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行苦性(2) [仏道]

分別 南伝 相応部経部12-2[阿含経典一巻 P91 増谷文雄著 筑摩書房]
比丘たちよ、では、無明(無智)とはなんであろうか。比丘たちよ、苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、および苦の滅尽にいたる道についての無智である。比丘たちよ、これを無明というのである。
 比丘たちよ、かくのごとくにして、無明によりて行がある。行によりて識がある。・・・これがこのすべての苦の集積のよりてなるところである。また、無明をあますところなく滅することによって行は滅する。行を滅することによって識は滅する。・・・これがこのすべての苦の集積のよりて滅するところである」

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 無明によって、行(意志のうごき)がある。一切が苦であることを知らない(無明)。因縁や業によって勝手に起こっている(諸法無我)ことなのに、「」が自らの「身・口・心(意)」を制御して生きていると勘違いしています。

 肩が凝るので手で揉むのは、「」が揉もうと意志を働かせて揉んだのか、それとも「」と感じて自然と手を持ってきて揉んだのでしょうか。もし「」がいるなら、肩が凝らないようにできるはずです。「私=肉体」なら、「私のもの=肉体」であるはずなので思い通りにできて当然なはずです。
 
 肉体そのものは、重力に逆らい老化に苛まれながら常に「」を受けているだけのことです。なんとか折り合いをつけて生きているだけの事。
 目は見えなくなり、耳は遠くなり、肌に艶はなくなり、歯ぐきは弱り、思うように身体は動かず、直ぐに息が上がる。わが身は「」であるにもかかわらず、徐々に衰えがきていることを認めながらも、老化のせいにし「己」を納得させて付き合っているだけのことです。思い通りにならない「肉体」は「私」ではありません。

 「己」が要求するすべては求不得苦です。「情報」、「知識」、「楽しみ」、「快楽」、「称賛」、「特別でありたい」、「他人より優れている」など、どんなに「求めても求めても」決して「満足できない己」がいるのです。
 正しく見れば、飽くことなく「」を作り続けている「愚かな己」であるだけのことです。
 TVを見て「他人の私生活」や「他人の交友関係」を「知って」どうなるのでしょう。ほとんど「知る」意味のないことです。不必要な「情報」を「記憶」することが「苦」となっていることを気づく必要があります。

 お金儲けや美食やその他の楽しみは「己」を幸せにすると思い込んでいるだけではないでしょうか。「執着」することで「妄想」となり「寂静」とはかけ離れた行いです。それは、一瞬でありの喜びでしかありません。この世に引き留める「我執」を満たしてくれるものでしかありません。世間の皆がやっているので、何の疑いもなく「自己正当化」しているにすぎません。

 「立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」で満足いかなければ、際限のない「欲望」に身を委ねることになります。日々悶々とする思いに支配され「」を見逃し続けることになるだけではないでしょうか。

 死の床で、「私は自由であったか、聖なる道に入ったか」と問うても遅いのです。「何かを求めつづける心」に、未来のどこかで「寂静」があるといえるでしょうか。
 「」の連続で未来ができてるのであって、今が途切れれば未来など存在しません。1時間後に出会っている「」は、未来ではなく1時間後の「」に出会っているだけです。

 これで満足ということがないので、戦争や略奪、破壊が繰り返されます。何か物足りない「いらだち」が、欲望を駆り立て「チャレンジ」すます。しかし、死によって根こそぎ夢の如く打ち砕かれるので「必ず負け」が確定してます。
 最初から、必ず負ける勝負をしている「愚かさ」に気づかないのです。心の奥底では気づいていても、欲望を満たそうとするのが「いのち」なのです。次の生ではもっとうまくできると頑張るけなげな「煩悩」の火種がなかなか消えないのです。

 もうそんなに騒ぎ立てる歳でもないでしょうにと見透かされています。「一期一会」を理解し、残された時間を「無駄な思考」で満たすことなく、「今この瞬間」に生きる時間を設けてはいかがでしょうか。

(勝手な造語)「一息一会」:今の一呼吸は、この世の人生でこの一息かぎりである。自らを救えるのは自らだけなのです。既に救われているのに探している、何もかも脱ぎ捨ててしまえば「それ」はいつもそこにあった。
 「悟り」は「差とり:差を取り去る」、「あるがままの世界」と勝手に作っている「妄想の世界」との間にある「無明(苦集滅道を実践できないで苦しんでいる)」を取り去る。

 まさに、「」を作ってもがき苦しんでいる「己」から「」を理解して「」を取り去ることにほかならない。「一息一命」「一息一心」「一息無為」「一息寂静」

 天上天下唯我独尊について、辞書では「自己ほど尊い存在は無い」とあります。

(勝手な見解)天上天下唯我独尊である「私」は誰にも犯されず、誰にも直接変化させられない「己」である。「己」でしか「己」を変えることはできない。誰かが、誰かを直接に成就させるなどということは人類史上できたためしはなかったし、今後も誰も出来はしない。あなたが寝ている間に、「誰かによってあなたが変えられた」など起こりません。お釈迦様でも、「月をさす指」の役割しかできません。

 自らが尊いというのではなく、他の力によって変化させることなどできない「金剛の如き我」が存在している。勝手にあなたの「頭」を書き換えることなどできないということです。
 ヒマラヤでも宇宙のどこかに行ったとしても、そこに見出すのは必ず「己」でしかありません。宇宙の果てに行っても「己」。宇宙の全てを知っても「己」は金剛の如く変化しません。「神」も「あなた」には手出しができないことになっているのです。そもそも「他人を変えよう」など大それたことが出来なくなっているのが「宇宙の法則」ではないでしょうか。

 もし、「悩み苦しんでいる人」に対して「私(=神)の力で助けてあげよう」「私(=神)ならあなたを変えてあげる」という人がいたなら「ペテン師」と疑ってからでも遅くはないでしょう。私は「月をさす指」でしかありませんと言われれば救われる。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
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