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無明−4 [気づき]

 公案は、大疑団を起こして通常の脳のクセを修正するためにあります。普段の日常生活でお決まりのプログラムでお決まりの答えを出していてはいつまで経っても陳腐なプログラムに従って一生を終えてしまいます。
 固定観念でガチガチに凝り固まった、脳の思考回路ではプログラム通りの答えが自然に出てきてしまいます。

 脳にショックを与えなければ「自己正当化」「自己保身」の為に従順に働く脳のままです。
 食って、排出して、手足を動かして、寝て、起きて、たまに美味しものを食べて、旅行に行って絶景を見て、ちょっとした体験をして、いつも何かの思いに振り回され続けて、病気や老化に気をやみ、死を恐れて、悩みごとに追いかけられていくだけの人生で一生を終えてしまいます。人生には何かあるはずだ、何かを掴みたい、人生の意味や価値を理解したいと思いながらも何も出来ずにいる日々です。

 ある境地に到達するとか、何者かに成るとか、何かを掴んで理解するとか、何かを得るのであれば、間違った道を進んでいることになります。
 脱皮して別人になるのでしょうか。どのタイミングで境地に移行するのでしょうか。どんなことを掴むというのでしょうか。どんなものを得るというのでしょうか。

 赤子の時には心が開かれていましたが、物心がつくころから「言葉」を覚え、「時間」という概念を持ち、あらゆるものが「対象」として認識されるものだとしてきました。
 開かれていた心が、教育や生活環境や信条や観念によって壁になり「本来の自己」が隠されることになりました。

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「富士山を荒縄で縛ってもってきなさい」「千尋の底の一つの石を、我が身を濡らさずにもってきなさい」

 誰もが知っている日本で一番有名で高い山である富士山。富士山を知り得たり、登頂(=達成)すれば何者かになる。縄(=自身の知識)で縛れば(=掴まえれば)理解したことになる。頭の中で概念でしかない「富士山」「荒縄」「縛る」「持ってくる」などの言葉を使っても実現することなど出来ません。
 脳のクセ:実体のない概念である「言葉」を組み合わせて、縛ることなどできない「富士山」をしばることができとイメージできる。絵を描けるということはイメージできたということです。持っていくにはどうすればいいかも頭で考えることが出来ます。出来もしないし、ありえない縄を作り出してしまいます。ここまでくれば呆れるしかないのですが、頭は何の疑いもなく考え続けます。クセであり、馬鹿馬鹿しいことに気づかなければなりません。

 どんなに考えても富士山を持ってくることは無理です。しかし、頭では実体のない妄想を取り扱っています。頭の中では何でもできるという前提で概念と言葉を使って考えています。この考えるということが、通常の生活では当たり前のことですが実は人間だけができる妄想だということに気づかなければなりません。

 あらゆるものには最初から「言葉」は割り振られていません。区別・差別のない一つであった世界に対して、ちっぽけな「ワタシ(=実体のない頭の中で作り上げた創造物)」が徐々に構築されていき、自己保身のために「他」を知らなければなりませんでした。「知る」ためには概念化してある定義にそった「言葉」を付けて区別・差別しなければなりません。
 頭の中で実体のない妄想をしていたということです。今、眼の前の事をないがしろにして、日々妄想にふけっている自身の愚かさに気づき「笑う」ことでしょう。「言葉」の世界を一旦離れて、あるがままをそのままに観る力をつける。「答えが出ない、理解できない」それでも見えているし、聞こえています。普段の生活に何ら支障はありません。かえって、何かを掴んでいるほうが厄介です。思考を消すことなど出来ません、ただ「思考しているな」とスルーしておけば自然と消え去ります。
 消え去っても何にも困ることはありません。幼稚園、小学生、中学生、高校生の悩みは何処にあるのでしょうか?全てが無常であり、消え去ることになっています。10分後に◯◯を考えようとか、〇〇を考え続けようということも出来ません。10分後に雨が降ってきたら雨に注意が向けられます。10分後に宅急便が届いたら対処しなければなりません。10分後に背中が痒くなったら背中に意識が向かいます。思考は自分で自由にできるものではなく、縁によって変化するいということです。
 あらゆることは縁によって生じ、あらゆることは消え去る。

「千尋の底の一つの石(=手の届かないところにある、たった一つの真理)を、我が身を濡らさず(=苦労せずに、他の概念をつけづにそのまま)にもってきなさい(=手に入れなさい、掴みなさい)」


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
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無明−3 [気づき]

「趙州洗鉢」
新米の修行僧が
「私は道場に入ったばかりのものですが 悟りの極意をお示しください」と
和尚に 問いかけました。
趙州和尚は
「おまえさんは朝のお粥を食べたかね」と問われ
修行僧は
「はい」
と答えました。

趙州和尚は
「それでは、その鉢を洗っておきなさい」
と言われました。
そこで 修行僧は はたっと気づいた
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人間の習性として、
何かになろう。何かを達成しよう。
何かを得よう。何でも知っておこう。
何でも意味があるはずだ。何か価値があるはずだ。
危険を回避しよう。楽に生きていこう。
何かと一体になろう。何かを掴み取ろう。
何かの状態を体験しよう。
何らかの状態でいたい。
煩うことが無くなる方法を会得しよう。
平安でいられる方法を会得しよう。
誰かに教えを受けて知識で楽になれるようにしよう。
身体は「ワタシ」なのでコントロールできるはずだ。
苦から逃れる方法があるはずだ。
これらすべてが「自分かわいい」という当たり前の心のはたらきです。
この心の働きによって探究心が起こって哲学や倫理学や宗教などへと心が駆り立てられています。

全てが自ら勝手に作った「こうあるべき」という観念によって起こっていることに気づかなければなりません。
この観念は、すべてが上記の裏返しによって起こっていることです。

今は何者かではない。今は何かに達成していない。
今は何かを得ていない。ワタシは無知である。
意味を探せば見つかる。価値を探せば見つかる。
身の危険がある。病気が怖い。楽に生きていない。
対象と自己があり、分離している。今は掴んでいない=掴めるはずだ。
今は真理を体験できていない。
何らかの状態でない。常に煩わしい。平安でない。
今の知識では満たされていない。身体をコントロールできていない。
苦からは逃れられない。

 全ての「こうありたい」は自らが勝手に作り出した妄想でしかありません。今ここで展開されていることが全てであり真実なのに、あちこち探し回りもがいているのが現状です。

 一日の始まりは朝食です、新しい人生(=目覚めた人生)の始まりも当たり前の朝食から始まります。仏法を求道する修行僧の朝食は、上記に列挙している「知りたい・掴みたい」という当たり前の渇望でした。

 「朝食を食べたか?」と聞かれたのは、修行者としての菩提心や知識はすでにあるのですか?ということかもしれません。
 食べて消化したら、粥など跡形もなく消え去っています。同様に知識などは何の役にも立ちません。
 粥はどこを探しても見つかりません。口の中で粉々になり食道を通って胃の中に運ばれ消化され腸へと進み栄養となり血に混ざり体中に運ばれ、身体を動かすエネルギーとなります。エネルギーは身体を動かし、脳の働きで使われ、呼吸によって体外に出て自然界にまた戻っていきます。自然の循環の中であらゆる形に変化してどこかで何らかの作用(=縁)となっています。

 そんなもの(=知識)は鉢(=頭)から綺麗さっぱり洗い流しなさい。すっからかんの空っぽにして、やるべきことを淡々とやっていれば問題などありません。問題(=仏はどこだ、真理とは)を作っている自分自身が一番の問題です
 仏法を知るのではなく、仏法そのものとなって生きていく。生きていることがそのまま仏法そのもの。

 よく「気づいた」とありますが、何かを得たとか何かの境地になったのではなく、自らの「愚かさ・妄想=眠り」に気づいて普通に(=目覚めた)なったということです。悟る=詐とる。

 自らの作ってきた「こうあるべき=観念」という詐(=偽り、嘘、虚言)によって構築してきた「自己欺瞞・自己肯定・自己信条・自己信念」が崩れ、今の「あるがまま・そのまま」で良かったということに救われたということ。すでに救われている自分がそこにいた。
 浅瀬でもがいていましたが、もがく(=自己を探し回ったり、仏法がどうのこうの、真理がどうのこうの、悟りがどうのこうの)のを止めてみたら地に足がついていていました。溺れてはいなかったのです。すでに自身が救われていることを発見したということです。

 誰が自身を騙していたかというと正に自分自身が自分自身を騙し続けていたということです。
 それも、「自分かわいい」ですから許してあげることです。よく頑張ってきたねと褒めてあげればいいだけのことです。もうがむしゃらに探究することはありません。浅瀬で遊べばいいだけです。
 脳の条件反射の癖に気づいて見てあげることです。自らが構築してきた「自分かわいい」から作り上げた「概念⇒観念⇒信念」の実体をチェックしていくしかありません。


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只管打坐 [気づき]

「只管打坐」

 ただ坐りなさいと言われても、意味が分からず坐るのは苦痛だけかもしれません。自身で確かめながら坐る方がいいのではないでしょうか。

 目的も達成も願望も結果も何もかも求めないでただ坐る。坐っている時は、何者かである必要もありません。日本人でもなく、男でも女でもなく、若くもなく老いてもいない、信じているものもなく、国籍も無関係、血液型も無関係、学歴も無関係、職業も無関係、収入も無関係、家柄も無関係、出身地も無関係、ありとあらゆる概念もアイデンティも持ち込む必要はない。

 坐禅では、「言葉」も「文字」も「概念」も何もかも不要です。判断する必要もありません。識別する必要もありません。
 思慮分別する以前の世界が「これ」です。「これ」の只中にあるので只管打座。「これ」と共にあるので仏そのもの。修行でありながら結果とともにある。

 身体が固定されているので、物理的に何かを掴むことができません。何も所有できない(無一物)。何も所有することにとらわれない(不可得)。動く必要がないので、自らという意志も持ち込む必要はない。何かを受け取ったり、どんな概念も受け入れることはない(無分別)。

 皮膚の色も関係ない、国境も関係ない、移民とかも無関係。責任もなく、義務もない、権利もない。親でも子供でもなく、達成することもなく、成就することもなく、探求する必要もなく、知る必要もなく、貪る必要もなく、怒る必要もなく、悲しむ必要もなく、嘆く必要もなく、怨む必要もなく、喜ぶ必要もなくあらゆる感情に振り回される必要はない。知識に惑わされない。一切から解放されています。

 只坐るのに人間関係もなく、宗教もなく、信じることもなく、固定観念もなく、比較する必要もなく、奪うこともなく、奪われるものもなく、疑うこともなく、奢ることもなく、プライドを持つ必要もなく、忌避することもなく、何かに帰属することもなく、何かを気にすることもなく、何も考える必要もありません。坐って、ただ吐ききって吸う。呼吸とともに呼吸が呼吸します。

 思慮分別する必要がないので、対立するものはありません。過去を振り返ることもなかれば未来に思いを馳せることもありません。今を憂えることもありません。今を憂えることがなければ今に安住します。今に安住すれば時間を思念する必要はありません。時間の概念を持ち込もこともない。時間が無ければ今だけが続く。今が続けば永遠となります。

 ここ(=坐っている場所)に憂えることはありません。ここを憂えることがなければここに安住します。ここに安住すれば場所を思念する必要はありません。場所の概念はここ(=坐っている場所)にありません。場所の概念がなければ何処でも良い。何処でもよければ無限の空間のどこに坐っても安住する。何処でも安住できれば無限の空間が果無く広がる。
 今ここは、永遠の時であり無限の空間であると解る。

 自己が何者かである必要もない。自己というものを一切持ち込む必要がない。自己が自己である必要もない。自己がいないので問題はない。
 自己がいなければ認識する自己もない。認識する自己がいなければ空っぽ。自己が空っぽなら一切があるがままで何も問題ない。

 自己もそのままで良く、一切がそのままで良ければ、自も他も無いのでなんの問題ない。自も他も無であれば、全くの区別差別がない。区別差別がなければ一つそのものである。自も他も無でありながら、一切とこの身体と心を働かせているのは何だ?
 思慮分別の起こる前にある刹那の働きは、思慮分別を起こさなければ縦横無尽に何時でもどこでも働いている「只今」。何時でも何処でも門は開いている。

 一切が一つそのものであり、永遠であり無限であった。一切の本質は一つである。ただ顕れが異なるだけである。一切が一つで永遠で無限でれば、一切悉有仏性である。
 
 顕れはそれぞれに働きがあるが、一つのものの異なる働きでしかない。手は手の動き、足は足の運び、口は口の動き。動きは綺麗サッパリなにもかも残さない。それでいていつでも動けます。
一切の同根は同じであるが、一切の顕れが異なり、一切の働きが異なっていてもそれぞれの役割に間違った働きはありません。

 あらゆる木々は地球という同じ地に根ざしているが、異なる木々が生い茂る、あらゆる木々は根を張り、幹は上に伸びる。

 すでに仏であったのに、思慮分別する癖によって仏の居場所から出ています。自分(=仏)を探すために自分(=自我)を持ち出して外に自分(=仏)を探し回っています。
 知るものは知られるものでした。意識は意識自身を対象とした瞬間に、もう一つの意識を持ち出すので分かれてしまいます。一つの意識にはなりません。一つの意識のが一つの意識であるには一つの意識のままであるしかありません。意識が意識を知ることはできません。知られる前なので「無」です。知るとは知る対象が無くてはなりません。「これ」は「無」であるので無限の働きが展開されています。

※坐るときだけでなく、掃除、草取り、食器洗い、歩いている時等々・・何人でもなく、男でも女でもなく等々 何者でもない「これ」です。


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無明ー2 [気づき]

「父母未生以前の自己如何」

 我々は生まれようとして生まれてきたわけではありません。死ぬ時期も未知のままに生かされています。思考や感情も縁によってただ勝手に生じては勝手に滅しているだけです。
 思考や感情や感覚も所有したことはありません。思考や感情や感覚を所有していないので捨てることなどできません。
 物心がついてから様々な観念を溜め込み、固定的な観念で自己の判断として生きています。思考を使って観念から解放されることはできません。思考は概念で構築された「言葉」を使います。概念は実体のないものです。概念で概念を消すことはできません。空気で空気を消そうとするようなものです。

 さて、父母という概念を使いこなせるようになった「わたし」はあらゆる事象を概念によって自動的に解決しようとします。これは自己保身・自己防衛のための人間の脳の単なる「習性」です。この習性であらゆる事象が自身に降りかかってくる問題であるとの前提で対処(=分別)します。
 しかし、言葉で思考する以前分別以前に存在は存在のままに、生き生きとしてただ縁によって刻々と展開されています。

 「山」と言葉に出る前に、すでに山の姿を捉えています。目は目を使ったということもなく、あるがままの情景と一体となっていて、認識する対象としての「山」として見えているのではありません。
 残念なことに自動的な瞬時の「脳」の働きによって、あるがままから条件反射のように「言葉」が湧き出てきます。「山」と脳内で呟いてしまいます。
 実物を見ていながら実体のない概念のみの生命感のない(=死んでいる)言葉の「山」として一瞬思考としてとらえるだけです。言葉となった「山」が自己にどのような関係にあるか頭の中で思い巡らせ、何もなければ次に認識したものにどんどん移っていくということです。概念で把握されたので「驚きや感激」は薄れてしまいます。

 只只今今が展開されてはきっぱり消え去り何も残さずに流れているだけ。
 父母という概念の出来上がる前の赤子のような純粋な心。いつも驚きと神秘の中で未知と戯れている世界。存在とともに一体となっている本来の自己でありたい。「只今 ただいま」は本源に返ってきましたということなのだろうか?


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無明ー1 [気づき]

 TVで見ましたが歴史を遡ると狼と人が接触を持ち、狼の本能は人間とのコミュニケーションによって愛へと変容して狼から犬種となって今にいったているようです。人間との信頼関係を構築できる種となって現在に至ります。
 野生の本能を進化変容して人からの愛を受けることができるようになり平和な日々を送ることができているのではないでしょうか。

 我々人間も無明(=爬虫類脳・哺乳類脳のもつ本能+幻想の欲望=煩悩)を進化変容しなければなりません。この精神性の変容に成功されてきたのが仏道の祖師方に他なりません。

 人は犬のように躾けられなければなりませんが、最終的には自身で自身を躾けなければならない所に難しさがあります。自らが進化変容しなければならないと強く動機づけられるためには、自身が本当に精神的に追い詰められた状況あることが必要です。
 そのために「苦」と「煩悩」と「自我」という最高の贈り物が与えられています。この苦によって成長ができるのだと自覚できれば発菩提心が確立されます。自身を寂滅まで運んでくれる「苦・煩悩・自我・菩提心」です。世間一般の「妬み・嫉み・恨み・いじめ・その他心の痛み」は実は成長の為に各自に課されている課題です。語尾の「み」を「み=身・見・実・味」として考察してみてください。
 刺激(=重力)がないと立って成長できません。苦い刺激のほうが目覚めには最高だと思ったほうがいいかもしれません。振り返るときっと感謝すると思います、感謝するようになるまでひたすら精進です。これこそが煩悩即菩提心。

 ヒト以外の種は、自然環境や捕食者などの食物連鎖に組み入れられています。それぞれの生存領域の食物連鎖の中で姿(=擬態)や生活スタイル(=夜行性等)や防衛力(=毒・電気・俊敏性・針・硬い皮膚)・攻撃力(=牙・爪・毒)を身につけて徐々に進化変容しているようです。いずれも外的な変化です。犬のように精神的な進化変容は特筆すべきことかも知れません。

 ヒトは、自然界を模倣し身体を直接変化させる代わりに服・靴・帽子・手袋等々、チーターの足よりも速いバイクや自動車、鳥になる代わりに飛行機やパラシュート、安全を確保する家を作りました。
 生息環境も自らが協力して自然環境を利用して勝手に生息領域を増やし続けています。いままでの生命のように自然環境に従った進化ではなく、自らの形態を道具や設備や構築物によって作り変えてきたと言えるのではないでしょうか。残念ながら精神性の進化変容がなされていないのが大きな問題です。それも精神性は外から与えられるものではなく、各個人のそれぞれの問題であり各人自身に委ねられているということです。

 無明を理解し、無明から脱却して精神性の進化変容する先に涅槃寂静があります。
 見える世界が金色になるわけでもなく、聞こえる音が変わるわけではありません。ただ最初からラベルなどついていない、純粋にそのままでしかありません。特別なものなど何もなかった。あるがままで問題などなかったということです。
 問題を作って苦しんでいたのが自分自身であり、自分自身で解決しなければならないということです。自らが救われ、自由になるためには本来の自己(=無位の真人・ブラフマン・仏・大いなる存在・一なる意識・宇宙意識等々すべて同じですが各人の感じた表現)が自らを見つけくれて出会うしかありません。自己(=自我)というもう一つの心が本来の自己を見つけることなどできません。一心であるのにもう一つの自己が見つけることは不可能です。わざわざコインの裏に目をつけて表を見ることができるでしょうか。
 目覚めを邪魔しているのは自身が大事にしている無明です。表を見ようとしている裏(=自我)の探究心が偽物であると見破ることです。



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