか味わい匂い触感と、今までの記憶と照合し合致すれば自動的に構築してある判断(=観念)が下されているのが我々の分別です。

※「」内の文字をgoogle 翻訳で確認してみて下さい※

③妄想執着
 今までと異なる刺激であれば、感情に変換されたり「言葉」として取り扱って反応することになるようです。この反応による思考(=分別)が「ワタシ=自我」として認識され、「私が」見た・聞いた・味わった・感じたとしているのではないでしょうか。
 頭が働くのは、見聞覚知が終わってしまった後です。頭が働いて分別(=妄想)が起こります。これが妄想であり、囚われとなるので執着となります。


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無明−9 [気づき]

 いのちあるものは、安全で安心して自由に生活したい。
 豊かでありたい、幸せでありたいと願っています。
しかし、豊かさとは幸せとはと自らに問うても明確な答えがありません。
そこで、財産を築き思いのままに贅沢することを目的にします。極端になると欲望が満たされれば「幸せ」であると勝手な妄想を抱くことになります。不幸でないのが幸せなのではないでしょうか。
 不幸とはこうありたいという思う願望と現実とを逐一比較して差を考え続け苦悩している自身です。

 思春期になるまでは「豊かさ」という概念すら抱くことも無かったかもしれません。親がやりくりして苦労していたことを感じる程度だったかもしれません。
 他人の家庭事情と比較することがなければ「そこそこ幸福」であり「不幸」という思いに悩まされることもなく過ごしてきたかもしれません。知らなければそのままで何の問題もありません。
 人は知ることで「苦」となることに気づかなければなりません。

 子供は子供なりに、些細なことで喧嘩したり怒られたりして苦悩していたかもしれません。
 すでに過ぎ去ったことであり、無くなったことです。我々の生は刹那の連続であり、過去のことなど綺麗サッパリ残ってはいません。

 人は成長して大人になり、職業生活や社会生活を送ることで、行動範囲や交際範囲が広がり様々な衝突や葛藤に出くわすことになります。
 人と比べることで、豊かさや幸福を求めることは自然なことです。また、現実での苦しみが増すことで自由になりたい、平安でありたいと自然に願うようになります。

 成長する過程で、様々な苦悩(騙し、裏切り、憎しみ、妬み、悪意、罵詈雑言、いじめ、叱責、陰口、誹謗中傷、等々)を経験します。若い時に経験がなく、高齢になってから詐欺に遭うと大きな痛手になります。若い頃に多くの苦悩を経験することも無駄ではありません。苦悩によって、自由や平安でありたという菩提心が芽生え仏道の道を目指す人も多いようです。
 この自由や平安でありたいと求めていることも「私=自我」の自作自演であることに気づく時がきます。何度も何度も「私=自我」が作ってきた観念を剥いでいくことになります。その度にパラドックスであったと気づきます。その都度「自己の愚かさ」に気づき「笑う」ことになります。
 幻が幻であると分かれば、始めから自由であり平安であったと理解できる筈です。
 苦悩を与えてくれた人に対して、有難い導き手だと感謝するようになりたいものです。

 我々は、「私=自我=自分かわいい」に実体があるかのように思考しています。ある事象や現象は縁によって起こっているだけなのですが、起こった後に「私」を後づけしています。物事を思考で理解する”クセ”によって無理やり「私」を「主体」に仕立て上げています。このことから二元対立が起こり「主体」と「客体」に分けています。取り扱ったり掴まれる「対象=客体」と「私=主体」のある分離された二元世界で生きているとの認識から抜け出せずにいます。

 常に感受して処理(=思考)している何か(=私)がいなければ生きていけない、という思い込みが染みついています。
 今ここに生きているのも、「私=自我」というシステムがちゃんと働いてくれたからに他ありません。思考こそが憂いや困難を解決するただ一つのものであるとのシステムが正常に働いていたからです。輪廻の世界が維持されている証です。

 しかし、仏道の道に入ったからには「本来の自己、本来の面目等々」と出会わなければなりません。自身で自身の生存システムを疑うという最も困難な作業に取り組んでいかなければなりません。自身が個として存在し、自身という個が世界を観ているという見方を打破しなければなりません。コペルニクス的転回を実践するのが仏道です。二元対立(=両手)から一元(=無二=片手)、一即多・多即一への大転回が起こらなければなりません。
 それには、「思考に手をつけない・思考を追いかけない」ということで「思考」の連続を寸断させて「私=自我」の実体がないということを見抜くことです。

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無明ー8 [気づき]

 我々は「ちっぽけな心」に振り回されうんざりしています。我々の今までを振り返って見ましょう。

・社会や親からいい子になりなさいと教え込まれています。
・大人の世界は偽りの世界だとよく知っています。
・理性で上辺を取り繕ってなんとか生きています。
・妬み僻み、優越感や劣等感を感じなが振り回され翻弄されて生きています。
・聖人とは何かを身につけた特別な人だと思い込んでいます。
・人は努力すれば、達成すると思い込んでいます。
・成就すれば何ものかに成ると思い込んでいます。
・体験することによって自身が変わると思い込んでいます。
・学ぶことで成長すると思い込んでいます。
・思考によって自分が変わると思い込んでいます。
・知識を得たり知ることで何かを掴み取ることができると思いこんでいます。
・我々は何かをしていないとだめになると思いこんでいます。
・精神的な向上は執着ではないと自己正当化しています。
・お金があれば幸せだと思い込んでいます。
・シワが少なくなれば若く見えると思い込んでいます。
・瞑想すれば苛立ちから解放されると思い込んでいます。
・身体を痛めつける修行には効果があると思い込んでいます。

 「ちっぽけな心」は、様々な設定を自らに課しています。手を変え品を変えて、徐々に変化して成長していると自らを鼓舞しています。何かをしていれば精神的な成長があると「心」が物語を演出しています。
 精神修養のためには大金を惜しまずに遣います。しかし、見返りを求めているというところが「ちっぽけな心」の狡猾なところです。
 ちっぽけな「心」も全ての一つの顕れです。自らが自らで自作自演の劇の主人公として演じています。
 自らが作ったトリックを自らが見破ることができるでしょうか?

 思考しているのだから解決できるはずだという思考回路を見破ることは容易ではありません。これが思考の輪廻です。思考しないでどう解決できる?こういう通り一片の教育と思考のクセによって自らが問題を作り出しています。
 思考しているところに新たな思考を重ねています。思考のエネルギーを補充しながら思考の連鎖を自らが作り出しています。
 
 思考は放っておけば消えていきます。あらゆる物質やあらゆる現象で消滅しないものがあるでしょうか?この世は無常であるとのはっきりと体得する必要があります。
 自身の子供の頃からそれぞれの年代で抱えてきた「悩み・苦しみ」が残っているか考察してみて下さい。過去の「悩み・苦しみ」を無理やり思い出さなければならないほど気にならないのではないでしょうか? 学生時代の事など笑い話になっているはずです。

 我々の生活は記憶に頼って生きている訳ではありません。記憶するために経験している訳でもありません。記憶には実体がなく勝手に書き換えられることもあります。朝起きて夢の中で様々な体験をすることがあります。しかし、その体験が実体のない「夢」の中の出来事であったと理解できたとき、気にしたり記憶しようとする人はほとんどいません。霊的な体験は睡眠時に見る夢と異なり、記憶すべき貴重なものなのでしょうか?

 私は◯◯の体験をして「仏」に成った。私の夢枕に「お告げ」がありました。私には使命が与えられました。私は◯次元の体験をして霊的に成長しました。私の今生の役割は◯◯です。人々に何かを授けて人々を変えることの出来る人間です。全て脳内の電気信号の乱れか化学物質の過多による一時的な現象かもしれません。
 女性が夢の中で「行司やプロ野球選手」になりなさいとの「お告げ」を何度も何度もあったらその「お告げ」の通りにするのでしょうか?5才児が「モンゴルの遊牧民」の夢を見ることが出来るでしょうか?記憶にないことや想像できないことはなかなか「夢」には出てこないようです。
 そもそも自身の頭で起こっていることなので、「行司やプロ野球選手」という「お告げ」は出てこないのではないでしょうか。自身の想像の及ばないところで引き起こされた「夢」ではなく、自身の思いや自身の願望が関与している勝手な都合の良い「夢」でしかないということではないでしょうか?
 何度も「お告げ」があるようであれば、よっぽど自身で希望しているか執着しているかを点検するひつようがあります。また、「お告げ」が無くならないようなら精神的な疾患を疑うことも必要です。
 脳内で起こった偶然のたった一度の体験を売り物にしてどうするのでしょうか?
 何時までも体験を引きずって執着している人が他人の執着のことをとやかく言えるでしょうか?

 東洋人に多い一重瞼で鼻の低いキリスト像があるでしょうか?髭のないアラブの神の姿が夢に出てくるでしょうか?未開の地で生活している子供がシステムエンジニアを夢見るでしょうか?
 人間の置かれた環境や文化の範囲内で構築された概念が正しいのであり、自分たちの見えているものや受けた教育だけで作り出せていないというのが人間の限界ではないでしょうか。

 「ちっぽけな心」のトリックを暴いて、アイデンティティの束縛から解放する手助けをする。固定観念の呪縛に気づくようなアドバイスを与える。脳の習性・クセを自身で疑って自身で気づいてもらう。この力量があるかどうかです。

 有限の知識や概念で無限・永遠を定義しようとしています。
 見えた瞬間、聞こえた瞬間、味わった瞬間、感じた瞬間に全ては理解されているという事実(=真理)があります。「綺麗な赤い薔薇」と頭の中で言葉に出す前に、赤い花は見えているし知られています。
 言葉が浮かぶ以前、思考以前に既に知覚しているのが「仏」であり、既に我々は完成されています。我々は何者かにならなくても既に達成されている「仏」です。

 頭の中の「私(=自我)かわいい」という裁判官による分別を持ち出して対処しています。只の事象(=片手)が起こっているだけなのに、「私(=自我)かわいい」というもう一方の片手で事象(=片手)をビシビシと叩きます。頭の中でああでもないこうでもない、ああすべきだこうすべきだとけたたましく音を出しています。

 誰も他人の頭の中の「おしゃべり」を聞くことはできません。自身の頭の中では大騒乱が起こっていますが、日常は何事もなく過ぎ去ります。
 頭の中でどんなにわめき騒ごうが、頭の中の出来事をさらけ出すことはできません。自身の頭の中だけで両手を叩いていることに気づくことです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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無明ー7 [気づき]

 我々は一切を既知とするために概念化(=事物に対して意味・定義づけ)します。概念によって作られた「言葉・名前」を一切に割り当てます。世界のあらゆる事物・事象にラベルをつけています。一切が既知のものであるかのように振る舞います。

 我々は「名前」のつけられた既知と出会ってきたわけではありません。眼前の未知だけに出会い続けています。過去と出当たり、今を通りこして未来に出会うことなどありません。今出会っている未知も一回限り(=一期一会)で消滅しています。一切は無常であって既知としているものは、頭の中のただの概念だけで実体はありません。全体でしかないものを、個々に都合よく分離させて名づけているだけです。

 全く変化のないものなどありません。「言葉」が変わらないからと言って実体も変わらないということはありません。「富士山」という呼び名は変わりませんが、実体の「富士山」は刻々と変化しています。有史以来、空に浮かぶ雲の状況が同じであることはなかったし、これからも同じことはありえません。

 我々には無限に広がっている未知しかなく、知り得ることのない(=未知)を既知という単なる定義で知ろうとしています。
 知って解釈する以前に既に見聞覚知している「本来の自己」がいるということに目を向けなかればなりません。未知に対処できている「本来の自己」がいます。「本来の自己」によって、安心して生活できているという事実に驚かなければなりません。
 
 我々の習性・クセである、知るということは「苦しみ」でしょうか「喜び」でしょうか?
 例:江戸時代に江戸に住んでいた人が、北海道で何が起こっているかなど知らなくても生活できていました。また、北海道の天候など知らなくても良かったのではないでしょうか。
 我々の生きている現代ではどうでしょうか?世界の天気や世界の出来事など様々な情報が溢れています。
 科学者は火星の状況や太陽のリアルタイムの状況を分析しているようです。
 テレビからどうでもいい情報が垂れ流され、疑うこと無く見たり聞いたりしています。見たことにに対し、自動的に固定観念から自分なりの判断を下しているのではないでしょうか。これが脳の習性・クセです。頭の中で絶え間なく「両手」で音を出し続けています。片手は情報でもう一方の手は自身の固定観念(=こうあるべき)で思考して分別という音が鳴り響いています。
 
 一回立ち止まって冷静に自身の習性・クセを観察しても何も失うものはありません。
 世界の天気を見ているだけでスルーすればいいのですが、脳内で何かしらひっかかれば音が出たことになり害(=静寂を破ること)になります。火星がどうなっているとか、太陽がどうだとか、外国で災害があったとか、全国の天気がどうだとか、交通事故がどうだとか、育児がどうだとか、人工知能がどうだとか、MLBがどうだとか・・・あらゆることを見て聞いてもスルー(=片手のまま)できなければ頭の中で音(=混乱や葛藤)を出し続けて騒ぎつづけ平安や静寂でいることなどできません。
 
 頭の中ので騒ぎたてて悩み苦しみを増やし続けています。どうしてこんなに混乱・葛藤しているのか?どうでもいいことに関心を寄せて自らが自らを苦しめているということに気づかなければならないのではないでしょうか。
 例えば、海外のリゾート地で波の音を聞いて寛いでいるのに日本の天気や日本の交通事故や様々な事件を積極的に知ろうとするでしょうか?どうでもいい情報から離れて寛ぐのが目的なのですから遮断したほうが楽な筈です。
 自宅をリゾート地としたければ、どうでもいい情報を遮断することが最善の方法です。知れば害になるということに気づいて本当に遮断できるかどうかが第一のステップになるのではないでしょうか。


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無明ー6 [気づき]

 両手を打つと音がします。聞こうと思わずとも聞こえてきます。音がしたと勝手に知られます。次に思いが起こります。
 片手は空を切るだけで音など出てくることはありません。一生懸命に聞き耳を立てても聞くことはできません。音はどこにも出現していないので音としては感受することはできません。
「無音=無」であるものを捉えたり、掴んだり、知ったり、理解したりということはできません。
分離していないものは「ただ一つ」であり他とぶつかって音を出すことはありません。

 二つが触れて音が作られ、音が出て、音が空気を振動し、音が耳に届いて、音が可聴域であって心が認識するものだけ音として感受します。音に対して何らかの思考が浮かんできます。

 我々の両手の音にはどのようなものがあるのでしょうか?
・感受したものに対して自身の固定観念で自動的に瞬時に思慮分別します。
・我々の直面する問題は、知識を使ったり思考することで解決される。
・学習することで人間は成長するものだ。
・お釈迦様のようになれば、身体に苦痛や病気があっても「苦」ではない。
・人間ゴータマ・シッダールタから仏である「お釈迦様」に成った。仏になるには何らかの苦行が必要だ。
・「お釈迦様」は「特別」の存在であって普通の人間ではない。
・誰か指導者(=グル)がいなければ成就は不可能である。
・特別な「体験」が無ければ変化はないはずである。
・探究すれば必ず答えが見つかる。
・仏典を読んで理解すれば苦を滅することができる。
・何かを掴むか、何かが与えられて何らかの変化があって何かに変わるはずだ。
・身体は自分である。心は自分である。感情や感覚も自分である。思考は自分のものである。
・私は認識する主体である。
・私は探究にうんざりしてるが探求すれば何か発見するはずだ。
・アイデンティティが私であって、アイデンティティを持ってさらに何か理解したことを付け加えて成長していく。

 見聞覚知したものに対して思考し分別することが、すべて真実で正しいと疑わないことが脳の「習性・クセ」であること理解しなければなりません。自分自身で脳内で両手を叩いて混乱しているということを自知します。

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無明ー5 [気づき]

 公案は、全て自身の頭の中での出来事を発見するためにあります。人類の歴史で身につけてきた習性によって苦しんでいます。混乱や葛藤の原因を自らが洞察し、クセが起こる前の「本来の自己」の洞察へと至る。
 苦によって導かれ、誰もが発見できます。発明ではなく発見です。何かに変化して成るのではなくただの発見です。すでにそこにあるものを自身で見つけ出すだけです。すなわち誰でも既にそうである自身(=仏)を知ることになります。

 あらゆる発見は既にあるのに、見つけ出せないでいたものです。アメリカ大陸、万有引力、作用反作用、エントロピー増大、フラクタル等々

 お釈迦様は発明したのではなく、人間が誰もが既にそうであるものを発見したのです。発明という何かを作り出すことではありません。
 長年の間の脳の習性(=クセ)に疑いの目を注ぎ、観察していくだけです。他の発見と顕著な違いは、外の現象で確かめたりするのではありません。他から明示されても確認できません。自身で自身の感覚で、自身だけで発見しなければなりません。知識として掴むものでもありません。誰もが自身に眠っている宝物を発見するトレジャーハンターです。自身から離れられずにいます。妄想で眠っていては発見できません。全てを捨て去り、何もせずに真っ白になり空っぽになれば「それ」の方からやって来ます。

 馬鹿馬鹿しいことを一生懸命にやってきたという発見。人としてすでに救われているという発見。探究の終わりという発見。自作自演の混乱葛藤であったという発見。なにもしなくてもいいという発見。
誰もが既に仏陀であったという発見。笑うしかないパラドックスという発見。気が抜けるという発見。
愚かにも体験を求めていたという発見。全ての現れが完璧だという発見。
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「隻手の音声」
国語辞典では、「両手を打つと音が出るが、片手にはどんな音があるかということを問うもの。思慮分別を越えた絶対の境地に導くものとして、白隠が初学者のために用いた。」とあります。

 思慮分別を越えた絶対の境地ではなく、思慮分別以前の有無の入る余地のない「一・絶対無」の洞察・直知へと導く公案。

 我々が死ぬ前に後悔することが幾つかあると思われます。その中でも、人間として生きてきて「自己」というものの本当の正体を明からめることではないでしょうか。

「朝聞道。夕死可矣。朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」
ワタシ=(自我)以前の本当の自己。内なる声を聞いて「本当の自己」と一体であることがわかれば、すぐに死が訪れてもかまわい。

 有限の概念で無限のものを捉えることは出来ません。発見するものは、有限の概念である「言葉」で定義された世界ではない。このパラドックスを洞察しなければなりません。
 考えれば考えるほど捉えられず離れてしまうということです。自らが大切にしてきたものをすべて脱ぎ捨てることしかないということです。通常の社会生活では、思考せよ知識を得よ。考えることで夢は叶えられる、願うことが成就する。このような人間が勝手に構築したもの以前で起こっていることを発見しなければなりません。自身の観念や思考習慣のままでは発見できないということです。
 人間にとって一番困難である「何もしない」ということによって人生最大の発見がある。


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