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色即是空ー2 [仏道]

勝手な「空」の「概念」ですので、信じることなく自らの修行にて確認してみてください。

1.空とは、実体がなく頭の中で構築された「概念」からなる単なる「判断基準」である。
  無判断=空
2.空とは、恒常の固定したものでなく、生滅しているためにしがみつくことができないこと。
  無常=空
3.空とは、あらゆる事象に隠れた原理原則や法則であり、事象を現出させるものである。
  法則・原理の根源=空
4.空とは、今の瞬間に認識できていない全てである。認識できない故に迷いようのない世界。
  認識不可能=空
5.空とは、あらゆるものを生み出し、また、あらゆるものを分解し還元され戻るところである。
  発生と消滅=空

 1番目の空の「概念」を用いて、「色即是空」を考察することで「概念」という囚われから自由になりましょう。

 我々は、生まれてから「己」に付けられた識別名としての「名前」によって呪縛されています。誰でもないただの一つの「いのち」として生まれただけです。親から「名前」を付けられることによって識別対象となりました。
 日々「名前」を呼ばれることで「私=自我」が自然に形成されたようです。他の人も異なる「名前」であるため、当たり前に分離された「自我」が確立します。すべてに名前がついているので、すべてが「己」に対比される「他の存在」であるとの錯覚のままに生きています。

 パンダにさえも「名前」を付けています。なぜ「名前」が必要なのでしょうか。我々の知識の範疇におきたいこと。「名前」によって、実物がなくても「概念」のやりとりができ新たな「概念」を作ることができます。
 この「概念」のやりとりによる会話は、実物を介在させない「空虚」な話でしかありません。体重など実感できるわけがないのに、頭の中で重さのイメージを必死に作りだしています。「体重」はただの言葉であって実際の重さを実感できないかぎり「判断・推測=空」でしかありません。

 あらゆる対象を「概念化」して「名前」をつけ、「好き」「嫌い」「どちらでもない」の三つに区分する習慣が身についています。
 「名前」を聞いただけで、自動的に分別・選別を行います。「富士山」と聞いただけで勝手な「イメージ」が頭の中で出来上がっているのです。この「イメージ」が「妄想」であり「苦」なのです。現実の目の前の「今この瞬間の富士山」を見ればそれでいいだけのことです。目の前の現前にない「空」なる対象を「言葉」を使って「妄想」しているだけのことです。「今この瞬間」をまた見逃してしまっています。1日に1秒を1回の瞬間とすると、寝ている時間を除いて17(時間)×60(分)×60(秒)=61,200回の瞬間があります。この61,200回のうちどれくらい「妄想」で見逃していることでしょう。
 見逃しは、「妄想」と気づかずに疑うことなく日々の生活に流されているからです。「妄想」という「雲」で覆われていては「智慧」で「無明」を照らすことはできません。「妄想」していると気づくことで「妄想」は消えていきます。日常でこの「気づき」を入れることで「妄想」は見破られ徐々に消え行きます。

 頭の中で起こっていることは、瞬時の判断であり「疑問」は抱きません。大切なことは「当たり前」にあえて疑問を呈し探究することです。「己」の作った「判断」の奴隷となっていることに気がつかないで生きているかもしれません。「当たり前」が正しいなら、すべての人が「寂静」であるはずです。

 対象(色)がインプットされると、今までの経験で作られた記憶の中のイメージ(実物でなく観念でつくられているので「空」)で出来上がった「私の判断基準」と対象(色=現物)が照合されます。「私の判断基準」以上であれば執着、「私の判断基準」以下であれば忌避、未確認の対象やどうでもよい対象にたいしては「保留、無視」と、瞬時に分別され自動的に反応します。

 色(対象)を認識すると、頭で構築した実体のない「判断基準=空」と結びつきます。対象はそのままの存在であるにもかかわらず、「瞬時=即時=伝達信号」に頭の中で「判断基準=空」としての対象となります。これが、認識対象は瞬時に頭のイメージとしてある。「色即是空
 「空」は無いのではなく、実体のないただの「判断基準」という「概念」だということです。

 我々が対象(色)を感受すれば、「判断基準=空」というフィルター(プログラムされた判断)を通ることによって、その対象(色)に対して執着しようが忌避しようが必ず「苦」となります。
 本来の「空」は「判断基準」が無いということです。全ての対象(色)に対して「イエス」。全てに対して「期待」しないでいることです。あらかじめ対応を考えて生きることは「生」のダイナミズムと一体となっていないことです。

 対象(色)に対して「私の判断基準」を持って接していては「苦」につきまとわれ、自由や解放には程遠いといえるのではないでしょうか。
 たまに、「私の判断基準」を超えた絶景や出来事に遭遇した場合には、あなたの「記憶」の中に該当する「概念」を見つけることができません。その体験は「言葉」には出来ません。「概念化」できないので「概念」から解放され、自由な「判断基準のない空」を体験できるのではないでしょうか。

 「リンゴ」は「リンゴ」という名前が付けられなくても存在しています。目の前の「リンゴ」に対して赤いとか黄色いとか酸っぱいとか甘いとか、硬いとか柔らかいとか勝手に「己」の頭の中で作り上げた「イメージ」ができあがっています。そのイメージと比較して食べていては、今味わっている「リンゴ」を真に味わっているとはいえません。

 今味わっている「リンゴ」は硬くもなく柔らかくもないのです。「私の判断基準」より硬ければ硬いだけのことです。「私の判断基準」など一切とっぱらって、今食べている「リンゴ」は一生に一回しか食べられない「一期一会」の「リンゴ」です。今食べている「リンゴ」を「私の判断基準」なしに「ありのまま」を味わい尽くすだけのことです。この固さこの味以上でも以下でもない「不増不減」、まさに「今味わっている」そのものです。それで、中道ができたことになります。
 「固有名詞」をつけないで「これ」を味わえばそれでOKです。「リンゴ」を食べているのではなく、「今この瞬間」にある「これ」でしかありません。他人と会話するときは「リンゴ」で言わないと「記憶力」を疑われます。「己」の頭では「リンゴ」とは言わず「これ」も言わないでただ味わうだけです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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