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十牛図4−2 [気づき]

第4図 得牛
―頌(じゅ)―
精神をさらにつくして、自分の牛をつかまえた。
しかし、この牛は野性の心が強く、力はさかんで、すぐにその荒々しい心や力を取りのぞくのは難しい。
あるときは、ほんの少しの間、高原の上にいるような、目の前が開けた心境になったように思えても、
またいつの間にか、煙のような雲につつまれて、その深いところに入りこんでいくように、自分の(牛の)心はとめどがない。
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今、まさにこの文章を目で追って頭で読んでいる「あなた」はどうして今ここに存在しているのでしょうか?
 精子が卵子に入り受精して、人間という得体の知れない物体から産み落とされてこの世に生まれてきました。眼はよく定まらず、耳はあるがままの音が聞こえてくるだけ。手に触れるものはとりあえず握る。足は短いので地に着かないので宙を蹴り上げる。ただの肉と骨と臓器からできている。「無位の真人・本来の自己・仏・神・道・大いなる存在・大生命・大宇宙・それ」が身体を通して現実を感知している。
 赤子には大人が持っているような希望、期待、執着、苦、悲しみ、苦渋、嘆きなどの言葉はありません。言葉のないただの感覚だけがあります。言葉を知らず言葉を発生することはできません。感覚を表現するのですが、わけのわからない音を発するだけです。言葉を使えるようになったとしても、快感や痛みなどもただ異なる感覚の種類として感じているだけです。痛みは生命維持に支障をきたすので、本能によって避けなければならない事象としてとらえています。

 我々が今ここにいて、今を認識できているのは過去からの繋がりがあるからに他ありません。宇宙開闢以来どこかで途切れていれば今ここに存在していません。過去から途切れることなく生き抜いてきた最強の遺伝子を携えているということです。
 今現在、宇宙空間にある一切の物は、宇宙開闢から宇宙以外の他から出入りしている物はないはずです。もし物質が出入りしているならば、つながっているので宇宙以外の物質ではなくそのまま今の宇宙の物質であると言えます。宇宙の中にある物質は過去の宇宙の物質そのままです。どんなものに姿や形を変えたとしても宇宙の物質であることに変わりはありません。
 我々が目にしている一切は宇宙開闢から存在している宇宙物質から作られている筈です。粉々に分解して目に見えなくなったとしても、そのまま宇宙物質として宇宙空間のどこかに存在しているはずです。

 宇宙と定義されるものは「一つ」です。我々は宇宙という「一」から作られています。様々に分化して異なる形態をとっていても本質は宇宙の「一」のままです。最初から「一つ」のものが縷々転々と移り変わって現出したり見えない何かに変化して存在してあり続けています。
 
 あらゆる物質も「いのち」もただ「一」そのものです。
例えば、船にあらゆる物質やいのちあるものが乗っていると想像してください。波に揺られているのは船だけではなく、船に積み込まれている一切も同じように揺られます。例外なく波に揺られるはずです。波という一つのエネルギーが船の中のもの一切に平等に働いています。

 自然界においてエネルギーの行き渡らないるものなどありません。銀河団も銀河も太陽も惑星も衛星も、あらゆるものがエネルギーによって動き回っています。物理学では、このエネルギーを様々に表現できますが、エネルギーは一つといってもいいのではないでしょうか。単位や方向の違い程度です。

 生きとし生けるものの意識も「一つ」であると考察してみてください。
例:音を認識できる生き物が一箇所に集められているとします。同じ方向に耳が向けられているとします。突然、背後に雷のような大音量の爆発が起こった時、一斉に驚き逃げ惑うことでしょう。
 この同じ反応があらゆる生き物に共通の「一つの意識」があるという証拠です。ただ「一つの意識」があって、個々の生き物に宿っている「一つの意識」が使われ同時に反応したということです。意識の相違がないから同時に反応できたのです。

 動物も我々も別々の意識があると主張するのは、音を聞いた後の反応が異なるからです。別々の方向に逃げたり、飛んだり跳ねたり転げ回ったり耳を塞いだり様々な行動をするので別々の意識があるという論法です。しかし、個々の行動は個々の経験や今いる場所によって結果として異なる行動になっているだけです。宿っている意識は紛れもなくたった「一つの意識」であり、個々の環境や置かれている立場や性別等々によって発現される個性となっているだけです。

 あらゆるものは別々ではなく全く同じ「一つの意識」である。
牛(=自我)もそのまま「一つの意識」であるのですが、別の意識であるとの癖から抜け出せないだけです。
 他人とは異なる自分特有の過去の記憶があります。別々の記憶は別々意識であると結論づけます。ただこれだけの違いです。過去は何処にも存在していません。今、今、今は誰でも同じです。過去と今とどちらが幻影なのか、当然過ぎるところに腑が落ちます。

 熱いものに触れた時や尖っているものに触れた時の反応はいくつになっても変わらないものです。日常で頭を使わないでやっている行為。習わなくても教わらなくてもできていること。すでに備わっていることがあります。修行しなくてもいい「無位の真人・本来の自己・仏・神」が既に宿っています。我々は自身以外の天や書物(=仏典・聖書等)の中にあるとの観念から離れられません。信じられないものはいつまでたっても現実となることはなく、夢物語として大事にしておきたいのです。牛(=自我)の経験こそが現実であると思い続けて生きています。

 自分の牛(=自我)は経験や生い立ちによって反応が異なってくるだけです。牛(=自我)は生きる(=自己保身・自己維持)という本能によって形成されていますからおいそれと人間脳の理性の管理下には成り下がることはありません。
 今ここに存在しているのは、コツコツと身をもって経験してきたことの集大成です。自身が自身によって自身のために構築してきた固定観念やアイデンティティです。牛(=自我)のおかげで今の自分自身が確立されています。「わたし」は自身によって作られた幻想である。ということは簡単に受け入れられないのは当然です。牛(=自我)の特性では、消そうとすればするほど存在感を高めるだけです。相手にしないでただ静観してみてはどうでしょうか。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
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十牛図4−1 [気づき]

第4図.得牛(牛をつかまえる)

①その牛は、長いこと野外の草むらにかくれていて気づかなかったが、今になってようやく会うことができた。
②しかし、その喜びの心境は、「牛に出会えた」ということで満足してしまい、かえって牛に追いつくことを難しくするし、また牛のほうでも、すきをみては香りのよい草を求めて草むらに逃げていこうとしてしまう。
③やっとの思いで牛をつかまえてはみたものの、その心はかたくなで勇猛であり、いまだ野性のままである。
④この牛を飼いならそうと思うのなら、ムチを使って、いましめなければならない。
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①その牛は、長いこと野外の草むらにかくれていて気づかなかったが、今になってようやく会うことができた。**

 牛(=混乱の原因)は自分自身ではなく、他人が原因であると決めつけていました。自分自身が苦の原因であるなど考えたくありません。自己正当化という自己欺瞞によって自己をなりたたせていました。
 「わたし」を苦しめていたのは他人であり社会制度が悪く政治が悪いはずでした。「わたし」を苦しめるのは他人であり、「わたし」を理解できない他人が悪いのです。「わたし」の言っていることを受け入れない上司や同僚や部下によって「わたし」だけが割をくっています。家族であってもちょっとしたことで気分を悪くします。世の中のすべてが間違っていてわたしだけが正しいのです。という自己中心の考えです。

 「わたし」の人格を否定するようなこと言っている。「わたし」の思い通りにならない。「わたし」を認めてくれない。
 このように何でもかんでも他に原因があると決めつけるなら、永遠に苦から逃げ回るだけの人生となってしまいます。
 牛(=自我)は自分自身であり、今までの人生で構築してきた固定観念や信条で自己保身をしてきた自我です。自己保身プログラムですから、瞬時に反応する自動プログラムであり気づかずに反応します。プログラムを実行している「わたし」など存在しません。
 侮辱的な態度や言葉を関知すると、自動実行プログラムによって自動的に反応するようになっています。反応後にしらふになると、人間脳が働いて慚愧の念が湧くことがあります。

 野外の草むらとは、五感で感受するものを意(=思考)で解釈して自分の都合のいいように解釈して作る自己保身プログラムです。自己保身のために働くものですから否定することは自己否定になります。この自動反応プログラムに気づくことは難しいのです。
 
 過去の経験や自身の感情や感覚や思考が記憶されて牛(=自我)が構築されています。日々上書きされていますが、あくまでも自身の自身による自身のためのプログラムです。求道心によって自身の内側を見るよう訓練すれば、自我の自己欺瞞に気づくことができます。

 人生は不安の連続です。なぜなら常に知られざる未知があります。あらゆることが無常でありエントロピーの増大によって確実に消え去るからです。四苦八苦の当たり前のことさえ認めたくないのです。この世で何かを達成できるという思いを諦められずに抵抗するからです。潜在意識の中にある煩悩(=生きたい、死にたくない、願いを叶えたい、無常を理解できない)に突き動かされているからです。


②しかし、その喜びの心境は、「牛に出会えた」ということで満足してしまい、かえって牛に追いつくことを難しくするし、また牛のほうでも、すきをみては香りのよい草を求めて草むらに逃げていこうとしてしまう。**

 自身を苦しめていたのは自分自身で作っていた「固定観念・思い=思い通りにしたい」だったと気づけるようになってきました。「牛に出会えた」というのは、いつも自身を護るために働いていた貪・瞋・痴の煩悩そのもの。「思いの通り」にしたい衝動が牛であった。
「わたし=自我(牛)」と他が存在して他を何とかしようという葛藤があるということまで気づいてきました。この気づきに満足したまでです。

 自身の思考(=牛)が問題であるから牛(=思考)を追いかけ、思考の本体を見なくてはいけない。思考している自分をまた別の思考で分かろうとする、ただの堂々巡りであって結論はでません。
 牛に追いつくとは、牛(=自意識の思考)を思考でつかもうとすることです。思考が問題なのに思考で解決できるわけがありません。

 毒を飲んで苦しんでいるのに毒を与えるようなものです。薬物中毒患者に薬物を投与するようなものです。
 牛(=自我)は香りのよい草(自己正当化する都合のいい観念)を求めます。自己啓発セミナーやスピリチュアルの講義やあらゆる精神的な欺瞞を助長するようなものを求めます。他人任せであり、自身ではなるべく労なくエッセンスを得たいだけ。知識を得たところで自我は強くなるばかりです。
 自己の欺瞞から逃れるために他者の知識から簡単に得られるようなものでお茶を濁そうとします。
 「わたし」は修行しているという自己正当化によって牛(=問題を作り出す自我)は存在感を保つことができます。見抜かれないように潜在意識の中でこっそりと煩悩と手を結びます。牛はいつまでも、慣れた生活習慣のままでいたいのです。


③やっとの思いで牛をつかまえてはみたものの、その心はかたくなで勇猛であり、いまだ野性のままである。**

 人生で様々な経験や知識や観念で構築されてきた潜在意識があります。自己保身と自己保存のために働いていて、自身のいのちを守っています。自身の身のためなら何でもします。感情と結びついたら大きなエネルギーを発揮します。間違っているといって、はいさようならとはいきません。幻影でありながらも、自身がコツコツと積み上げたものです。おいそれと姿を消し去ることはできません。

 人間脳(=顕在意識)では太刀打ちできない野生(=潜在意識)の力が備わっています。
 人生で自らが構築してきた固定観念を自らが否定していくことは並大抵のことではありません。自身のステータスを壊すのですから大変な勇気が必要なのです。それには素直に自己のすべてが間違っていたと懺悔するほかありません。一度全部投げ捨てて「素」になるということです。一切転倒して自我に頼ってきたのです。
 潜在意識(=哺乳類脳・爬虫類脳)は太古の昔から生命維持の為の働きを任せられて休むこと無く働いています。人間脳(=理性)のちっぽけな力で押さえ込むことはできません。気に障ることがあれば、チョットのことで感情は爆発してしまいます。

④この牛を飼いならそうと思うのなら、ムチを使って、いましめなければならない。**
 牛(=潜在意識)を変えるには、習慣づけしなければならない。身・口・意を使ってムチ打つしかありません。行為を慎み、言葉を慎み、思いを慎む。
 人生で構築してきた行動パターンや固定観念や信条や思い込みや反射的な反応が色々あります。
 人間脳(=顕在意識・大脳新皮質)が潜在意識(=哺乳類脳・爬虫類脳)に変革をもたらすには身体から潜在意識に働きかけなければなりません。
身体を自制できない人がどうして心を自制できるでしょうか。
 いままで動き回って過ちを犯してきたのですから止まることです。とにかく身体をある一定の時間止め続ける。ただただ止まる、止まるままにする。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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十牛図3−2 [気づき]

第3図.見牛(牛を見つける)
頌(じゅ)
うぐいすが枝の上で鳴いている。
春の日は暖かく、風はなごやかに吹き、川岸の柳は青々としている。
そんな光景のなか、見るもの聞くもの、すべてが牛になってしまった。
こうなっては、どこにもこの牛から逃げられる場所はない。
さて、その牛の頭には美しい角がある。
その角を、どんなに上手に描いてみても、本物の美しさには、かなわない。
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 分別の働きが一時的に止まり「あるがまま」を垣間見ることができました。一瞥と言われる体験をしたのでしょう。
 いままで聞き流していたうぐいすの鳴き声がなぜか新鮮に聞こえます。うぐいすの鳴き声をきいて「うぐいす」という言葉は思い浮かばず、澄んだ鳴き声が響き渡っています。一切が新鮮であり初めて地球に降り立ったかのようです。
 陽の光から降り注ぐエネルギーも心地よく身体を暖めてくれます。そよぐ風に身を任せると風になって自分の存在も忘れるようだ。
 柳は生き生きとして生命力に満ちあふれている。見るもの全てが生き生きとして生命感に満ち満ちている。この世界がこのまま続くのだろうか。

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『閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声』
 勝手な個人的な解釈です。惑わされずに自身で考察してみてください。

 閑居な所と想像していたが一歩一歩登って行いくと、蝉の声は止むどころか一層激しさをましてくるようだ。木陰で立ち止まって目を閉じると、四方八方立から包み込まれるようだ。けたたましいくとめどなく蝉が鳴いている。鳴き声は果てるこを知らないようだ。あの小さな蝉のどこにこれほどのエネルギーがあるのだろうか。7年もの間地中で過ごし、一気にエネルギーを発散しているのだろう。潜在意識にしまいこんでいる煩悩も時がくればこのように一気に騒ぎ出す。鳴き声を止めることなどできない、だだおさまるまでほうっておくしかない。

 何処に行ってもこの大音響の蝉の声から逃れることができない、いっそのことこの音と付き合い身体の芯まで感じてみよう。エネルギーのバイブレーションと一体化することで浄化するようだ。
 大音響の蝉の声が響き渡っているということは、この場所から一歩外に出れば全くの静寂であるということになります。
 身体のある部分が痒いということは、他の部分は何も痒くないということです。際立った部分にフォーカスしますが、際立たないところがほとんどであるからこそ目立つのです。気づかない何もない「無」のほうが大部分であり重要だということに気づく必要があります。

 太陽が光り輝くということは、他が全くの暗黒だということです。輝く部分にフォーカスするのではなく、暗黒にフォーカスしなければなりません。
 思考している「わたし」が重要ではなく、思考していな部分こそが全体であってなにもない空っぽであると見抜けるかどうか。

 我々の脳も本来は静寂であるのですが、思考や分別によってけたたましい蝉の声がしているようです。岩にしみ入るようなとは、脳内でいつまでも反響している声が反響することなく岩(=頭蓋骨)を通って消えてしまう。けたたましい騒音であっても、ただひとときの音声(おんじょう)でしかない。
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 一瞥は至福に満ちた世界であったのに、いつのまにかありふれた世界に戻ってしまった。言葉のないダイレクトな感覚であったのに、あらゆるものが概念化されたラベルであり評価をつけてしまっている。あらゆるものは識別の対象となり、あらゆることは知っておきたい。既知によって安心を担保できるというのが脳の癖です。

 すべては牛(=混乱の原因)であり白黒つける対象です。見るもの聞くものは何でもないただの”あるがまま”の自然です。分別する前から存在していて、是非も美醜も好悪も一切何もありません。
 分別心を持ち歩く限り、二元対立(=牛)から逃れる場所はありません。
 哺乳類脳・爬虫類脳の上には人間脳があります。人間脳で想像する角(=本来の自己)を想像しても知性では絵に描いた餅です。
 分別心を捨て去り、心を清浄にしていかなければ垣間見ることはできません。

 戎を守り、定を行い、智慧によって心を清浄にしなければなりません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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十牛図3−1 [気づき]

第3図.見牛(牛を見つける)

①牛の鳴き声が聞こえたので、その声を頼りにたどってみれば、ようやくのことでその姿を見つけることができた。それは、旅人が一方的に探し求めていただけでなく、牛のほうからも近寄ってきたからである。牛も自分を探していた。
②自分の目も耳も、鼻も舌も、体も心も、その感覚のひとつひとつが、牛を見つける手がかりとなった。日常の行動もまた、その一挙手・一投足が、やはり牛を見つけるために必要だった。
③だから、まるで海水に溶けこんでいる塩の味や、絵の具の中に含まれている「にかわ」のように、自分と牛も、同じように分けて考えることはできない。
④まゆ毛をさっと上げて、目をはっきり開いて見つめれば、まさに牛と自分は別のものではないことに気づくだろう。

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①牛の鳴き声が聞こえたので、その声を頼りにたどってみれば、ようやくのことでその姿を見つけることができた。それは、旅人が一方的に探し求めていただけでなく、牛のほうからも近寄ってきたからである。牛も自分を探していた。**
 牛(=混乱の原因)による「葛藤による苦しみ」(=鳴き声)が聞こえて(=気づいて)なんとかして脱したいと思いは募ります。経典では、混乱・葛藤から脱し苦悩のなくなった祖師の言葉を目にしました。自身も寂静の世界で生きてみたいという気持ちが強まります。

 この段階の人は、瞑想や坐禅も試したことでしょう。心の落ち着きも体験することができてきます。たまに頭がすっきるすることもあります。神秘的な体験もあるかもしれません。
 心の落ち着きはいったい何処から来るのか?何処から来るのではなく、牛(=混乱の原因)が静まったのです。心の晴れやかさ(=思考の隙間)を見つけることができるようになってきます。

 何かを得たり何かを掴んだりすることに抵抗を感じることも在ります。唯識で言う末那識(=自我意識)に張り巡らされている思考の隙間から阿頼耶識を通じて世界を一瞬垣間見ることができました。
 一瞥と言われる見性が起こったと思われます。純粋な意識で見えた光景は”あるがまま”の姿がそこにあったことに気づきます。その状態は長くは続くことはなくその時だけで元の自分のままであることにがっかりします。
 牛(=混乱の原因=苦しみ)が無かったら、いつまでも気づくことはありません。詳細な観察によって苦しみという感覚を知るチャンスとして受け取る心の余裕ができています。

②自分の目も耳も、鼻も舌も、体も心も、その感覚のひとつひとつが、牛を見つける手がかりとなった。日常の行動もまた、その一挙手・一投足が、やはり牛を見つけるために必要だった。**
 
 目耳鼻舌身の五感によって感受しただけで終わるならなんでもありません。しかし、無常であること理解することなしに欲望を乗せて感覚を楽しむと終わりのない欲望の連鎖に囚われてしまいます。
 何時までも求め続ける姿は、純粋な幼児の目から見れば取り憑かれた行動のように見えます。

 一心不乱(=三昧)に掃除・料理・犬小屋を作る・草をむしる・風呂掃除等々の日常の行動に没頭しているとき。思考することなく没頭しているときに牛の不在(=混乱や葛藤の不在)を体験します。
 食べている時も何かを考えていたり、風呂に入りながら仕事のことをや同僚の気に入らないことを考えたりしています。これは牛をわざわざ招き入れて自らが苦悩を作っていることを知ることになります。
 自己正当化するには必ず悪者を作らなくてはなりません。考えている対象の人は何も気にしていないのに、今目の前にいないのに勝手に怒っている感情に巻き込まれているということです。

③だから、まるで海水に溶けこんでいる塩の味や、絵の具の中に含まれている「にかわ」のように、自分と牛も、同じように分けて考えることはできない。**

  自身の頭蓋骨の中に収まっている一つの脳なのに二極性が存在しています。苦しみは外から来るのではなく、コツコツと自身の頭の中で勝手に(=自動的に)苦を育てているということです。
 自分とは切り離された事が「苦」の原因だと思いこんでいた。

例えば「わたし」を悩ますのは自身から距離をおいた他人。他人は物理的には外に存在しています。実際は、他人は外にいるのではなく自身の脳の中で取り扱っているのです。牛(=混乱の原因)は自身と分けることのできない自身そのもの(=脳内にイメージとして存在させている)です。

④まゆ毛をさっと上げて、目をはっきり開いて見つめれば、まさに牛と自分は別のものではないことに気づくだろう。**

 朝、目覚めると見るでもなく当たり前のように直ぐに見えます。ただ映像が見えているだけにすぎません。「わたし」がいようがいまいが見えるものは見えるただそれだけのことです。
 当たり前であり、特別なことは何もありません。

 カフカの「変身」にあるように身体がゴキブリとなって目覚めたという小説があります。我々は、日々人間を見慣れているだけであって本来は得体の知れない物体に五感という機能がついているだけのことです。「赤肉団」として生まれ「臓器と骨と肉」となり朽ち果てる運命です。
 一瞬、一瞬に様々な念(=一念三千)を点滅させて生きている。牛も自分も得体の知れない肉団の中にあるということに気づかなくてはなりません。

 自己の感覚器官が働いて経験しているのではなく、あらゆるいのちを生かす「働き」によって自然に働いている。働きに従っている「五感」から受け取った情報を脳が勝手に分別(=自我意識)して分別した結果が言葉として捉えられます。感情を言葉にして捉えている「何か」がよくわからず仮に「わたし」と定義づけます。その定義づけされた「わたし」が思っているとしています。分別している「わたし」は最初から存在していません。

 我(=「わたし」)は、言葉と記憶力によって時間の概念ができると作られる概念だと思われます。本来の自己は触れたり思考するものではなく、あらゆるいのちをいのちたらしめている働き。

 牛(=混乱の原因)は自分で作ったものであり自分そのものであることに気づく。考えれば考えるほど牛は大きくなるのです。黒かった牛はただ見ることによって色が抜けて透明になっていくことでしょう。

 我々は、幻想の「わたし」をいつまでも掴んで離せません。物事の判断した主体として自己確立してきました。簡単には手放せません。
 寂滅は掴めませんが「わたし」は掴めるのです。「わたし」がないと見抜いて、「わたし」に囚われなければ、寂滅であったというだけのこと。



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十牛図2−2 [気づき]

第2図.見跡(牛の足あとを見つける)

じつは、今まで歩いてきた湖のほとりや林の中の、いたるところに牛の足あとはあった。
道ばたには、牛の食べるよい香りのする草(お経や言行録)がたくさん生えているのを見ることができる。
たとえ疲れきって、方角も分からない深い山の、さらに奥深いところにいるとしても、
天に届くほどの牛の鼻は、隠すことはできない。

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 こうありたいと思う自分と現実の齟齬によって、苦しんでいる自分がいます。思い通りにならないということは重々承知していますが、救われたい自分と救いたい自分がいます。救いたい自分は今までの経験や知識で外の世界を知ることができました。自身の経験や知識で、我が身を維持できてきたという自信があります。
 確定していない未知の出来事に不安が募ります。未知を憂えているのではなく、現状を未来に置き換えて不安をつのらせています。現状を解決できない限りは不安を一掃することなどできません。

 一切はによって左右されます。人生で確実なことは死以外には見当たりません。何が起こっても不思議ではないのに、起こってほしくないことばかり。悩みは尽きません。
 悩んでも悩まなくても一日は一日として過ごしてきました。いつでも目の前の現実が刻々と展開しています。
 過去の記憶にも身体にも一切囚われずにただ在る。誰にでも、姿形などない「ただ純粋な意識」だけがある。純粋な意識そのものとして気づいて「このようにある現実」だけを見る。「このような現実」において、純粋な意識には何一つ欠けたり余計なものがあったりということはないと思われます。

 頭に思いがよぎり「こうありたいという理想」と「現実」を比較して、現実を受け入れることができなければ「悩み苦しむ自分」という幻想(=悩んでいる自分)を出現させることになります。
 一切は留まることなく生滅変化して粉々に分解されて遂には消え去る。縁によって周縁和合して何かとなって現出する。

 得失に悩む人、比較にこだわる人、期待する人、固定観念の強い人、病や死を受け入れない人等は無常を理解しなことには決して解決できないのではないでしょうか。自らがスーパーマンか神にならなければ達成できないような事です。心のどこかで全能の神になれると期待しているかもしれません。

 悩んでいる自分がいるという幻想に気づくことができたということがスタートです。悩み苦しむ本体の牛が残した「牛の足跡」がしっかりと心に刻みついていることを確認できました。
 牛(=混乱の原因)は草(=お経や言行録)を食べれば一時的に満足して大人しくなるようです。はっきりとした姿が見えない牛であっても、自身の身体を日々守っていてくれている。日々の行動は潜在意識(=無意識)によって監視・制御・保持されています。

 我々の身体は内分泌系・免疫系・神経系からなっており殆どが大脳辺縁系と脳幹であり、自らの意志で直接統制できない部分によって維持されています。大脳新皮質での思考は微々たる働きでしか無いのに、論理的思考があたかも身体を操っているかのごとく錯覚しているようです。
 牛(=哺乳類脳・爬虫類脳)の鼻の一息一息によって生かされていることは、隠すことのできない事実であると認識しなくてはなりません。 

坐禅によって、何も考えないということはできない、ということに気づきます。
身体はただ坐っていて何もしていないのに、落ち着かない。身体のあらゆる所に注意が注がれ気になっている、ということにも気づきます。
 思考も身体も大脳新皮質ではどうにもならないということに気づくことです。脳が身体に変化をもたらすのではなく、身体が脳に新たな変化をもたらすということです。知識や思考でできることなら、悩みなど解決できているはずです。思考によって「混乱を無くす」どころかかえって「混乱を増幅」することに気づく必要があります。
 
<参考>
 視床下部は、脳の間脳(かんのう)にあり、自律神経の調整及び内分泌機能を総合的に調節することで、生命を維持し、生体活動の恒常性(ホメオスタシス)を保っています。自律神経に指令を出し内臓の働きや代謝機能をコントロールし、脳下垂体に指令を出しホルモンの分泌をコントロールします。
 また、視床下部は、感情や情動の活動と密接な関係があり、心と身体をつなぐ中継地の働きもっています。生命維持に欠かせない基本的な欲求や感情を産み出すので、生命の脳とも呼ばれ、視床下部もまた、極めて重要な器官です。


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十牛図2−1 [気づき]

第2図.見跡(牛の足あとを見つける)

①お経によって仏法の意味を理解し、教えを学んでようやく牛の足あと(自分を知る手がかり)に気づいた。
②お経を読むと、どんな形の器でも、もともと同じ金属でできているように、あらゆるものの存在が自分とつながっている、ということが分かる。でもそれは、お経に書かれてあることを理解できたというにすぎない。
③何が「正しく」て、何が「間違い」なのか、はっきりとわきまえることもできないのに、お経に書かれていることを鵜呑(うの)みにして、本物と偽物をどうして見分けることができるだろうか。
④自分の頭で考えていないこの段階では、まだ禅の門に入っていない。(牛そのものを見つけていない。)とりあえず、「足あとを見つけた」ということである。
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①お経によって仏法の意味を理解し、教えを学んでようやく牛の足あと(自分を知る手がかり)に気づいた。**

 「本来の自己」は自己そのものであり、何処かに探しに行くものではありません。お経には祖師からの教えが書かれていますが、全てが自身の為に書かれたものではありません。得るとか掴むことのできない心である牛(=無意識)を探さなくてはならない。
 雑念が次から次へ湧いてくる自身がいる。これが今の自分自身である。混乱している自分自身は「本来の自己」であろうか?自分を客観的に見ることができたということは牛(=混乱の原因)の存在(=足跡)に気づくことができた。

②お経を読むと、どんな形の器でも、もともと同じ金属でできているように、あらゆるものの存在が自分とつながっている、ということが分かる。でもそれは、お経に書かれてあることを理解できたというにすぎない。**

 同じ時代であっても、同じ人生を生きている人などいません。しかし、我々は同じヒトであり同じ脳の構造をしています。本能である煩悩につき動かされ悩み苦しんでいます。誰にでも等しく仏性があるにもかかわらず、清浄な心となっていない自我を通して反応しては苦しんでいます。「衆生本来仏なり」

 ヒトが異なる社会状況に存在してても思い巡らすことは同じようなことです。五感や五蘊の働きは同じであることは変わりようがありません。お経に書かれていることを読んで己と照らし合わせて理解不能なことはありません。しかし、ただの言葉で書かれたことであり知識として理解したにすぎません。同じ五感を持っていながら分別に振り回されている人と、非思慮の人がいます。同じ目であるのに、単に煩悩のフィルターを通して分別しているということに気づけるかどうか。

③何が「正しく」て、何が「間違い」なのか、はっきりとわきまえることもできないのに、お経に書かれていることを鵜呑(うの)みにして、本物と偽物をどうして見分けることができるだろうか。**

 あらゆる事象に対して判断するのは、己の知識や教育や経験に基づく「観念」です。この勝手に作り上げた「観念=思い込み=身びいき」で正否を判断しているにすぎません。お経は世俗諦の観念から離れニュートラル(=中道)な目で現象を観察できるように導いています。
 我々が「三つ子の魂」と言われるものを持つことで、真実から離れた誤ったものの見方(=フィルター)で見ているということです。

 この世は「思いの通りにはならない世界」なのに「思いの通り」を願って自らが自らを苦るしめています。この世(=現実)と脳での妄想(=こうなって欲しいという願望)にギャップがあることをどうしても認めたくない己(=自我)の声によって葛藤し混乱して苦しんでいます。これも自己保存の当たり前の本能(=潜在意識)の強制力のなせる力です。

 老いる事のない「いのち」、病にならない「いのち」や死ぬことのない「いのち」など一つとしてありません。自然の有り様を理解せずに脳はただ生存したいと自然の営みが自身に当てはまることを認めたくありません。いくら本能(=爬虫類脳・哺乳類脳)が逆らっても、我が身が生まれたからには「老病」に従わざるをえません。「死」も自然なことの些細な一つの現象です。

④自分の頭で考えていないこの段階では、まだ禅の門に入っていない。(牛そのものを見つけていない。)とりあえず、「足あとを見つけた」ということである。**

経典にかかれていることを学んでいるだけで、学んだことを体験して智慧を育んではいません。「本来の自己」が自己と離れた経典の中にあると思っています。言葉や知識で解るはずだと思いこんでいます。
 今まで生きてきて思考を使って成し遂げてきた。これからも思考によって成し遂げられるという思い込みから離れられません。何時までも知識だけが頼りであり知識に依存しています。実践よりは聴聞によって得たほうが簡単なことである。
 他人の智慧を拝借して頭で了解しても腑には落ちないと思います。心底納得することはないようです。足跡を見つけたことは、ただの案内書を読んだに過ぎません。牛(=混乱の原因)そのものはまだまだ見つけられていないことを承知しておくことです。「門より入るものは家珍にあらず」をよく理解する必要があります。


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