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「私」とは [仏道]

 「天上天下唯我独尊」について。「今この瞬間瞬間」に同時に生きている一切の「いのち」は、それぞれが全く異なる認識をしています。地球上だけでも何百兆の何乗の「いのち」が異なる認識をしています。

 「いのち」の内奥の実在は全く同じであり、宇宙そのものとともにあります。我々の「いのち」は宇宙の誕生からできた物資から成っています。この「いのち」は宇宙の中で消え去っています。宇宙の一部として宇宙を構成し、どの「いのち」も宇宙の中にあり宇宙そのものです。

 宇宙全体に存在している「いのち」がどれほどの数であったとしても、まったく同じ認識を持っていることはありません。内奥の実在と一体となっている時は同じような波動・振動であり同じと思われます。

 明日の朝、目を覚まして部屋を見渡してください。その部屋を見て感受している「あなた」は宇宙でただ一人、「己」だけの認識を感受しています。 もし、双子が同じ部屋で同じ対象を見ていたとしても異なる認識をすることでしょう。つまり、宇宙全体の中でたった一つの独自の認識をしている「いのち」なのです。

 「あなた」が感受したことは、感受した「そのまま」を「言葉」を使って他人に伝えることはできません。「言葉」には限界があり受け取っている「そのまま」を「言葉」にして伝えることは不可能です。それほど膨大な「情報」とともに存在しています。

 「言葉」を聞いて理解しようとしても、他人の感受を「そのまま」実感することはできません。生まれてからすべての瞬間瞬間、「あなた」だけの感受を受けて育ってきました。同じ哲学書を読んだとしても、同じ体験をしたとしても一人一人が異なる見解となることは明らかです。

 学べば学ぶほど、異なる認識が「知識」として積み重なります。学んで蓄積したとしても同じ境地になることなどあり得ません。残念ながら、学んでも学んでも「不足感・不満足」が解消されるわけではありません。かえって「知識」が増えれば増えるほど混乱していきます。混乱すれば「己」だけの固有の勝手な答えで混乱をおさめるだけです。誰もが同じ答えに行き着くには本源に戻るしかありません。
 「知識」・「観念」などを消し去り「単純・単一」にならなければ本源に出会うことはできないでしょう。

 鳥のさえずりは、同じ様に聞こえるはずです。しかし、同じ音として聞こえているはずですが、「受」としての認識、その認識に対する「反応」がそれぞれに異なります。
 「反応」が異なり混乱するのです。修行が進み「音」はただの「音」でしかない。「解釈」がなければ、だれもが同じ感受で完結するはずです。
 「解釈」は「自我」が瞬時に判別しているので「私」が聞いているように錯覚してしまいます。ただそこに「音」の波動が耳に感受されただけのことでしかありません。「音」はすでに消え去っています。

 「あなた」は宇宙でただ1つの認識体であり、すべての瞬間で、他の認識体と異なった認識があります。瞬間瞬間ごとに、宇宙全体でそれぞれの認識体の異なる認識が存在しています。これほどの奇跡があるでしょうか。
 虫も、魚も、鳥も、あらゆる「いのち」が異なる認識で異なる生き方で異なる経験をしています。起こっていることは同じなのでただ「感受」して終わりにすればいいだけのことです。

 我々は「私=自我」という「概念」によって勝手に苦悩をつくり出しています。ありもしない「私=自我」が勝手に苦しみ、その「私=自我」が必死に解決しようと努めているのです。「自作自演」の「おふざけ」を演じているのです。いつまでこの「ダンス」を踊らなければならないのでしょうか。

 「私=自我」が存在して「認識」があるわけではありません。六処によって「触」があり「受」があって、自動的に瞬時に「認識」するだけです。
 ただ意識が向いて「ある音」を拾っただけ、意識が向いて「ある対象」が眼に入っただけです。「受」から「想」へと繋がらなければ認識体としての「ダンス」は起こりません。生命体の「いのち」の「反応」スイッチをONにしなければ実在と共にただあるだけです。「受」のままに放っておけば良いだけのことです。

 自他の分離によって、「時間=記憶」の概念が構築されると「私=自我」が生まれます。「自分のもの」という「概念」が出来上がると「記憶」しなくてはなりません。「記憶」したものの「特徴」が分からなければ「自分のもの」ということを主張できません。

 「記憶や記録」は「私=自我」を他人に証明するために必要なだけでしか価値を持ちません。「記憶」する必要が無ければ過去という「時間」などは要りません。あなた自身についての「記録」など何の意味もありません。他人に自己証明するために必要なだけです。
 自己証明するために、時計やバックや靴やファッションなど高価な品物でこれ見よがしに自己主張をしています。人は自分ファーストですから、自分ほど他人には興味ありません。一体他の存在があなたの所有物に興味があるのでしょうか。一番身近にいるペットの猫や犬でもあなたのファッションには一切興味はないようです。

 今この瞬間にあなたの「記憶や記録」が消失したとしてもあなたは死んだりしません。幸いなことに「私=自我」が消え去ってくれます。何者でもない「あなた=無我」、一切の過去を背負うことのない「自由」があります。

 特定の誰かとの繋がりが無くなる=全てと繋がることができるのです。そこには「過去」からの束縛がありません。所有という観念を放棄すると、私の所有物など一切ありません=所有物からの「自由」があります。「私の物」という執着心や保守すべきという神経質な義務や失う嘆きから「解放」されるのです。所有という概念が無くなれば、存在と一体であり、存在が我が物となります。無所有になれば、全てを所有することができます。

 「記憶」しようとすることで、「時間」の概念が生まれます。過去や未来と言う「今以外」に生きていると「私=自我」が必要となり「私、私のもの」という「観念」が起こります。
 霊長類の特色として、「社会」という枠組みの中で生きていることを知っているので「私」という居場所を確保しなくてはならないのです。社会の中で生きていくには、何らかの立場を主張する「私」という「概念」が非常に重要な意義をもってきます。

 「私」が考えているのではなく、「考えている」ことによって「私」という「概念」が生起します。「我思う故に我あり」から「我ありと思い込む故に我あり」と果てしいループにより「自我」が確立されます。
 あらゆる対象は勝手に作った「概念」であり、その概念を「言葉」にして「識別対象」として「記憶」しています。すべてを「概念化」して「己に対して善か悪か」の判断が出来上がっています。この「概念化」によって「私=自我」が作られました。

 肉体、感覚、思考、感情、認識などを通じて他と区別され、対象を認識する「本体」として「私=自我」という認識主体が存在しているはずです。

 全てはただの状況に応じたプロセスでしかありません。「私=自我」は「記憶」された「概念」を使って、「私=自我」が構築した「幻想=勝手に作られたそれ」に対し瞬時に判断しているスーパーコンピューターです。このスーパーコンピュータを凌駕する「思考=私=脳」は常に「執着と忌避」を判断して「私=脳」の決断に従って生きています。「私=自我」の判断を疑うことなく委ねているだけなのです。

 無常なる色(対象)に対しての自我の判断が「嘘」であると見抜いたのがお釈迦様です。縁によって起こり、消え去る現象。判断している「私=自我」も存在していない。夢の中にいて夢見ている人が覚めたのです。

 新しい問題がふりかかれば、新たな「概念」を構築し「言葉」を作り続ける。「己」の範疇になければ、「哲学」や「宗教」に解決のよりどころを求めます。限りない自己防衛と自己正当化と自己同一化の罠にはまっています。

 我々の問題解決方法が「概念=言葉」を「記憶」するということに依存していることに気づかなければなりません。この「私」が確固たる存在であるという「嘘の観念」から抜け出さなければなりません。「私=自我」が拠り所とし「思考」する主体である「私=自我」が、「私から目覚める」ことは難しいと思います。夢の中の自分がここは夢の世界であると気づかなければならないのです。

 魚を例にとると、魚が生きている「海中=当たり前=固定観念」を一度「破壊」しなくてはなりません。海中にいる魚は「当たり前」すぎて、己が海中にいることを知りません。
 「苦」「空」「道」「虚」「法」「無」などの言葉を使って「観念」を破壊し、海中にいる魚を陸に揚げ、海中以外の世界があり、海中の「己」を観る必要があります。

 海中は魚にとって「あたり前」の世界です。海中で泳いでいる魚と同じように、我々は小さい時から親の「観念」を押し付けられ、それが「当たり前」である世界として洗脳されてきました。また、自我によって、自らの経験で「私」というあやふやな「概念」をこつこつ作ってきました。

 自らが作った「」という「概念」を手放すのはむずかしいことです。「」を認めようが認めまいが「認識」は「認識」として有るだけです。「私」が呼吸しているのではなく、「私」が意図しなくても呼吸はただあり続けます。

 寝てる時に「私」はいるでしょうか。熟睡していて、蒲団ごと遠くに運ばれ湖の真ん中に放置されたとします。確固たる「私」がいるなら気づかなくてはなりません。
 「私」ではなく、感受のプロセスが働いていないだけのことです。つまり「私」ではなく、感受のプロセスが「私」という「概念」であると言えないでしょうか。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


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