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一切顛倒ー9 [仏道]

 なぜこれほどまでに探究し続けるのでしょうか?また「自由」でありたいのでしょうか?
 探究とは、時間の観念で「過去・現在・未来」、身体という観念からは「内部と外部」とに分けることができます。内部である自己探求、外部である宇宙探究です。それぞれに「過去・現在・未来」を探究します。

 我々が、「自由」を実感することができないのは、限定された身体で生きているからではないでしょうか。我々の周りの全てが未知であり、我々が限定された有限の身体のために不自由さを常に感じながら生きているからでしょうか。
 未知を既知にするために、知覚するあらゆるものに対し「概念」で構築された「言葉」をつけてきました。
 
 楽しみたい、何かを求め得たい、何かにすがりたい、何かしていないと落ち着かない、常に何かに突き動かされている。常に思考が湧いてくる、じっとしていられない、常に満たされない。
 我々は我々自身の五感を使って世界を実感したいのです。我々は主体でいたい、主体であるべきだという衝動に突き動かされています。
 長い間、単細胞から人間へと進化する過程を通して行われてきたことは、自己保身と危険回避です。永続するためには、益になることに執着し、害になることから逃げ回っていました。
 我々は「主体」として自己保身ができ危険回避ができるように努めてきました。「主体」として存在に働きかけ、存在を変えたいと願うようになりました。そこに貪り驕りと怒りが備わることになったのです。
 進化によって発達した前頭葉は、自己正当化の間違った働きにより、他者をおとしめるために使われています。残念ながら自意識のためだけに使われているようです。

 残念ながら我々は、「主体」ではなく純然たる「客体」です。このことを素直に認めなくては先に進めません。我々は感受している「主体」ではなく、感受させられている「客体」であると認識しなければなりません。
 己が「主体」として存在していると意識するので、「客体」が生まれ二元対立が起こります。二元対立がある限り「迷い」の世界から抜け出せません。

 己が探究する「主体」であり、何かを得ることが思い通りに実現できたことにはなりません。無常なるこの世では実体のない一時的なものでしかありません。何かを、実現させることが「自由」であると勘違いしてしまっているようです。
 見る「主体」ではなく、見せられている、感受させられている「客体」として生きています。身体のどこかが痒くなったらどの指でどの程度の力で痒ゆいところを刺激しようと考えるでしょうか?自動的に無意識で程よく、強すぎず弱すぎず勝手にできるはずです。身体に起こった(痒みが先に起こって、最初の痒みは消え去り、次の痒みが起こっては消えています)ことに対して、「客体」として対処させられているのです。もし「主体」であるのなら、痒みが起こらないようにできるはずです。
 自然に起こる事であり、我々の身体のいたるところで縁起による自然な出来事が起こっています。

 「私」という作られた概念が「幻想」です。「私」が「主体」であり、この世に働きかけて思い通りに実現したいのです。このような思考の束縛から解き放たれることが「自由」なのです。思考から解放されるためには冷静な自己観察が必要です。

 我々は、この世という現象界において自然法則に従わされており、勝手に動かされている「客体」であることに気づかなくてはなりません。
 春になるとウキウキし、「私」は自分の意志で「主体」として桜の花を観賞しているのだと思っています。しかし、自然界のリズムに同調して動かされている「客体」なのです。居てもたってもいられずに出かけているだけのことです。

 四季折々のリズムに従がわせられ、服装や食べ物も季節に採れる食材で生活させられています。真冬に真夏の装いをする人はいません。いくら「主体」で行動していると言い張っても、自然に従わされている「客体」でしかありません。外部環境に逆らえずに生きている自然の一部です。
 我々の身体において考察しても同じです。食べることは、空腹という自然現象によって食べなくてはなりません。洗濯も風呂も身体の不浄によって洗わされています。好き好んで主体的にやっているのではなく、やるべくしてやらされています。
 どんなに願っても、神様に全財産を貢いでも病気になり死を免れることは不可能なのです。
 
 我々は対象を見ているのではなく、光の反射によって光の周波数が自動的に眼から入ってきます。全てが眼耳鼻舌身体によって認識させられています。聞いているのではなく、耳に入ってくる振動を音として認識させられています。見えているものを眼が情報を選別したり、聞こえている音を耳が選別したりすることはできません。眼耳鼻舌身体に入る情報を制御できる「私」などいません。

 音は連続のようですが、細かく別々の音の周波数で耳の聴覚神経に伝わり刻々と脳で認識されては消滅しています。次々と音の周波数が波のように伝わり次々に認識されては消え去っています。
 音は発生してから脳で認識された時には、発生源ではすでに消え去ったものです。我々の意識は、すでに存在していない発生源の音に対しあれこれと思いをめぐらせています。前の音が完全に消滅しているので新たな音が認識されています。もし、前の音が残っているのなら今の音とダブって聞こえてしまうことになります。

 脳で認識している対象は、対象に光が反射することで色特有の周波数を出しています。脳では情報を受け取っては消して画像として認識し続けています。前の画像が残っていて今の画像に重なれば混乱することになります。

 我々は、五感から否応なく入ってくる情報を受け取っている「客体」であり、勝手に脳で処理され意識となってしまっています。入ってくる情報を疑うことなく、脳内で思慮分別させられる「客体」となっています。瞑想によって気づかなければ、ただ勝手に入ってくる情報に振り回され続ける人生を送ることになります。
 
 刹那の前に消え去った光、音、匂い、味、感覚等を脳で処理して認識したときは、見られるもの、発生した音、発生源の匂い、感受された対象はすでに存在していません。実体は消え去っているのに同時であると思慮分別しています。
 見たものは過去のすでに存在していないものです。聞こえた音は過去のものであり、もはやこの世には存在しない音であり、感覚は過去の消え去った音に対しての感覚です。「今感受」しているものも次々に生滅して滅し去っています。燃え残った灰のような価値の無い「」のようなものを拠り所としています。
 数年前のTVのLIVE中継を思い出してください。同時中継されていると映されている画面は、現地では存在していません。電気ストーブでの赤外線によって温まりますが、温かいと感じた時と赤外線が出た瞬間ではズレがあります。発生源ではすでに消えてしまった赤外線を次から次に感じているだけです。

 あらゆる出来事が、縁によって引き起こされています。刹那で生滅しています、消滅したものを五感が受け取り、さらに脳で処理された後に認識され、次に意識させられています。この限りないループが1秒の間に何回も繰り返しています。すでに「消え去った幻」を体験させられ考えさせられているのが現実の我々です。
 
 光の速さが30万km/秒であっても、太陽の光が地球に届くのに約8分かかります。「ご来光」とありがたく見ている太陽も8分前の太陽の電磁波が目に入っているだけです。何百光年も離れてる星々を見たとしても、存在しているのか消滅しているのかどうかは定かではありません。

 現実である世界と思い込んでいる世界は、刹那の前に消え去っています。すでに存在していない世界を体験しているだけなのです。あらゆることは認識前に消え去っています。我々は後追いで認識させられている「客体」です。存在していない対象から取り残され、悩み苦しんでいます。

 無常であり存在していないものに対して、「主体」でもない「私」という幻想が何とかしようと考えています。我々の身体では、五感によって感受させられています。身体では、感覚が起こっては消え去っている現象が起こり続けているだけのことです。

 人間の身体でできることは限られています。せいぜい随意な筋肉を伸ばしたり縮めたりするだけの事です。食べるために手を伸ばして、口に運び、顎を動かし食道に送り込むだけです。食べ終わった後の口から先への働きかけはできません。
 胃の中の食物に対しては自分の意思ではどうにもできません。胃酸を多く出してやろうとか、特定の食物を速く消化させようとか、栄養素を多く身体に取り込むこともできません。お腹が空いて生存するために食さなければならないだけのことです。我々は自然現象の真っ只中に組み入れられた「客体」の存在であると体験するしかありません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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