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一切顛倒-1 [仏道]

 自由とは思い通りにできることではない。自由とは自由を放棄することである。これは不可解であり理解し難い。顛倒しています。
 自由とは「自我」の束縛から自由となることです。「自我」から自由になれば「自我」の思い通りにはなりません。「自我」の自由を放棄するのです。「自我」の勝手な「思い」を放棄するのです。
 真の自由は「自我」の不在により達成されます。

 「自我=思考」が生ぜず「自我」の「思い」を無くすことで「自我」の囚われから自由となることです。
 「自我」の「思い」は放棄されたのです。「自我」がいなくなれば、この世で何かを達成すべきために「自我」が働きかけることはありません。「自我」というプレーヤーが不在となります。
 「あなた」は実在に委ねることで「自我=主体」が退き、実在が主体となります。委ね任せることで、あるがままの実在そのものとなります。

 「自我」が「自我」として存在している証しとしての「特別」を捨て去るのです。
 「こだわりを持った私」を放棄するのです。「自我」は「記憶」だけで成り立っています。「過去」は既に消え去ってしまっています。過去のアイデンティティにしがみつくのは止めて、とっとと別れを告げるのです。
 もともと「特別」な誰かなどいません。「特別」は「自我」が作り出した「自我」だけの幻想です。生まれたばかりのただの人となり、すべての実在と同等となればいいのです。

 「自我」を保持したままで無に等しいだけの存在となるか、それとも存在そのものとして生きていくのか。存在と分離したままで生き続けるのか、分離なく存在そのものとして生き続けるのか。

 「思い」は現実となるという謳い文句の誘惑は、「この世で永遠にゲームができますよ」という宣言をしているようなものです。「思い」を抱き、この世で運よく願いがかなったとしても、次の生で同じようになるとは限りません。違う経験をする筈です。成功率数%の確率が何度も何度も続いたらゲームの意味がありません。
 人間世界で、あらゆる体験をし尽くさなければ、ゲームオーバーにはならないのです。「思い」を抱き続ける限り「自我」の「欲望」は叶うかもしれません。しかし、ゲームでの通過点である「老病死」という点は必ず通過しなければなりません。

 「思い」が実現となり裕福になったとしても、たかが知れたものです。裕福になることはすばらしいことですが、「思い」を持ち続けていてはいつになっても「静寂」が訪れることがありません。
 リゾートで寛いでいるようですが頭の中は実現させたいという「思い」が荒れ狂ったような嵐のごとく吹き続けています。寛いだ気分でありながら真の楽しみは束の間の出来事でしかありません。
 願いが叶い喜ぶのは一瞬であり、「自我」はもっともっとと次から次へ願い求めます。際限なく「思考」を活動させています。
 
 無意味な「思考」のゲームから脱し「空・無」へと帰還しなくてはならないのです。「自我=思考」の罠にはまって足止めすることのないように気をつけたいものです。
 知らず知らずのうちに自己正当化の罠にはまってしまわぬように細心の注意が必要です。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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