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無常なるもの [仏道]

無常なるもの 南伝 相応部経部22-15  [阿含経典二巻 P107 増谷文雄著 筑摩書房]

かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊は諸々の比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。「大徳よ」と、彼ら比丘たちは答えた。世尊はこのように説きたもうた。

「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である苦なるものは無我である無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。

 受(感覚)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
想(表象)は無常である。・・・
行(意志)は無常である。・・・
識(意識)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
 
比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、そのように観て、識を厭い離れる。厭い離るれば貪欲を離れる。貪欲を離るれば解脱する。解脱すれば、解脱したとの智が生じ、<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえ、もはや迷いの生を繰返すことはないであろう>と知るのである」

―――
<無常なるものは苦である>
 本来の面目(ありのままの姿)とは、自性清浄である無心(何も生み出さない心)であり穢れがない。本来の清浄な心は、己で勝手に作ったわけでもなく己で勝手に消滅させることのできるものではありません。また何時生まれたか知ることもできず、何時消滅するかも知ることのできない不生不滅の心です。
 
 私の心と思い込んでいる心は、私(=思考)が勝手に思い込んでいる都合のいい身勝手な心です。
清浄で磨き上げられた鏡のような心は、ただありのままを写すだけです。「身びいき」のための渇愛から作られた「貪瞋痴」により汚れ、穢れてしまった心は本来の清浄な心ではありません。
本来の清浄な心を修行によって磨き上げ、その透明で清浄で果てない心を自知してほしいのです。

 無常とは、ありとあらゆるものが移り変わりすこしも止まらないことです。
 我々は無常と知りながら、「思い通り」にしよう(意志)とか「思い通り」にしたい(期待・希望)と思っています。「今ここ」にいながら、頭の中は過去や未来のことでいっぱいになっています。「思い通り」にできなかったことや、「思い通り」にしたいことで頭の中はいつも妄想でいっぱいとなっています。「今ここ」にいることは難しいこととなっています。
 「思い道り」になっていない、自分で勝手に作った「思いの世界」で頭の中では思考がけたたましく働いています。思考が多すぎると精神的に苦痛を感じるようになります。  自分で思い描いた「思い通りの世界」は「いつまでたっても実現できない世界」となって立ちふさがり、常に引っかかり安心でいられません。「身びいき」からくる「思い通り」にしたいという心がなくならない限り、苦と付き合っていくしかありません。
 すべては無常で幻のようなものです。心血を注ぐほど「物」にとらわれる価値はあるのでしょうか。欲しいものを手に入れたとしても一時的に使わせてもらう程度のものです。現在あるもので生活できていれば、この生活で感謝して生活することです。それが苦を招き入れない方法だと思います。
 蛇口から水が出てくることは奇跡的なことなのです。少欲知足で生活していれば心が浮き足立つこともありません。
 この無常なる世界に生まれた私たち、生まれてからどの時期から心が働きだしたかもわかりません。この心がいつ消えるかもわかりません。
例:心が素粒子であるなら
心が素粒子のように最小であれば、最小であるからこそ宇宙全体に広がっており、宇宙そのものともいえます。宇宙そのものであれば一切差別区別がないということです。あらゆるものは全くの一つなのです。

<苦なるものは無我である>
 苦は、統率されたり管理されたりはしていないので無我です。五蘊には我はありません、ただ情報が勝手に入ってきて勝手に五蘊が働くだけです。この入ってきた情報に対していちいち「身びいき」が働くものですから苦となります。「我が身かわいさ」からこうありたい、逃れたいという苦が次々とわいてきます。苦なるものに我がいて、原因となるものがあれば対処できるのでしょうがそうなってはいません。

<無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。>
 我々の身体は四大(地、水、火、風)によってできていますが、四大には我(自我)はありません。我(統率管理できるもの)のないもので作られている身体に我(自我)はありません。無我なるものとは、あらゆる要素からの因縁であり、統率者や管理者のいないことです。我が本体ではないので手の出しようがありません。
 ただ、感覚は感じては消えて感じては消えています。身体には、次から次と外部情報が入ってきます。情報(色等の電磁波の周波数、音の周波数)は主体であり、我々は受容体という客体とも言えます。途絶えることなく次から次へ周波数が受容体である我々の感覚器官に届いています。
 その感覚と、感覚を感覚と感じている意識があるので、誰かがいると思ってしまいます。確かに感覚を感じている「私」という主体が存在しないとおかしいので「私」が出現します。仮想の我(自我)が「私」として、感覚や感情や思考する主体であり続けます。

 色受想行識を観察していくと、いずれも無常・無我であり己の思い通りにはならないものである。無常・無我であるものにとらわれて、ことさらに渇愛し必要以上に求めれば苦となる。無常・無我は避けられない事実です。「苦」には原因となる統率者や管理者がいるから対処できると思ってしまいます。しかし、因縁によって起こっているだけだと感得し見解を得なければなりません。

 無常や苦や無我であることに対して、我々にはどうしようもできないと諦めることです。
 もしも、我々の勝手な思いがすべて叶ったらどうなるでしょうか。ささやかなことを願うのは勝手ですが、己だけ恵まれたり己だけ楽したり、己だけ満たされる世界が実現するためには、誰かが犠牲になっています。誰かの苦しみに対して平気でいられないはずです。過大な願望に対しては一考する必要があります。慈悲の実践が必要となります。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。>

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