So-net無料ブログ作成

一切顛倒ー10 [仏道]

 「当たり前」にやっていること、「当たり前」に起こっていること、「当たり前」にできること、「当たり前」の事象、「当たり前」の感覚等に疑いの目を持ち、自らを真剣に観察し自らを正すことはなかなかできません。
 物理法則は「当たり前」に起こっている現象を「当たり前」として見過ごさずに、何か法則があるのではないかと観察して発見されました。いわゆるDiscover(カバーを取り去ることで隠されていた法則が見つかったこと)により実証されました。
 リンゴは「当たり前」に木から落ちていた。風呂に入れば「当たり前」に水かさが増え溢れだしていた。琥珀をこすると静電気が発生して糸くずが吸い付いていた。コイルのそばで磁石を動かすと電気が発生した。
 いくつもの法則の発見から様々な発明が行われ現代社会へと繋がっています。物理法則には再現性が求められますが、再現性がなければ偶然の出来事でしかありません。
 人間界で起こる現象や人間の内面の感覚を観察して法を発見し、実践法を示したのがお釈迦様であることは周知の事実です。

 仏教用語にある、四苦八苦、十二縁起、一切皆苦、諸行無常、諸法無我等の概念を「言葉」によって弟子(僧)に伝え「法」として現在に至っています。七科三十七道品の修行や禅、坐禅、公案禅、大乗仏教など様々に発展しています。
 修行結果は、個々人の実体験であり表現できるものでないため「不立文字」とされています。個々の体験は対面して確認するほかないようです。ある時点をとらえた一時的な現象が思い込みや錯覚である可能性があります。修行は終生続くもので、怠ることなく心を磨き続け清浄にしていくものです。

 「当たり前」に使っている「言葉」について考察してみます。
自灯明・法灯明」「すべてのものはやがて滅びるものである。汝等は怠らず努めなさい」(大涅槃経)
「ただひとり行くのがよい。 無知なる(愚かなる)者を 道連れとするな。 ひとり歩め。
悪いことをするな。 林の中にいる象のように、求めること少なくあれ。」(ダンマパダ330)

 お釈迦様が「自灯明・法灯明」と言い残したのは何故でしょうか。
自灯明の理由は、お釈迦様のような指導者が存在しなくなったとしても、自己観察により心を清浄する主体として存在し続けるからです。
法灯明の理由は、「言葉」は「概念」と共に作られたもので消え去ることがない。物質は消え去るが、 「言葉」は消え去ることなく「法」として生き続けることができるからです。
 地球上では、「法(言葉)」を理解し、自己探求できるのは人間だけです。他の生き物は「言葉」を理解できないし、いわんや修行により心を清浄にすることはできません。人間だけがこの世に結実しないように心を清浄にできるのです。仏になってない人が「犬に仏性」が有りますかと問われれば、「有る」とは言えません。己が成仏すれば「山川草木悉皆成仏」となり、他を成仏させ仏により成仏させられます。もし、菩薩に囲まれ暮らすことになったら一般人として生きていけるのでしょうか。狼と一緒に暮らしても人間として人間の常識を狼に押し付けて生きていけるでしょうか。
 「山川草木」に勝手に観念を押し付けて見ているだけです。「山川草木」は自然のまま何世代も変わらずに”いのち”を繋いでいるだけです。「山川草木」に対し悪意で見れば悪となり、善意で見れば善となる。

 「言葉」は「概念」ですから実体はありません。「無常」という「言葉」には実体はありません。「喜怒哀楽」に実体はありません。怒りを掴むこともちぎって投げ捨てることもできません。
「花」とはどこからどこまでが「花」なのでしょうか、根の1本1本が「花」ではないというなら根を全部切りとっても「花」のはずですが「花」は咲かないので「花」ではありません。花びらも「花」の一部ですが「花」そのものとは言えません。
 「花」は花の要素が集合されて「花」と定義しています。我々はあいまいな共通認識によって言葉をつかっているだけです。
 文字でかいた「花・はな・ハナ」も「花」と認識し、絵で描かれた「花」も「花」と認識し、写真の「花」も「花」と認識し、鉛筆で書かれた「花」も「花」と認識し、言葉で発音した「はな」も「花」と認識して各人の勝手に思い描いたイメージとして了解しているだけのことです。

 絵の花はただの輪郭でできた形と色の周波数を認識し、記憶にあるイメージの「花」というカテゴリー類似性に合致すれば「花」として了解することになります。「はな」と発音された言葉の周波数と、記憶にある様々なアクセントと照合して「花」と了解します。どれもこれも曖昧であり、他人の「花」のイメージなど確認していません。曖昧な「概念」を押し付けたり受け入れたりしています。このいい加減な合意によって社会生活を営んでいます。

 人間は、「花」の各部である根・茎・葉・花・雌しべ・雄しべ・葉脈・花粉・花柱・花柄などの集合した有様を見て「花」と呼び、共通の認識をいだいているだけです。
「花」は、一時的に花の各部が結合した有様でしかないのです。4枚の花びらの1枚が落ちて3枚の花びらでも「花」と言うことでしょう。本当にいい加減であいまいな「概念」でしかありません。
 「花」と認識することは、一時的に結合した有様であり「記憶」にある「花」の概念に合致したものです。すなわち、「花」であろうが「家」であろうが「人間」であろうが構成要素が集まったものです。その構成要素が、各自の抱いている「概念」と合致した状態であれば該当する「言葉」をあてはめます。

 「人間」も因縁結実し物質化され、この世に現れた一つの集合体です。時の経過によって必ず分解消滅する自然の中の現象でしかありません。
 因縁を持っているので「空」から卵子と精子、受精卵、胎児、新生児、小児、子供、小学生、中学生、大人、壮年、老人、病人、死体と様々な変化をしながら分解消滅していき恒常なる実体などありません。
 死ぬ1秒前までは人間であり、死ねば死体と呼ばれます。死体となればただの忌み嫌われる「物体」なのです。
 生まれる前は「空」から因縁によって結実され、因縁を持って死ねば分解され「空」となるだけのことです。渇愛の無くならない限り「人間」として、一時的にこの世に姿を現して生涯を通じて様々に変化しているにすぎないのです。もし、心を清浄にしつくして因縁を清算することができれば再生のエネルギーが消滅して「無」となる。

 この稀なる「人間」としての生をただ漫然と生かされていてはなりません。心(働き)が煩悩により汚れていくだけです。生きている間に心を清浄にして(停止させる・中道)「平安・自由」を体験することで、生に応えることになります。
 
 欲望とは欠乏を感じているということです。「身びいき」のために心を働かせるのではなく、心を清浄にするようにしなければなりません。心を渇愛のために働かせ、エネルギーを作り出すことで次なる結実の原因となります。
 
 聖者であろうが一般人であろうが色受想行識の「受」の段階では、同じように反応しています。暑ければ暑い、寒ければ寒い、美味しければ美味しい、苦しければ苦しい、痛ければ痛い、悲しければ悲しい、可笑しければ可笑しい、怖ければ怖い、息苦しければ息苦しい、目がかすめば目がかすむ、膝がいたければ思うように歩けない「当たり前」のことです。
 しかし、「身びいき」による渇望感があることで、必要以上の執着と忌避が起こります。この執着と忌避によって心が汚れ、作用(心の磁化)が起こると思われます。

 日々「当たり前」であるとして見過ごしてきたことを、逐一観察することで真理に触れることができるのではないでしょうか。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


nice!(1) 

一切顛倒ー9 [仏道]

 なぜこれほどまでに探究し続けるのでしょうか?また「自由」でありたいのでしょうか?
 探究とは、時間の観念で「過去・現在・未来」、身体という観念からは「内部と外部」とに分けることができます。内部である自己探求、外部である宇宙探究です。それぞれに「過去・現在・未来」を探究します。

 我々が、「自由」を実感することができないのは、限定された身体で生きているからではないでしょうか。我々の周りの全てが未知であり、我々が限定された有限の身体のために不自由さを常に感じながら生きているからでしょうか。
 未知を既知にするために、知覚するあらゆるものに対し「概念」で構築された「言葉」をつけてきました。
 
 楽しみたい、何かを求め得たい、何かにすがりたい、何かしていないと落ち着かない、常に何かに突き動かされている。常に思考が湧いてくる、じっとしていられない、常に満たされない。
 我々は我々自身の五感を使って世界を実感したいのです。我々は主体でいたい、主体であるべきだという衝動に突き動かされています。
 長い間、単細胞から人間へと進化する過程を通して行われてきたことは、自己保身と危険回避です。永続するためには、益になることに執着し、害になることから逃げ回っていました。
 我々は「主体」として自己保身ができ危険回避ができるように努めてきました。「主体」として存在に働きかけ、存在を変えたいと願うようになりました。そこに貪り驕りと怒りが備わることになったのです。
 進化によって発達した前頭葉は、自己正当化の間違った働きにより、他者をおとしめるために使われています。残念ながら自意識のためだけに使われているようです。

 残念ながら我々は、「主体」ではなく純然たる「客体」です。このことを素直に認めなくては先に進めません。我々は感受している「主体」ではなく、感受させられている「客体」であると認識しなければなりません。
 己が「主体」として存在していると意識するので、「客体」が生まれ二元対立が起こります。二元対立がある限り「迷い」の世界から抜け出せません。

 己が探究する「主体」であり、何かを得ることが思い通りに実現できたことにはなりません。無常なるこの世では実体のない一時的なものでしかありません。何かを、実現させることが「自由」であると勘違いしてしまっているようです。
 見る「主体」ではなく、見せられている、感受させられている「客体」として生きています。身体のどこかが痒くなったらどの指でどの程度の力で痒ゆいところを刺激しようと考えるでしょうか?自動的に無意識で程よく、強すぎず弱すぎず勝手にできるはずです。身体に起こった(痒みが先に起こって、最初の痒みは消え去り、次の痒みが起こっては消えています)ことに対して、「客体」として対処させられているのです。もし「主体」であるのなら、痒みが起こらないようにできるはずです。
 自然に起こる事であり、我々の身体のいたるところで縁起による自然な出来事が起こっています。

 「私」という作られた概念が「幻想」です。「私」が「主体」であり、この世に働きかけて思い通りに実現したいのです。このような思考の束縛から解き放たれることが「自由」なのです。思考から解放されるためには冷静な自己観察が必要です。

 我々は、この世という現象界において自然法則に従わされており、勝手に動かされている「客体」であることに気づかなくてはなりません。
 春になるとウキウキし、「私」は自分の意志で「主体」として桜の花を観賞しているのだと思っています。しかし、自然界のリズムに同調して動かされている「客体」なのです。居てもたってもいられずに出かけているだけのことです。

 四季折々のリズムに従がわせられ、服装や食べ物も季節に採れる食材で生活させられています。真冬に真夏の装いをする人はいません。いくら「主体」で行動していると言い張っても、自然に従わされている「客体」でしかありません。外部環境に逆らえずに生きている自然の一部です。
 我々の身体において考察しても同じです。食べることは、空腹という自然現象によって食べなくてはなりません。洗濯も風呂も身体の不浄によって洗わされています。好き好んで主体的にやっているのではなく、やるべくしてやらされています。
 どんなに願っても、神様に全財産を貢いでも病気になり死を免れることは不可能なのです。
 
 我々は対象を見ているのではなく、光の反射によって光の周波数が自動的に眼から入ってきます。全てが眼耳鼻舌身体によって認識させられています。聞いているのではなく、耳に入ってくる振動を音として認識させられています。見えているものを眼が情報を選別したり、聞こえている音を耳が選別したりすることはできません。眼耳鼻舌身体に入る情報を制御できる「私」などいません。

 音は連続のようですが、細かく別々の音の周波数で耳の聴覚神経に伝わり刻々と脳で認識されては消滅しています。次々と音の周波数が波のように伝わり次々に認識されては消え去っています。
 音は発生してから脳で認識された時には、発生源ではすでに消え去ったものです。我々の意識は、すでに存在していない発生源の音に対しあれこれと思いをめぐらせています。前の音が完全に消滅しているので新たな音が認識されています。もし、前の音が残っているのなら今の音とダブって聞こえてしまうことになります。

 脳で認識している対象は、対象に光が反射することで色特有の周波数を出しています。脳では情報を受け取っては消して画像として認識し続けています。前の画像が残っていて今の画像に重なれば混乱することになります。

 我々は、五感から否応なく入ってくる情報を受け取っている「客体」であり、勝手に脳で処理され意識となってしまっています。入ってくる情報を疑うことなく、脳内で思慮分別させられる「客体」となっています。瞑想によって気づかなければ、ただ勝手に入ってくる情報に振り回され続ける人生を送ることになります。
 
 刹那の前に消え去った光、音、匂い、味、感覚等を脳で処理して認識したときは、見られるもの、発生した音、発生源の匂い、感受された対象はすでに存在していません。実体は消え去っているのに同時であると思慮分別しています。
 見たものは過去のすでに存在していないものです。聞こえた音は過去のものであり、もはやこの世には存在しない音であり、感覚は過去の消え去った音に対しての感覚です。「今感受」しているものも次々に生滅して滅し去っています。燃え残った灰のような価値の無い「」のようなものを拠り所としています。
 数年前のTVのLIVE中継を思い出してください。同時中継されていると映されている画面は、現地では存在していません。電気ストーブでの赤外線によって温まりますが、温かいと感じた時と赤外線が出た瞬間ではズレがあります。発生源ではすでに消えてしまった赤外線を次から次に感じているだけです。

 あらゆる出来事が、縁によって引き起こされています。刹那で生滅しています、消滅したものを五感が受け取り、さらに脳で処理された後に認識され、次に意識させられています。この限りないループが1秒の間に何回も繰り返しています。すでに「消え去った幻」を体験させられ考えさせられているのが現実の我々です。
 
 光の速さが30万km/秒であっても、太陽の光が地球に届くのに約8分かかります。「ご来光」とありがたく見ている太陽も8分前の太陽の電磁波が目に入っているだけです。何百光年も離れてる星々を見たとしても、存在しているのか消滅しているのかどうかは定かではありません。

 現実である世界と思い込んでいる世界は、刹那の前に消え去っています。すでに存在していない世界を体験しているだけなのです。あらゆることは認識前に消え去っています。我々は後追いで認識させられている「客体」です。存在していない対象から取り残され、悩み苦しんでいます。

 無常であり存在していないものに対して、「主体」でもない「私」という幻想が何とかしようと考えています。我々の身体では、五感によって感受させられています。身体では、感覚が起こっては消え去っている現象が起こり続けているだけのことです。

 人間の身体でできることは限られています。せいぜい随意な筋肉を伸ばしたり縮めたりするだけの事です。食べるために手を伸ばして、口に運び、顎を動かし食道に送り込むだけです。食べ終わった後の口から先への働きかけはできません。
 胃の中の食物に対しては自分の意思ではどうにもできません。胃酸を多く出してやろうとか、特定の食物を速く消化させようとか、栄養素を多く身体に取り込むこともできません。お腹が空いて生存するために食さなければならないだけのことです。我々は自然現象の真っ只中に組み入れられた「客体」の存在であると体験するしかありません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 

一切顛倒-8 [仏道]

 諦(てい)は、真理または悟りのことです。あきらめる、しかたがない。言+亭(しめくくる)、腹を決めてあがきを止めること。そこに悟りがあります。

 人生で何かできると諦めきれない。所有できると諦めきれない。成功できると諦めきれない。名声を得ようと諦めきれない。苦から逃れることができると諦めきれない。欲望を叶えると諦めきれない。他人を思い通りできると諦めきれない。「自我」の「私が、私の」という強迫概念である「何かできるという信念」から逃れられないし諦めきれないのです。

 全てを諦めギブアップすることが、「自我」の消滅なのです。何かを成し遂げることを諦めることは臆病者や敗者ではありません。すべての執着を手放すことは、人生における最大の挑戦であり、誰でもができることではありません。
(参照:三解脱門の無願解脱)

 社会生活で起こる様々な現象や災害は、火災なら防火扉やスプリンクラーや消火器などで防げることもあるし、安全装置によって防げることもあります。しかし、どんなに注意してもどんなに防火設備を準備したとしても限界があります。
 巨大地震が起これば都市は一瞬にして崩壊することは東日本大震災で経験済みです。人間という思考の範囲では自然が人間に災害をもたらすという被害者としての視点しかありません。

 人間の住んでいるところに大雪が降り、立ち往生となったので「迷惑な大雪」と論評されています。雪が人間を狙い撃ちにしたわけではなく、大雪が降るところに人間が生活を営んでいるだけのことです。数十年に1回の大雪になる気象条件が重なり雪が降り続いただけのことです。
 自然現象自体には制御者や計画者や統制者は存在しません。豪雪地帯に住んでいる人に落ち度や責任もありません。人と自然という対立軸の観点がある限り被災という言葉が出て来ることになります。
 
 「」という者が出現して「判断」することで「事実」で終わることができなくなります。被害を与えた「悪者」を捜し出し責任転嫁や自己正当化するために「真実」を突きとめようとします。もう元には戻らない「事実」は既に過ぎ去っています。
 「私の」という執着や後悔があるので、「自我の介入した嘘の真実」を必死に見つけ出そうとします。「自我」にとっては自然災害も誰かの責任にしなくては納得がいかないのです。勝義諦では、加害者も被害者もいません。起こることが起こっているだけのことです。

 「事実」はもう過ぎ去って消え去っていて「無」となっています。「事実」の前の元通りには戻りません。過ぎ去っている現実があるだけです。「事実」は記憶に置き換わっているだけで消えています。
<例>ワイングラスが割れた「事実」は過ぎ去り過去の出来事。
 ・割れる前のワイングラスはもう元の形は存在していません。
 ・割れた音は既に消え去っています。
 ・割れた状態はそのままにはしておかないので、割れた瞬間の状態はもうありません。

 すでに新たな「今ここ」が次々と永遠に続いているだけです。単なる「記憶」に振り回されることになっています。諦めとらわれなければいいだけのことです。
 「自我」のために「自我」が満足する都合のいい自然現象だけが展開されるわけではないことに気づき、天変地異などのどんな災害に遭遇したとしてもそのまま自然現象としてやり過ごすことです。

 人間は自然現象と分離した存在ではありません。人間も宇宙の一部であり、宇宙そのままであり、地球の一部であり、地球そのままであり、自然の一部であり、自然そのままであり、命の一部であり、命そのままです。肉体を持った他の生命と同様に老化はするし、病気もするし、最後には死んでいくだけのことです。

 「今ここ」の瞬間瞬間がパラパラ漫画のごとく消え去っているだけです。我々が自然現象を統制できることができないように、我々の老病死も統制できません。
 あらゆる社会現象も宇宙的視点から見れば地球の自然現象の一部として認識されるのです。災害に見舞われたのではなく自然現象の中に居合わせただけのことです。自然現象が襲ってきて虐げたわけではありません。

 あらゆる出来事は自然現象であり、被害者とか加害者は存在せず、ただ起こるべくして起こっているだけのことです。=「本当の真実」(勝義諦)
 誰の責任でもなく起こるべくして起こったことなので責任を問う必要は無く犯人捜しをせずにあるがままに無関心でいることが「本当の真実」です。

 我々の死は「特別」ではなく、どこにでもいつでも起こっている当たり前すぎる当然のことです。地球上では10秒で18人程度の人が死んでいます。
 起こることを受け入れられず、様々な策略や誹謗中傷や犯人捜しをしている間は「私=自我」を持ち運び、「私=自我」に操られ「」を永遠に生み出し続けるしかありません。あらゆる出来事は起こるべくして起こり、宇宙の中の大きな流れの一部です。「私=自我」が意図して流れを変えられることなどできません。

 良寛さんは「しかし災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」と手紙に書いています。

 良寛さんは、自然の中に組み込まれている人間には「死ぬ」ことや「災害」は当然すぎる当然のことであります。当たり前の事にいちいち煩っても救われません。防げぬことに逆らう「愚かさ」に気づきなさい。「人間と自然」という考えを捨てて「人間は自然そのものの存在であると」言ってくれているようです。

 我々は「自然と共存していこう」と言う言葉の裏には「自然と人間は異なる存在」という意識があるのではないでしょうか。共存する対象ではなく、我々は自然そのものです。
 我々の行動も含めて起こることは全ては自然現象なのです。動物の行動は自然現象であり、人間の行動は自然現象ではないと区別したいだけです。大いなる宇宙の一部であり、地球の一部であり、自然の一部である「いのち」です。「諸法無我
 
 災害に逢ったら「意識の成長のための試験」であると真摯に向かい合い、死ぬ時節が来れば死を逃れないと観念するしかありません。

 災難は「私=自我」が自然と分離して、自然の脅威から逃れたいという希望があるからです。人間も自然の一部に組み込まれています。あらゆる災難に見舞われる可能性があります。降りかかった災難ではなく、我々が宇宙の中の真っ只中に存在し自然現象の中の真っ只中に存在している確かな証拠です。
 
 何が起ころうが縁によって「あるがままの現実」が起こっており、起こっていることに対して拒否することも逃れることもできないのです。「災難」に逢っても「どうして私だけ」と考えても考えても、悩んでも悩んでも答えなど出ません。「今やるべきこと」と「今できること」を精一杯淡々とやるだけです。誰かに責任転嫁しても安心立命となりません。

 世界で2番目に地震が多い国に住んでいながら、自分だけは災害に逢わないでほしいと言うのは調子がよすぎます。災害列島に暮らしているのですから常に災害に逢うことを覚悟しておかなければなりません。

 春が来れば桜が咲き、夏になれば蝉が鳴き、秋になれば紅葉し、冬になれば雪が舞う。死期が来れば死ぬ。宇宙の全てが生まれて枯れて死んで消滅していく。ただそれだけのこと、どんなに考えようが悩もうが変えられない、当然すぎる当然なことでしかありません。すべてが縁によって成り立っています。いつどこで災難にあおうが当然すぎる当然なことです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


nice!(0) 

一切顛倒-7 [仏道]

 我々は「物理法則」を使って、実生活に役立て快適な生活を求めているようです。数百年前の人からみれば奇跡のような恵まれた生活を送っています。残念ながら快適=精神的満足、便利=安楽・自由・平安とはなっていないようです。

 心が満たされないので物質的欲求となって外に求めます。満ち足りて平安・自由であれば、満たそうという衝動に駆り立てられることがないことは想像に難しくありません。
 宇宙は何時誰が創ったのか知らなくても、我々は宇宙の一部であり宇宙そのものとして存在しいています。
 
 例えば「魚」はそのものではないならば、「魚」を1匹ずつ消去していき遂にはすべての魚を消し去ります。次に海藻は海そのものでないならば、同様に消し去ります。魚も海藻もない海水だけになりました。次にバケツ一杯の海水は海そのものでないならば、一杯ずつ消し去ります。最後の一杯もではないので、ついに海は存在しなくなります。

 つまり今の海は今あるものが何一つ欠けても今の海ではないと言うことです。今あるすべてがそろって今の海なのです。今の魚一匹であっても今の海の一部であり今の海そのものです。今の宇宙も今あるすべてがそろって今の宇宙です。我々は誰一人残らず今の宇宙の一部であって、今の宇宙そのものです。

 あらゆる存在に「名前」を付けることで、我々と分離した「存在」として認識してしまったのです。今の我々もあらゆるものは別々ではなく今の宇宙と一体であり、今の宇宙そのものです。
 我々の身体は宇宙にある物質の組み合わせで創られています。我々の身体は宇宙そのものからできているのは疑いの余地がありません。

 地球も物も我々も全ては、宇宙とは分離していません。別々ではありません。我々が勝手に、対象に「名前」を付けて別のものとして区別しているだけです。
 今の宇宙は生滅していますが、「宇宙」という概念と「宇宙」という名前であるたった漢字二文字で把握される対象となりました。そこには、神秘性や壮大な空間が感じられず単なる研究対象か天にある空間として認識されるだけとなったのでしょうか。
 
 あらゆる対象に名前や識別名が無ければすべては一つです。
 体内の細胞に名前をつけたらどうでしょうか?今日は踵にあるNo1001~No9000までの細胞が死んでしまったと嘆くのでしょうか?「名前」をつけることで「特別」と「偏狭」と「非神秘性」と「分断」と「区分・差別」と「選択」と「対象」が作られます。

 「名前」はまず「私」を作り「他」を作り出します。欲望や所有の対象となるものを「具体化」することもできるのです。
 買ってきた犬を“スノー”と名付けたとします。犬は自分が“スノー”という名前であるとは知りません。犬は飼い主に対してどう振る舞うかも知りません。人間が勝手な概念で飼い犬を定義し、“スノー”と呼ばれる犬は飼い犬として生きていかなければなりません。
 
 人間は、一つ一つ自分で定義したものに囲まれ、その定義されたすべての対象でできているのが宇宙であると思い込んでいます。本来宇宙は一つであるが、人間の定義で分断され人間の思考範囲の宇宙に格下げされてしまいました。

 名前をつけると「手」も客観視されてしまう。「手」は身体の一部とみなされてしまう。あたかも身体から分離した部品として扱われる。本来は身体と一体であり身体そのものであります。「手」という「言葉」がなければ、身体と分離した部品のような扱いはできなくなる。名前がなければ対象が特定されない。

 実社会では名前が付けられ名前をつかって便利に生活できます。物体とは識別するためにつけた名詞。最初から名前のついた物体は存在してはいない。人が対象を管理下にしたり、己にとってどういう存在(善か悪)かを知っておくために「概念」+「言葉」=「名前」を付けたに過ぎない。

 平安・自由な生活を願うなら「言葉」から離れ「花」という物体として見るのではなく、初めて見る名も無い「そのもの」に触れ、「そのもの」と共に在り、「そのもの」を客体としてではなく、「そのもの」を主体として、見ている己が客体となり見られているかの如く。

 盤珪禅師の「不生禅」では、仏性は不生で霊明である。「身びいき=自我」によって迷っている。本来仏であり探すようなものでなく、仏性を得たり仏に成ったりすることではない。赤子のままが「仏=本来無一物」であった。
 「身びいき=自我」する前の赤子がそのまま仏である。いつ仏だと特定することはできないので、仏となった(仏が生まれた)痕跡は見つからない。これを不生というので、仏が生まれていなければ滅することもない。不生不滅

無事是貴人:あれこれ求める心がやんだところが「無事」であると、おっしゃっています。
衆生本来仏なり(白隠禅師)
「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生悉(ことごと)く如来の智慧、徳相を具有す」(お釈迦様)

―――
 我々は、宇宙と分離してはいない。「身びいき=自我」によって迷子になっている仏です。
 我々は「身びいき」を持った仏。「身びいき」をするには分離した対象が必要です。自分のために得る対象が必要となります。対象を放棄すれば「身びいき」も現れません。対象にこうあって欲しいと望まなければいいだけの話です。
 外に求めれば求めるほど「身びいき」が強くなり、仏から離れます。
 仏は宇宙と分離しているでしょうか。宇宙そのものが仏、宇宙に存在するあらゆる事象・事物が仏の現れにほかならないと言えます。仏が仏を求める必要はなく、ただ一体となれば仏そのものとなります。
 冬季オリンピックが始まります。自国という枠を取り払い、オリンピック選手にこうあって欲しいと言う気持ちを持たず、全力を発揮した姿と一体になりたい。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 

一切顛倒ー6 [仏道]

 身体が「私」であり、身体の要求する(貪り:食べ物、旅行、快楽等)ことに応えるのが人生だ。身体に執着してどこが悪いのか。よく観察してみましょう。

 自分の身体の事は、自分が一番良く知っていると思っています。しかし、実際は身体のことはほとんど知りません。自身の身体であるにもかかわらず制御も統制も思い通り出来ていません。もし自分自身の身体なら、痛みが出たらすぐに消すことができるはずです。病気にはならないだろうし、病気になっても自分で治せるはずです。かえってストレスで自分自身を痛めつけています。

足に触れてみてください
 「足」に触れることはできるでしょうか。「自分の足に触れてみてください」と言われ、千人が千人同じ場所に触れているでしょうか?
 「足」に触れるとは、各自の「概念」でつくられた「足」に触れているだけです。各自が勝手に作った「概念」である「足」でしかありません。つまり「足」という決まったものなど無いのです。
 
 「足」とうい「概念」の一部分に触れているだけで、「足」という「概念」すべてに同時に触れることはできません。概念化された「足」といわれる一部に触れているだけです。足という「概念」が誰もが同じ共通の「概念」だと思っているだけです。誰もが自分と同じにように理解しているものだと思い込んでいます。大きな勘違いです。

 「足」は、骨、肉、筋肉、筋、血管、温かい、血液が通っている身体の中のある部分、足首から下の部分というふうに作り出しています。足の指は足そのものでしょうか?「足」の一部分で「足」そのものではありません。もし足の指が足なら、足の指以外は足ではないのでしょうか。

 我々が触れた場所以外は「足」ではないのでしょうか?足と定義した全体が足というなら、足全体を同時に触れることは不可能です。足の内部も足というなら、どうして触れられるでしょうか。足の骨や血管や筋や筋肉も同時に触れることなどできません。足が痛いといっても、痛いのは特定な部分であり「足」そのものではありません。

 次に手に触れてください、頭に触れてください、私に触れてください。すべては「観念」であり、「身体」全体に触れることはできません。自分の身体に執着すればいろいろなことを「考える=妄想する」ことで自我に餌を与え続けることになります。「考えている私=思考」の雲が晴れることがありません。

 触れることのできる「身体=私」などどこを探しても見つからないのです。
 ためしに身体に触れてください。皮膚の一部か、服の上から胸を触れているのでしょうか。
 次に、身体のある部分をつねってみてください。「私」が痛いのでしょうか?つねられた部分の痛点が反応して脳に信号が送られ、脳が痛みという反応を感じ取っただけです。「私」ではなく、ある部分の反応です。現象として起こったのです。
 我々は、誰でもない=nobody = no body = 身体では無い

 我々は、自分の血管すら見たことはありません。自分の臓器すらどうなっているかもわからずに生きています。身体の細胞がどうなっているかも見ることなく一生を終えるでしょう。何十年も生きてきてほとんど何も知らないのです。何も知らないのに、あなた自身の身体と断言できるでしょうか。

 今まで、自分では一切制御も統制もできず、まかせっきりの身体でした。これからもまかせっきりの身体で過ごすのです。食事や運動に少々心がけ、少しでもいい状態に維持するのがせいぜいです。 いつまでも身体の欲しがるものばかり求めていては進化から遠のきます。今生で有意義に使わせてもらい目覚めるためのものです。
 
 どんなに悩み苦しんでも自己憐憫しても、恨んでも憎んでも「死」からは逃れられません。しかし、この身が死ぬのは一度だけです。死期などだれにもわかりません。生をうけたときから「死」はあたりまえすぎる事実です。

 何度も輪廻していると仮定してみましょう。前世の死を一つも覚えていないと言うことは大きな衝撃ではないということです。
 深い眠りに入った瞬間を覚えてるでしょうか?死の瞬間は苦しいのでしょうか。深い眠りに入る前の方がいろいろ気にかかります。寝る前のあがきの時間のほうが苦しいのです。
 リラックスして明日のことや今日のことも一切気にせず、委ねることです。寝る前のあがきから自分を解放してあげます。

 日々の身体的な苦しみも寝る前のあがきと同じです。悩んで考えても冷や汗がでるだけで、何ら解決しません。起こっていることは起こっている、どんなに考えても私の思い通りの身体ではありません。苦しみを他人事のように、呼吸に意識を移して「今」に意識を戻してみましょう。苦しみは「考えている私」がいるからであると気づきます。「考え」が囚われであると見抜いてみましょう。次の朝、一体何に悩んでいたのか不思議に思うことでしょう。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。



nice!(0) 

一切顛倒ー5 [仏道]

 人生はなるべく「苦」は少なく、「楽」に生きていきたい。裕福な家庭に生まれ苦労なく贅沢に暮らしていくのが最高な人生だ。好き勝手に生きることが幸せ。
 老人になっても欲丸出しで生きる。何歳になっても、自分の頭で考えて行動していけば人生は楽しくなる。
 残念ながら、すべてが顛倒しています。これでは「自我=嘘・偽り」の思うがままであり、進化しません。

 お釈迦様のエピソード「四門出遊」では、東西南の各門から出て「老病死」という「苦」を目の当たりにします。最後の「北門」にいた旅の修行者の平安を見て出家を決意し、「寂滅の道」に進むことになりました。

 「」によって、「私は誰か?」という疑問を真剣に考えさせられることになっています。進化のチャンスである「苦」に直面しているにもかかわらず「苦」を避け、意図的に「見ないふり」や「苦から逃げる」ことをします。しかし、同じような「苦」がさらに大きくなって降りかかってきます。「苦」を意図的に望んではいけません。

 なぜなら「苦」は自我の「あるがままの世界の拒否=自我の欲望を実現したい=二元の世界」による「あるがまま」との「ギャップ=苦」がほとんどだからです。「自我」が作っている「嘘・偽りの世界」を見破らない限り何度でも「苦」は起こります。成長するための試練です。
 
 意識を最大限に働かせ「苦」に対峙し克服する過程で意識の進化が起こります。
 「苦」には「自我が自作する試験問題」と「宇宙意識・空・仏性など皆同じ、による試験問題」があるように感じます。

 真の強者とは、いかなる「苦」が降りかかってこようとも、逃げも隠れもせずに心身を「苦」に委ねます。女性は出産に当たって腹を決め、我が身を投げ打って出産しています。男性には及びもつかないたくましい肝があるのではないでしょうか。
 一方、人生の弱者とは、「苦」に遭遇する前に「安全」な道を用意して「苦」を事前に回避しています。もし「苦」と分かれば早々に尻をまくって退散するか、身代わりをたてその場しのぎする人です。何とか知恵を絞って悪あがきするのです。

 「苦」には、命を懸けるほどの一大事から些細なことまで様々です。肉体的・精神的・経済的・家庭的とバラエティに富んでいます。
 死別・病気・老化・離婚・離職・精神疾患・破産・倒産・いじめ・差別・侮辱・陰口・酷評・世間体・虐待・火事・水害・地震・戦争・停電・断水・詐欺・・・同じ状況でありながら、「苦」と認識し落ち込む人と避けられないことが起こっただけと捉える人など程度も様々です。

 耐え難い「苦」に直面していても、「苦」などどこ吹く風のごとく泰然自若としていたいものです。いつまでも「苦」がつづくわけでもなし、全てが移ろい変わっていくのが人生です。人生を川に喩えれば、「苦」は急な流れに出くわしただけのことなのです。

 「苦」を多く体験するはめになるのは、あれもこれも「自己同一化」してしまうのが原因のようです。「自己同一化」によって「自我」が大きくなり、些細なことでも「苦」に置き換わってしまいます。
 すべての所有物が「私の~」で満ち溢れています。この装飾品は「私の頑張ったご褒美」でとても愛着がある品です。すべてに自分で作った「品物に対しての物語や妄想」です。自己同一化することで、あたかも体の一部であるかのように愛着を抱いてしまいます。全ての物質や機械は劣化し壊れるのが当たり前です。早めに劣化や故障が訪れただけの話です。車が少々傷つけられようがあなたの身体ではありません。そのままでもよし修理しても良し怒りを起こすほどの事でもないでしょうに。
 しかし、車と自己同一化している人は自分の身体が傷つけられたかのように烈火のごとく怒り「苦」となり己を苦しめることになります。傷つくのが少し早まった程度のこと、走りに影響することは無い、それで終わりです。

 できることなら自己同一化を宇宙大まで拡大して、あらゆる物事が私であるとするならば自他の区別が無くなり、遂には所有の概念さえも無くなるところまで到達すればいいのですが。残念ながら、「己」の出費した代償である所有物でしかないとのちっぽけな思考に留まっています。

 物だけでなく、家族やアイデンティティ(国籍・出身地・出身校・体型・性格・性別・知識・知能・運動能力・容姿・ファッション・情報処理能力・家系・宗教・信念・観念・愛読書・友人・・)さえも自己同一化による所有物としています。
 「自己同一化=自尊心=心の拠り所」した対象を比較されたり、卑下されたり、見下されたり、利用されたり、傷つけられたり、叱責されたり、差別されたり、無視されたり、グループを作ったりすることで「苦」から逃れられないことになっています。

 「自分=自我=苦を作る」がかわいい、「自我」が常に優位に立っていたい、他を征服して気持ちがいい、「己」の思い通りにできる喜びを感じる、ストレスを発散できる、自己証明や自己確認をしたい。何かを為している「私」が存在しているという存在確認。他とは違う「特別な私」という自己主張。

 「自我」は「苦」を作ることによって、「自我」の嘘を見破られるかそのまま生き抜いていけるかの「賭け」をしているのです。「仮の自分=自我」が「本来の自分」をだましていることに気づかなくてはなりません。

 他人を苦しめても意味はありません。強者なら、他人に打ち勝つよりも己の欲望や執着に打ち勝つ方がいかに大変かわかると思います。自分の中の「仮の自分と本来の自分」とのせめぎ合いは、他人には一切わかりません。己の内の「自我=嘘」を見抜く(照射)ことこそ「勝者」といえます。十牛図の牛が自我です。
 十牛図の第1図「尋牛」で、頭の中でお喋りしている誰か「自我」がいることに気づいている「私」は、あたりを見渡し「自己」の内面へと探究の旅に出かけていくのです。

 自らが「苦行(意味のない身体への仕打ち)」を好んで実施するのは自我の罠です。「苦行」を達成したと言う自尊により自我の強化と自我の隠れ蓑(精神的達成による逃避)に利用されます。
 真の「苦行=空行=空へと至る行」とは、自らに降りかかった「苦」を受け容れて学ぶことです。自我のあがき(執着や欲望)を冷静に観察し、巻き込まれずに離れ「自我」を退ぞかせるのです。十牛図の第8図「人牛倶忘」参照

ーーー
 「苦」をことさらに怖がっていては、進化することができません。実体のない「幻想=思い込み」の自己同一化をひとつひとつはぎ取っていくことです。「苦」を真剣に観察し、「苦」が進化のステップだと信頼することです。ありがたく喜んで経験させてもらい「学ぶ」ことです。
 あなたが「苦」と向き合っていることには誰も気づきません。内面の葛藤なのです。打ち勝つには意識的に観察することで、「苦」は幻想であると気づくことです。「苦」を振り返って見れば「幻想」ではないでしょうか。

 「病気」が癒えて、普段の何気ないことに感謝したことはないでしょうか。「歩ける」ことに感謝したり、「食べれる」ことに感謝したり、「見える」ことに感謝したり、「手が動く」ことに感謝したり、「呼吸できる」ことに感謝します。感謝した瞬間に「今ここ」にいたのです。感謝には自我は働くことができません。

 なんで「苦」があるのか納得いかなければ、内なるマスターに問いかけてみてください。答えが来るまで放っておく(信頼と勇気が必要)ことです。「自我=幻想」が作ったのだから幻想であるに決まっています。戦わずして勝つことが最も優れた勝利です。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


nice!(0) 

一切顛倒ー4 [仏道]

 知識を自慢する人は、「記憶量」と「想起スピード」だけが「己」の拠り所となっています。「知識量」はクイズ番組では、優れた能力の一つですが能力を判定する全てではありません。高学歴ということは、知る必要のないことまで「知識」としてため込んでいることを自慢すること。いまだ大学入試では「知識」を詰め込んで吐き出す「記憶量」の試験ががほとんどです。近い将来はAIの進歩により「記憶」無意味さがより顕著になっていきます。「寂滅」の道においては「知識」が少ない方が速く進みます。

 「本」で調べることが出来れば、「本」に書いてあり「本」を見て確認すればいいだけのことです。「本」の隅々まで「記憶」する必要があるでしょうか。
 「記憶力」の試験だけで大人になったとしても「記憶」にない緊急事態にスムーズに対処できるか疑問です。「記憶量」と「想起スピード」は、他人と比べ誇ることのできる「能力」であるとみなされています。「記憶」は「私」であり「私」たらしめています。

 「記憶量」を後生大事にしている間は、「寂静」から遠く離れたままです。1テラのハードディスク(5千円程度)で10,000冊(小さな図書館)の情報量が「記憶」できます。また、電子辞書なら2万円程度の商品があります。「記憶力」を誇っている人でも電子辞書の「記憶量」には及びもつきません。
 誇らしげに「記憶量」を自慢していても数万円の商品以下でしかありません。
記憶=過去」を大事にしていることが顛倒しています。

 「記憶」は何のために使われているのでしょうか。
 「私」という自己証明(アイデンティティ)を確立するために「記憶」に依存しています。どの国に生まれ、どの土地に生まれ、どの家柄に生まれ、どのような親に育てられ、どのような信条があるか、どのような宗教や宗派に属しているか、どのような親族か、どのような成績だったか、どのように道徳的か、どのようなものを食べていたか、どのような方言か、どのような体型か、どのような学歴か、どのようなスポーツが得意か、どの程度の運動能力か、どのような職歴か、どのような会社に勤めているか、どのような地位か、どのような仕事か、どのような土地で、どのような家に住み、どれくらいの収入で、どのような生活で、どのような趣味で、どのような人とつき合っているか、どの程度の権力があるのか、腕力があるのか、・・・数えきれなほどの自己証明の数々、どうでもいい自己証明をたよりに「私=自我」が構築されています。

 「私=自我」はできるだけ多くのカード(自己証明)を持っていたいのです。
 「自慢」という慢心があることによって、「己」を観察することが出来なくなります。「私=自我」を強固なものにしているだけです。「私=無我」であることの発見を遅らせることになり自己欺瞞、自己保身を強化させるだけです。

 「寂滅」には「自己証明」など一切不要です。「誰でもない・何者でもない=無我」を知覚するには、「自己証明」など捨て去っていなければなりません。あなたの過去に興味があるとしたら、真なる指導者ではありません。人種や国や学歴や年齢や男性か女性かなど、バカバカしい不要な証明でしかありません。

 目立ちたい(何者かでありたい)がために、日本まで来て「嫌がらせ」の映像を公表したり、大声でスポーツイベントを妨害する人もいます。小学校4年生と同程度の「子供じみた」映像を見ている人の感覚は大丈夫でしょうか。
 また、生きていることを実感したいのか「すごい」と言われたいのか、「特別」を実証するために命の危険も顧みず様々なことにチャレンジする人もいます。

 「インスタ」映えということで、自尊心を満たし、ひけらかすための消費は「自我」が最も喜ぶことです。「寂静」とはほど遠い「騒動・混乱」を起こして愉快になっています。成長にとってはかえって大きな回り道になってしまいます。
 過去は消え去っています。過去の「私」などどこを探しても見つかりません。「記憶」である過去に別れを告げてください。「今この瞬間」以上に価値あるものはありません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


nice!(0) 

一切顛倒ー3 [仏道]

 「自我」は「いのち」を守るために、限られた些細な情報をもとに日々獅子奮迅の活躍をしています。受け取った情報や頭の中で構築した「思考」を使って、あたかも最善の選択であるかのように白黒をつけています。

 すべての思考は「いのち」の継続のために自己愛、自己保身、自己保存を常に考えています。休むことなくけなげに働いています。せっかくこの世に「いのち」を授かったのですから、従順に「いのち」を繋ぐシステムに従っています。この自己保身システムに組み込まれているプログラム通りに「いのち」の保護と安全確保に徹しています。この「苦」から回避するプログラムの主体となっているのが「私=自我=思考」です。

 「自我=思考」は単なる「いのち」の保身のために作られましたが、肉体や感覚や感情や判断を統合した「私」という「概念」を作り出しました。
 「私」は「言葉」を使って現実を解釈することができ、他人に意思を伝えることもできるようになりました。
 「言葉」によって意志を都合よく構築することができるようになりました。「私」は頭の中だけの「概念」や「言葉」を駆使することができます。頭で作られた「私=自我」の「意志」によって自らが行動します。

 「思考→意志→行動」が何度も何度も繰り返される中で、「概念」でしかなかった「自我=私」が主体であると勘違いしてしまったのです。何度も何度も繰り返すことで疑うことのないほどの「私」が確立されました。

 「己」の肉体は、ある程度意思通りに動きます。完璧には制御できないまでも歩く・立つ・伸ばす・曲げるなど肉体を操ることができます。「己」の感覚もある程度実感できますが、制御はできません。感覚は常にオープンであり感覚を遮断したり使わないように制御はできません。
 常に「あるがまま」を感受しています。「自我」が勝手に思いを働かせ都合のいいように解釈をして「苦」を作っています。

 「自我」は体験されたことに対して「概念」からなる「言葉」で表現します。「己」の感情である「喜怒哀楽」なども「概念」を使って、ある程度「言葉」で表現できます。「己」の判断も二元対立の「概念」によってある程度「言葉」で表現できます。「言葉」ではある程度でしか表現できません。

 肉体や感覚や感情や判断は「ある程度」の動作や表現しかできないのです。「自我」ができることなどささいなことでしかないのです。「雨粒」の一つでさえ降らせることもできません。花の種を蒔くことはできますが、花を咲かせるのは環境と花自身の「いのち」の力です。「自我」は自然に働きかけているのではなく、自然の客体なのです。

 「自我」は「私」という狭い「概念」の中で必死に自己主張しています。「私」という実体があるかのごとく振る舞っています。本来は実在していない「概念」だけの「私」なのに、あいまいなまま「私」と言っているだけです。我々の共通認識である「私」という「概念」で通じ合っているだけのことです。これが顛倒です。

※「私」は辞書では、一人称・話し手、自分
-----
「私」に問いかけてみてください。
Q:5歳の時の肉体は「私」そのものでしたか?
A:それはまさに「私」でした。
Q:5歳の肉体はどこにありますか?
A:もうこの世には存在しません。5歳の時の「私」の肉体など今は存在していません。

Q:それでは、今の「私」は5年後、1年後、1か月後、1日後、1時間後、1分後、1秒後も今のまま存在していますか?
A:もう今という瞬間は過ぎ去ってしまっているので、瞬間瞬間に全く同じ「私」など存在しません。確実に消え去っています。
 もし、全く同じ「私」が存在しているのならだれも「生まれたままの赤子」のはずです。
 すべてが変化するということは、何かが生まれ何かが消え去ることです。今生きている地球上で変化しないものはありません。

Q:「私」は常に変化して、消え去っているのです。それでは、今まで使っていた「私」という一般的な「概念」のままでいいのでしょうか? 実体があると勘違いしたままでいいのでしょうか?
A:真理ではありません。「私は、瞬間瞬間変化しています。前の私は完全に消え去っています。一瞬前であっても全く同じ私は実在していません」と新しい認識にしたいと思います。パラパラ動画のように前の1枚は消えてなくなっています。新しい1枚も次の1枚もあらかじめ存在していません。
 常に新鮮で予測できないパラパラが展開されています。ただ、起こり続けているだけなのです。

Q:我々が使っている「私」という「概念」は、一般的に通用する「概念」を便宜上使っているということですか?
A:そうです。一般社会生活では、他人とのコミュニケーションをとる便宜上「私」という共通「概念」を使わざるを得ません。
 しかし、正しく見るなら「私」はどの瞬間をとっても確固たる実体はないと理解すべきです。変化し続けている「私」という「言葉」であって「概念」でしかありません。本質は実体のない「空」でしかありません。

 「花」も、「瞬間瞬間変化して躍動している花」です。「鳥」も、「瞬間瞬間変化して躍動している鳥」です。すべての「言葉」には「瞬間瞬間変化して躍動している○○」と認識しなくては正しく見ることはできません。常に現在進行形です。また、それぞれが実体のない「空」であることも気づかなくてはなりません。「無常」であるものには固定永続する実体はありません。
―――

 同様に、肉体を感覚、感情に置き換えて問いかけてみてください。何もかも存在していない「空」なのです。

 「私」は単なる「概念」であり、「私」と思っているものには実体はなく瞬間瞬間に消え去っています。我々も我々の認識している対象も確固たる存在なく「空」であり、瞬間瞬間を共に起こり続けるだけです。

 「私」が不在であっても、すべてはただ起こっています。見るのは「私」ではなく、「見る」が起きている、聞いているのは「私」ではなくて、「聞く」が起きています。あらゆる事象は「私」が居なくても(私が思考していない)ただ起きているのです。

 私たちの理解できない言語(例えばフランス語)を聞いたとします。人が話したのに意味の通じないただの「音」でしかありません。しかし、日本語を聞くと意味をくみ取ろうと必死になります。もし、ここに書かれた言語がハングル文字やアラビア文字であったらただの記号でしかないのです。「自我」は意味を探り、なんとか意味のあるものにしようと必死にあがくのです。

 私たちの目の前に見えているこの瞬間の出来事があります。たった0.001秒のこの瞬間をすべて「言葉」で表現して他人に伝えることが出来るでしょうか?
 目で見えている次の瞬間のすべて、さらに次の瞬間のすべて、さらに次々の瞬間瞬間のすべてを「言葉」で表現できるでしょうか。瞬間瞬間を切り取り、頭で処理(解釈)して「言葉」で表現することは不可能なのです。ただ起こることをそのまま受け取るしかないのです。

 瞬間瞬間に起こっていることに対して思考して解釈するなど「不可能」なのです。しかし「自我=思考」は、何とか答えを出そうと努めます。思考の対象は「過去」のものであって「今の瞬間」ではありません。「過去」とは消え去ったものです。実体のない「空」を思考している思考も実体のない「思考」です。「空」に対して思考を使っても、答えは意味の無いものです。

 「自我」が存在に対して判断するということが、途方もない馬鹿げたことだと理解できていない証拠です。人間の視界の範囲で宇宙全体を判断して思い悩むようなものです。

 過去に対して「思考」することは「苦」を作り出すだけのことです。過去を思うことで「後悔や復讐や執着や憎しみ恨み」が「苦」となって襲い掛かります。馬鹿にされたと思うということは、自分の劣等感を指摘されただけです。劣等感の元になっている「こだわり」を持っていた過去の「己」はすでに存在していません。「こだわり」もただの「記憶」です。役に立たない「記憶」として取り合わないようにすれば消えていきます。消そうと思わずに、「そんなことがあったのか」と気づくだけ消えていきます。他人事のように「遠い昔のこと、価値のないもの」として気づくだけでいいのです。
 「過去」は何も存在していないということに気づき、すでに無くなっていることに悩む意味がないということに気づくことで消え去ります。

 耳で聞こえていること、肌で感じていること、体調、雰囲気、空気感、呼吸、瞬き、舌触り、唾液、足の具合などなど、表現され得ぬ表現を超えたとてつもないことが瞬間瞬間に起こっては消えています。
 この壮大なる存在に対して、限られた「自我=思考」でしかありません。何十万語しか持ち合わせのない人間の語彙を使って、どうして「思考」が全てを受け取ることができるのでしょうか。また人間の語彙で「思考」して表現することができるのでしょうか。

 「自我」ではオーバーフローしてしまうのは自明です。これから先にAIが実用になり、存在の一瞬をカメラでとらえたとします。AIに対してその一瞬を言葉で表現しなさいと命令します。どんなにAIが進化してもと「見る→思考する→語彙選択→表現する→表示する」と次から次へ瞬間瞬間の処理はとてもできるはずはありません。AIもギブアップすることでしょう。人間より優れた「思考」のAIでさえ表現できないのに、「自我」が存在の一切を受け取ることなどできません。あるがままを受け取るには、根源なる実在に委ねるしかありません。

 「自我」は大いなる存在にギブアップするほかありません。壮大な風景を見て「言葉」では表現できない(思考が停止)ことを体験した瞬間があるはずです。数秒後に乏しい語彙の中から絞り出した賞賛の「言葉」で「素晴らしい、感動した」で終わらせてしまいます。  

 「自我」は壮大な存在に完全に圧倒され敗北しているはずです。「自我」を明け渡さなければならないのです。
 山に登らなくても、庭の木々や公園の木々や小指ほどの花でさえ表現を超えた存在なのです。我々の眼前には、「自我=思考」の範疇をはるかに超えた存在が瞬間瞬間に広がっているのです。

 「自我」をそのままに、存在の一部に成り下がってはなりません。コペルニクス的転回が必要です。主体から客体となり大いなる存在に混ざり溶け込み存在そのものである主体そのものに成ることです。「抵抗」している「自我」は「言葉」での表現が及ばない存在へと混ざり「言葉」を捨て去り、「言葉」の無い存在へと溶け込み存在と一体となる。
 ただ受け取るだけ、頭を使って判断しないこと。存在とともにあり続ける。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 

一切顛倒ー2 [仏道]

 「抵抗・摩擦」がゲームオーバーのための「マスターキー」の一つです。「抵抗」がいかなるものかを知れば、根源に戻るヒントが見つかるはずです。「抵抗」を知りつくし「抵抗」から抜け出さなければなりません。

 「抵抗」はエネルギーを生み出し、生きていることを実感させてくれる。「抵抗」が大きくなるほどエネルギーが必要になる。エネルギーを使えば使うほど生きている実感が感じられる。「私は生きている、私は闘っている、私はエネルギッシュだ」。「抵抗」は顛倒している。

 宇宙には「抵抗・摩擦」がない。宇宙のほとんどが「沈黙」であり、ほとんどが「空間」です。音も香りも味も何もないない「味気ない空間」である「空・無」がほとんどすべてである。宇宙空間の中で、音や香りや味や人や植物に出会うことは「奇跡」でしかない。我々の現前で、今の瞬間でしか味わえない現象が繰り広げられている。

 雨粒一つが「奇跡」、頬をなでる風が「奇跡」、鳥の鳴き声が「奇跡」、葉の落ちる音さえ「奇跡」、一筋の光が「奇跡」、数えきれない「奇跡」に出会っているのです。宇宙の全体を知ることに何の意味があるというのでしょうか。今この瞬間に「奇跡」の現場に居ながら、一体何を望み何を叶えれば満たされるのでしょうか。今この瞬間の「奇跡」を見逃し続け、この「奇跡」の連続より価値のある何を望んでいるのでしょうか?

 内なる「沈黙・空間」と一体になりましょう。目で音を聞き、目で味わい、目で質感を感じ、耳で情景を見る、耳で質感を感じ、耳で味わう、舌で見る、舌で音を聞く、・・・すべてを試して「奇跡」に出会い「奇跡」と共にあるのです。

 宇宙の深遠な沈黙の中にありながら、宇宙で地球上だけしか音が奏でられていると。地球だけで「響き渡る音」を聞き分けてみてください。その音には何の意味もありません。宇宙でただ一人あなただけが感受した「音」であり、その「音」は瞬時に消え去り「空・無」となっていることに気づいてください。
 「音」を手放して、何も探そうとはぜずに内なる「沈黙・空間」に出会ってください。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
nice!(0) 

一切顛倒-1 [仏道]

 自由とは思い通りにできることではない。自由とは自由を放棄することである。これは不可解であり理解し難い。顛倒しています。
 自由とは「自我」の束縛から自由となることです。「自我」から自由になれば「自我」の思い通りにはなりません。「自我」の自由を放棄するのです。「自我」の勝手な「思い」を放棄するのです。
 真の自由は「自我」の不在により達成されます。

 「自我=思考」が生ぜず「自我」の「思い」を無くすことで「自我」の囚われから自由となることです。
 「自我」の「思い」は放棄されたのです。「自我」がいなくなれば、この世で何かを達成すべきために「自我」が働きかけることはありません。「自我」というプレーヤーが不在となります。
 「あなた」は実在に委ねることで「自我=主体」が退き、実在が主体となります。委ね任せることで、あるがままの実在そのものとなります。

 「自我」が「自我」として存在している証しとしての「特別」を捨て去るのです。
 「こだわりを持った私」を放棄するのです。「自我」は「記憶」だけで成り立っています。「過去」は既に消え去ってしまっています。過去のアイデンティティにしがみつくのは止めて、とっとと別れを告げるのです。
 もともと「特別」な誰かなどいません。「特別」は「自我」が作り出した「自我」だけの幻想です。生まれたばかりのただの人となり、すべての実在と同等となればいいのです。

 「自我」を保持したままで無に等しいだけの存在となるか、それとも存在そのものとして生きていくのか。存在と分離したままで生き続けるのか、分離なく存在そのものとして生き続けるのか。

 「思い」は現実となるという謳い文句の誘惑は、「この世で永遠にゲームができますよ」という宣言をしているようなものです。「思い」を抱き、この世で運よく願いがかなったとしても、次の生で同じようになるとは限りません。違う経験をする筈です。成功率数%の確率が何度も何度も続いたらゲームの意味がありません。
 人間世界で、あらゆる体験をし尽くさなければ、ゲームオーバーにはならないのです。「思い」を抱き続ける限り「自我」の「欲望」は叶うかもしれません。しかし、ゲームでの通過点である「老病死」という点は必ず通過しなければなりません。

 「思い」が実現となり裕福になったとしても、たかが知れたものです。裕福になることはすばらしいことですが、「思い」を持ち続けていてはいつになっても「静寂」が訪れることがありません。
 リゾートで寛いでいるようですが頭の中は実現させたいという「思い」が荒れ狂ったような嵐のごとく吹き続けています。寛いだ気分でありながら真の楽しみは束の間の出来事でしかありません。
 願いが叶い喜ぶのは一瞬であり、「自我」はもっともっとと次から次へ願い求めます。際限なく「思考」を活動させています。
 
 無意味な「思考」のゲームから脱し「空・無」へと帰還しなくてはならないのです。「自我=思考」の罠にはまって足止めすることのないように気をつけたいものです。
 知らず知らずのうちに自己正当化の罠にはまってしまわぬように細心の注意が必要です。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(1) 

照見五蘊皆空ー7 [仏道]

 老齢になって何をしたらいいか分からないので、とりあえず「働くこと」で社会と繋がっていたい。孫ができれば気晴らしもできます。しかし、死期は遠ざかることはなく確実に歩を進めます。何を為すべきか、分からないままでも「働いていれば」勝手に時が進んでくれます。何をなすべきかも分からず過ごしていては虚しく時を過ごすことになります。

 寂静となり平安を体験すれば、何のために生まれた来たかが自ずと体験できます。誰も導いてはくれません。「己こそ己のよるべ」です。己に問えば己が答えそのものとなります。

 平和だけ存在することはない。生だけが存在するわけではない。静寂だけ存在することはない。喧騒だけ存在することはない。苦だけ存在することはない。怒りだけ存在することはない。憎しみだけ存在することはない。愛(一般世間での愛)だけ存在することはない。迷いだけ存在することはない。悟りだけ存在することはない。

 宇宙に存在するあらゆるものは、対極と共に存在する。あらゆる「概念」も相反するものと混じりあっている。すべては気づきのためのゲームであり、パラドックスなのです。

 闘争や戦争があるからこそ平和を実感できる。死があるので生を実感できる。喧騒があるので静寂が実感できる。「」があるので楽を実感できる。不幸があるので幸福を実感できる。貧乏があるので裕福を実感できる。病気があるので健康を実感する。怒りや忌避があるので平安を実感する。憎しみがあるので愛(一般世間での愛)を実感します。他方の「概念・感情」があるからこそ対極の「概念・感情」を実感することができます。

 二つは、二元対立でもあり混ざり合ってもいるのです。磁石と同じでどんなに細分化して結合して巨大化されようとも陰陽でありつづける。陰陽図では、陰の中に陽が僅かにあり、陽の中に陰が僅かにある。憎しみの中に僅かに愛(一般世間での愛)があり、愛(一般世間での愛)の中に僅かに憎しみがある。時として、憎しみは瞬時に愛(一般世間での愛)に変わり、愛(一般世間での愛)は瞬時に憎しみに変わる。可愛さ余って憎さ百倍。

 二つは同じだ。深い愛(一般世間での愛)には深い憎しみが潜んでいる。深い憎しみには深い愛(一般世間での愛)が潜んでいる。男の中に女が、女の中に男が内在している。我々は男と女が混じりあった存在である。男は女に成り得る。女は男になり得る。大きな一つの実在(宇宙)の中に小さな実在があり、小さな実在の中に大きな実在がある。

 すべてはパラドックス。得ようと思えば失う。失えば得る。逃げれば追いかけてくる、追いかければ逃げられる。探せば離れ、探さなければ訪れる。知れば知るほど混乱し、探究を止めれば探究は完成する。

 真実の愛は他者を必要としない、本源から沸き起こる愛である。他を愛しなさいとは己の内側から沸き起こる愛と同じく、無償であり見返りを求めない愛でなくてはなりません。一般世間での愛は取引であり見せかけの愛でしかありません。偽りのない本源から沸き起こる悦び、寂静には対極は無いそのままの悦び、そのままの寂静があるだけである。

 毒の中に薬が、薬の中に毒がある。毒は毒を制する。薬を大量に摂取すれば毒となる。
 不幸の中に幸せが、幸せの中に不幸が潜んでいる。不幸であれば少しの恵みが大きな幸せを運んでくれる。何不自由なく生きてきた人には少しの不幸で人生を棒に振ってしまう。

 悲しみの中に笑いが、笑いの中に悲しみがある。極限の悲しみを経験してしまうと、そもそも自分の努力では何もできないということを痛感する。最初から何も出来なかったと知るだけ。努力することの意味がなかったと理解できる。バカバカしい努力をあざ笑うしかない。笑わされている己は、何もしていない。何も出来ていない置き去りにされた「己」に、悲しみが襲って来ることもある。

 真理の中に嘘が、嘘の中に真理が潜んでいる。真理を探し求めて探し回っていること自体が嘘である。己の幻想でできた「この世」が嘘と理解し幻想を捨て去れば真理を観ることができるだろう。
 バカバカしさの中に真実が、真実の中にバカバカしさが潜んでいる。乾きの中に潤いが、潤いの中に渇きがある。

 夕暮れと夜の境界では明と暗が混ざり合っている。地球と宇宙の境界は既知と未知が混ざり合っている。人の世界と動物の世界は混ざり合っている。生と死は混ざり合っている。人と仏は混ざり合っている。

 迷いと悟りは混ざり合っている。思考から離れた時を観察していくと、雲間に広大な青空を垣間見ることがある。
 迷いがあるので悟りがある。迷いが消えれば悟りも消える。悟りは得たり獲得するものではない。得るものであったら皆が得ることができる。知識や観念であればだれでも得ることができる。マニュアル通りに動いたり覚えたりすればいいだけのこと。

 「いのち」は、生きている実感を味わいたいのだ。何もかも経験したい。憎しみも愛も、悪も善も、苦も楽も、戦争も平和も、混乱も平安も、若さも老いも、病気も健康も、生も死も、希望も絶望も、神も悪魔も、女も男も、すべての二元は設定事項。全てが混ざり合っているだけのこと。
 
 般若心経は「照見五蘊皆空」だけで十分だ。混ざり合ったものは区別できるものではない。どちらでもない囚われることなどできない「空」として観るほかありません。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 

照見五蘊皆空ー6 [仏道]

趙州録 「庭前の柏樹子」
僧問う「いかなるかこれ祖師西来意」
師(趙州)いわく「庭前の柏樹子」
僧いわく「和尚、境(客観)をもって人に示すことなかれ」
師いわく「われ境をもって人に示さず」
僧いわく「いかなるかこれ祖師西来意」
師(趙州)いわく「庭前の柏樹子」
-----

 多様性は変化を如実に現前させている。全てが同一であれば変化など読み取れない。存在の一切が異なっています。あらゆる存在は、常に変化しそれぞれに時間の差異があり、形状の変化として現れています。これが諸行無常の現れではないでしょうか。
 変化を自ら選択でき、変化を実現できることが自由で平等です。均一なところには自由も平等もありません。それなりの変化ができることが平等です。変化を望んでも変化できなければ不平等となります。

 一切は自ずから変化しています。すべてには実体のある主体的な我など存在せずに、縁起によって繰り広げられています「諸法無我」。我々は実体のない迷妄の中にあり、迷妄の中で達成することなど何もありません。迷妄を迷妄として受け取り、迷妄を迷妄として見るよりほかありません。

 存在は、それぞれがそれぞれを表現して現前しているだけす。己も柏も同じ存在です。宇宙も柏も「今」と言う同じ時間を共有し、同じ宇宙の一部であり宇宙そのものとして宇宙に存在している。それぞれの存在のどこに違いがあるでしょうか。柏の有り様は自然の理にかなった生き方をしています。
 
 己と他と区別する意味などあろうか。無常の中で縁起によって、どこかに生まれその「いのち」をただ生きているだけのこと、形は異なっても宇宙創成から様々な変遷を経て今ここに同時に出現して、縁起によって生きているではないでしょうか。

 柏は迷ってはいない、時節に応じ育ち「いのち」の営みをただ生きているだけのこと。各存在が与えられた特色そのままに振る舞っているだけのことです。存在はことさらにこうしようとか、ああしようとかの計らいは一切ありません。柏は「己」と変わることなく生滅を繰り返し枝を伸ばし葉を茂らせ生きています。柏だけでなくすべての存在は、自然のサイクルの中で「特別」など一切ありません。

 宇宙の縮図は、今ここにあります。森羅万象の現れであり仏性そのものです。柏の有り様がまさに宇宙の有り様であり、存在の有り様です。一つを見て全てを知らねばいつになっても真実に出会うことは叶いません。
 全てを調べなければ真実が理解できないのなら、真実の理解は永遠に不可能です。砂漠の砂粒1粒を知れば砂漠全体を知ることになります。砂漠の砂粒すべてを調べ尽くす意味などあろうはずはありません。

 人は何でもかんでも知りたがる。一つを知ればそれで終わりにすればいいのに。己を知れば他人を知ることになる。己も他人も知ればすべての人を知ることになる。全てを知れば知る意味など無いことに気づく。
 全知とはすべて知っているので新たに知る必要がないので「不知」・「無知」です。全能とは全てができるので新たに何かをする必要が無いので「不能」・「無能」です。「全知全能」とは「不知不能」・「無知無能」であるとも言えます。実際、人間が都合よく作り上げた「概念」である「神」は、何もできず何もしてくれません。

 神は、人間の理解を超えた出来事を説明するための「概念」であり、無知な人々を脅し服従させるために「利用」していました。支配者のご都合主義で作られた最高の「概念」と言われても否定のしようがありません。皆を悩ませる「サタン」をほんの1週間だけでも休んでいてほしいと思っている人も多いようです。「サタン」も恐怖を植え付けるのに便利に使えるので大事にされています。

 己を知れば知るほど己の空や無を体験することになります。我々はただ感受しているだけの代物でしかありません。それもある期間限定(生まれて死ぬ間)だけの感受でしかないのです。求める必要などなく、求めて得たとしても水泡のごとく手にすることはできません。
 
 陽を浴びて風になびく枝は、一切を拒むことなく受け入れています。雨や雪が降ろうと「いのち」のまま、その場所に生えたからにはその場所で生きていく定めです。己の意志で生まれたわけでもなく、己の意志で死ぬことも叶わず。成すこともなく成されるのみ、存在の定めに従い生きるよりほかありません。柏が椿に成れるわけでもなし、柏は柏としてそのまま仏性の中で「いのち」の赴くまま生きていることに不思議はありません。

 人はあらぬ欲望をもち天下を求めたり繁栄を希求するが、そのまま生きているといえるのでしょうか。「価値判断」のハードルを上げることなど必要ありません。むしろ「価値判断」のハードルを消し去れ。瞬間瞬間がそのままであり、そのままをそのままとして受け取り続けています。
 柏は柏という名前などなくとも、観る人は柏として受け取らざるを得ません。柏という「観念」なしに見るべきであり、柏も柏として育つ必要もありません。ひとつの「いのち」として育つだけのこと。自己を自己として意識して育つ必要もありません。

 人馬一体となり、乗る人も無く乗られる馬もいません。観られる柏も無く、柏を観る己も無い。主体と客体の区別など無くなります。
 徹底的に思いを無くし計らいもなくし夢もなくし、無くも無くし、空っぽの「空」となるしかありません。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
nice!(0) 

照見五蘊皆空ー5 [仏道]

[碧巌録]
ある僧が禾山(かさん)和尚に尋ねた。
 「悟りを本当に得るとは、どんなことですか」
 禾山は、ただこう答えた。
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「ならば、最高にありがたいものとは」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「もう少し変わった答え方をしたらどうなのか」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「私を若輩だと思って馬鹿にしているのか。もし、ここに慧能大師がおられたら、どんな答え方をされるのか」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
―――

「悟りを得たら、どうなるのですか」
「太鼓を叩いた音が、ドンドン、ドドン」
自分で叩こうか、嫌いな人が叩こうが、好きな人が叩こうが、名演奏家が叩こうが、子供が叩こうが、山で叩こうが、高原で叩こうが、自宅で叩こうが、「己」にとってどのような人が、どのような場所で叩いたとしても、その太鼓が叩かれたままに叩かれた音としてそのままに聞こえるほかありません。ダイレクトに耳に届いた音の認識があるのみです。

 「音」はただの「音」であり感受された「音」でしかありません。「自我」が勝手に「想」として処理することで、好いとか悪いとか心地よいとか不愉快とか攻撃されているとか何かの合図だとか不吉だとか吉報だとか・・・・。まったく狂おしいほどの様々な「価値判断」によって「迷い」の世界にとどまることになります。
 
 道元禅師が、帰国したとき「眼横鼻直空手還郷」と言われました。
 「己」が勝手に描いた人物像はことごとく意味が無く、経典すら必要なかった。仏陀の三十二相八十種好などただ「神格化」しただけのこと、人はだれでも「眼横鼻直」であり「特別」など無かったのです。寂静である人であろうが、悩んでいる人であろうが見分けはつきません。外見が別人になるわけではありません。

 寂静であったとしても「特別」な生活を送るわけでもありません。光輝くこともありません。同じように食べて同じように排泄する「いのち」です。「老病死」が無くなるわけでもなし。「特別」な体験をするわけでもなし。「特別」な能力を身につけるわけでもありません。あらゆることを「特別」として見ることもなく知ることもありません。ありのままをありのままに受け取り、無意味な「想」から先に進みません。無意味なことに興味もなく、無意味なことをせず、無意味なことに囚われない、無意味なことは考えません。

 「自我」は、未来への恐怖を抱き、ちょっとでもいいから「楽」になることを欲しています。あらゆることを知り、「知識」と「概念化」したいのです。
 図書館にある本をすべて「記憶」したとして、「平安」になるでしょうか。それとも「混乱」するでしょうか。すべての作者は「己」が正しいという前提で本を書いています。本に書かれている真逆な概念を「記憶」し「知識」としていては、二元対立の世界から抜け出すことは困難です。

 子供にとっては「ピカソ」の絵を見ても、したり顔で評価したりしません。ありがたくも高額であるとの思いもありません。ただの油絵の具が布に塗ったものでしかありません。「特別」などありません。

 すべては「空」です。何かを測りたいということは、その行為や思い自体に「分別」をもちこんでいます。何センチだから多いとか少ないかその何センチで判断しています。雪の量を見ればそれで感じればそれでいいだけです。
 気温もそのまま感じるままを感じればいいだけです。カリフォルニアの温度が何度で湿度が何パーセントなど聞いても意味はありません。「冷暖自知」。

 「空」であるものを、機器を使って「己」の知識の範疇で知ることで「想」によって「分別」しています。目はカメラ、耳はスピーカー、味は塩分計、触は風速計・体温計・温度計・湿度計などや他のセンサー、本来「空」で見えない「対象」も機器によって知識としています。

 火星を知って何の意味があるのでしょうか。ヨーロッパの天気やヨーロッパの事件や出来事を知ってどうするのでしょうか。将来は、月に観測機器を設置して月の環境をお知らせするかもしれません。「知った」としても何もできないのです。月の温度を知って「悩み」が減るのか増えるのでしょうか。月の「今」と「己」の「今」のどちらを見なくてはならないのか。
 すべては「起こるように起こっている」だけです。「今」起こっている以外の事は、知ろうが知るまいがどうでもよいのです。手出しもできず制御もできないことを「知る」ことは、かえって「迷い」と「悩み」が増えるだけのことです。

----
 「ならば、最高にありがたいものとは」
ありがたいのは、仏でも衆生でも同じように叩いたままに聞こえることです。

 「もう少し変わった答え方をしたらどうなのか」
問うている僧は、まだ理解できていませんのでしつこく問うています。同じ答えでは理解できないので違う「言葉」で「知識」を得たいのです。「言葉」や「知識」から離れ「音」は「音」で受け取りなさいと答えるほかありません。

 「私を若輩だと思って馬鹿にしているのか。もし、ここに慧能大師がおられたら、どんな答え方をされるのか」
 ここにおよんでも、「不立文字」の真意を理解できません。真理を「言葉」で表現することはできません。ギリギリ「言葉」として表現しています。

 他の禅師であったとしたらどうなんですかと異なる答えを求めています。
 だれが仏道を説こうが「如実知見」であり、自ら体験するべきです。「冷暖自知」。



<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 

照見五蘊皆空ー4 [仏道]

 「自我」が構築したあらゆる「知識」「言葉」「観念」「概念」「判断基準」は、「空」へと解体すべきです。解体できなければ「自我」に囚われ続けることになります。「迷い」は「自我」によって作り出されたと理解できない限り囚われから抜け出せません。
 「老病死」などの「苦」に逆らうことはできないのです。逆らえないことに対しては放っておくことです。「老い」を受け入れられないのは「自我」が他人と比較して「若く」いた方が良いという社会からの脅しに迎合しているからにほかありません。

 まっさらな目で、「あるがまま」と対峙しなくては本来の姿は見えてきません。各人が思い思いの「想」を作ることで迷っています。「迷い」は「己」が勝手に作っていることを自覚しなければなりません。

 主体と思っている「己」が「客体」と見なしている宇宙のあらゆる対象は、1(己)対無限数(あらゆる対象)です。主体の「己」は「客体」から見れば、1/無限数となり、「」に等しい存在なのです。「己」は1であると同時に「無」です。

 純粋に映画を見るように目の前の出来事を観察するだけでいいのです。目の前で繰り広げられた破壊や恋愛や家族の絆などはただスクリーンの中で起こった光の点滅を見ただけのことです。観察が終われば、何も残っていません。音と爆風を感じたかもしれませんが、ただのスクリーンでの出来事です。

 地球上で起こっていることや宇宙で起こっていることに対して責任を取る必要はありません。今も病院で苦しんでいる人がいるはずですが、あなたが責任を感じるならすべての「いのち」を救わなければなりません。「医師」という専門家に任せておけばいいのです。
 「死」によってかえって「苦痛」から解放されているのです。生まれた「いのち」は死を迎える、それが「いのち」の法則であり、「いのち」の法則を歪めることはできません。

 我々は、「無限」の存在の客体として存在しています。宇宙の一部であり、宇宙そのものであるのです。「死」によって得ることも失うこともなく、この身も解体されて無となるだけのことです。
がつがつ生きたとしても、何も手にすることができないことなど自明なことであって理解できない人はいません。執着の根本である「渇愛」という囚われを離れなくては「寂静・自由」な生活を送ることは困難です。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 

照見五蘊皆空ー3 [仏道]

 眼・耳・鼻・舌・身・意という感覚器官に、色・声・香・味・触・法という認識対象が触れることで認識(六識)が生まれます。このとき、認識する主体として「自我」が作られました。

 我々の体は、ただの感受しているだけです。「想行識」によって脳が「意味づけ」することで「自我」が主役の立場となって働きます。
自我」は、さまざまな「苦」という「抵抗」を受けることで一層の存在意義を強化していきます。

 「苦」があることにより、「楽」や「悦び・喜び・歓び・成功、happy,joy,pleasure,congratulate」が「私」は生きていると実感させてくれます。「苦」はできることなら忘れたい逃れたい避けたいので、どこまでも「楽」を求め続けることになります。

 常に恒常なる感受(受想行識)などありえず、恒常なる対象(色)もあり得ません。凄まじいスピードで変化しているので「自我」が連続して存在しているかに見えるだけです。パソコンやTVのドットが点滅して像が作られます。「自我」は、実在しないのに像とし写し出されるのに似ています。「自我」は頭の中で作り出している幻影だとの見解を得なくてはなりません。

 受の段階で終わってしまえば何の問題もありません。次の、想行識となることで確固たる「自我」が形成されてしまいます。
 色も空、受も無常です。認識したときにはすでに消え去っています。感覚器官に囚われても意味はありません。瞬間瞬間で消え去っているのですから、きっぱりと忘れ去ることです。音も景色も皮膚で感じる温暖も消え去っているからこそ味わいがあるのです。

 想:単なる光の波長、音の周波数、鼻にある臭覚を刺激する匂い、舌にある味覚を刺激する味、皮膚の感覚神経を刺激する感覚。ただの刺激データを脳で「言葉」に変換することで「苦」を作っているのです。

 例:エレベータの中で嫌いな人と体が触れた。エレベータの中で好意を持っている人と体が触れた。
エレベータの中で見ず知らずの人と体が触れた。エレベータの中で汗臭い人と体が触れた。エレベータの中でかわいい子供と体が触れた。エレベータの中で犬を抱いている人の犬と体が触れた。

 その他さまざまな状況がありますが、嫌いな人は実は双子の一方であり初対面の人かもしれないのです。好意を持っている人も双子で、何の知り合いでもない人であるかもしれません。
 人と体が触れたという状況でも、「自我」の想によって異なるのです。

 全てが成長するための「試験」として対処しなくてはなりません。嫌いになった他人を変えることなどできません。「己」の見方や観念を変えればいいだけの話です。
 好き嫌いは、「自我」が勝手に作っている幻想だということを自覚しなくてはなりません。対象を「空」として好き嫌いをなくすことです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


nice!(0) 

照見五蘊皆空-2 [仏道]

 「いのち」はただ「いのち」を繋ぐために生きることが目的であった。「いのち」は生まれた瞬間から「死」を宿命づけられ、「己」の遺伝子を次なる「いのち」に引き継ぐことで「己」の価値を見出してきた。

自我」は五蘊を「主体」とみなして活動しています。「自我」は何故生まれたか?
自我」を成り立たせている五蘊というシステムがどうして必要だったのでしょう。「己」を生存させるために「自我」という仮の「存在」を作り上げたのです。

 仮の「存在」は恐怖からの防衛のために常に「思考」することになりました。本来は仮であった「自我」が主人であると勘違いしてしまったのです。
 「己」を脅かす恐怖の楯となっている「自我」が生存の主体となりました。「自我」は主体であることに疑うことなく生きています。
 「いのち」を脅かす恐怖によって「自我」が作られたと言えるのではないでしょうか。

 現在人はどのような恐怖(苦、ストレス)にさらされているのでしょうか。
「いのち」として避けられない老病死、未来に対しての恐怖である求不得苦・愛別離苦・怨憎会苦、瞬時の恐怖である五蘊盛苦があります。
これ以外の恐怖(苦、ストレス)には次のようなものがあるのではないでしょうか。

[肉体的な恐怖]
肉体的な「死」の恐怖(必ず死ぬのだから恐れても意味がない)
肉体の一部が奪われる恐怖(病気による手術等によって切断・摘出)
病気の恐怖(健康であれば当たり前にできたことができなくなる、気が滅入る)
認識不能の恐怖(突然におこる認識不能の恐怖、耳が聞こえなくなる、目が見えなくなる)
認知できなくなる恐怖(社会生活上での自分の世話ができなくなる)
未知の恐怖(将来の不安、身の回りで起こっていることを知らないとすぐに対処できない)
[知識に関連する恐怖]
知識や想像力による恐怖(知識によってかえって不幸な出来事を想像してしまう)
知らないことの恐怖(知っていれば助かったのに知らないばかりに大変な目に遭う)
理解できないことへの恐怖(神などの概念や体験が認知できない)
[望んでいないが将来起こるも知れない]
災害による恐怖(予知・予見できない突発的な災害)
無所有の恐怖(すべてが奪われる恐怖)
失うことの恐怖(失いたくないので執着してしまう)
社会からの恐怖(社会的な弱者となり虐げられる)
貧困の恐怖(余裕を持って生きていたいが、生活が立ち行かなくなる)
[職業生活]
期限を守れない恐怖・責任を果たさなければいけない恐怖(信頼を失う)
仲間外れにされる恐怖(いじめ、いやがらせ)
期待されたことができない恐怖(評価が下がり相手にされなくなる)
ハラスメントの恐怖(一人では対処できない)
[対人]
人間関係の恐怖(馬鹿にされたくない、仲間外れにされたくない、居場所がなくなる)
他人とのトラブル恐怖(安心した生活をおくれない、不安に苛まれる)
変化に対応できない恐怖(状況に対処できない、信頼低下)
感情を制御できない恐怖(すぐに感情的になり制御できなくなりトラブルを起こす)
[偶発的]
襲われる恐怖(他人が信用できない、眠れない、鍵をかける、防犯対策)
嫌な事にあう恐怖(勝手に作り出す恐怖、平穏な生活に難題が持ち上がる)

 日々様々な恐怖(苦、ストレス)にさらされている「自我」は、思考や知識や概念や言葉を使って「己」自身で解決するか、コミュニケーションによって他人と関わりながら解決するかの何れかです。

 肉体的要素と精神的要素からできている「五蘊=自我」によって恐怖(苦、ストレス)となるのですから、「自我」を消滅させることが恐怖から離れ「平安」でいられる「道」として教えられています。

 他人はいつまでも頼りに出来ることはできません。すべてが「己」の問題であり、結局は「己」が解決しなくてはなりません。
 「私、私の、私が偉い、私の尊厳、私の未来」にこだわることによる諸問題です。この問題を解決するには、自灯明・法灯明によって現在位置を確認しながらクリアしていくことです。

 他人も忙しく、時間と費用も掛かります。手っ取り早いのはリタイヤすることです。しかし、現実は、家族の生活もありそうもいきません。この点において、職業生活をしながら仏道修行を行うことは至難を極める道です。
 しかし、地道な努力を続けることで成しえないことはありません。「」という「概念」を使うことが一つの方法であると般若心経で説いています。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 

照見五蘊皆空ー1 [仏道]

「照見五蘊皆空 度一切苦厄」 

 「般若心経」では、五蘊(色受想行識)それぞれがみな「」であると知見できた。「」を理解し執着がなくなれば、一切の苦や災いから離れることができる。
 智慧を完成するには「」を理解することである。初めから答えを先に提示してから考察しています。

 この世には神秘も秘密も一切ありません。ただ人の目が節穴なだけのこと。「リンゴ」はいつも地面に落ちていました。風呂に入れば水があふれ出ていました。風が吹けば涼しく感じます。日が照ればあたたかくなります。川は川と呼ばれる前から川です。「私」は「名前」で呼ばれ「思考」することで「私」となっただけ。ただ一つの「いのち」が「認識」しているだけのこと。

 「自我」は苦(恐怖、ストレス)が「己」を守るために作り出した幻想。
 「自我」を存続させ、「自我」たらしめているのは五蘊です。「肉体と精神(脳の働き)」によって「自我」と主張しています。五蘊は常に「苦」によって攻撃され、「苦」によって「苦しめられている」と思い込んでいるのです。
 「般若心経」では、五蘊が受ける「苦」は「空」であって実体がないものです。よって「自我」という幻想を守る必要がないことを知見しなさいということです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 

空即是色 [仏道]

 我々の頭の中で「私の判断基準」が構築され完成されています。
 我々の普段の生活において、現前の対象(色)に接している間は「私の判断基準」が自動的に働いています。

 何かを思索したり、他人とのコミュニケーションをとっている場合にはを考えたみましょう。
まず「イメージ」を頭に描き「私の判断基準=空」を基に対象(色)を作りあげていきます。

 レストランで「パスタ」を食べに行きましょうと話していれば、頭の中で様々な「パスタ」のイメージが自然と浮かんできます。「パスタ」という共通の「言葉」であるにもかかわらず、各々が別々の「パスタ」を思い浮かべています。頭の中の「パスタ」は単なる言葉であり実体がありません(空)。

 先にイメージや先入観によって対象(色)を頭の中で作り出します。「私の判断基準」で構築された対象(色)が頭の中で存在することになります。単なる「概念」と「言葉」だけで作り上げた「イメージ」と現物の対象(色)が照合されます。「イメージ」が優先され、実物の対象(色)を見て違和感を感じることもあります。

 頭の中の「言葉」は自体がない「空」です。頭の中では好きに着色したり壊したりできます。頭の中の「虚像」がそのまま対象(色)として優先します。各々が作り上げた「イメージ」が確立されています。中東の国では「甘い」食べ物をよく食べるので、「甘さ」の基準が高く相当甘くないと甘いとは言わないのでしょう。頭の中で「甘さ」に対しての「私の判断基準」が高く設定されています。
 各人がそれぞれの「私の判断基準」を設定して生きています。注射一つとっても、痛くも感じない人から、針をみただけで逃げ出したくなる人もいます。

色即是空:対象(色)たる実在は、本来比較され優劣をつけ区分される対象ではありません。
囚われることなく知覚すればよい。
空即是色:我々の生活では、「言葉」や「イメージ」でできた記憶があるために対象(色)と比較して混乱しています。「イメージ」と対象(色)が直結しています。
 単なる「言葉」という「虚像」で「苦」を味わう必要はありません。実在のないただの「言葉」で迷よわされています。「言葉」や「記憶」は実体のない「空」です。
「色是色」:実在は実在そのまま。
「空是空」:言葉は単なる言葉だけのこと。

碧眼録53則<馬祖野鴨>
百丈が師である馬祖と一緒に道を歩いていた。
その時、野鴨子(雁)の1群が空を飛んでいるのが見えた。
馬祖「あれは何だ?」。
---
※全ては「あれ」でいいのです。我々は「概念」による「言葉」でこの世を構築しています。全てが「あれ」であれば何の問題もありません。一切が優劣のない「あれ」で十分です。年齢を重ねて「言葉」が思い浮かばず「あれ」と言ってごまかすときに使う「あれ」ではありません。
 意図的に「私の判断基準」を持ち込まず、対象(色)に対して使えばよいと思います。一切差別のない対象(色)であるとして「あれ」と見るのです。
 「あれは何だ?」と馬祖も「野鴨」であることくらい知っています。あえて「あれ」として聞いたのです。「言葉」と「概念」を超えなさいとチャンスを与えました。まだ、「頭」の中の「意味のない思考」で生きているのか?
---
百丈「野鴨(雁)です」。
----
※「己」の頭で記憶していることが「判断基準」となっています。ただの「言葉=固有名詞」を使って、何の疑問もなく躊躇なく返答してしまいました。何の疑いもなく自動的に行っていることに気づかなくてはなりません。つまり、何の躊躇もなく「言葉」が出ているということは、思慮分別が無意識で行われている証拠です。「野鴨」という「固有名詞」の返答があったことは、「主体」と「客体」の区別をしていると見抜かれました。  自分自身で「当たり前」が「苦」を作っているを見抜くチャンスだったのです。
---
馬祖「どこへ飛んで行くのか?」。
---
※「どこへ」と問うことの意味はなんでしょうか。東西南北や上下左右などの「概念」は、勝手に作った「概念」です。北極点からどちらへ進んでも南です。道に迷った時には北極星の位置を知ることは意味がありますが、普通の生活の中で東西南北など知らなくても生きていけます。なんら気にすることも気に病むこともありません。
 「ここ」はどこでもなく「ここ」でしかありません。我々は「どこへ」行こうが常に「ここ」に居るだけです。
 馬祖の「どこへ」との問いは、百丈の頭の中の「思考」について問うています。「主体」と「客体」が一体となっていないため、「己」の頭を中心に思慮分別していたのです。
 「野鴨(雁)」などただ「頭」の中に存在してる「言葉」であり実体のない「空」でしかありません。
 実在の「己」は「今ここに」存在しています。頭の中にあるだけの「虚像」が本体ではありません。普通の一般人が「野鴨(雁)」と「返答」しても怒られることはありません。頭の中だけに作られた言葉としての、実体のない「虚構の野鴨」はまだ頭の中に存在しているのか?
 「どこへ」というのは、お前の実在は「どこ」に存在しているのか?今の「己」を差し置いて、手の届かぬ空の中にある対象(色)など「偽物」である。今の「己」を差し出してみよ。
---
百丈云く、「もう飛んで行ってしまいました」。
---
※「私の判断基準」で、「さっきいた場所」が「記憶」の中にあり、その 「さっきいた場所」が「私の位置の判断基準」となりそこから離れたので「飛んで行った」と答えたのです。
 「私の判断基準」があるかぎり、遠いや近いがでてきます。遠くへ行っているわけでもなく近くへ来ているわけでもありません。ただ羽ばたいた結果位置がずれているだけです。「野鴨」はあなたの勝手な「基準」をずれているわけではありません。
 自分勝手な「基準」で物事を判断すれば「苦」となることは必然です。「ゴキブリ」は「ゴキブリ」の「いのち」を生きているだけのことであり、「人間様」に迷惑をかけ申し訳ないとは思っていません。「人間様」の都合で、嫌がられて殺されるほどの悪事は働いていなはずです。
----
すると馬祖は不意に百丈の鼻柱を引っつかんで捻り上げた。
---
※「思考」しているお前ではなく、実在のお前はどこにいる。今の「お前」は、ここにいるぞ痛みを感じているそのものが「お前」である。頭で構築した「虚像」と戯れているのは実在ではない。
空即是色:頭の中で「私の思い=空」思考して実在を見ている。思考は実在ではい。
---
余りにも痛いので百丈はオウオウと泣き始めた。
馬祖「飛んで行ったと言うが、まだここに居るではないか!」。
---
※百丈の実在は「今ここ」に存在しています。思いの中にある(空)である「野鴨(雁)」などどうでもいいのです。
 頭の中であれこれ考え、その考えに振り回され「己」を見失っている「己」に気づきなさい。
 頭を使って論理的思考ができる人は、自らが「苦」を作り出していることに気づかないのではないでしょうか。頭を使えばただ「妄想」がふえるだけのことです。
 
 器が空の状態にあるほうが有用です。器がいつも満たされていて、その器に何かを入れればあふれ出してしまいます。また、混ざったらおかしな物質になることさえあります。頭は常にスッカラカンの空っぽにしておけば有用な器として使えます。考えすぎれば病気になります。
 毎日毎日考え悩まずとも、一口のお茶を味わいボーとすることもいいと思います。
----
この時百丈は冷や汗を流して悟った。
---
※ 「己」の実在は、「今ここ」に在ることを骨身で感じさせられ感得できました。頭はどこへでも行きます。「今」に生きることは難しいことです。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(1) 

色即是空ー2 [仏道]

勝手な「空」の「概念」ですので、信じることなく自らの修行にて確認してみてください。

1.空とは、実体がなく頭の中で構築された「概念」からなる単なる「判断基準」である。
  無判断=空
2.空とは、恒常の固定したものでなく、生滅しているためにしがみつくことができないこと。
  無常=空
3.空とは、あらゆる事象に隠れた原理原則や法則であり、事象を現出させるものである。
  法則・原理の根源=空
4.空とは、今の瞬間に認識できていない全てである。認識できない故に迷いようのない世界。
  認識不可能=空
5.空とは、あらゆるものを生み出し、また、あらゆるものを分解し還元され戻るところである。
  発生と消滅=空

 1番目の空の「概念」を用いて、「色即是空」を考察することで「概念」という囚われから自由になりましょう。

 我々は、生まれてから「己」に付けられた識別名としての「名前」によって呪縛されています。誰でもないただの一つの「いのち」として生まれただけです。親から「名前」を付けられることによって識別対象となりました。
 日々「名前」を呼ばれることで「私=自我」が自然に形成されたようです。他の人も異なる「名前」であるため、当たり前に分離された「自我」が確立します。すべてに名前がついているので、すべてが「己」に対比される「他の存在」であるとの錯覚のままに生きています。

 パンダにさえも「名前」を付けています。なぜ「名前」が必要なのでしょうか。我々の知識の範疇におきたいこと。「名前」によって、実物がなくても「概念」のやりとりができ新たな「概念」を作ることができます。
 この「概念」のやりとりによる会話は、実物を介在させない「空虚」な話でしかありません。体重など実感できるわけがないのに、頭の中で重さのイメージを必死に作りだしています。「体重」はただの言葉であって実際の重さを実感できないかぎり「判断・推測=空」でしかありません。

 あらゆる対象を「概念化」して「名前」をつけ、「好き」「嫌い」「どちらでもない」の三つに区分する習慣が身についています。
 「名前」を聞いただけで、自動的に分別・選別を行います。「富士山」と聞いただけで勝手な「イメージ」が頭の中で出来上がっているのです。この「イメージ」が「妄想」であり「苦」なのです。現実の目の前の「今この瞬間の富士山」を見ればそれでいいだけのことです。目の前の現前にない「空」なる対象を「言葉」を使って「妄想」しているだけのことです。「今この瞬間」をまた見逃してしまっています。1日に1秒を1回の瞬間とすると、寝ている時間を除いて17(時間)×60(分)×60(秒)=61,200回の瞬間があります。この61,200回のうちどれくらい「妄想」で見逃していることでしょう。
 見逃しは、「妄想」と気づかずに疑うことなく日々の生活に流されているからです。「妄想」という「雲」で覆われていては「智慧」で「無明」を照らすことはできません。「妄想」していると気づくことで「妄想」は消えていきます。日常でこの「気づき」を入れることで「妄想」は見破られ徐々に消え行きます。

 頭の中で起こっていることは、瞬時の判断であり「疑問」は抱きません。大切なことは「当たり前」にあえて疑問を呈し探究することです。「己」の作った「判断」の奴隷となっていることに気がつかないで生きているかもしれません。「当たり前」が正しいなら、すべての人が「寂静」であるはずです。

 対象(色)がインプットされると、今までの経験で作られた記憶の中のイメージ(実物でなく観念でつくられているので「空」)で出来上がった「私の判断基準」と対象(色=現物)が照合されます。「私の判断基準」以上であれば執着、「私の判断基準」以下であれば忌避、未確認の対象やどうでもよい対象にたいしては「保留、無視」と、瞬時に分別され自動的に反応します。

 色(対象)を認識すると、頭で構築した実体のない「判断基準=空」と結びつきます。対象はそのままの存在であるにもかかわらず、「瞬時=即時=伝達信号」に頭の中で「判断基準=空」としての対象となります。これが、認識対象は瞬時に頭のイメージとしてある。「色即是空
 「空」は無いのではなく、実体のないただの「判断基準」という「概念」だということです。

 我々が対象(色)を感受すれば、「判断基準=空」というフィルター(プログラムされた判断)を通ることによって、その対象(色)に対して執着しようが忌避しようが必ず「苦」となります。
 本来の「空」は「判断基準」が無いということです。全ての対象(色)に対して「イエス」。全てに対して「期待」しないでいることです。あらかじめ対応を考えて生きることは「生」のダイナミズムと一体となっていないことです。

 対象(色)に対して「私の判断基準」を持って接していては「苦」につきまとわれ、自由や解放には程遠いといえるのではないでしょうか。
 たまに、「私の判断基準」を超えた絶景や出来事に遭遇した場合には、あなたの「記憶」の中に該当する「概念」を見つけることができません。その体験は「言葉」には出来ません。「概念化」できないので「概念」から解放され、自由な「判断基準のない空」を体験できるのではないでしょうか。

 「リンゴ」は「リンゴ」という名前が付けられなくても存在しています。目の前の「リンゴ」に対して赤いとか黄色いとか酸っぱいとか甘いとか、硬いとか柔らかいとか勝手に「己」の頭の中で作り上げた「イメージ」ができあがっています。そのイメージと比較して食べていては、今味わっている「リンゴ」を真に味わっているとはいえません。

 今味わっている「リンゴ」は硬くもなく柔らかくもないのです。「私の判断基準」より硬ければ硬いだけのことです。「私の判断基準」など一切とっぱらって、今食べている「リンゴ」は一生に一回しか食べられない「一期一会」の「リンゴ」です。今食べている「リンゴ」を「私の判断基準」なしに「ありのまま」を味わい尽くすだけのことです。この固さこの味以上でも以下でもない「不増不減」、まさに「今味わっている」そのものです。それで、中道ができたことになります。
 「固有名詞」をつけないで「これ」を味わえばそれでOKです。「リンゴ」を食べているのではなく、「今この瞬間」にある「これ」でしかありません。他人と会話するときは「リンゴ」で言わないと「記憶力」を疑われます。「己」の頭では「リンゴ」とは言わず「これ」も言わないでただ味わうだけです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 

色即是空ー1 [仏道]

 色は我々が認識可能な対象。
 「空」は我々が作り出した「概念」を破壊するための「概念」として使ってみましょう。この世に対しての「執着や忌避=苦」から解放され「自由=寂静」になるために使えばいいのです。
 何故「概念」を破壊しなければならないのでしょうか。それは、「概念」によってこの世で迷い囚われているからです。

 進化の過程で手に入れた「言葉」と「概念」が自由の障害となり「己」を束縛しています。色は本来思慮分別されるものではありません。「概念」によって分別が起こり、執着や忌避となり「苦」となります。

 この世で普通に生活して「寂静」となることが当然と仮定してみます。世間が正しく「己」も正しければ悩む人などいません。この社会の知識や常識や物の見方で「寂静」となれれば「観念」を破壊する必要などありません。
 図書館に行って本に書いてある知識を理解するか、ある程度教育を受ければ「寂静」が自動的に実現します。ただ記憶して吐き出すだけの知識や、概念をつぎはぎして構築する論理的思考によって達成するなら、義務教育を終えた人に修行など意味はありません。誰でもが自然に「寂静」でいられるのです。

 残念ながら、普通に生活していても「寂静」でいられないのです。
 複雑化や混沌の中において、迷うことなく過ごすことができるでしょうか。科学知識や学問がどんどん増えていくばかりです。知識が増えたから正解に出会うチャンスが増えるというわけではないようです。
 逆に、作り出された知識や概念は本源からどんどんかけ離れていくため、「寂静」を得ることがより困難な作業になります。不要な記憶や概念や思考がなくなればなくなるほど、見出されやすくなるのではないでしょうか。

 「空」の解釈にこだわり、「空」を理解しようとすることが「概念」の罠にはまります。「空」の概念よりも、言葉や思考なしに対象を知覚することができるようになり、対象に囚われなくなればいいだけのことです。「今この瞬間瞬間」とともにあり続けるのです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 

「私」と「他人」 [仏道]

勝手な見解であり、愚か者の独り言。

誰も他人の感受を知ることはできません。
己は己の感受を他人に体験させることはできません。

誰も他人の混乱を完全に消し去ることはできません。
己は己の混乱を他人に体験させることはできません。

誰も他人を直接変化させることはできません。
己は己のみによって変化します。
誰も他人を強制して思いを変化させることはできません。

己は己のみによって確証を得ます。
誰(釈迦もキリスト)も他人を直接に悟らせることはできません。
己は己のみによって自己欺瞞を認知できます。

誰も他人の内面の体験を知ることができません。
己は己のみによって「受」から以降を断つことができます。
己は己のみによって「言葉」を使わずに観ることができます。

誰も他人の呪縛を解き放すことはできません。
己は己のみによって呪縛から解き放たれることができます。

誰(釈迦もキリスト)も他人を直接救うことはできません。
天上から救いの使者が来て救ってはくれません。
夢のようなことを期待しないで、現実を直視して地に足をつけて進むしかありません。

己は己のみによって救われます。
自分が何の努力もせずに、救われると思い込んでいるのは自己欺瞞ではないだろうか。
救われると思っている方は一生懸命に教学に励んでいます。
自身の信心が足りない事を気にしているのでしょうか。
信心があるほど救われ易く、仏に見つけもらえるのでしょうか。

己は己のみによって調息できます。
己は己のみによって坐禅できます。
全ては己の意志です。体調を整え、生活リズムを守り自戒によって生気に満ちた生を送る。

----
  オオカミに育てられればオオカミと同じに生きなければなりません。ゴリラに育てられればゴリラと同じように生きなければなりません。人間は「霊長類」という動物であり、環境に適応して「いのち」に従って生きなければなりません。

 両親がどこの国の人であろうが、日本で生まれ日本の風習を学び日本語を話し、日本の教育を受ければ「日本人」として生きていくでしょう。

 環境や教育というもので「私」が作られます。最初から社会性を持ち道徳を遂行する高尚な人間であると言い切れるでしょうか。
 人間社会という環境に生まれ、己が自立して生きていくには「私=自我」を形成して「私=自我」とともに人生を生きなくてはなりません。

 「死」という「極限」状態に直面した時に、「私=自我」など何の役にも立たないことに気づくことでしょう。「私=自我」がどのように命じようとも「身体」は言うことを聞きません。一切の「私=自我」など無いとの知見に達することで「ありのまま」を受け入れるしかありません。

 「私=自我」など「無力」な存在であったということです。生まれたことによって、偉大な尊厳が身についているとの確証を得ている人は多いのでしょうか。
 人と接し、家族や地域、社会の一員として育まれて教育の中で「尊厳」という意味が身に付いていくと思われます。

 無に消え入り、無へと消え去る方を選択したい。特別な己は「私=自我」を増長させるだけです。
求めることを少しずつ減らし気苦労を減らし、今に寛ぎ「一杯のお茶」でも飲んで外の景色を眺めてはどうだろう。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。



nice!(0) 

「私」とは [仏道]

 「天上天下唯我独尊」について。「今この瞬間瞬間」に同時に生きている一切の「いのち」は、それぞれが全く異なる認識をしています。地球上だけでも何百兆の何乗の「いのち」が異なる認識をしています。

 「いのち」の内奥の実在は全く同じであり、宇宙そのものとともにあります。我々の「いのち」は宇宙の誕生からできた物資から成っています。この「いのち」は宇宙の中で消え去っています。宇宙の一部として宇宙を構成し、どの「いのち」も宇宙の中にあり宇宙そのものです。

 宇宙全体に存在している「いのち」がどれほどの数であったとしても、まったく同じ認識を持っていることはありません。内奥の実在と一体となっている時は同じような波動・振動であり同じと思われます。

 明日の朝、目を覚まして部屋を見渡してください。その部屋を見て感受している「あなた」は宇宙でただ一人、「己」だけの認識を感受しています。 もし、双子が同じ部屋で同じ対象を見ていたとしても異なる認識をすることでしょう。つまり、宇宙全体の中でたった一つの独自の認識をしている「いのち」なのです。

 「あなた」が感受したことは、感受した「そのまま」を「言葉」を使って他人に伝えることはできません。「言葉」には限界があり受け取っている「そのまま」を「言葉」にして伝えることは不可能です。それほど膨大な「情報」とともに存在しています。

 「言葉」を聞いて理解しようとしても、他人の感受を「そのまま」実感することはできません。生まれてからすべての瞬間瞬間、「あなた」だけの感受を受けて育ってきました。同じ哲学書を読んだとしても、同じ体験をしたとしても一人一人が異なる見解となることは明らかです。

 学べば学ぶほど、異なる認識が「知識」として積み重なります。学んで蓄積したとしても同じ境地になることなどあり得ません。残念ながら、学んでも学んでも「不足感・不満足」が解消されるわけではありません。かえって「知識」が増えれば増えるほど混乱していきます。混乱すれば「己」だけの固有の勝手な答えで混乱をおさめるだけです。誰もが同じ答えに行き着くには本源に戻るしかありません。
 「知識」・「観念」などを消し去り「単純・単一」にならなければ本源に出会うことはできないでしょう。

 鳥のさえずりは、同じ様に聞こえるはずです。しかし、同じ音として聞こえているはずですが、「受」としての認識、その認識に対する「反応」がそれぞれに異なります。
 「反応」が異なり混乱するのです。修行が進み「音」はただの「音」でしかない。「解釈」がなければ、だれもが同じ感受で完結するはずです。
 「解釈」は「自我」が瞬時に判別しているので「私」が聞いているように錯覚してしまいます。ただそこに「音」の波動が耳に感受されただけのことでしかありません。「音」はすでに消え去っています。

 「あなた」は宇宙でただ1つの認識体であり、すべての瞬間で、他の認識体と異なった認識があります。瞬間瞬間ごとに、宇宙全体でそれぞれの認識体の異なる認識が存在しています。これほどの奇跡があるでしょうか。
 虫も、魚も、鳥も、あらゆる「いのち」が異なる認識で異なる生き方で異なる経験をしています。起こっていることは同じなのでただ「感受」して終わりにすればいいだけのことです。

 我々は「私=自我」という「概念」によって勝手に苦悩をつくり出しています。ありもしない「私=自我」が勝手に苦しみ、その「私=自我」が必死に解決しようと努めているのです。「自作自演」の「おふざけ」を演じているのです。いつまでこの「ダンス」を踊らなければならないのでしょうか。

 「私=自我」が存在して「認識」があるわけではありません。六処によって「触」があり「受」があって、自動的に瞬時に「認識」するだけです。
 ただ意識が向いて「ある音」を拾っただけ、意識が向いて「ある対象」が眼に入っただけです。「受」から「想」へと繋がらなければ認識体としての「ダンス」は起こりません。生命体の「いのち」の「反応」スイッチをONにしなければ実在と共にただあるだけです。「受」のままに放っておけば良いだけのことです。

 自他の分離によって、「時間=記憶」の概念が構築されると「私=自我」が生まれます。「自分のもの」という「概念」が出来上がると「記憶」しなくてはなりません。「記憶」したものの「特徴」が分からなければ「自分のもの」ということを主張できません。

 「記憶や記録」は「私=自我」を他人に証明するために必要なだけでしか価値を持ちません。「記憶」する必要が無ければ過去という「時間」などは要りません。あなた自身についての「記録」など何の意味もありません。他人に自己証明するために必要なだけです。
 自己証明するために、時計やバックや靴やファッションなど高価な品物でこれ見よがしに自己主張をしています。人は自分ファーストですから、自分ほど他人には興味ありません。一体他の存在があなたの所有物に興味があるのでしょうか。一番身近にいるペットの猫や犬でもあなたのファッションには一切興味はないようです。

 今この瞬間にあなたの「記憶や記録」が消失したとしてもあなたは死んだりしません。幸いなことに「私=自我」が消え去ってくれます。何者でもない「あなた=無我」、一切の過去を背負うことのない「自由」があります。

 特定の誰かとの繋がりが無くなる=全てと繋がることができるのです。そこには「過去」からの束縛がありません。所有という観念を放棄すると、私の所有物など一切ありません=所有物からの「自由」があります。「私の物」という執着心や保守すべきという神経質な義務や失う嘆きから「解放」されるのです。所有という概念が無くなれば、存在と一体であり、存在が我が物となります。無所有になれば、全てを所有することができます。

 「記憶」しようとすることで、「時間」の概念が生まれます。過去や未来と言う「今以外」に生きていると「私=自我」が必要となり「私、私のもの」という「観念」が起こります。
 霊長類の特色として、「社会」という枠組みの中で生きていることを知っているので「私」という居場所を確保しなくてはならないのです。社会の中で生きていくには、何らかの立場を主張する「私」という「概念」が非常に重要な意義をもってきます。

 「私」が考えているのではなく、「考えている」ことによって「私」という「概念」が生起します。「我思う故に我あり」から「我ありと思い込む故に我あり」と果てしいループにより「自我」が確立されます。
 あらゆる対象は勝手に作った「概念」であり、その概念を「言葉」にして「識別対象」として「記憶」しています。すべてを「概念化」して「己に対して善か悪か」の判断が出来上がっています。この「概念化」によって「私=自我」が作られました。

 肉体、感覚、思考、感情、認識などを通じて他と区別され、対象を認識する「本体」として「私=自我」という認識主体が存在しているはずです。

 全てはただの状況に応じたプロセスでしかありません。「私=自我」は「記憶」された「概念」を使って、「私=自我」が構築した「幻想=勝手に作られたそれ」に対し瞬時に判断しているスーパーコンピューターです。このスーパーコンピュータを凌駕する「思考=私=脳」は常に「執着と忌避」を判断して「私=脳」の決断に従って生きています。「私=自我」の判断を疑うことなく委ねているだけなのです。

 無常なる色(対象)に対しての自我の判断が「嘘」であると見抜いたのがお釈迦様です。縁によって起こり、消え去る現象。判断している「私=自我」も存在していない。夢の中にいて夢見ている人が覚めたのです。

 新しい問題がふりかかれば、新たな「概念」を構築し「言葉」を作り続ける。「己」の範疇になければ、「哲学」や「宗教」に解決のよりどころを求めます。限りない自己防衛と自己正当化と自己同一化の罠にはまっています。

 我々の問題解決方法が「概念=言葉」を「記憶」するということに依存していることに気づかなければなりません。この「私」が確固たる存在であるという「嘘の観念」から抜け出さなければなりません。「私=自我」が拠り所とし「思考」する主体である「私=自我」が、「私から目覚める」ことは難しいと思います。夢の中の自分がここは夢の世界であると気づかなければならないのです。

 魚を例にとると、魚が生きている「海中=当たり前=固定観念」を一度「破壊」しなくてはなりません。海中にいる魚は「当たり前」すぎて、己が海中にいることを知りません。
 「苦」「空」「道」「虚」「法」「無」などの言葉を使って「観念」を破壊し、海中にいる魚を陸に揚げ、海中以外の世界があり、海中の「己」を観る必要があります。

 海中は魚にとって「あたり前」の世界です。海中で泳いでいる魚と同じように、我々は小さい時から親の「観念」を押し付けられ、それが「当たり前」である世界として洗脳されてきました。また、自我によって、自らの経験で「私」というあやふやな「概念」をこつこつ作ってきました。

 自らが作った「」という「概念」を手放すのはむずかしいことです。「」を認めようが認めまいが「認識」は「認識」として有るだけです。「私」が呼吸しているのではなく、「私」が意図しなくても呼吸はただあり続けます。

 寝てる時に「私」はいるでしょうか。熟睡していて、蒲団ごと遠くに運ばれ湖の真ん中に放置されたとします。確固たる「私」がいるなら気づかなくてはなりません。
 「私」ではなく、感受のプロセスが働いていないだけのことです。つまり「私」ではなく、感受のプロセスが「私」という「概念」であると言えないでしょうか。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


nice!(1) 

壊苦性 [仏道]

正覚によりて(1) 南伝 相応部経部35-13  [阿含経典三巻 P24 増谷文雄著 筑摩書房]

 比丘たちよ、そのわたしに、やがて、このような思いが浮かんだのである。<すべて眼を縁として起こるところの楽しさと喜び、それが眼の味わいである。また、その眼がすべて無常かつ苦にして、移ろい変わるものであること、それが眼の禍いである。さらに、その眼における欲の貪りを離れ、欲の貪りを捨てること、それが眼からの脱出である。>

 比丘たちよ、しかるに、わたしは、そのように、これらの内なる六処の、味いを味いとして、禍いを禍いとして、また、脱出を脱出として、よく、あるがままに知るにいたった時、比丘たちよ、この時、わたしは、天神・悪魔・梵天の住む天界において、また、沙門・婆羅門・人天の住むこの世界において、最高の正等覚を現成したと自覚するにいたったのである。

 そして、わたしには智慧と直感とが生じた。<わたしの心解脱は確かである。これがわたしの迷いの生涯の最後であって、もはや、かかる迷いの生涯を繰返すことはないだろう>と」
-----

 執着はいかにして起こるか?それは眼に見ることを楽しみ、見ることに喜びを感じる。そのことが眼の味わいとして囚われる。しかし、見えるものは「無常」である。見える対象は、変化して消え去るので実体がない「空」であり「無」となる。
 他の対象に眼を移せば、さっきまで見ていたものはすっかり消え去っている。さきほどまで見ていた対象は眼に残っていません。眼自体は執着も記憶も言葉も概念も持ち合わせていません。見て認識して受となることで味わいが起こる。

 「見たい」ということは、禍であると認識し自覚しなくてはなりません。味わい楽しみの意思で見ることなく、ただ眼に対象が映っているだけで留めておく。
 見えるままに放っておく「思考」してはいけない。楽しんでいる「己」に気づき、「渇愛」になるとして喜ばない。惹き込まれたり、忌避してはいけません。眼自体は何も思わず何も判断していません。

 「あるがまま」に見えているだけ、それで完結しています。興奮したりがっかりしたり、感情や楽しみを起こさずただ見えたままそれだけ。特別なという見方をせず、「好き嫌い」の二元的な見方にならないように、見えているままに受け取ればいいだけです。
 聞く然り、匂い然り、味然り、感覚然り。音に善悪なし、匂いに善悪なし、味に善悪なし、感覚に善悪なし。

 すべては過ぎ去り消え去っています。きれいさっぱり消え去っていて、戻れないのです。
 ただ「記憶」や「郷愁」や「残念」や「悔しさ」などのさっきの「もう消え去った」ことに意見を立てて「苦」を自前で作り出しています。
 五感は一切の執着なく新たな「今この瞬間瞬間」の感受へと移り変わって「今この瞬間瞬間」を体験しているだけです。「今この瞬間瞬間」を見えるまま、聞こえるまま、感じるまま、味わえるままにどっぷりとただ在る、在り続ける。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
nice!(0) 

行苦性(5) [仏道]

 南伝 相応部経部22-48 [阿含経典二巻 P78 増谷文雄著 筑摩書房]

かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、比丘たちに告げて説きたもうた。
「比丘たちよ、わたしは、いま、汝らのために、人間を構成する五つの要素(五蘊)と、生に取著する五つの要素(五取蘊)を説こう。よく聞くがよい。
比丘たちよ、では、人間を構成する五つに要素とはなんであろうか。
比丘たちよ、あらゆる色(肉体)は、それが過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、あるいは、内外、精粗、勝劣、遠近の別をとわず、それらは、すべて名づけて色蘊 となす。

比丘たちよ、あらゆる受(感覚)は、・・・すべて名づけて受蘊となす。
比丘たちよ、あらゆる想(表象)は、・・・すべて名づけて想蘊となす。
比丘たちよ、あらゆる行(意志)は、・・・すべて名づけて行蘊となす。
比丘たちよ、あらゆる識(意識)は、・・・すべて名づけて識蘊となす。
比丘たちよ、これらを名づけて五蘊となすのである。

では、比丘たちよ、生に取著する五つの要素とはなんであろうか。
比丘たちよ、あらゆる色(肉体)は、それが過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、あるいは、内外、精粗、勝劣、遠近の別をとわず、それらは、すべて、人の心を酔わせるものであり、生に取著するものである。かくて、それらは、すべて名づけて色取蘊 となす。
-----
<五蘊盛苦>
五蘊とは物質と精神の諸要素と言われています。
色:肉体
受:感受して苦楽を感じる感覚
想:イメージして心に浮かべる像(「りんご」という言葉で「りんご」が頭に作り出されます)
行:自らの意図を持った、意志・欲求・記憶、概念化
識:対象を識別(分別して振り分ける)して認識するします

 五蘊の時間的な対象に対しての囚われ、○年前・○年後の肉体(飛び跳ねていた身体、ストレスに苛まれていた身体、老いて横たわる身体)、○年前・○年後の感覚(苦労した、快感、おいしかった、楽しいだろうと期待する等)、○年前・○年後の想(昔はこうであった、こうありたいというイメージ、作ってみたい対象のイメージ等)、○年前・○年後の行(何かにアプローチしたい、ライフスタイル、人生哲学、理想像等)、○年前・○年後の識(過去のこだわり、瞬時での好き嫌い、嗜好、嫌悪等)、現在の五蘊。

内外:肉体であれば、内:眼で知覚できない内臓等、外:眼で確認できる身体の部分
受であれば、内(インプットされた感覚等)、外(外にある知覚対象 熱そう、凍えそう等)
精粗:肉体であれば、精(赤ちゃんのきめ細かい肌等)、粗(老いたざらざらの肌等)
勝劣:肉体であれば、勝(はがねのような肉体等)、劣(か弱い肉体等)
遠近:肉体であれば、遠(足先等)、近(顔や手等)

 この五蘊は、生に取著する五つの要素(五取蘊)となり、どちらにしても心を酔わせる。良いと思えば追っかけ、嫌だと思えば避けて逃れる。右に左に、上に下にと心が定まらないので、心を酔わせてしまう。酔えば「あるがまま」に見ることはできないでしょう。
----
無常なるもの 南伝 相応部経部22-15[阿含経典二巻 P25 増谷文雄著 筑摩書房]
(略)
「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
 受(感覚)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
想(表象)は無常である。・・・
行(意志)は無常である。・・・
識(意識)は無常である。・・・
(略)
 比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、そのように観て、識を厭い離れる。厭い離るれば貪欲を離れる。貪欲を離るれば解脱する。解脱すれば、解脱したとの智が生じ、<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえ、もはや迷いの生を繰返すことはないであろう>と知るのである」
-----

 五蘊は「無常」であるから、いくら五蘊にしがみついても消え去る。消え去るので必ず失望する。「」「己」の計らいではどうしょうもできない。すべては制御できない「無我」なるものである。
 所有することもできない、身体も移ろい変わり「我」ではない。10年前の身体など、どこにもありません。
 わが本体にもあらず、本体として命じても「無常」によってきれいさっぱり消え去ってしまっています。

 「無常」であるからこそ、生きています。ちょっとの傷が、変化(良くなる)しないでそのままであったらどうなるでしょうか。変化は良くなることも悪くなることもあります。すべての変化が希望どおりに良くなるなら「苦」など存在しません。
 いつまでも「子供の身体、子供の知能、子供の心」のままなら進化を否定することになります。
 
 五蘊に囚われ、抱いたものに縛られることが「苦」であると認識しなければなりません。変化しつづける「あるがまま」に対して、あらゆることに対して自動的に「二元対立」していることで「苦」となるのではないでしょういか。

 こうありたいと思っていることは、現実の生活を基準として何割増しか数倍の生活水準でありたいと願っているのではないでしょうか。こうありたいとばかり願わず、この生活はすでに「天国」である。今ある現実をありがたくいただき、もったいなく思うことで、現状の何割減の生活で十分として生活するしょうにすれば「苦」と感じることもなくなってきます。「少欲知足

 病気になって「苦」を感じても、本来の「痛み」はこの2倍であるが、今味わっている「痛み」は半分の「痛み」で済んでいる。病気は病気したときでしか体験できない、病気をとことん味わってみようと考えてはどうでしょうか。全てをそのまま受け入れるしかありません。逃れる術などありません。
 
 我々は、「徳川家康」よりもいい生活をしているかもしれません。温かい炬燵に入り、スーパーに行けば地球の裏側の食べ物がいつでも手に入る。富士山からしか手に入らなかった氷が、冷蔵庫で何時でも手に入る。

 馬で何日もかかった土地へも、車だ新幹線だ飛行機だと好きな乗り物を使って行けるます。薪で何時間もかけて沸かしたお風呂が、ボタンを押せば「適温」でお湯を張ってくれます。
 数万円で、太平洋を見渡せる露天風呂に入り、船盛りの御馳走が頂ける。天下を取った殿様以上です。家臣の反乱に気を遣うこともありません。毒を気にして食事することもありません。
 家康も羨む生活を送っているのに、不満が尽きないのはどうしてでしょう。頭が働きすぎるのです、瞬時の「判断」をすることで「己」を苦しめています。好悪や善悪は、勝手に作り上げた幻想です。

 「塩」はしょっぱくないのです。「塩」という言葉はたんなる「概念」であって、「塩」という字をいくら見ても、文字を味わっても味などしません。「塩=しょっぱい」という「言葉=概念=記憶」という構図で、「塩」と聞いただけであなたの「脳内回路」が「反応」してしょっぱいという答えを出しただけです。英語を知らない子供に「salt」と言っても反応しないと思います。
 「言葉=概念」があるかぎり、二元対立は消えず「苦」を作り出しつづけることに気づかなくてはならないのではないでしょうか。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 

行苦性(4) [仏道]

箭によりて 南伝 相応部経部36-6 [阿含経典三巻 P80 増谷文雄著 筑摩書房]

「比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。
 比丘たちよ、それは、たとえば、第一の箭をもって人を射て、さらに、また、第二の箭をもってその人を射るようなものである。比丘たちよ、そのようにすると、その人は、二つの箭の受を感ずるであろう。
 それとおなじように、比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。

 すなわち、苦なる受に触れられると、彼は、そこで瞋恚(いかり)を感ずる。苦なる受にたいして瞋恚を感ずると、眠れる瞋恚の素質が彼を捉える。また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。なぜであろうか。比丘たちよ、おろかなる凡夫は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方途を知らないからではないか。そして、欲楽を欣求(きんきゅう)すると、眠れる貪欲の素質が彼を捉える。彼は、また、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、あるいはまた、それからの脱出の仕方も、ほんとうには知ってはいない。それらのことをよく知らないからして、苦でもない楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えることとなる。

-----
<怨憎会苦>
 一般に使われる「愛」の反対語は「憎しみ」です。何かを「愛」すれば、愛ではない「憎しみ」が起こります。片方だけ存在することはできません。明かりや光があれば闇や影があります。得する人がいれば損する人がいます。
 本能で生きている「いのち」にとっては、「恐怖といらだち」を常に感受しています。六処により触があります。触が起こると受が起こります。

 各人が「満足」の条件(基準)を設けているので、その基準以下であれば怨む対象となります。「私の満足」を邪魔する対象はすべて「嫌いで忌避」すべきとの判断です。
 先輩が話をしているのに「スマホ」をいじっていることは、「基準」以下の後輩となり制裁を科すことになります。

 透けて見えるような紙の厚さしかない「価値判断」の上か下かで「愛憎」が判断されます。「己」の価値判断に適合しない、「姿かたち」「態度」「物言い」「音量」「臭い」「味覚」「空調」「湿度」「温度」「触感」「乗り心地」「サービス」・・・等の数えきれない対象があり「忌避」と判断を下します。
 これらは、「我がまま」がつくりだした全くの「私」だけの「どうでもよい価値判断」ではないでしょうか。他人には全く関係のない「己」が作り出した「価値判断」でしかありません。
  
 「いのち」の営みは、他人に知られることもありません。また、他人の「いのち」も知ることができません。天上天下(宇宙や三界)での唯我独尊である存在です。その唯我独尊である他人が、あなたの「価値判断」など知る由もありません。

 勝手な「価値判断」は、「己」で「己の首」を絞めているのではないでしょうか。「私」が作った「私の勝手な価値判断」から見ている対象となる「他」にはなんら責任はありません。勝手に「自分の価値判断」を「他」が判っていると思い込み「私の勝手な価値判断」を押し付けているだけです。

 人間の「いのち」の数だけ「価値判断」があります。勝手な「価値判断」に対して、いちいち忖度して生きる必要があるでしょうか。
 他人に、「己」の自己防衛や自己愛のために作った「勝手な価値判断」など押し付けていいものでしょうか。
 互いの「価値判断」を押し付け合っています。各人が「苦」を与える主体となっています。また同時に他から「苦」を受け取ってもいるのです。
 主体(他に「苦」を与える主体)であり客体(他から「苦」を与えられる対象)でもあります。

 あなたが嫌っている人(あなたから嫌われている人)は、あなたをあなた以上に嫌っているかもしれません。あなただけが嫌な思いをしているわけではありません。
 あなた自身も、あなたが嫌な思いをさせている人から見れば、客体(嫌いな対象)となってるかもしれません。

 あなたは一人で外界を見る「ひとつの価値判断」の所有者です。他の70億人は「70億の価値判断」であなたを見ているのです。見られている「私」などちっぽけ(1/70億)でしかないのです。



<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
nice!(0) 

行苦性(3) [仏道]

結縛(けつばく) 南伝 相応部経部12-53 [阿含経典一巻 P190 増谷文雄著 筑摩書房]
「比丘たちよ、繋縛(けばく)するものを、じっと味わいながら観ていると、その人には愛着の念がいやましてくる。その愛によって取がある、取によって有がある、有によって生がある。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以である。」
 燈火があって、油をそそぐ
-----
愛別離苦:仏道での「愛」は、「愛着」です。
 愛別離苦とは、執着する対象(物質だけではない)とは離れ離れになる(消え去る)ことになる。執着しても「己」のものにすることはできずに必ず消え去る。一時的な慰みとして存在するにすぎない。結局は消え去るので「苦」である。「渇愛」の大きさに比例して「苦」となる。
 我々の最も溺愛している「肉体」も「死」によって儚く別れを告げることになります。我々が大切にしている「観念」や「記憶」も、自ら作ったものです。
 「あるがまま」の世界であるのに「我がまま」の世界の中に「妄想」を作り出してしまいます。

 我々の「思考」を写真に撮ったらどうでしょうか、瞬間の景色を写真に撮れば一瞬を印画紙に再現できます。たとえば、川の流れを30秒ほど露出させて撮ってみると「霧」のようになっているのを見たことがあると思います。「思考」も30秒ほど経てば「霧」と同じです。「思考」は実体のない「霧」であり消え去るだけです。「記憶」も「実体」はなく、ただの「空」でありいつかは消え去ります。

 なぜ、これほど「知識」「概念」「記憶」「思考」に囚われているのでしょうか。「いのち」を守るために構築され、「己」コツコツと必死に作ってきました。せっかく「己」と一体となって生活を共にしてきたものであり、自分を消すのに抵抗があるように消せないのです。

 図書館の蔵書や雑誌の数を見てください、日々記憶に値しない情報が増え続けています。いったい何を知りたいのでしょう、書き手の方も何を伝えようとしているのでしょうか?
 どれほど長くどれほど深く探究しても答えが見つからないのです。明確な答えがないので作り続けざるを得ないのです。情報が増えれば増えるほど混沌としていくだけです。

 「情報」は増え続けるので「知識」で何かを得て達成することはありません。だれもが同じ「知識」を得て達成するのであれば、専門の大学で単位を取ればそれで「達成」です。

 情報を得ることで達成するのではありません。余計なものを「消し去って」根源にたどり着くのではないでしょうか。どんな大河であろうが「源流」があるはずです、「源流」を探し出すためには「遡る」ことです。遡るスタート地点を間違ったら「源流」へ遡ることはできません。
 「己」の中の「源泉」を見つけだすには、いらぬ「知識」「概念」「記憶」「思考」などの「こだわり」を捨て去ってはどうでしょうか。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 

行苦性(2) [仏道]

分別 南伝 相応部経部12-2[阿含経典一巻 P91 増谷文雄著 筑摩書房]
比丘たちよ、では、無明(無智)とはなんであろうか。比丘たちよ、苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、および苦の滅尽にいたる道についての無智である。比丘たちよ、これを無明というのである。
 比丘たちよ、かくのごとくにして、無明によりて行がある。行によりて識がある。・・・これがこのすべての苦の集積のよりてなるところである。また、無明をあますところなく滅することによって行は滅する。行を滅することによって識は滅する。・・・これがこのすべての苦の集積のよりて滅するところである」

----
 無明によって、行(意志のうごき)がある。一切が苦であることを知らない(無明)。因縁や業によって勝手に起こっている(諸法無我)ことなのに、「」が自らの「身・口・心(意)」を制御して生きていると勘違いしています。

 肩が凝るので手で揉むのは、「」が揉もうと意志を働かせて揉んだのか、それとも「」と感じて自然と手を持ってきて揉んだのでしょうか。もし「」がいるなら、肩が凝らないようにできるはずです。「私=肉体」なら、「私のもの=肉体」であるはずなので思い通りにできて当然なはずです。
 
 肉体そのものは、重力に逆らい老化に苛まれながら常に「」を受けているだけのことです。なんとか折り合いをつけて生きているだけの事。
 目は見えなくなり、耳は遠くなり、肌に艶はなくなり、歯ぐきは弱り、思うように身体は動かず、直ぐに息が上がる。わが身は「」であるにもかかわらず、徐々に衰えがきていることを認めながらも、老化のせいにし「己」を納得させて付き合っているだけのことです。思い通りにならない「肉体」は「私」ではありません。

 「己」が要求するすべては求不得苦です。「情報」、「知識」、「楽しみ」、「快楽」、「称賛」、「特別でありたい」、「他人より優れている」など、どんなに「求めても求めても」決して「満足できない己」がいるのです。
 正しく見れば、飽くことなく「」を作り続けている「愚かな己」であるだけのことです。
 TVを見て「他人の私生活」や「他人の交友関係」を「知って」どうなるのでしょう。ほとんど「知る」意味のないことです。不必要な「情報」を「記憶」することが「苦」となっていることを気づく必要があります。

 お金儲けや美食やその他の楽しみは「己」を幸せにすると思い込んでいるだけではないでしょうか。「執着」することで「妄想」となり「寂静」とはかけ離れた行いです。それは、一瞬でありの喜びでしかありません。この世に引き留める「我執」を満たしてくれるものでしかありません。世間の皆がやっているので、何の疑いもなく「自己正当化」しているにすぎません。

 「立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」で満足いかなければ、際限のない「欲望」に身を委ねることになります。日々悶々とする思いに支配され「」を見逃し続けることになるだけではないでしょうか。

 死の床で、「私は自由であったか、聖なる道に入ったか」と問うても遅いのです。「何かを求めつづける心」に、未来のどこかで「寂静」があるといえるでしょうか。
 「」の連続で未来ができてるのであって、今が途切れれば未来など存在しません。1時間後に出会っている「」は、未来ではなく1時間後の「」に出会っているだけです。

 これで満足ということがないので、戦争や略奪、破壊が繰り返されます。何か物足りない「いらだち」が、欲望を駆り立て「チャレンジ」すます。しかし、死によって根こそぎ夢の如く打ち砕かれるので「必ず負け」が確定してます。
 最初から、必ず負ける勝負をしている「愚かさ」に気づかないのです。心の奥底では気づいていても、欲望を満たそうとするのが「いのち」なのです。次の生ではもっとうまくできると頑張るけなげな「煩悩」の火種がなかなか消えないのです。

 もうそんなに騒ぎ立てる歳でもないでしょうにと見透かされています。「一期一会」を理解し、残された時間を「無駄な思考」で満たすことなく、「今この瞬間」に生きる時間を設けてはいかがでしょうか。

(勝手な造語)「一息一会」:今の一呼吸は、この世の人生でこの一息かぎりである。自らを救えるのは自らだけなのです。既に救われているのに探している、何もかも脱ぎ捨ててしまえば「それ」はいつもそこにあった。
 「悟り」は「差とり:差を取り去る」、「あるがままの世界」と勝手に作っている「妄想の世界」との間にある「無明(苦集滅道を実践できないで苦しんでいる)」を取り去る。

 まさに、「」を作ってもがき苦しんでいる「己」から「」を理解して「」を取り去ることにほかならない。「一息一命」「一息一心」「一息無為」「一息寂静」

 天上天下唯我独尊について、辞書では「自己ほど尊い存在は無い」とあります。

(勝手な見解)天上天下唯我独尊である「私」は誰にも犯されず、誰にも直接変化させられない「己」である。「己」でしか「己」を変えることはできない。誰かが、誰かを直接に成就させるなどということは人類史上できたためしはなかったし、今後も誰も出来はしない。あなたが寝ている間に、「誰かによってあなたが変えられた」など起こりません。お釈迦様でも、「月をさす指」の役割しかできません。

 自らが尊いというのではなく、他の力によって変化させることなどできない「金剛の如き我」が存在している。勝手にあなたの「頭」を書き換えることなどできないということです。
 ヒマラヤでも宇宙のどこかに行ったとしても、そこに見出すのは必ず「己」でしかありません。宇宙の果てに行っても「己」。宇宙の全てを知っても「己」は金剛の如く変化しません。「神」も「あなた」には手出しができないことになっているのです。そもそも「他人を変えよう」など大それたことが出来なくなっているのが「宇宙の法則」ではないでしょうか。

 もし、「悩み苦しんでいる人」に対して「私(=神)の力で助けてあげよう」「私(=神)ならあなたを変えてあげる」という人がいたなら「ペテン師」と疑ってからでも遅くはないでしょう。私は「月をさす指」でしかありませんと言われれば救われる。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
nice!(0) 

行苦性(1) [仏道]

一切 南伝 相応部経部35-23)[阿含経典三巻 P31 増谷文雄著 筑摩書房] 
一切」として阿含経に、
「比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。比丘たちよ、これを名づけて一切というのである。
----

 無常(迷いの世界)とは常住(悟りの世界、生滅・変化なく永遠に存在すること。)と対比される。無常とは生成消滅ということであり、留まらず流れ続けていることである。

----
無常なるもの 南伝 相応部経部22-15)[阿含経典二巻 P25 増谷文雄著 筑摩書房]

かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊は諸々の比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。「大徳よ」と、彼ら比丘たちは答えた。世尊はこのように説きたもうた。
 「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
-----
 
 行苦性とは、生老病死、求不得苦、愛別離苦、五蘊盛苦、怨憎会苦などの「一切の無常転変」によって起こる「」です。「一切」とは、人間が感知できる対象と感覚・感触・思考・観念・意識などです。行苦性は、生きていること全てが「」であるとおしゃっているのです。
 阿含経には「無常なるものは苦である」と繰り返し繰り返し出てきます。

「求不得苦」について考察してみます。
 追い求めるものはついには得ることが叶わない。たとえ得たとしても、求めた時の状態と手に入れた時の状態は「異なる」、得たとしても「求めた時」とは異なる対象である。(変化している:無常
 求めることが無くなれば、「」ではないということです。

 例えば、食べ物を食べた(得た)瞬間に口に入り(噛んでいるうちにどんどん消え去っていく)、得たと思った瞬間に食べ物は口の中で変化してしまい、求めたものは(そのままの形として)得てないと同じこと。(無常なるがゆえに「空」となって消え去ってしまいます)

 旅行という「楽しみ」について考察してみます。旅行という「楽しみ」は、旅行している時間経過とともに旅行という「楽しい体験」は次々に消え去っていきます。旅行が終われば、旅行という「楽しい体験」も終わってしまいます。旅行は旅行とともに逐一消滅して、得ては消え、得ては消えいってしまっています。
 残っているのはただの「思い出という記憶」だけでしかないのです。
 あながた食べてきたものは全て消え去っています。旅行の楽しさも消え去っています。求めて得たものは、直ぐに消え去る運命なのです。

 家を新築したとしても、住んだ瞬間に中古住宅となり新築の家など存在していません。
新車を購入しても、一度乗った瞬間に中古車になります。買う時のワクワク感はもうありません。すぐにこんなものかと慣れてしまい、得た時の新鮮さがなくなり、求めて得た物とは異なり「」となります。際限なく得ても、際限なく消え去っていくので「」でしかありません。

 他のあらゆる対象について考察しても同じです。
 売る方は買って欲しいので、常にニューモデルやニュースタイルを出してきます。今年の流行とは、来年になったら廃れるものです。新しいものを求めるとは、廃れる「ゴミ」を常に追い求めるのと同ではないでしょうか。翌年には、古着屋で1/10以下の評価となるだけです。

 歴史的新事実とか、物理、化学、医学、生物学、歴史などあらゆる分野で、今までの常識を覆す「新発見」です、ということを聞いたことがあるかと思います。覆るまでは「真実」であったのです。しかし、「新事実が発見」された時点では、以前の常識が「」であったということです。滑稽にも、発見されたと発表されるまで「」を有難くいただいていたことになります。

 このように今の常識も「」かもしれないのです。だれも「間違いでした」と謝る人などいません。常識が変わることが「何事もなかった」かのように「蛙のつらに小便」「馬の耳に念仏」と同じように、誰もが平気でスルーしています。
 常識が覆ることに何らの驚きもなく、謝る人もいません。新しい真実が出るまでの「仮説」でしかないのです。すべてが「仮説」だらけ、我々が出会っているのは最新の「仮説」です。
 現在の「仮説」について、誰も真剣に信じていないし、誰も責任を感じていないのは真剣に理解していない証拠です。

 「筏の喩」をご存じのように、仏典も「方便」であり最後には捨て去らなければなりません。「知識」はすべて「ゴミ」と気づくところまで進まなければなりません。仏典は確認するために使えばよいのです。このブログの内容も「ゴミ」であったと了知できれば幸いです。

 今まで、知りえたことは「己の見解」に合致したことでしかありません。真理を他人の智慧や知識に尋ねても参考になるだけです。
 話を聞いただけでは「己の体験との合致」を確認するだけです。「己」が「愚か」であったとの自覚があれば進歩したと確認することができます。「冷暖自知」なる体験のみが真実です。

 「仏道をならふというふは、自己をならふなり。」とあるように、覚者を尋ねるよりも「己」に問うて答えを見つける必要があります。「無限の愛」や「ワンネス」などの魅力的な耳触りのよい言葉に踊どらされずに進みたいものです。「己」を「愚か」と自覚するどころか、「己」を「称賛」しているようでは自我のトラップに自ら飛び込むようなものではないでしょうか。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 

苦々性 [仏道]

苦 南伝 相応部経部38-14  [阿含経典三巻 P107 増谷文雄著 筑摩書房]
「友よ、これらの三つが苦である。すなわち、苦々性・行苦性・壊苦性である。友よ、これらの三つが苦である」
-----
苦々性:肉体的苦痛に原因する苦
行苦性:一切の無常転変なるによりて生ずる苦である。生・老・病・死。
壊苦性:楽境の壊するによりて生ずる苦である。
-----
 我々が「いのち」としての役割(いのちの継承)を終えたらどうでしょう。本能のままにただ生きているだけです。食べて、動いて、寝て、目覚めて、日々が過ぎていくだけです。老いて死ぬまで同じような生活が続くのです。
 人生に意味づけなど必要あるでしょうか。「私」の生きた証を残しても誰も興味ありません。各人は各人の「私自身」に最も興味があるのであって他人には興味はありません。たとえ他人から興味を持たれたとして、「己」が救われるのでしょうか。

 仏道の基本は「」をよく理解することから始まります。「」の反対は「平安・寂滅」でしょう。精神的にも肉体的にも経済的にも社会的にも「満たされている人」にとっては、仏道を修行する人の気が知れないと思っているでしょうか。もう十分なほど「恵まれている人」でも物質を追い求め続けます。物質世界に視点があれば、満たされることが無いのだという証拠です。限りない欲望があり、これで良いということがありません。頭の中は混乱と葛藤でいつもいっぱいであり、落ち着くことがあるのでしょうか。

 この世的に恵まれたとしても、豊臣秀吉やアラブの王であれ「四苦八苦」から逃れることはできません。いつかは、「」と正面から向き合わなければならないことになっています。

 この世の中で生きていく過程で「うんざり」するほど「」を味わうことになっているのです。「」と感じれば自ずと「滅」へと向かわざるを得ないのです。
 幸いにも、この世で「」を味わうことができ仏道に出会えたならば、「禍を転じて福と為す」として「」を理解しましょう。

 阿含経では、「」は肉体的な「」と無常によって生じる「」と楽が消失して「」となる三つの「」があるとあります。

 地球上の人間である限りお釈迦様であったとしても、肉体的な「」がなかったわけではありません。経典で書かれているようにお釈迦様は人間として経験したことにより、誰もが受ける「」があると提示しています。

 もし、肉体的な「」がなければ人間は正常に生きていけるでしょうか。あなたが「幼い子供」であり、「知識」や「症状」の判断ができない状況であると想像してみてください。「苦」を認識できないで、次のケースがあなたに起こったらどうでしょう。
 お腹の中が炎症を起こしている、腱や筋が切れた、靭帯を損傷した、転んで頭部を強く打った、自動車に接触して内臓が破裂した、大やけどした、高いところから飛び降りて骨折した、足が化膿している、体温が41度になっている、虫歯になっている、これらの痛みや異常を感知できなければ長くは生きられません。

 もし「赤ちゃん」が肉体的な「」を感じなければ、「泣いて」おかあさんに知らせることができずに「死」を迎えることでしょう。手が燃えていてるのに何も感じず、見ているだけならば焼死してしまいます。「肉体的な痛み」は危険から身を守るために必携の安全装置です。
 肉体的な「痛み」は、大きな病気の前兆を知らせてくれる警報装置なのです。

「いのち」ある人間は、体があるので「苦々性」から逃れることができません。「」を受け入れ「」を理解し、人生の残された時間を有意義に使い「聖なる流れ」に入ったと自覚できるようにしたいものです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
nice!(1) 

衆生本来佛なり [仏道]

白隠禅師「坐禅和讃」の最初に
衆生本来佛なり  水と氷のごとくにて  水をはなれて氷なく
衆生の外に佛なし
衆生近きを不知(しらず)して
遠く求(もとむ)るはかなさよ
譬(たとへ)ば水の中に居て
渇(かつ)を叫(さけぶ)がごとくなり
----
 歴代の禅師はことごとく、衆生(全人類)は本来「」であると言われます。
 あなた方(悟りの自覚のない人)は既に悟っているのにただ気づいていない(自覚がない)。自覚とは、自ら覚るということです。つまり、自覚がないとは、自ら覚っていないのです。要は「決着」がついていないだけのことかもしれません。
 自覚のない我々は、「煩悩具足の凡夫」である「」がどうして「」であろうかと納得がいかないのです。

 修行によって悟ったとの自覚も無く、日々悩みに振り回されている「煩悩具足の凡夫」である「」に対し、私は「佛」であると自ら宣言できないのです。
自問自答すれば「」が「」であると肯定することなど無理であるというのは至極当然のことです。
 
 修行によって自らの本性を見極め、たどり着いた果てに発見した「」は修行の必要のない「=」だったというだけのことです。本来はであるとは、何かを得て「」になるのではないということの教えであって、修行しなくても良いと言っているわけではないと思われます。自らを省みれば既に悟りの真っただ中にあったではないか、渇を叫ぶことも必要ない。一瞬たりとも悟りから離れたことなどなかったこの身であった。

 お釈迦様も「苦行」は意味がなかったとのことですが、求めるて得ることが「無意味」だということです。「得る行為ではなく気づく」だけのこと。どこかに行くとか、知識を得て悟るのではないのです。
 坐禅は「」の肉体をいじめる「苦行」ではなく、静かに「内観」するだけのことです。「」が「」である確認のための「道」であると思われます。

 覚醒した人の話の中で、“何の努力の必要もなくあなたは既に「神」です。”などと言って、自らを「神」と認めるだけでいいのです。何もせずともそのまま「神」ですよと、ことさらに強調される文面が散見されます。修行も「内観」もしないで「認めよ」というのは飛躍しすぎではないでしょうか。「内観」なくては決して自覚は得られないのではないでしょうか。

 混乱し悩んでいる「」の前に、お釈迦様が現前したとします。そしてお釈迦様が「あなたは既に悟っているです」と言っていただきました。煩悩具足の「」が“そうだお前(お釈迦様)と私は対等だ”と言い切れるでしょうか。

 「」自身に「そもそも私はである」と言い続けるだけで納得(決着)がいくのでしょうか?
 “私がであるなどとは嘘であり納得できない”と思っている「」が存在しているはずです。「内観」もせずに遊び回り、金の亡者であり、権力を求め、嘘や暴言を吐き生活している、他人を踏み台にして平気な人、この世に執着を持っている人、未来の事ばかり考えて悩み、過去の出来事にこだわり、酒浸りの人が、“私は本来佛であるから好きなことして大丈夫、菩薩様が救ってくれる”と安心立命な人生を送っていけるでしょうか。死ぬ間際で“「」は「」として死に切ることができた”と大往生できるでしょうか?

 「」は本来「」であり、物欲を満たして何が悪い。そう思い込んでしまっている人から見れば、真面目に修行している修行者こそ気が触れていることになります。
 ここにいる「」という「」であることは疑いの余地は無いとしても、心が煩悩に振り回され「」と一体にならず、心が二つであれば「」とは言えないのではないでしょうか。本性の「」と今の「」にずれが生じているのでは真の「」ではありません。二心なる「」など存在しないのです。

 何事にも執着していない、「ぶれ=二心」のない「今」に在ればそのまま「」なのではないでしょうか。坐禅中の無念無想はまさしく「」そのもの。思慮分別で生きていれば「」とは言い難い存在です。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0)