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荘子ー6 [気づき]

 あるとき庖丁(ホウテイ)が文恵君のために牛を料理したことがあった。

<略>

 これを見た文恵は、「ああ、みごとなものだ。技術もここまでくるものかな」と嘆息した。
 すると、庖丁(ホウテイ)は刀をおいて答えた。
「私が好きなのは道でありまして、技術以上のものです。私が牛の料理をはじめましたころは、目に映るものは牛の姿ばかりでした。ところが三年後には、牛の全体の姿がまるっきり目につかないようになりました。

<略>

これを聞いた文恵君は、感にうたれていった。「なるほどすばらしいことだ。わしは庖丁の話を聞いて、養生(ヨウセイ)の話を聞いて、養生の秘訣を知ったよ。」

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P204 下段」養生主篇

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 庖丁(ホウテイ)が到達した境地は、意識的な作為なく無意識で行われています。今で言う「ゾーン」のようなものかもしれません。老子の「為すなくして、為さざる無し」の境地かもしれません。
 作為を持って意図的に働きかけ、自身の思いの通りにしようとするということ。自身が主体であって、”こうあるべきだこうしたほうがいい”が最優先することで葛藤することになります。自身が現象に従いさえすればあえて作為する必要はないと思われますが、自身の力で現象を変えられるという前提であれば葛藤から脱することは難しいと思われます。

 自身は自身の平坦で安定していたいという基準(=固定観念)があります。しかし、固定した基準は柔軟に対処できません。湖や海の表面は、自然に起こる風雨や干満によって必ず波立つことになります。自然現象の力は個人の力を遥かに超え、太刀打ちできるものではありません。
 昔の人が真剣に雨乞いをしていたことを笑うかも知れませんが、それが無知だったという証拠です。
 猛暑を人間の力で抑えることはできません。現代では、ありがたいことにエアコンの効いた部屋で過ごさせていただくことができます。起こることには贖えないことを悟らない限り、常に葛藤と隣合わせに生きなければなりません。
 
<無為の実証例>
 包丁と魚:三枚に卸す。
 サーフィン:波と一体となる。
 卓球:ラケットが自身の体の一部となり自由自在に操れる。
自転車(達人になるとハンドルもブレーキも不要となる)
 最初は補助輪⇒補助輪なし⇒手放し⇒ハンドルもブレーキもない一輪車⇒一輪車で曲芸
ソロバン(達人になるとソロバンは不要になります)
 足し算・引き算ー掛け算・割り算ー暗算
ピアノ 叩くー打つー弾くー奏でる
合気道 殆ど触れずに相手の攻撃力を利用して投げ飛ばす
柔道  組んだ瞬間に投げられている
馬術
 乗る人と乗られる馬がいます⇒乗る人の意のまま⇒乗る人も乗られる馬もいない(人馬一体)
水泳 水の中でもがいている⇒水を捉える⇒水と一体
ヌンチャク、バトン、竹刀、弓、鉄棒、BMX、ローラースケート
サーフボード、バイク、自動車、重機、飛行機、電卓、ラケット、ボート、スキー、スケート靴、カヌー、ハンググライダー、サッカー、ボーリング、カーリング、各種楽器、職人・・・等々

「下手な大工は道具と喧嘩する」「弘法筆を選ばず」
「稽古とは一より習い十を知り 十よりかえるもとのその一」
「千日の稽古で技を習得し、万日の稽古でその技を練り上げる。」

  「身体や心や思考・アイデンティティ」が「私」というのは、社会生活する上で必要なレッテルです。生活する上でアイデンティティを明示することでスムーズに生活できることは否めません。

「私=身体・心・アイデンティティ」だけが活動しているのではなく、常に「本来の自己」とともにあることを見抜くこと(=一瞥)。限定(=死)された「私」だけではないと気づけば、年収を比べたり、知識量を比べたり、会社での役割を比べたり、スキルを比べて競ったりすることだけが人生ではないと気づくかもしれません。
 あらゆる「存在」の本質的根源は一つであり、比較することに意味がないことに気づくかも知れません。闘ったり羨んだり憎んだりすることにも意味がないと気づくかも知れません。世間で言われている幸福を、必要以上に求めなくてもいいのだとの認識にいたるかも知れません。平凡な日常で満たされているとの認識で生きることができるかもしれません。

 地獄とか輪廻とか人間が勝手に作った概念に振り回されることもなくなるかもしれません。我々がすでに「それ=本来の自己=たった一つの意識=まったく同じエネルギー」かどうか。常に「本来の自己」を通して世界を見ていて、あらゆることをありのままに受け入れているということを確認していきます。
 まったく歳をとっていない自分を感じることがありませんか。性別もありません。言葉を失っているときには「それ」だけで見ています。被写体と一体となって、写真を撮っている時も「それ」だけが働いているはずです。それこそが「それ」です。

 ◯◯歳の、性別が◯◯で、どこどこに住んでいる◯◯という名前の人として振る舞っている時は、社会生活上の「私」です。この文章を読んで、何かを掴もうと意図しているのなら社会生活上の「私」として働いています。「本来の自己」と社会生活上の「私」は分離したり別々ではないようです。

 「信ずる者が疑う者よりも幸せだという申し立ては、酔っぱらいのほうが、しらふの人間よりも幸せだという申し立てと同じく、まったくの的はずれである」バーナード・ショー

 「信じる」とは無知でいて下さいということかもしれません。「信じて」崖から飛び降りる人がいるでしょうか。習わなくても、どうなるかは身についています。「信じる=知らないままでいてください」は、真実を見つけることを阻むことかもしれません。



<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
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