So-net無料ブログ作成

荘子ー4 [気づき]

 あるとき庖丁(ホウテイ)が文恵君のために牛を料理したことがあった。庖丁の手がふれるところ、肩をゆるがすところ、足のふむところ、膝(ひざ)をかがめるところなど、あるいはばりばりと、あるいはざくざくと、牛刀(ギュウトウ)がたてる音はさえわたり、どれも音楽の調べに合っている。その姿は「桑林の舞」もこのようであるかと思わせ、その音は「経首」の楽章の演奏そのままである。
 これを見た文恵は、「ああ、みごとなものだ。技術もここまでくるものかな」と嘆息した。
 すると、庖丁(ホウテイ)は刀をおいて答えた。
「私が好きなのは道でありまして、技術以上のものです。私が牛の料理をはじめましたころは、目に映るものは牛の姿ばかりでした。ところが三年後には、牛の全体の姿がまるっきり目につかないようになりました。
 いまでは、私は心だけで牛に向かっており、目では見ておりません。感覚のはたらきは止まってしまい、ただ心の作用だけが動いているのです。ひたすら自然のすじめのままに刀を動かし、骨と肉とのあいだにある大きなすきまを切り開き、骨節にある大きな穴のところに刀を通し、牛のからだにある自然のすじめを追っておりますから、刀が骨と肉のからみあった難所にぶつかることはありません、まして大骨にあたることはありません。
 腕のよい料理人でも、一年ごとに刀を取り替えますが、それはすじのところを切り裂くことがあるためです。普通の料理人は一ヶ月ごとに刀を取り替えていますが、それは骨をむりにきることがあるためです。ところが私の刀は、いまでは十九年になり、料理した牛は数千頭にもなっていますが、まるで砥石からおろしたてのようで、刃こぼれひとつありません。

<略>

これを聞いた文恵君は、感にうたれていった。「なるほどすばらしいことだ。わしは庖丁の話を聞いて、養生(ヨウセイ)の話を聞いて、養生の秘訣を知ったよ。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P204 下段」養生主篇

-----
 私たちと物は別々にありますが、物と緊密に接することで自身の身体の一部となり自由自在に使いこなせるようになります。身体も「本来の自己」とは別物であり「存在」との接点の役割を担っているだけかもしれません。「本来の自己」は物質(=身体)ではなく掴んだり得たりすることはできません。
 身体は「存在」との接点としての現れであり、「存在」としての働きがあります。身体は五感という入力装置を備えていいます。情報が入力されてから思考(=感覚を言葉に変換)するスピードが速く隙間がありません。いつも「私」という主体が存在し、決断(=分別)していると疑うことなどありません。
 しかし、思考は「私」が思考しているのではなく状況に左右されて勝手に湧き起こっていることに気づかなければなりません。

 幼少の頃には靴下を履いたり、下着を着ることが思うようできなかった記憶はないでしょうか。自身の身体でありながらうまく使えない歯がゆさです。今でも利き腕の反対の手で歯磨きや箸を思い通りに使えない感覚を体験できます。
 身体は「本来の自己=意識」とは別物であり、社会生活を送るための「存在」の現れであり様々な働きをしてくれるものではないでしょうか。
 身体は言うまでもなく、大切なものでありメンテナンスを怠らずに「本来の自己」と一体となって生きていくもの。生命として誕生した身体には耐用年数があり、壊れたり機能停止になるのは当然のことです。

 幼少の頃は初めて感受するものがほとんどであり驚きの連続です。感覚も感情も勝手に起こり翻弄されます。感覚や感情に翻弄されてばかりいては社会生活がうまく送れないと感じるようになります。感情や身体が思い通りにいかないことに対して、うまく対処していかなければなりません。
 思考によってなんとか制御できるという感覚が芽生えてきます。単なる思考でしかないのに、思考(=葛藤・混乱)している「私」という勘違いが生み出され強固なものとなっていきます。

  生きていくために自らの本能が勝手に働いています。日々の行動は、庖丁が身につけたように為そうとすることなくなされます。日々何度も何度も繰り返してる動作があります。服の着替え、歯磨き、身体を洗う、歩く、走る、箸を使って食べる、物を掴む等々は一々確認しなくても、見なくてもできるようになっています。

 物事を知ろうとか、状況に応じてどう対処するとかの心の働きも意識することなくできています。
 生きるために当たり前に身についていることは自然にできます。自分でよかれとして身につけてきたことを、わざわざ疑う人はいません。心や思考(=葛藤・混乱)で、自然に作られた幻想の「私」がいます。「私」が「私」を探していること自体が自作自演の物語を紡いでいます。
 身体や思考が「私」であると付き合ってきました。なかなか脳の癖を見破ることは難しいことです。脳が勝手に働いている癖であれば、庖丁のように三年をかけて脳の癖をとることも可能ではないでしょうか。

<まとめ>
1.庖丁は三年で牛刀を自由自在に使えるようになりました。
2.意識しなくても、勝手に無理無駄なく自分の身体の一部のように使いこなしています。
3.文恵君は庖丁の話を聞いて、養生(=人生を生きる根本原理)の秘訣を知りました。
4.生きるために身体=私という強い観念は、自然に身についたもののようです。
5.身体が痛い心地よいという感覚があるだけなのですが、「私」が痛い心地よいと解釈しています。「私」の足が痛いではなく、単に足の痛みを感じているだけかもしれません。
6.「私の」が拡張して自己同一化すると、「私の車」が傷つけられ心労となります。単に車という物質が物理的に変化しただけかもしれません。車が廃車寸前なら殆ど気にしませんがどうでしょうか。他人の車ならまったく気にしないかもしれません。
7.苦しむ癖がついたのなら、苦しまない癖もつけることができるかもしれません。
8.苦しみの根本原因が「思考する私=葛藤・混乱」という幻想を見抜いてみてはどうでしょうか。



<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
nice!(40)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 40

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。