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荘子−8 [気づき]

 ①さて、ことばというものは、口から吹き出す単なる音ではない。ことばを口から出すものは、何事かを言おうとするのである。ただ、その言おうとする内容が、人によって異なり、一定しないところに問題がある。
 もしことばの内容が一定しないままに発言したとすれば、その言ったことが、はたして言ったことになるか、それとも何も言わなかったことになるか、わかったものではない。
 たとえ自分では単なる雛鳥(ひなどり)のさえずりとはちがうと思っていても、はたして区別がつくかつかないか、あやしいものである。

 ②それでは、道は何におおいかくされて、真と偽の区別を生ずるのであろうか。ことばは何におおいかくされて、是と非の対立を生ずるのであろうか。もともと道というものは、どこまで行っても存在しないところはなく、ことばというものは、どこにあっても妥当するはずのものである。それが、そうでなくなるのはなぜか。ほかでもない。
 道は小さな成功を求める心によってかくされ、ことばは栄誉とはなやかさを求める議論のうちにかくされてしまうのである。
 だからこそ、そこに儒家と墨家との、是非の対立が生まれれる。こうして相手の非とするところを是としたり、相手の是とするところを非としたりするようになる。もしほんとうに、相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非としようと思えば、是非の対立を越えた、明らかな知恵をもって照らすのが第一である。

「引用:世界の名著 老子・荘子 中央公論社 P176 」斉物論

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①さて、ことばというものは、口から吹き出す単なる音ではない。

 人間の話す言葉は、その言葉を理解できる人以外にとっては単なる音(=振動)として認識されるようです。
 何事かを伝えることは、伝えたい何事かを理解してくれるという前提があるからではないでしょうか。コミュニケーションは受け手の能力が優先されます。「釈迦に説法」「猫に小判」「馬の耳に念仏(馬耳東風)」「一を聞きて以って十を知る」

 「りんご」と「apple」と「apfel-独」と「pomme-仏」のどれが正解でどれが間違いでしょうか。自国の言語では正解であり、言葉が理解できなければ不正解であり、関心がなければ正解でもなく不正解でもない。
 戦勝国と戦敗国のどちらが正義でどちらが侵略者でしょうか。正義だから勝ったのか、勝ったから正義となったのでしょうか。戦争を煽っていたメディアは正義だったのでしょうか。
 煽り運転を各局が煽り合戦している現状、何時間も平気で煽っている報道も異常ではないかと疑う人もいるかもしれません。結局は、煽るだけ煽ってあとは知らん顔がいつものパターンと言われています。面白おかしく取り上げながら、正義の味方というスタンスが見え隠れしているようです。これほどまでに乗りが良いのを見せられると、戦争になったら中立でいられるかどうか疑わしくなるのもうなずけます。スポンサーがいて中立でありうるかどうかチョット考えれば誰でもわかります。

 生き物に自然にそなわっている「知るという能力」は、全てをありのままに受け入れる能力に他なりません。歌手は聞いてくれる人がいる、旅館は泊まってくれる人がいる、農家は食べてくれる人がいる、報道は見てくれる人がいる、車は乗ってくれる人がいる。社会は、受け取ってくれる人や使ってくれる人がいるからこそなりたっています。人生が得ることや達成することや掴むことや知ることだけが全てなら、あらゆる努力は死によって水泡に帰すことになります。
 私たちは、この世のあらゆる事象(=苦・楽・その他体験)をそのままに受け入れて味わうことができます。あらゆる「存在」に触れることができ、受け入れられているという実感。一切が平等で一体であるという感覚で生きられます。

 私たちの小学生時代の我々はもうここにはいません、完璧に消え去っています。はっきりした記憶もありません。今日の一日も1年後には完全には思い出せないでしょう。120年後には、現在のほぼ全員が跡形もなく消え去っています。
 人生の終わりにおいて、得ることにそんなに執着しなくてもよかったのかな、それよりもあらゆること(=苦も楽も)を受け入れておいてよかったと。苦も楽と同じに、受け入れるという体験かもしれません。何故こんなにも「苦」を毛嫌いし逃げ回っていたのか。もっと味わい尽くしておけばよかったと感じるかも知れません。他人の苦を経験することはできません。せめて自身の「苦」をそのままに受け入れる。苦は苦としてOKなんだ、世間で生きている「私=身体」が解決できることはではないようです。

 モフモフと戯れ、互いの「本来の自己=一つの意識」が自然に受け入れているようです。坐禅をして「存在」と一体になるもよし、旅行をしてご馳走を食べてそのままを受け入れてもよし。景色と一体となってシャッターを切る、花や動物や建物をしっかり観察して一体となります。何の執着もなく、あるがままに一期一会とともにあります。獲得したものでないからこそ誰にでもシェアできます。 
 得ることや思いの通りにしたいという自分からシフトチェンジして、あるがままを受け入れることで自身も受け入れられるようです。

「幸福は分かちあうようにつくられているかのようだ」ラシーヌ

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに実証実験によって確証することをお願いいたします。
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