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行苦性(5) [仏道]

 南伝 相応部経部22-48 [阿含経典二巻 P78 増谷文雄著 筑摩書房]

かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、比丘たちに告げて説きたもうた。
「比丘たちよ、わたしは、いま、汝らのために、人間を構成する五つの要素(五蘊)と、生に取著する五つの要素(五取蘊)を説こう。よく聞くがよい。
比丘たちよ、では、人間を構成する五つに要素とはなんであろうか。
比丘たちよ、あらゆる色(肉体)は、それが過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、あるいは、内外、精粗、勝劣、遠近の別をとわず、それらは、すべて名づけて色蘊 となす。

比丘たちよ、あらゆる受(感覚)は、・・・すべて名づけて受蘊となす。
比丘たちよ、あらゆる想(表象)は、・・・すべて名づけて想蘊となす。
比丘たちよ、あらゆる行(意志)は、・・・すべて名づけて行蘊となす。
比丘たちよ、あらゆる識(意識)は、・・・すべて名づけて識蘊となす。
比丘たちよ、これらを名づけて五蘊となすのである。

では、比丘たちよ、生に取著する五つの要素とはなんであろうか。
比丘たちよ、あらゆる色(肉体)は、それが過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、あるいは、内外、精粗、勝劣、遠近の別をとわず、それらは、すべて、人の心を酔わせるものであり、生に取著するものである。かくて、それらは、すべて名づけて色取蘊 となす。
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<五蘊盛苦>
五蘊とは物質と精神の諸要素と言われています。
色:肉体
受:感受して苦楽を感じる感覚
想:イメージして心に浮かべる像(「りんご」という言葉で「りんご」が頭に作り出されます)
行:自らの意図を持った、意志・欲求・記憶、概念化
識:対象を識別(分別して振り分ける)して認識するします

 五蘊の時間的な対象に対しての囚われ、○年前・○年後の肉体(飛び跳ねていた身体、ストレスに苛まれていた身体、老いて横たわる身体)、○年前・○年後の感覚(苦労した、快感、おいしかった、楽しいだろうと期待する等)、○年前・○年後の想(昔はこうであった、こうありたいというイメージ、作ってみたい対象のイメージ等)、○年前・○年後の行(何かにアプローチしたい、ライフスタイル、人生哲学、理想像等)、○年前・○年後の識(過去のこだわり、瞬時での好き嫌い、嗜好、嫌悪等)、現在の五蘊。

内外:肉体であれば、内:眼で知覚できない内臓等、外:眼で確認できる身体の部分
受であれば、内(インプットされた感覚等)、外(外にある知覚対象 熱そう、凍えそう等)
精粗:肉体であれば、精(赤ちゃんのきめ細かい肌等)、粗(老いたざらざらの肌等)
勝劣:肉体であれば、勝(はがねのような肉体等)、劣(か弱い肉体等)
遠近:肉体であれば、遠(足先等)、近(顔や手等)

 この五蘊は、生に取著する五つの要素(五取蘊)となり、どちらにしても心を酔わせる。良いと思えば追っかけ、嫌だと思えば避けて逃れる。右に左に、上に下にと心が定まらないので、心を酔わせてしまう。酔えば「あるがまま」に見ることはできないでしょう。
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無常なるもの 南伝 相応部経部22-15[阿含経典二巻 P25 増谷文雄著 筑摩書房]
(略)
「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
 受(感覚)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
想(表象)は無常である。・・・
行(意志)は無常である。・・・
識(意識)は無常である。・・・
(略)
 比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、そのように観て、識を厭い離れる。厭い離るれば貪欲を離れる。貪欲を離るれば解脱する。解脱すれば、解脱したとの智が生じ、<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえ、もはや迷いの生を繰返すことはないであろう>と知るのである」
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 五蘊は「無常」であるから、いくら五蘊にしがみついても消え去る。消え去るので必ず失望する。「」「己」の計らいではどうしょうもできない。すべては制御できない「無我」なるものである。
 所有することもできない、身体も移ろい変わり「我」ではない。10年前の身体など、どこにもありません。
 わが本体にもあらず、本体として命じても「無常」によってきれいさっぱり消え去ってしまっています。

 「無常」であるからこそ、生きています。ちょっとの傷が、変化(良くなる)しないでそのままであったらどうなるでしょうか。変化は良くなることも悪くなることもあります。すべての変化が希望どおりに良くなるなら「苦」など存在しません。
 いつまでも「子供の身体、子供の知能、子供の心」のままなら進化を否定することになります。
 
 五蘊に囚われ、抱いたものに縛られることが「苦」であると認識しなければなりません。変化しつづける「あるがまま」に対して、あらゆることに対して自動的に「二元対立」していることで「苦」となるのではないでしょういか。

 こうありたいと思っていることは、現実の生活を基準として何割増しか数倍の生活水準でありたいと願っているのではないでしょうか。こうありたいとばかり願わず、この生活はすでに「天国」である。今ある現実をありがたくいただき、もったいなく思うことで、現状の何割減の生活で十分として生活するしょうにすれば「苦」と感じることもなくなってきます。「少欲知足

 病気になって「苦」を感じても、本来の「痛み」はこの2倍であるが、今味わっている「痛み」は半分の「痛み」で済んでいる。病気は病気したときでしか体験できない、病気をとことん味わってみようと考えてはどうでしょうか。全てをそのまま受け入れるしかありません。逃れる術などありません。
 
 我々は、「徳川家康」よりもいい生活をしているかもしれません。温かい炬燵に入り、スーパーに行けば地球の裏側の食べ物がいつでも手に入る。富士山からしか手に入らなかった氷が、冷蔵庫で何時でも手に入る。

 馬で何日もかかった土地へも、車だ新幹線だ飛行機だと好きな乗り物を使って行けるます。薪で何時間もかけて沸かしたお風呂が、ボタンを押せば「適温」でお湯を張ってくれます。
 数万円で、太平洋を見渡せる露天風呂に入り、船盛りの御馳走が頂ける。天下を取った殿様以上です。家臣の反乱に気を遣うこともありません。毒を気にして食事することもありません。
 家康も羨む生活を送っているのに、不満が尽きないのはどうしてでしょう。頭が働きすぎるのです、瞬時の「判断」をすることで「己」を苦しめています。好悪や善悪は、勝手に作り上げた幻想です。

 「塩」はしょっぱくないのです。「塩」という言葉はたんなる「概念」であって、「塩」という字をいくら見ても、文字を味わっても味などしません。「塩=しょっぱい」という「言葉=概念=記憶」という構図で、「塩」と聞いただけであなたの「脳内回路」が「反応」してしょっぱいという答えを出しただけです。英語を知らない子供に「salt」と言っても反応しないと思います。
 「言葉=概念」があるかぎり、二元対立は消えず「苦」を作り出しつづけることに気づかなくてはならないのではないでしょうか。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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