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一切顛倒ー5 [仏道]

 人生はなるべく「苦」は少なく、「楽」に生きていきたい。裕福な家庭に生まれ苦労なく贅沢に暮らしていくのが最高な人生だ。好き勝手に生きることが幸せ。
 老人になっても欲丸出しで生きる。何歳になっても、自分の頭で考えて行動していけば人生は楽しくなる。
 残念ながら、すべてが顛倒しています。これでは「自我=嘘・偽り」の思うがままであり、進化しません。

 お釈迦様のエピソード「四門出遊」では、東西南の各門から出て「老病死」という「苦」を目の当たりにします。最後の「北門」にいた旅の修行者の平安を見て出家を決意し、「寂滅の道」に進むことになりました。

 「」によって、「私は誰か?」という疑問を真剣に考えさせられることになっています。進化のチャンスである「苦」に直面しているにもかかわらず「苦」を避け、意図的に「見ないふり」や「苦から逃げる」ことをします。しかし、同じような「苦」がさらに大きくなって降りかかってきます。「苦」を意図的に望んではいけません。

 なぜなら「苦」は自我の「あるがままの世界の拒否=自我の欲望を実現したい=二元の世界」による「あるがまま」との「ギャップ=苦」がほとんどだからです。「自我」が作っている「嘘・偽りの世界」を見破らない限り何度でも「苦」は起こります。成長するための試練です。
 
 意識を最大限に働かせ「苦」に対峙し克服する過程で意識の進化が起こります。
 「苦」には「自我が自作する試験問題」と「宇宙意識・空・仏性など皆同じ、による試験問題」があるように感じます。

 真の強者とは、いかなる「苦」が降りかかってこようとも、逃げも隠れもせずに心身を「苦」に委ねます。女性は出産に当たって腹を決め、我が身を投げ打って出産しています。男性には及びもつかないたくましい肝があるのではないでしょうか。
 一方、人生の弱者とは、「苦」に遭遇する前に「安全」な道を用意して「苦」を事前に回避しています。もし「苦」と分かれば早々に尻をまくって退散するか、身代わりをたてその場しのぎする人です。何とか知恵を絞って悪あがきするのです。

 「苦」には、命を懸けるほどの一大事から些細なことまで様々です。肉体的・精神的・経済的・家庭的とバラエティに富んでいます。
 死別・病気・老化・離婚・離職・精神疾患・破産・倒産・いじめ・差別・侮辱・陰口・酷評・世間体・虐待・火事・水害・地震・戦争・停電・断水・詐欺・・・同じ状況でありながら、「苦」と認識し落ち込む人と避けられないことが起こっただけと捉える人など程度も様々です。

 耐え難い「苦」に直面していても、「苦」などどこ吹く風のごとく泰然自若としていたいものです。いつまでも「苦」がつづくわけでもなし、全てが移ろい変わっていくのが人生です。人生を川に喩えれば、「苦」は急な流れに出くわしただけのことなのです。

 「苦」を多く体験するはめになるのは、あれもこれも「自己同一化」してしまうのが原因のようです。「自己同一化」によって「自我」が大きくなり、些細なことでも「苦」に置き換わってしまいます。
 すべての所有物が「私の~」で満ち溢れています。この装飾品は「私の頑張ったご褒美」でとても愛着がある品です。すべてに自分で作った「品物に対しての物語や妄想」です。自己同一化することで、あたかも体の一部であるかのように愛着を抱いてしまいます。全ての物質や機械は劣化し壊れるのが当たり前です。早めに劣化や故障が訪れただけの話です。車が少々傷つけられようがあなたの身体ではありません。そのままでもよし修理しても良し怒りを起こすほどの事でもないでしょうに。
 しかし、車と自己同一化している人は自分の身体が傷つけられたかのように烈火のごとく怒り「苦」となり己を苦しめることになります。傷つくのが少し早まった程度のこと、走りに影響することは無い、それで終わりです。

 できることなら自己同一化を宇宙大まで拡大して、あらゆる物事が私であるとするならば自他の区別が無くなり、遂には所有の概念さえも無くなるところまで到達すればいいのですが。残念ながら、「己」の出費した代償である所有物でしかないとのちっぽけな思考に留まっています。

 物だけでなく、家族やアイデンティティ(国籍・出身地・出身校・体型・性格・性別・知識・知能・運動能力・容姿・ファッション・情報処理能力・家系・宗教・信念・観念・愛読書・友人・・)さえも自己同一化による所有物としています。
 「自己同一化=自尊心=心の拠り所」した対象を比較されたり、卑下されたり、見下されたり、利用されたり、傷つけられたり、叱責されたり、差別されたり、無視されたり、グループを作ったりすることで「苦」から逃れられないことになっています。

 「自分=自我=苦を作る」がかわいい、「自我」が常に優位に立っていたい、他を征服して気持ちがいい、「己」の思い通りにできる喜びを感じる、ストレスを発散できる、自己証明や自己確認をしたい。何かを為している「私」が存在しているという存在確認。他とは違う「特別な私」という自己主張。

 「自我」は「苦」を作ることによって、「自我」の嘘を見破られるかそのまま生き抜いていけるかの「賭け」をしているのです。「仮の自分=自我」が「本来の自分」をだましていることに気づかなくてはなりません。

 他人を苦しめても意味はありません。強者なら、他人に打ち勝つよりも己の欲望や執着に打ち勝つ方がいかに大変かわかると思います。自分の中の「仮の自分と本来の自分」とのせめぎ合いは、他人には一切わかりません。己の内の「自我=嘘」を見抜く(照射)ことこそ「勝者」といえます。十牛図の牛が自我です。
 十牛図の第1図「尋牛」で、頭の中でお喋りしている誰か「自我」がいることに気づいている「私」は、あたりを見渡し「自己」の内面へと探究の旅に出かけていくのです。

 自らが「苦行(意味のない身体への仕打ち)」を好んで実施するのは自我の罠です。「苦行」を達成したと言う自尊により自我の強化と自我の隠れ蓑(精神的達成による逃避)に利用されます。
 真の「苦行=空行=空へと至る行」とは、自らに降りかかった「苦」を受け容れて学ぶことです。自我のあがき(執着や欲望)を冷静に観察し、巻き込まれずに離れ「自我」を退ぞかせるのです。十牛図の第8図「人牛倶忘」参照

ーーー
 「苦」をことさらに怖がっていては、進化することができません。実体のない「幻想=思い込み」の自己同一化をひとつひとつはぎ取っていくことです。「苦」を真剣に観察し、「苦」が進化のステップだと信頼することです。ありがたく喜んで経験させてもらい「学ぶ」ことです。
 あなたが「苦」と向き合っていることには誰も気づきません。内面の葛藤なのです。打ち勝つには意識的に観察することで、「苦」は幻想であると気づくことです。「苦」を振り返って見れば「幻想」ではないでしょうか。

 「病気」が癒えて、普段の何気ないことに感謝したことはないでしょうか。「歩ける」ことに感謝したり、「食べれる」ことに感謝したり、「見える」ことに感謝したり、「手が動く」ことに感謝したり、「呼吸できる」ことに感謝します。感謝した瞬間に「今ここ」にいたのです。感謝には自我は働くことができません。

 なんで「苦」があるのか納得いかなければ、内なるマスターに問いかけてみてください。答えが来るまで放っておく(信頼と勇気が必要)ことです。「自我=幻想」が作ったのだから幻想であるに決まっています。戦わずして勝つことが最も優れた勝利です。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


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一切顛倒ー4 [仏道]

 知識を自慢する人は、「記憶量」と「想起スピード」だけが「己」の拠り所となっています。「知識量」はクイズ番組では、優れた能力の一つですが能力を判定する全てではありません。高学歴ということは、知る必要のないことまで「知識」としてため込んでいることを自慢すること。いまだ大学入試では「知識」を詰め込んで吐き出す「記憶量」の試験ががほとんどです。近い将来はAIの進歩により「記憶」無意味さがより顕著になっていきます。「寂滅」の道においては「知識」が少ない方が速く進みます。

 「本」で調べることが出来れば、「本」に書いてあり「本」を見て確認すればいいだけのことです。「本」の隅々まで「記憶」する必要があるでしょうか。
 「記憶力」の試験だけで大人になったとしても「記憶」にない緊急事態にスムーズに対処できるか疑問です。「記憶量」と「想起スピード」は、他人と比べ誇ることのできる「能力」であるとみなされています。「記憶」は「私」であり「私」たらしめています。

 「記憶量」を後生大事にしている間は、「寂静」から遠く離れたままです。1テラのハードディスク(5千円程度)で10,000冊(小さな図書館)の情報量が「記憶」できます。また、電子辞書なら2万円程度の商品があります。「記憶力」を誇っている人でも電子辞書の「記憶量」には及びもつきません。
 誇らしげに「記憶量」を自慢していても数万円の商品以下でしかありません。
記憶=過去」を大事にしていることが顛倒しています。

 「記憶」は何のために使われているのでしょうか。
 「私」という自己証明(アイデンティティ)を確立するために「記憶」に依存しています。どの国に生まれ、どの土地に生まれ、どの家柄に生まれ、どのような親に育てられ、どのような信条があるか、どのような宗教や宗派に属しているか、どのような親族か、どのような成績だったか、どのように道徳的か、どのようなものを食べていたか、どのような方言か、どのような体型か、どのような学歴か、どのようなスポーツが得意か、どの程度の運動能力か、どのような職歴か、どのような会社に勤めているか、どのような地位か、どのような仕事か、どのような土地で、どのような家に住み、どれくらいの収入で、どのような生活で、どのような趣味で、どのような人とつき合っているか、どの程度の権力があるのか、腕力があるのか、・・・数えきれなほどの自己証明の数々、どうでもいい自己証明をたよりに「私=自我」が構築されています。

 「私=自我」はできるだけ多くのカード(自己証明)を持っていたいのです。
 「自慢」という慢心があることによって、「己」を観察することが出来なくなります。「私=自我」を強固なものにしているだけです。「私=無我」であることの発見を遅らせることになり自己欺瞞、自己保身を強化させるだけです。

 「寂滅」には「自己証明」など一切不要です。「誰でもない・何者でもない=無我」を知覚するには、「自己証明」など捨て去っていなければなりません。あなたの過去に興味があるとしたら、真なる指導者ではありません。人種や国や学歴や年齢や男性か女性かなど、バカバカしい不要な証明でしかありません。

 目立ちたい(何者かでありたい)がために、日本まで来て「嫌がらせ」の映像を公表したり、大声でスポーツイベントを妨害する人もいます。小学校4年生と同程度の「子供じみた」映像を見ている人の感覚は大丈夫でしょうか。
 また、生きていることを実感したいのか「すごい」と言われたいのか、「特別」を実証するために命の危険も顧みず様々なことにチャレンジする人もいます。

 「インスタ」映えということで、自尊心を満たし、ひけらかすための消費は「自我」が最も喜ぶことです。「寂静」とはほど遠い「騒動・混乱」を起こして愉快になっています。成長にとってはかえって大きな回り道になってしまいます。
 過去は消え去っています。過去の「私」などどこを探しても見つかりません。「記憶」である過去に別れを告げてください。「今この瞬間」以上に価値あるものはありません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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一切顛倒ー3 [仏道]

 「自我」は「いのち」を守るために、限られた些細な情報をもとに日々獅子奮迅の活躍をしています。受け取った情報や頭の中で構築した「思考」を使って、あたかも最善の選択であるかのように白黒をつけています。

 すべての思考は「いのち」の継続のために自己愛、自己保身、自己保存を常に考えています。休むことなくけなげに働いています。せっかくこの世に「いのち」を授かったのですから、従順に「いのち」を繋ぐシステムに従っています。この自己保身システムに組み込まれているプログラム通りに「いのち」の保護と安全確保に徹しています。この「苦」から回避するプログラムの主体となっているのが「私=自我=思考」です。

 「自我=思考」は単なる「いのち」の保身のために作られましたが、肉体や感覚や感情や判断を統合した「私」という「概念」を作り出しました。
 「私」は「言葉」を使って現実を解釈することができ、他人に意思を伝えることもできるようになりました。
 「言葉」によって意志を都合よく構築することができるようになりました。「私」は頭の中だけの「概念」や「言葉」を駆使することができます。頭で作られた「私=自我」の「意志」によって自らが行動します。

 「思考→意志→行動」が何度も何度も繰り返される中で、「概念」でしかなかった「自我=私」が主体であると勘違いしてしまったのです。何度も何度も繰り返すことで疑うことのないほどの「私」が確立されました。

 「己」の肉体は、ある程度意思通りに動きます。完璧には制御できないまでも歩く・立つ・伸ばす・曲げるなど肉体を操ることができます。「己」の感覚もある程度実感できますが、制御はできません。感覚は常にオープンであり感覚を遮断したり使わないように制御はできません。
 常に「あるがまま」を感受しています。「自我」が勝手に思いを働かせ都合のいいように解釈をして「苦」を作っています。

 「自我」は体験されたことに対して「概念」からなる「言葉」で表現します。「己」の感情である「喜怒哀楽」なども「概念」を使って、ある程度「言葉」で表現できます。「己」の判断も二元対立の「概念」によってある程度「言葉」で表現できます。「言葉」ではある程度でしか表現できません。

 肉体や感覚や感情や判断は「ある程度」の動作や表現しかできないのです。「自我」ができることなどささいなことでしかないのです。「雨粒」の一つでさえ降らせることもできません。花の種を蒔くことはできますが、花を咲かせるのは環境と花自身の「いのち」の力です。「自我」は自然に働きかけているのではなく、自然の客体なのです。

 「自我」は「私」という狭い「概念」の中で必死に自己主張しています。「私」という実体があるかのごとく振る舞っています。本来は実在していない「概念」だけの「私」なのに、あいまいなまま「私」と言っているだけです。我々の共通認識である「私」という「概念」で通じ合っているだけのことです。これが顛倒です。

※「私」は辞書では、一人称・話し手、自分
-----
「私」に問いかけてみてください。
Q:5歳の時の肉体は「私」そのものでしたか?
A:それはまさに「私」でした。
Q:5歳の肉体はどこにありますか?
A:もうこの世には存在しません。5歳の時の「私」の肉体など今は存在していません。

Q:それでは、今の「私」は5年後、1年後、1か月後、1日後、1時間後、1分後、1秒後も今のまま存在していますか?
A:もう今という瞬間は過ぎ去ってしまっているので、瞬間瞬間に全く同じ「私」など存在しません。確実に消え去っています。
 もし、全く同じ「私」が存在しているのならだれも「生まれたままの赤子」のはずです。
 すべてが変化するということは、何かが生まれ何かが消え去ることです。今生きている地球上で変化しないものはありません。

Q:「私」は常に変化して、消え去っているのです。それでは、今まで使っていた「私」という一般的な「概念」のままでいいのでしょうか? 実体があると勘違いしたままでいいのでしょうか?
A:真理ではありません。「私は、瞬間瞬間変化しています。前の私は完全に消え去っています。一瞬前であっても全く同じ私は実在していません」と新しい認識にしたいと思います。パラパラ動画のように前の1枚は消えてなくなっています。新しい1枚も次の1枚もあらかじめ存在していません。
 常に新鮮で予測できないパラパラが展開されています。ただ、起こり続けているだけなのです。

Q:我々が使っている「私」という「概念」は、一般的に通用する「概念」を便宜上使っているということですか?
A:そうです。一般社会生活では、他人とのコミュニケーションをとる便宜上「私」という共通「概念」を使わざるを得ません。
 しかし、正しく見るなら「私」はどの瞬間をとっても確固たる実体はないと理解すべきです。変化し続けている「私」という「言葉」であって「概念」でしかありません。本質は実体のない「空」でしかありません。

 「花」も、「瞬間瞬間変化して躍動している花」です。「鳥」も、「瞬間瞬間変化して躍動している鳥」です。すべての「言葉」には「瞬間瞬間変化して躍動している○○」と認識しなくては正しく見ることはできません。常に現在進行形です。また、それぞれが実体のない「空」であることも気づかなくてはなりません。「無常」であるものには固定永続する実体はありません。
―――

 同様に、肉体を感覚、感情に置き換えて問いかけてみてください。何もかも存在していない「空」なのです。

 「私」は単なる「概念」であり、「私」と思っているものには実体はなく瞬間瞬間に消え去っています。我々も我々の認識している対象も確固たる存在なく「空」であり、瞬間瞬間を共に起こり続けるだけです。

 「私」が不在であっても、すべてはただ起こっています。見るのは「私」ではなく、「見る」が起きている、聞いているのは「私」ではなくて、「聞く」が起きています。あらゆる事象は「私」が居なくても(私が思考していない)ただ起きているのです。

 私たちの理解できない言語(例えばフランス語)を聞いたとします。人が話したのに意味の通じないただの「音」でしかありません。しかし、日本語を聞くと意味をくみ取ろうと必死になります。もし、ここに書かれた言語がハングル文字やアラビア文字であったらただの記号でしかないのです。「自我」は意味を探り、なんとか意味のあるものにしようと必死にあがくのです。

 私たちの目の前に見えているこの瞬間の出来事があります。たった0.001秒のこの瞬間をすべて「言葉」で表現して他人に伝えることが出来るでしょうか?
 目で見えている次の瞬間のすべて、さらに次の瞬間のすべて、さらに次々の瞬間瞬間のすべてを「言葉」で表現できるでしょうか。瞬間瞬間を切り取り、頭で処理(解釈)して「言葉」で表現することは不可能なのです。ただ起こることをそのまま受け取るしかないのです。

 瞬間瞬間に起こっていることに対して思考して解釈するなど「不可能」なのです。しかし「自我=思考」は、何とか答えを出そうと努めます。思考の対象は「過去」のものであって「今の瞬間」ではありません。「過去」とは消え去ったものです。実体のない「空」を思考している思考も実体のない「思考」です。「空」に対して思考を使っても、答えは意味の無いものです。

 「自我」が存在に対して判断するということが、途方もない馬鹿げたことだと理解できていない証拠です。人間の視界の範囲で宇宙全体を判断して思い悩むようなものです。

 過去に対して「思考」することは「苦」を作り出すだけのことです。過去を思うことで「後悔や復讐や執着や憎しみ恨み」が「苦」となって襲い掛かります。馬鹿にされたと思うということは、自分の劣等感を指摘されただけです。劣等感の元になっている「こだわり」を持っていた過去の「己」はすでに存在していません。「こだわり」もただの「記憶」です。役に立たない「記憶」として取り合わないようにすれば消えていきます。消そうと思わずに、「そんなことがあったのか」と気づくだけ消えていきます。他人事のように「遠い昔のこと、価値のないもの」として気づくだけでいいのです。
 「過去」は何も存在していないということに気づき、すでに無くなっていることに悩む意味がないということに気づくことで消え去ります。

 耳で聞こえていること、肌で感じていること、体調、雰囲気、空気感、呼吸、瞬き、舌触り、唾液、足の具合などなど、表現され得ぬ表現を超えたとてつもないことが瞬間瞬間に起こっては消えています。
 この壮大なる存在に対して、限られた「自我=思考」でしかありません。何十万語しか持ち合わせのない人間の語彙を使って、どうして「思考」が全てを受け取ることができるのでしょうか。また人間の語彙で「思考」して表現することができるのでしょうか。

 「自我」ではオーバーフローしてしまうのは自明です。これから先にAIが実用になり、存在の一瞬をカメラでとらえたとします。AIに対してその一瞬を言葉で表現しなさいと命令します。どんなにAIが進化してもと「見る→思考する→語彙選択→表現する→表示する」と次から次へ瞬間瞬間の処理はとてもできるはずはありません。AIもギブアップすることでしょう。人間より優れた「思考」のAIでさえ表現できないのに、「自我」が存在の一切を受け取ることなどできません。あるがままを受け取るには、根源なる実在に委ねるしかありません。

 「自我」は大いなる存在にギブアップするほかありません。壮大な風景を見て「言葉」では表現できない(思考が停止)ことを体験した瞬間があるはずです。数秒後に乏しい語彙の中から絞り出した賞賛の「言葉」で「素晴らしい、感動した」で終わらせてしまいます。  

 「自我」は壮大な存在に完全に圧倒され敗北しているはずです。「自我」を明け渡さなければならないのです。
 山に登らなくても、庭の木々や公園の木々や小指ほどの花でさえ表現を超えた存在なのです。我々の眼前には、「自我=思考」の範疇をはるかに超えた存在が瞬間瞬間に広がっているのです。

 「自我」をそのままに、存在の一部に成り下がってはなりません。コペルニクス的転回が必要です。主体から客体となり大いなる存在に混ざり溶け込み存在そのものである主体そのものに成ることです。「抵抗」している「自我」は「言葉」での表現が及ばない存在へと混ざり「言葉」を捨て去り、「言葉」の無い存在へと溶け込み存在と一体となる。
 ただ受け取るだけ、頭を使って判断しないこと。存在とともにあり続ける。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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一切顛倒ー2 [仏道]

 「抵抗・摩擦」がゲームオーバーのための「マスターキー」の一つです。「抵抗」がいかなるものかを知れば、根源に戻るヒントが見つかるはずです。「抵抗」を知りつくし「抵抗」から抜け出さなければなりません。

 「抵抗」はエネルギーを生み出し、生きていることを実感させてくれる。「抵抗」が大きくなるほどエネルギーが必要になる。エネルギーを使えば使うほど生きている実感が感じられる。「私は生きている、私は闘っている、私はエネルギッシュだ」。「抵抗」は顛倒している。

 宇宙には「抵抗・摩擦」がない。宇宙のほとんどが「沈黙」であり、ほとんどが「空間」です。音も香りも味も何もないない「味気ない空間」である「空・無」がほとんどすべてである。宇宙空間の中で、音や香りや味や人や植物に出会うことは「奇跡」でしかない。我々の現前で、今の瞬間でしか味わえない現象が繰り広げられている。

 雨粒一つが「奇跡」、頬をなでる風が「奇跡」、鳥の鳴き声が「奇跡」、葉の落ちる音さえ「奇跡」、一筋の光が「奇跡」、数えきれない「奇跡」に出会っているのです。宇宙の全体を知ることに何の意味があるというのでしょうか。今この瞬間に「奇跡」の現場に居ながら、一体何を望み何を叶えれば満たされるのでしょうか。今この瞬間の「奇跡」を見逃し続け、この「奇跡」の連続より価値のある何を望んでいるのでしょうか?

 内なる「沈黙・空間」と一体になりましょう。目で音を聞き、目で味わい、目で質感を感じ、耳で情景を見る、耳で質感を感じ、耳で味わう、舌で見る、舌で音を聞く、・・・すべてを試して「奇跡」に出会い「奇跡」と共にあるのです。

 宇宙の深遠な沈黙の中にありながら、宇宙で地球上だけしか音が奏でられていると。地球だけで「響き渡る音」を聞き分けてみてください。その音には何の意味もありません。宇宙でただ一人あなただけが感受した「音」であり、その「音」は瞬時に消え去り「空・無」となっていることに気づいてください。
 「音」を手放して、何も探そうとはぜずに内なる「沈黙・空間」に出会ってください。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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一切顛倒-1 [仏道]

 自由とは思い通りにできることではない。自由とは自由を放棄することである。これは不可解であり理解し難い。顛倒しています。
 自由とは「自我」の束縛から自由となることです。「自我」から自由になれば「自我」の思い通りにはなりません。「自我」の自由を放棄するのです。「自我」の勝手な「思い」を放棄するのです。
 真の自由は「自我」の不在により達成されます。

 「自我=思考」が生ぜず「自我」の「思い」を無くすことで「自我」の囚われから自由となることです。
 「自我」の「思い」は放棄されたのです。「自我」がいなくなれば、この世で何かを達成すべきために「自我」が働きかけることはありません。「自我」というプレーヤーが不在となります。
 「あなた」は実在に委ねることで「自我=主体」が退き、実在が主体となります。委ね任せることで、あるがままの実在そのものとなります。

 「自我」が「自我」として存在している証しとしての「特別」を捨て去るのです。
 「こだわりを持った私」を放棄するのです。「自我」は「記憶」だけで成り立っています。「過去」は既に消え去ってしまっています。過去のアイデンティティにしがみつくのは止めて、とっとと別れを告げるのです。
 もともと「特別」な誰かなどいません。「特別」は「自我」が作り出した「自我」だけの幻想です。生まれたばかりのただの人となり、すべての実在と同等となればいいのです。

 「自我」を保持したままで無に等しいだけの存在となるか、それとも存在そのものとして生きていくのか。存在と分離したままで生き続けるのか、分離なく存在そのものとして生き続けるのか。

 「思い」は現実となるという謳い文句の誘惑は、「この世で永遠にゲームができますよ」という宣言をしているようなものです。「思い」を抱き、この世で運よく願いがかなったとしても、次の生で同じようになるとは限りません。違う経験をする筈です。成功率数%の確率が何度も何度も続いたらゲームの意味がありません。
 人間世界で、あらゆる体験をし尽くさなければ、ゲームオーバーにはならないのです。「思い」を抱き続ける限り「自我」の「欲望」は叶うかもしれません。しかし、ゲームでの通過点である「老病死」という点は必ず通過しなければなりません。

 「思い」が実現となり裕福になったとしても、たかが知れたものです。裕福になることはすばらしいことですが、「思い」を持ち続けていてはいつになっても「静寂」が訪れることがありません。
 リゾートで寛いでいるようですが頭の中は実現させたいという「思い」が荒れ狂ったような嵐のごとく吹き続けています。寛いだ気分でありながら真の楽しみは束の間の出来事でしかありません。
 願いが叶い喜ぶのは一瞬であり、「自我」はもっともっとと次から次へ願い求めます。際限なく「思考」を活動させています。
 
 無意味な「思考」のゲームから脱し「空・無」へと帰還しなくてはならないのです。「自我=思考」の罠にはまって足止めすることのないように気をつけたいものです。
 知らず知らずのうちに自己正当化の罠にはまってしまわぬように細心の注意が必要です。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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