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一切顛倒ー3 [仏道]

 「自我」は「いのち」を守るために、限られた些細な情報をもとに日々獅子奮迅の活躍をしています。受け取った情報や頭の中で構築した「思考」を振り分け、白黒をつけています。
 すべてが「いのち」のための自己愛、自己保身、自己保存のために、休むことなくけなげに働いています。せっかくこの世に「いのち」を授かったのですから、従順に「いのち」のを繋ぐシステムに従っています。このシステムに組み込まれているプログラム通りに「いのち」の保護と安全確保に徹しています。この「苦」から回避するプログラムの主体となっているのが「私=自我=思考」です。

 「自我=思考」は単なる「いのち」の保身のために作られましたが、肉体や感覚や感情や判断を統合した「私」という「概念」を作り出しました。
 「私」は「言葉」を使って現実を解釈することができ、他人に意思を伝えることもできるようになりました。また「言葉」によって意志を都合よく構築することができるようになりました。頭の中だけの「概念」や「言葉」を駆使することができ、頭の「意志」によって自らが行動できます。「思考→意志→行動」が何度も何度も繰り返される中で、「概念」でしかない「自我=私」が主体であると勘違いしてしまったのです。

 「己」の肉体はある程度意思通りに動きます。完璧には制御できないまでも歩く・立つ・伸ばす・曲げるなど最低限動かすことができます。「己」の感覚もある程度実感できます。体験されたことを「概念」を使って「言葉」で表現できるようです。「己」の感情も「喜怒哀楽」などの「概念」もある程度「言葉」で表現できます。「己」の判断も二元対立の「概念」によってある程度「言葉」で判断できます。すべてがある程度でしかありません。

 肉体や感覚や感情や判断は心もとない「ある程度」の動作や表現しかできないのです。「自我」ができることなど大海の一滴程度のことでしかないのです。「雨」の一滴でさえ降らせることもできないのです。種は蒔けますが、一輪の花さえ咲かせることもできません。あらゆることが出来ないと言っていいでしょう。
 「自我」は「私」という狭い「概念」の中で必死に自己主張しています。「私」という実体があるかのごとく振る舞っています。本来は実在していない「概念」だけの「私」なのに、あいまいなまま「私」と言って共通「概念」で通じ合っているだけのことです。これが顛倒です。

※「私」は辞書では、一人称・話し手、自分
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「私」に問いかけてみてください。
Q:5歳の時の肉体は「私」そのものでしたか?
A:それはまさに「私」でした。
Q:5歳の肉体はどこにありますか?
A:もうこの世には存在しません。5歳の「私」など今は存在していません。
Q:それでは、今の「私」は5年後、1年後、1か月後、1日後、1時間後、1分後、1秒後も今のまま存在していますか?
A:もう今は過ぎ去っているので、瞬間瞬間に全く同じ「私」など存在しません。確実に消え去っています。
もし、全く同じ「私」が存在しているのならだれも「生まれたままの赤子」のはずです。
 すべてが変化するということは、何かが生まれ何かが消え去ることです。今生きている地球上で変化しないものはありません。
Q:「私」は常に変化して、消え去っているのです。それを今まで使っていた「私」という一般「概念」のままでいいですか?実体があると勘違いしたままでいいですか?
A:よくありません。「私とは、瞬間瞬間消え去って捉えられない。実在しないものです」と新しく表現したいと思います。

Q:我々が使っている「私」という「概念」は、一般的に通用する「概念」を便宜上使っているということですか?
A:そうです。一般社会生活では、便宜上他人とのコミュニケーションをとるために「私」という「概念」をつかっています。
 しかし、正しく見るなら「私」はどの瞬間をとっても確固たる実体はありません。変化し続けている「私」という「言葉」であって「概念」でしかありません。本質は実体のない「空」でしかありません。
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 同様に、肉体を感覚、感情に置き換えて問いかけてみてください。何もかも存在していない「空」なのです。
 「私」は単なる「概念」であり、「私」と思っているものには実体はなく瞬間瞬間に消え去っています。これから先も確固たる存在なく「空」として瞬間瞬間を存在と共にただ在り続けるだけです。
 「私」が不在であっても、すべては自動的に起きています。見るのは「私」ではなく、見るが起きている、聞いているのは「私」ではなくて、聞くが起きている、すべてが「私」など無くてもただ起きているのです。

 私たちの知らない言語(例えばフランス語)を聞いても何の意味も無いただの「音」でしかないのに、日本語を聞くと意味をくみ取ろうと必死になります。もし、ここに書かれた言語がハングル文字やアラビア文字であったらただの記号でしかないのです。「自我」は意味を探り、なんとか意味のあるものにしようと必死にあがくのです。

 一体私たちの目の前に見えているこの瞬間の出来事をすべて「言葉」で表現して意味づけできるでしょうか?
 次の瞬間に目で見えているすべて、さらに次の瞬間に目で見えているすべて、さらに次々の瞬間瞬間の目で見えているすべてを表現できるわけはありません。瞬間を切り取って頭で処理して「言葉」で表現することは不可能なのです。ただ起こることをそのまま受け取るしかないのです。

 「自我」が存在に対して判断するということが、途方もない馬鹿げたことだと理解できていない証拠です。人間の視界の範囲で宇宙全体を判断して思い悩むようなものです。

 耳で聞こえていること、肌で感じていること、体調、雰囲気、空気感、呼吸、瞬き、舌触り、唾液、足の具合などなど、表現され得ぬ表現を超えたとてつもないことが瞬間瞬間に起こっては消えています。
 この壮大な存在を限られた「自我=思考」が、何十万語しか持ち合わせのない人間の語彙を使って、どうして受け取ることができるのでしょうか。また人間の語彙で表現することができるのでしょうか。

 「自我」ではオーバーフローしているのははっきりしています。AIが実用になり、カメラでとらえた存在の一瞬を言葉で表現しなさいとめいれいされたとします。どんなにAIが進化してもと「見る→思考する→語彙選択→表現する→表示する」と次から次へ瞬間瞬間の処理はとてもできるはずはありません。AIもギブアップすることでしょう。「自我」が存在の一切を受け取ることなどできません。あるがままを受け取るには、根源なる実在に委ねるしかありません。

 「自我」は大いなる存在にギブアップするほかありません。壮大な風景を見て「言葉」では表現できないことを真から理解できた瞬間があるはずです。数秒後に乏しい語彙の中から絞り出した賞賛の「言葉」で「素晴らしい、感動した」で終わらせてしまいます。「自我」は壮大な存在に完全に圧倒され敗北しているはずです。「自我」を明け渡さなければならないのです。
 山に行かなくても、庭の木々や公園の木々を見るだけでも、小指ほどの花さえ表現できる「言葉」は見当たりません。「自我=思考」の範疇をはるかに超えた存在が瞬間瞬間に広がっているのです。

 「自我」をそのままに、存在の一部に成り下がってはなりません。コペルニクス的転回が必要です。主体から客体となり大いなる存在に混ざり溶け込み存在そのものである主体そのものに成ることです。「抵抗」している「自我」は「言葉」での表現が及ばない存在へと混ざり「言葉」を捨て去り、「言葉」の無い存在へと溶け込み存在と一体となる。
 ただ受け取るだけ、頭を使って判断しないこと。存在とともにあり続ける。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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一切顛倒ー2 [仏道]

 「抵抗・摩擦」がゲームオーバーのための「マスターキー」の一つです。「抵抗」がいかなるものかを知れば、根源に戻るヒントが見つかるはずです。「抵抗」を知りつくし「抵抗」から抜け出さなければなりません。

 「抵抗」はエネルギーを生み出し、生きていることを実感させてくれる。「抵抗」が大きくなるほどエネルギーが必要になる。エネルギーを使えば使うほど生きている実感が感じられる。「私は生きている、私は闘っている、私はエネルギッシュだ」。「抵抗」は顛倒している。

 宇宙には「抵抗・摩擦」がない。宇宙のほとんどが「沈黙」であり、ほとんどが「空間」です。音も香りも味も何もないない「味気ない空間」である「空・無」がほとんどすべてである。宇宙空間の中で、音や香りや味や人や植物に出会うことは「奇跡」でしかない。我々の現前で、今の瞬間でしか味わえない現象が繰り広げられている。

 雨粒一つが「奇跡」、頬をなでる風が「奇跡」、鳥の鳴き声が「奇跡」、葉の落ちる音さえ「奇跡」、一筋の光が「奇跡」、数えきれない「奇跡」に出会っているのです。宇宙の全体を知ることに何の意味があるというのでしょうか。今この瞬間に「奇跡」の現場に居ながら、一体何を望み何を叶えれば満たされるのでしょうか。今この瞬間の「奇跡」を見逃し続け、この「奇跡」の連続より価値のある何を望んでいるのでしょうか?

 内なる「沈黙・空間」と一体になりましょう。目で音を聞き、目で味わい、目で質感を感じ、耳で情景を見る、耳で質感を感じ、耳で味わう、舌で見る、舌で音を聞く、・・・すべてを試して「奇跡」に出会い「奇跡」と共にあるのです。

 宇宙の深遠な沈黙の中にありながら、宇宙で地球上だけしか音が奏でられていると。地球だけで「響き渡る音」を聞き分けてみてください。その音には何の意味もありません。宇宙でただ一人あなただけが感受した「音」であり、その「音」は瞬時に消え去り「空・無」となっていることに気づいてください。
 「音」を手放して、何も探そうとはぜずに内なる「沈黙・空間」に出会ってください。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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一切顛倒-1 [仏道]

 自由とは思い通りにできることではない。自由とは自由を放棄することである。これは不可解であり理解し難い。顛倒しています。
 自由とは「自我」の束縛から自由となることです。「自我」から自由になれば「自我」の思い通りにはなりません。「自我」の自由を放棄するのです。「自我」の勝手な「思い」を放棄するのです。
 真の自由は「自我」の不在により達成されます。

 「自我=思考」が生ぜず「自我」の「思い」を無くすことで「自我」の囚われから自由となることです。
 「自我」の「思い」は放棄されたのです。「自我」がいなくなれば、この世で何かを達成すべきために「自我」が働きかけることはありません。「自我」というプレーヤーが不在となります。
 「あなた」は実在に委ねることで「自我=主体」が退き、実在が主体となります。委ね任せることで、あるがままの実在そのものとなります。

 「自我」が「自我」として存在している証しとしての「特別」を捨て去るのです。
 「こだわりを持った私」を放棄するのです。「自我」は「記憶」だけで成り立っています。「過去」は既に消え去ってしまっています。過去のアイデンティティにしがみつくのは止めて、とっとと別れを告げるのです。
 もともと「特別」な誰かなどいません。「特別」は「自我」が作り出した「自我」だけの幻想です。生まれたばかりのただの人となり、すべての実在と同等となればいいのです。

 「自我」を保持したままで無に等しいだけの存在となるか、それとも存在そのものとして生きていくのか。存在と分離したままで生き続けるのか、分離なく存在そのものとして生き続けるのか。

 「思い」は現実となるという謳い文句の誘惑は、「この世で永遠にゲームができますよ」という宣言をしているようなものです。「思い」を抱き、この世で運よく願いがかなったとしても、次の生で同じようになるとは限りません。違う経験をする筈です。成功率数%の確率が何度も何度も続いたらゲームの意味がありません。
 人間世界で、あらゆる体験をし尽くさなければ、ゲームオーバーにはならないのです。「思い」を抱き続ける限り「自我」の「欲望」は叶うかもしれません。しかし、ゲームでの通過点である「老病死」という点は必ず通過しなければなりません。

 「思い」が実現となり裕福になったとしても、たかが知れたものです。裕福になることはすばらしいことですが、「思い」を持ち続けていてはいつになっても「静寂」が訪れることがありません。
 リゾートで寛いでいるようですが頭の中は実現させたいという「思い」が荒れ狂ったような嵐のごとく吹き続けています。寛いだ気分でありながら真の楽しみは束の間の出来事でしかありません。
 願いが叶い喜ぶのは一瞬であり、「自我」はもっともっとと次から次へ願い求めます。際限なく「思考」を活動させています。
 
 本来ならば、無意味な「思考」のゲームから脱し「空・無」へと帰還しなくてはならないのです。「自我=思考」の罠にはまって足止めすることのないように気をつけたいものです。
 知らず知らずのうちに自己正当化の罠にはまってしまわぬように細心の注意が必要です。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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照見五蘊皆空ー7 [仏道]

 老齢になって何をしたらいい分からないので、とりあえず「働くこと」で社会と繋がっていたい。孫ができれば気晴らしもできます。しかし、死期への歩みは止まることはありません。為すべきことは何か。分からないままに「働いていれば」勝手に時が進んでくれます。何をなすべきかも分からず過ごしていては虚しく時を過ごすことになります。

 平和だけ存在することはない。生だけが存在するわけではない。静寂だけ存在することはない。喧噪だけ存在することはない。苦だけ存在することはない。怒りだけ存在することはない。憎しみだけ存在することはない。愛(一般世間での愛)だけ存在することはない。迷いだけ存在することはない。悟りだけ存在することはない。
 宇宙に存在するあらゆるものは、対極と共に存在する。あらゆる「概念」も相反するものと混じりあっている。すべては気づきのためのゲームであり、パラドックスなのです。

 闘争や戦争があるからこそ平和を実感できる。死があるので生を実感できる。喧噪があるので静寂を実感できる。苦があるので楽を実感できる。不幸があるので幸福を実感できる。貧乏があるので裕福を実感できる。病気があるので健康を実感する。怒りや忌避があるので平安を実感する。憎しみがあるので愛(一般世間での愛)を実感します。他方の「概念・感情」があるからこそ対極の「概念・感情」を実感することができます。

 二つは、二元対立でもあり混ざり合ってもいるのです。磁石と同じでどんなに細分化して結合して巨大化されようとも陰陽でありつづける。陰陽図では、陰の中に陽が僅かにあり、陽の中に陰が僅かにある。憎しみの中に僅かに愛(一般世間での愛)があり、愛(一般世間での愛)の中に僅かに憎しみがある。時として、憎しみは瞬時に愛(一般世間での愛)に変わり、愛(一般世間での愛)は瞬時に憎しみに変わる。可愛さ余って憎さ百倍。
 二つは同じだ。深い愛(一般世間での愛)には深い憎しみが潜んでいる。深い憎しみには深い愛(一般世間での愛)が潜んでいる。男の中に女が、女の中に男が内在している。我々は男と女が混じりあった存在である。男は女に成り得る。女は男になり得る。大きな一つの実在(宇宙)の中に小さな実在があり、小さな実在の中に大きな実在がある。

 すべてはパラドックス。得ようと思えば失う。失えば得る。逃げれば追いかけてくる、追いかければ逃げられる。探せば離れ、探さなければ訪れる。知れば知るほど混乱し、探究を止めれば探究は完成する。

 真実の愛は他者を必要としない、本源から沸き起こる愛である。他を愛しなさいとは己の内側から沸き起こる愛と同じく、無償であり見返りを求めない愛でなくてはなりません。一般世間での愛は取引であり見せかけの愛でしかありません。偽りのない本源から沸き起こる悦び、寂静には対極は無いそのままの悦び、そのままの寂静があるだけである。

 毒の中に薬が、薬の中に毒がある。毒は毒を制する。薬を大量に摂取すれば毒となる。
 不幸の中に幸せが、幸せの中に不幸が潜んでいる。不幸であれば少しの恵みが大きな幸せを運んでくれる。何不自由なく生きてきた人には少しの不幸で人生を棒に振ってしまう。

 悲しみの中に笑いが、笑いの中に悲しみがある。極限の悲しみを経験してしまうと、そもそも自分の努力では何もできないということを痛感する。最初から何も出来なかったと知るだけ。努力することの意味がなかったと理解できる。バカバカしい努力をあざ笑うしかない。笑わされている己は、何もしていない。何も出来ていない置き去りにされた「己」に、悲しみが襲って来ることもある。

 真理の中に嘘が、嘘の中に真理が潜んでいる。真理を探し求めて探し回っていること自体が嘘である。己の幻想でできた「この世」が嘘と理解し幻想を捨て去れば真理を観ることができるだろう。
 バカバカしさの中に真実が、真実の中にバカバカしさが潜んでいる。乾きの中に潤いが、潤いの中に渇きがある。

 夕暮れと夜の境界では明と暗が混ざり合っている。地球と宇宙の境界は既知と未知が混ざり合っている。人の世界と動物の世界は混ざり合っている。生と死は混ざり合っている。人と仏は混ざり合っている。

 迷いと悟りは混ざり合っている。思考から離れた時を観察していくと、雲間に広大な青空を垣間見ることがある。
 迷いがあるので悟りがある。迷いが消えれば悟りも消える。悟りは得たり獲得するものではない。得るものであったら皆が得ることができる。知識や観念であればだれでも得ることができる。マニュアル通りに動いたり覚えたりすればいいだけのこと。

 「いのち」は、生きている実感を味わいたいのだ。何もかも経験したい。憎しみも愛も、悪も善も、苦も楽も、戦争も平和も、混乱も平安も、若さも老いも、病気も健康も、生も死も、希望も絶望も、神も悪魔も、女も男も、すべての二元は設定事項。全てが混ざり合っているだけのこと。
 
 般若心経は「照見五蘊皆空」だけで十分だ。混ざり合ったものは区別できるものではない。どちらでもない囚われることなどできない「空」として観るほかありません。

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照見五蘊皆空ー6 [仏道]

趙州録 「庭前の柏樹子」
僧問う「いかなるかこれ祖師西来意」
師(趙州)いわく「庭前の柏樹子」
僧いわく「和尚、境(客観)をもって人に示すことなかれ」
師いわく「われ境をもって人に示さず」
僧いわく「いかなるかこれ祖師西来意」
師(趙州)いわく「庭前の柏樹子」
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 多様性は変化を如実に現前させている。全てが同一であれば変化など読み取れない。存在の一切が異なっています。あらゆる存在は、常に変化しそれぞれに時間の差異があり、形状の変化として現れています。これが諸行無常の現れではないでしょうか。
 変化を自ら選択でき、変化を実現できることが自由で平等です。均一なところには自由も平等もありません。それなりの変化ができることが平等です。変化を望んでも変化できなければ不平等となります。

 一切は自ずから変化しています。すべてには実体のある主体的な我など存在せずに、縁起によって繰り広げられています「諸法無我」。我々は実体のない迷妄の中にあり、迷妄の中で達成することなど何もありません。迷妄を迷妄として受け取り、迷妄を迷妄として見るよりほかありません。

 存在は、それぞれがそれぞれを表現して現前しているだけす。己も柏も同じ存在です。宇宙も柏も「今」と言う同じ時間を共有し、同じ宇宙の一部であり宇宙そのものとして宇宙に存在している。それぞれの存在のどこに違いがあるでしょうか。柏の有り様は自然の理にかなった生き方をしています。
 
 己と他と区別する意味などあろうか。無常の中で縁起によって、どこかに生まれその「いのち」をただ生きているだけのこと、形は異なっても宇宙創成から様々な変遷を経て今ここに同時に出現して、縁起によって生きているではないでしょうか。

 柏は迷ってはいない、時節に応じ育ち「いのち」の営みをただ生きているだけのこと。各存在が与えられた特色そのままに振る舞っているだけのことです。存在はことさらにこうしようとか、ああしようとかの計らいは一切ありません。柏は「己」と変わることなく生滅を繰り返し枝を伸ばし葉を茂らせ生きています。柏だけでなくすべての存在は、自然のサイクルの中で「特別」など一切ありません。

 宇宙の縮図は、今ここにあります。森羅万象の現れであり仏性そのものです。柏の有り様がまさに宇宙の有り様であり、存在の有り様です。一つを見て全てを知らねばいつになっても真実に出会うことは叶いません。
 全てを調べなければ真実が理解できないのなら、真実の理解は永遠に不可能です。砂漠の砂粒1粒を知れば砂漠全体を知ることになります。砂漠の砂粒すべてを調べ尽くす意味などあろうはずはありません。

 人は何でもかんでも知りたがる。一つを知ればそれで終わりにすればいいのに。己を知れば他人を知ることになる。己も他人も知ればすべての人を知ることになる。全てを知れば知る意味など無いことに気づく。
 全知とはすべて知っているので新たに知る必要がないので「不知」・「無知」です。全能とは全てができるので新たに何かをする必要が無いので「不能」・「無能」です。「全知全能」とは「不知不能」・「無知無能」であるとも言えます。実際、人間が都合よく作り上げた「概念」である「神」は、何もできず何もしてくれません。

 神は、人間の理解を超えた出来事を説明するための「概念」であり、無知な人々を脅し服従させるために「利用」していました。支配者のご都合主義で作られた最高の「概念」と言われても否定のしようがありません。皆を悩ませる「サタン」をほんの1週間だけでも休んでいてほしいと思っている人も多いようです。「サタン」も恐怖を植え付けるのに便利に使えるので大事にされています。

 己を知れば知るほど己の空や無を体験することになります。我々はただ感受しているだけの代物でしかありません。それもある期間限定(生まれて死ぬ間)だけの感受でしかないのです。求める必要などなく、求めて得たとしても水泡のごとく手にすることはできません。
 
 陽を浴びて風になびく枝は、一切を拒むことなく受け入れています。雨や雪が降ろうと「いのち」のまま、その場所に生えたからにはその場所で生きていく定めです。己の意志で生まれたわけでもなく、己の意志で死ぬことも叶わず。成すこともなく成されるのみ、存在の定めに従い生きるよりほかありません。柏が椿に成れるわけでもなし、柏は柏としてそのまま仏性の中で「いのち」の赴くまま生きていることに不思議はありません。

 人はあらぬ欲望をもち天下を求めたり繁栄を希求するが、そのまま生きているといえるのでしょうか。「価値判断」のハードルを上げることなど必要ありません。むしろ「価値判断」のハードルを消し去れ。瞬間瞬間がそのままであり、そのままをそのままとして受け取り続けています。
 柏は柏という名前などなくとも、観る人は柏として受け取らざるを得ません。柏という「観念」なしに見るべきであり、柏も柏として育つ必要もありません。ひとつの「いのち」として育つだけのこと。自己を自己として意識して育つ必要もありません。

 人馬一体となり、乗る人も無く乗られる馬もいません。観られる柏も無く、柏を観る己も無い。主体と客体の区別など無くなります。
 徹底的に思いを無くし計らいもなくし夢もなくし、無くも無くし、空っぽの「空」となるしかありません。

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照見五蘊皆空ー5 [仏道]

[碧巌録]
ある僧が禾山(かさん)和尚に尋ねた。
 「悟りを本当に得るとは、どんなことですか」
 禾山は、ただこう答えた。
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「ならば、最高にありがたいものとは」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「もう少し変わった答え方をしたらどうなのか」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「私を若輩だと思って馬鹿にしているのか。もし、ここに慧能大師がおられたら、どんな答え方をされるのか」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
―――

「悟りを得たら、どうなるのですか」
「太鼓を叩いた音が、ドンドン、ドドン」
自分で叩こうか、嫌いな人が叩こうが、好きな人が叩こうが、名演奏家が叩こうが、子供が叩こうが、山で叩こうが、高原で叩こうが、自宅で叩こうが、「己」にとってどのような人が、どのような場所で叩いたとしても、その太鼓が叩かれたままに叩かれた音としてそのままに聞こえるほかありません。ダイレクトに耳に届いた音の認識があるのみです。

 「音」はただの「音」であり感受された「音」でしかありません。「自我」が勝手に「想」として処理することで、好いとか悪いとか心地よいとか不愉快とか攻撃されているとか何かの合図だとか不吉だとか吉報だとか・・・・。まったく狂おしいほどの様々な「価値判断」によって「迷い」の世界にとどまることになります。
 
 道元禅師が、帰国したとき「眼横鼻直空手還郷」と言われました。
 「己」が勝手に描いた人物像はことごとく意味が無く、経典すら必要なかった。仏陀の三十二相八十種好などただ「神格化」しただけのこと、人はだれでも「眼横鼻直」であり「特別」など無かったのです。寂静である人であろうが、悩んでいる人であろうが見分けはつきません。外見が別人になるわけではありません。

 寂静であったとしても「特別」な生活を送るわけでもありません。光輝くこともありません。同じように食べて同じように排泄する「いのち」です。「老病死」が無くなるわけでもなし。「特別」な体験をするわけでもなし。「特別」な能力を身につけるわけでもありません。あらゆることを「特別」として見ることもなく知ることもありません。ありのままをありのままに受け取り、無意味な「想」から先に進みません。無意味なことに興味もなく、無意味なことをせず、無意味なことに囚われない、無意味なことは考えません。

 「自我」は、未来への恐怖を抱き、ちょっとでもいいから「楽」になることを欲しています。あらゆることを知り、「知識」と「概念化」したいのです。
 図書館にある本をすべて「記憶」したとして、「平安」になるでしょうか。それとも「混乱」するでしょうか。すべての作者は「己」が正しいという前提で本を書いています。本に書かれている真逆な概念を「記憶」し「知識」としていては、二元対立の世界から抜け出すことは困難です。

 子供にとっては「ピカソ」の絵を見ても、したり顔で評価したりしません。ありがたくも高額であるとの思いもありません。ただの油絵の具が布に塗ったものでしかありません。「特別」などありません。

 すべては「空」です。何かを測りたいということは、その行為や思い自体に「分別」をもちこんでいます。何センチだから多いとか少ないかその何センチで判断しています。雪の量を見ればそれで感じればそれでいいだけです。
 気温もそのまま感じるままを感じればいいだけです。カリフォルニアの温度が何度で湿度が何パーセントなど聞いても意味はありません。「冷暖自知」。

 「空」であるものを、機器を使って「己」の知識の範疇で知ることで「想」によって「分別」しています。目はカメラ、耳はスピーカー、味は塩分計、触は風速計・体温計・温度計・湿度計などや他のセンサー、本来「空」で見えない「対象」も機器によって知識としています。

 火星を知って何の意味があるのでしょうか。ヨーロッパの天気やヨーロッパの事件や出来事を知ってどうするのでしょうか。将来は、月に観測機器を設置して月の環境をお知らせするかもしれません。「知った」としても何もできないのです。月の温度を知って「悩み」が減るのか増えるのでしょうか。月の「今」と「己」の「今」のどちらを見なくてはならないのか。
 すべては「起こるように起こっている」だけです。「今」起こっている以外の事は、知ろうが知るまいがどうでもよいのです。手出しもできず制御もできないことを「知る」ことは、かえって「迷い」と「悩み」が増えるだけのことです。

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 「ならば、最高にありがたいものとは」
ありがたいのは、仏でも衆生でも同じように叩いたままに聞こえることです。

 「もう少し変わった答え方をしたらどうなのか」
問うている僧は、まだ理解できていませんのでしつこく問うています。同じ答えでは理解できないので違う「言葉」で「知識」を得たいのです。「言葉」や「知識」から離れ「音」は「音」で受け取りなさいと答えるほかありません。

 「私を若輩だと思って馬鹿にしているのか。もし、ここに慧能大師がおられたら、どんな答え方をされるのか」
 ここにおよんでも、「不立文字」の真意を理解できません。真理を「言葉」で表現することはできません。ギリギリ「言葉」として表現しています。

 他の禅師であったとしたらどうなんですかと異なる答えを求めています。
 だれが仏道を説こうが「如実知見」であり、自ら体験するべきです。「冷暖自知」。



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照見五蘊皆空ー4 [仏道]

 「自我」が構築したあらゆる「知識」「言葉」「観念」「概念」「判断基準」は、「空」へと解体すべきです。解体できなければ「自我」に囚われ続けることになります。「迷い」は「自我」によって作り出されたと理解できない限り囚われから抜け出せません。
 「老病死」などの「苦」に逆らうことはできないのです。逆らえないことに対しては放っておくことです。「老い」を受け入れられないのは「自我」が他人と比較して「若く」いた方が良いという社会からの脅しに迎合しているからにほかありません。

 まっさらな目で、「あるがまま」と対峙しなくては本来の姿は見えてきません。各人が思い思いの「想」を作ることで迷っています。「迷い」は「己」が勝手に作っていることを自覚しなければなりません。

 主体と思っている「己」が「客体」と見なしている宇宙のあらゆる対象は、1(己)対無限数(あらゆる対象)です。主体の「己」は「客体」から見れば、1/無限数となり、「」に等しい存在なのです。「己」は1であると同時に「無」です。

 純粋に映画を見るように目の前の出来事を観察するだけでいいのです。目の前で繰り広げられた破壊や恋愛や家族の絆などはただスクリーンの中で起こった光の点滅を見ただけのことです。観察が終われば、何も残っていません。音と爆風を感じたかもしれませんが、ただのスクリーンでの出来事です。

 地球上で起こっていることや宇宙で起こっていることに対して責任を取る必要はありません。今も病院で苦しんでいる人がいるはずですが、あなたが責任を感じるならすべての「いのち」を救わなければなりません。「医師」という専門家に任せておけばいいのです。
 「死」によってかえって「苦痛」から解放されているのです。生まれた「いのち」は死を迎える、それが「いのち」の法則であり、「いのち」の法則を歪めることはできません。

 我々は、「無限」の存在の客体として存在しています。宇宙の一部であり、宇宙そのものであるのです。「死」によって得ることも失うこともなく、この身も解体されて無となるだけのことです。
がつがつ生きたとしても、何も手にすることができないことなど自明なことであって理解できない人はいません。執着の根本である「渇愛」という囚われを離れなくては「寂静・自由」な生活を送ることは困難です。


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照見五蘊皆空ー3 [仏道]

 眼・耳・鼻・舌・身・意という感覚器官に、色・声・香・味・触・法という認識対象が触れることで認識(六識)が生まれます。このとき、認識する主体として「自我」が作られました。
 我々の体は、ただの感受しているだけです。「想行識」によって脳が「意味づけ」することで「自我」が主役の立場となって働きます。
自我」は、さまざまな「苦」という「抵抗」を受けることで一層の存在意義を強化していきます。

 「苦」があることにより、「楽」や「悦び・喜び・歓び・成功、happy,joy,pleasure,congratulate」が「私」は生きていると実感させてくれます。「苦」はできることなら忘れたい逃れたい避けたいので、どこまでも「楽」を求め続けることになります。

 常に恒常なる感受(受想行識)などありえず、恒常なる対象(色)もあり得ません。凄まじいスピードで変化しているので「自我」が連続して存在しているかに見えるだけです。パソコンやTVのドットが点滅して像が作られます。「自我」は、実在しないのに像とし写し出されるのに似ています。「自我」は頭の中で作り出している幻影だとの見解を得なくてはなりません。

 受の段階で終わってしまえば何の問題もありません。次の、想行識となることで確固たる「自我」が形成されてしまいます。
 色も空、受も無常です。認識したときにはすでに消え去っています。感覚器官に囚われても意味はありません。瞬間瞬間で消え去っているのですから、きっぱりと忘れ去ることです。音も景色も皮膚で感じる温暖も消え去っているからこそ味わいがあるのです。

 想:単なる光の波長、音の周波数、鼻にある臭覚を刺激する匂い、舌にある味覚を刺激する味、皮膚の感覚神経を刺激する感覚。ただの刺激データを脳で「言葉」に変換することで「苦」を作っているのです。

例:エレベータの中で嫌いな人と体が触れた。エレベータの中で好意を持っている人と体が触れた。
エレベータの中で見ず知らずの人と体が触れた。エレベータの中で汗臭い人と体が触れた。エレベータの中でかわいい子供と体が触れた。エレベータの中で犬を抱いている人の犬と体が触れた。

 その他さまざまな状況がありますが、嫌いな人は実は双子の一方であり初対面の人かもしれないのです。好意を持っている人も双子で、何の知り合いでもない人であるかもしれません。
 人と体が触れたという状況でも、「自我」の想によって異なるのです。

 全てが成長するための「試験」として対処しなくてはなりません。嫌いになった他人を変えることなどできません。「己」の見方や観念を変えればいいだけの話です。
 好き嫌いは、「自我」が勝手に作っている幻想だということを自覚しなくてはなりません。対象を「空」として好き嫌いをなくすことです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


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照見五蘊皆空-2 [仏道]

 「いのち」はただ「いのち」を繋ぐために生きることが目的であった。「いのち」は生まれた瞬間から「死」を宿命づけられ、「己」の遺伝子を次なる「いのち」に引き継ぐことで「己」の価値を見出してきた。

自我」は五蘊を「主体」とみなして活動しています。「自我」は何故生まれたか?
自我」を成り立たせている五蘊というシステムがどうして必要だったのでしょう。「己」を存続するために「自我」という仮の「存在」を作り上げたのです。
 仮の「存在」は恐怖からの防衛のために常に「思考」する役割をになうことになりました。本来は仮であった「自我」が主人であると勘違いしてしまったのです。
 「己」を脅かす恐怖の楯となっている「自我」が生存の主体となりました。「自我」は主体であることに疑うことなく生きています。
 「いのち」を脅かす恐怖によって「自我」が作られたと言えるのではないでしょうか。

 現在人はどのような恐怖(苦、ストレス)にさらされているのでしょうか。
「いのち」として避けられない老病死、未来に対しての恐怖である求不得苦・愛別離苦・怨憎会苦、瞬時の恐怖である五蘊盛苦があります。
これ以外の恐怖(苦、ストレス)には次のようなものがあるのではないでしょうか。

[肉体的な恐怖]
肉体的な「死」の恐怖(必ず死ぬのだから恐れても意味がない)
肉体の一部が奪われる恐怖(病気による手術等によって切断・摘出)
病気の恐怖(健康であれば当たり前にできたことができなくなる、気が滅入る)
認識不能の恐怖(突然におこる認識不能の恐怖、耳が聞こえなくなる、目が見えなくなる)
認知できなくなる恐怖(社会生活上での自分の世話ができなくなる)
未知の恐怖(将来の不安、身の回りで起こっていることを知らないとすぐに対処できない)
[知識に関連する恐怖]
知識や想像力による恐怖(知識によってかえって不幸な出来事を想像してしまう)
知らないことの恐怖(知っていれば助かったのに知らないばかりに大変な目に遭う)
理解できないことへの恐怖(神などの概念や体験が認知できない)
[望んでいないが将来起こるも知れない]
災害による恐怖(予知・予見できない突発的な災害)
無所有の恐怖(すべてが奪われる恐怖)
失うことの恐怖(失いたくないので執着してしまう)
社会からの恐怖(社会的な弱者となり虐げられる)
貧困の恐怖(余裕を持って生きていたいが、生活が立ち行かなくなる)
[職業生活]
期限を守れない恐怖・責任を果たさなければいけない恐怖(信頼を失う)
仲間外れにされる恐怖(いじめ、いやがらせ)
期待されたことができない恐怖(評価が下がり相手にされなくなる)
ハラスメントの恐怖(一人では対処できない)
[対人]
人間関係の恐怖(馬鹿にされたくない、仲間外れにされたくない、居場所がなくなる)
他人とのトラブル恐怖(安心した生活をおくれない、不安に苛まれる)
変化に対応できない恐怖(状況に対処できない、信頼低下)
感情を制御できない恐怖(すぐに感情的になり制御できなくなりトラブルを起こす)
[偶発的]
襲われる恐怖(他人が信用できない、眠れない、鍵をかける、防犯対策)
嫌な事にあう恐怖(勝手に作り出す恐怖、平穏な生活に難題が持ち上がる)

 日々様々な恐怖(苦、ストレス)にさらされている「自我」は、思考や知識や概念や言葉を使って「己」自身で解決するか、コミュニケーションによって他人と関わりながら解決するかの何れかです。

 肉体的要素と精神的要素からできている「五蘊=自我」によって恐怖(苦、ストレス)となるのですから、「自我」を消滅させることが恐怖から離れ「平安」でいられる「道」として教えられています。

 他人はいつまでも頼りに出来ることはできません。すべてが「己」の問題であり、結局は「己」が解決しなくてはなりません。
 「私、私の、私が偉い、私の尊厳、私の未来」にこだわることによる諸問題です。この問題を解決するには、自灯明・法灯明によって現在位置を確認しながらクリアしていくことです。

 他人も忙しく、時間と費用も掛かります。手っ取り早いのはリタイヤすることです。しかし、現実は、家族の生活もありそうもいきません。この点において、職業生活をしながら仏道修行を行うことは至難を極める道です。
 しかし、地道な努力を続けることで成しえないことはありません。「」という「概念」を使うことが一つの方法であると般若心経で説いています。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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照見五蘊皆空ー1 [仏道]

「照見五蘊皆空 度一切苦厄」 

 五蘊(色受想行識)それぞれがみな「」であると知見できた。「」を理解し執着がなくなれば、一切の苦や災いから離れることができる。
 般若心経では、智慧を完成するには「」を理解することである。初めから答えを先に提示してから考察している。

 この世には神秘も秘密も一切ありません。ただ人の目が節穴なだけのこと。リンゴはいつも地面に落ちていました。風呂に入れば水があふれ出ていました。風が吹けば涼しく感じます。日が照ればあたたかくなります。川は川と呼ばれる前から川です。「私」は「名前」で呼ばれ「思考」することで「私」となっただけ。ただ一つの「いのち」が「認識」しているだけのこと。

 「自我」は苦(恐怖、ストレス)が「己」を守るために作り出しが幻想。
 「自我」を存続させ、「自我」たらしめているのは五蘊である。「肉体と精神(脳の働き)」によって「自我」と主張しています。五蘊は常に「苦」によって攻撃され、「苦」によって「苦しめられる」と思い込んでいるのです。
 般若心経では、五蘊が受ける「苦」は「空」であって実体がないものです。よって「自我」という幻想を守る必要がないことを知見しなさいということです。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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空即是色 [仏道]

 我々の頭の中で「私の判断基準」が構築され完成されています。
 我々の普段の生活において、現前の対象(色)に接している間は「私の判断基準」が自動的に働いています。

 何かを思索したり、他人とのコミュニケーションをとっている場合にはを考えたみましょう。
まず「イメージ」を頭に描き「私の判断基準=空」を基に対象(色)を作りあげていきます。

 レストランで「パスタ」を食べに行きましょうと話していれば、頭の中で様々な「パスタ」のイメージが自然と浮かんできます。「パスタ」という共通の「言葉」であるにもかかわらず、各々が別々の「パスタ」を思い浮かべています。頭の中の「パスタ」は単なる言葉であり実体がありません(空)。

 先にイメージや先入観によって対象(色)を頭の中で作り出します。「私の判断基準」で構築された対象(色)が頭の中で存在することになります。単なる「概念」と「言葉」だけで作り上げた「イメージ」と現物の対象(色)が照合されます。「イメージ」が優先され、実物の対象(色)を見て違和感を感じることもあります。

 頭の中の「言葉」は自体がない「空」です。頭の中では好きに着色したり壊したりできます。頭の中の「虚像」がそのまま対象(色)として優先します。各々が作り上げた「イメージ」が確立されています。中東の国では「甘い」食べ物をよく食べるので、「甘さ」の基準が高く相当甘くないと甘いとは言わないのでしょう。頭の中で「甘さ」に対しての「私の判断基準」が高く設定されています。
 各人がそれぞれの「私の判断基準」を設定して生きています。注射一つとっても、痛くも感じない人から、針をみただけで逃げ出したくなる人もいます。

色即是空:対象(色)たる実在は、本来比較され優劣をつけ区分される対象ではありません。
囚われることなく知覚すればよい。
空即是色:我々の生活では、「言葉」や「イメージ」でできた記憶があるために対象(色)と比較して混乱しています。「イメージ」と対象(色)が直結しています。
 単なる「言葉」という「虚像」で「苦」を味わう必要はありません。実在のないただの「言葉」で迷よわされています。「言葉」や「記憶」は実体のない「空」です。
「色是色」:実在は実在そのまま。
「空是空」:言葉は単なる言葉だけのこと。

碧眼録53則<馬祖野鴨>
百丈が師である馬祖と一緒に道を歩いていた。
その時、野鴨子(雁)の1群が空を飛んでいるのが見えた。
馬祖「あれは何だ?」。
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※全ては「あれ」でいいのです。我々は「概念」による「言葉」でこの世を構築しています。全てが「あれ」であれば何の問題もありません。一切が優劣のない「あれ」で十分です。年齢を重ねて「言葉」が思い浮かばず「あれ」と言ってごまかすときに使う「あれ」ではありません。
 意図的に「私の判断基準」を持ち込まず、対象(色)に対して使えばよいと思います。一切差別のない対象(色)であるとして「あれ」と見るのです。
 「あれは何だ?」と馬祖も「野鴨」であることくらい知っています。あえて「あれ」として聞いたのです。「言葉」と「概念」を超えなさいとチャンスを与えました。まだ、「頭」の中の「意味のない思考」で生きているのか?
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百丈「野鴨(雁)です」。
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※「己」の頭で記憶していることが「判断基準」となっています。ただの「言葉=固有名詞」を使って、何の疑問もなく躊躇なく返答してしまいました。何の疑いもなく自動的に行っていることに気づかなくてはなりません。つまり、何の躊躇もなく「言葉」が出ているということは、思慮分別が無意識で行われている証拠です。「野鴨」という「固有名詞」の返答があったことは、「主体」と「客体」の区別をしていると見抜かれました。  自分自身で「当たり前」が「苦」を作っているを見抜くチャンスだったのです。
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馬祖「どこへ飛んで行くのか?」。
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※「どこへ」と問うことの意味はなんでしょうか。東西南北や上下左右などの「概念」は、勝手に作った「概念」です。北極点からどちらへ進んでも南です。道に迷った時には北極星の位置を知ることは意味がありますが、普通の生活の中で東西南北など知らなくても生きていけます。なんら気にすることも気に病むこともありません。
 「ここ」はどこでもなく「ここ」でしかありません。我々は「どこへ」行こうが常に「ここ」に居るだけです。
 馬祖の「どこへ」との問いは、百丈の頭の中の「思考」について問うています。「主体」と「客体」が一体となっていないため、「己」の頭を中心に思慮分別していたのです。
 「野鴨(雁)」などただ「頭」の中に存在してる「言葉」であり実体のない「空」でしかありません。
 実在の「己」は「今ここに」存在しています。頭の中にあるだけの「虚像」が本体ではありません。普通の一般人が「野鴨(雁)」と「返答」しても怒られることはありません。頭の中だけに作られた言葉としての、実体のない「虚構の野鴨」はまだ頭の中に存在しているのか?
 「どこへ」というのは、お前の実在は「どこ」に存在しているのか?今の「己」を差し置いて、手の届かぬ空の中にある対象(色)など「偽物」である。今の「己」を差し出してみよ。
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百丈云く、「もう飛んで行ってしまいました」。
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※「私の判断基準」で、「さっきいた場所」が「記憶」の中にあり、その 「さっきいた場所」が「私の位置の判断基準」となりそこから離れたので「飛んで行った」と答えたのです。
 「私の判断基準」があるかぎり、遠いや近いがでてきます。遠くへ行っているわけでもなく近くへ来ているわけでもありません。ただ羽ばたいた結果位置がずれているだけです。「野鴨」はあなたの勝手な「基準」をずれているわけではありません。
 自分勝手な「基準」で物事を判断すれば「苦」となることは必然です。「ゴキブリ」は「ゴキブリ」の「いのち」を生きているだけのことであり、「人間様」に迷惑をかけ申し訳ないとは思っていません。「人間様」の都合で、嫌がられて殺されるほどの悪事は働いていなはずです。
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すると馬祖は不意に百丈の鼻柱を引っつかんで捻り上げた。
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※「思考」しているお前ではなく、実在のお前はどこにいる。今の「お前」は、ここにいるぞ痛みを感じているそのものが「お前」である。頭で構築した「虚像」と戯れているのは実在ではない。
空即是色:頭の中で「私の思い=空」思考して実在を見ている。思考は実在ではい。
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余りにも痛いので百丈はオウオウと泣き始めた。
馬祖「飛んで行ったと言うが、まだここに居るではないか!」。
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※百丈の実在は「今ここ」に存在しています。思いの中にある(空)である「野鴨(雁)」などどうでもいいのです。
 頭の中であれこれ考え、その考えに振り回され「己」を見失っている「己」に気づきなさい。
 頭を使って論理的思考ができる人は、自らが「苦」を作り出していることに気づかないのではないでしょうか。頭を使えばただ「妄想」がふえるだけのことです。
 
 器が空の状態にあるほうが有用です。器がいつも満たされていて、その器に何かを入れればあふれ出してしまいます。また、混ざったらおかしな物質になることさえあります。頭は常にスッカラカンの空っぽにしておけば有用な器として使えます。考えすぎれば病気になります。
 毎日毎日考え悩まずとも、一口のお茶を味わいボーとすることもいいと思います。
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この時百丈は冷や汗を流して悟った。
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※ 「己」の実在は、「今ここ」に在ることを骨身で感じさせられ感得できました。頭はどこへでも行きます。「今」に生きることは難しいことです。

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色即是空ー2 [仏道]

勝手な「空」の「概念」ですので、信じることなく自らの修行にて確認してみてください。

1.空とは、実体がなく頭の中で構築された「概念」からなる単なる「判断基準」である。
  無判断=空
2.空とは、恒常の固定したものでなく、生滅しているためにしがみつくことができないこと。
  無常=空
3.空とは、あらゆる事象に隠れた原理原則や法則であり、事象を現出させるものである。
  法則・原理の根源=空
4.空とは、今の瞬間に認識できていない全てである。認識できない故に迷いようのない世界。
  認識不可能=空
5.空とは、あらゆるものを生み出し、また、あらゆるものを分解し還元され戻るところである。
  発生と消滅=空

 1番目の空の「概念」を用いて、「色即是空」を考察することで「概念」という囚われから自由になりましょう。
 我々は、生まれてから「己」に付けられた識別名としての「名前」によって呪縛されている。誰でもないただの一つの「いのち」として生まれただけです。親から「名前」を付けられることによって識別対象となりました。
 日々「名前」を呼ばれることで「私=自我」が自然に形成されたようです。他の人も異なる「名前」であるため、分離された「自我」が確立します。

 パンダにさえも「名前」を付けています。なぜ「名前」が必要なのでしょうか。我々の知識の範疇におさめられること。「名前」によって、実物がなくても「概念」のやりとりができ新たな「概念」を作ることができます。
 この「概念」のやりとりによる会話は、実物を介在させない「空虚」な話でしかありません。体重など実感できるわけがないのに、頭の中で重さのイメージを必死に作りだしています。「体重」はただの言葉であって実際の重さを実感できないかぎり「判断・推測=空」でしかありません。

 あらゆる対象を「概念化」して「名前」をつけ、「好き」「嫌い」「どちらでもない」の三つに区分する習慣が身についてしまう。「名前」を聞いただけで、自動的に分別・選別を行います。「己」の判断を疑うことなく瞬時にプロセスが実行されます。

 瞬時の判断なので、「疑問」は抱きません。大切なことは「当たり前」にあえて疑問を呈し探究することです。「己」の作った「判断」の奴隷となっていることに気が付かないで生きているかもしれません。「当たり前」が正しいなら、すべての人が寂静であるはずです。

 対象(色)がインプットされると、今までの経験で作られた記憶の中のイメージ(実物でなく観念でつくられているので「空」)で出来上がった「私の判断基準」と対象(色=現物)が照合されます。「私の判断基準」以上であれば執着、「私の判断基準」以下であれば忌避、未確認の対象やどうでもよい対象にたいしては「保留、無視」と、瞬時に分別され自動的に反応します。

 色を認識すると、頭で構築した実体のない「判断基準=空」と結びつきます。対象はそのままの存在であるにもかかわらず、「瞬時=即」に頭の中で「判断基準=空」としての対象となります。これが、認識対象は瞬時に頭のイメージとしてある。「色即是空
 「空」は無いのではなく、実体のないただの「判断基準」という「概念」だということです。

 我々が対象(色)を感受すれば、「判断基準=空」というフィルター(プログラムされた判断)を通ることによって、その対象(色)に対して執着しようが忌避しようが必ず「苦」となります。
 本来の「空」は「判断基準」が無いということです。全ての対象(色)に対して「イエス」。全てに対して「期待」しないでいることです。あらかじめ対応を考えて生きることは「生」のダイナミズムと一体となっていないことです。

 対象(色)に対して「私の判断基準」を持って接していては「苦」につきまとわれ、自由や解放には程遠いといえるのではないでしょうか。
 たまに、「私の判断基準」を超えた絶景や出来事に遭遇した場合には、あなたの「記憶」の中に該当する「概念」を見つけることができません。その体験は「言葉」には出来ません。「概念化」できないので「概念」から解放され、自由な「判断基準のない空」を体験できるのではないでしょうか。

 「リンゴ」は「リンゴ」という名前が付けられなくても存在しています。目の前の「リンゴ」に対して赤いとか黄色いとか酸っぱいとか甘いとか、硬いとか柔らかいとか勝手に「己」の頭の中で作り上げた「イメージ」ができあがっています。そのイメージと比較して食べていては、今味わっている「リンゴ」を真に味わっていると言えるでしょうか。

 今味わっている「リンゴ」は硬くもなく柔らかくもないのです。「私の判断基準」より硬ければ硬いだけのことです。「私の判断基準」など一切とっぱらって、今食べている「リンゴ」は一生に一回しか食べられない「一期一会」の「リンゴ」です。今食べている「リンゴ」を「私の判断基準」なしに「ありのまま」を味わい尽くすだけのことです。それで、中道ができたことになります。

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色即是空ー1 [仏道]

 色は我々が認識可能な対象。
 「空」は我々が作り出した「概念」を破壊するための「概念」です。この世に対しての執着や忌避から解放され自由(寂静)になるために使えばいいのです。
何故「概念」を破壊しなければならないのでしょうか。それは、「概念」によってこの世で迷い囚われているからです。
 進化の過程で手に入れた「言葉」と「概念」が自由の障害になっています。色は本来思慮分別されるものではありません。「概念」によって分別が起こり、執着や忌避となり「苦」となります。
 この世で普通に生活して寂静を得ることができるのが当然と仮定してみます。世間が正しければ悩む人などいません。この社会の知識や常識や物の見方で寂静となれれば「観念」を破壊する必要などありません。
 図書館に行って本に書いてある知識を理解するか、大学に入って修士や博士を取れば寂静を求める必要はありません。ただ記憶して吐き出すだけの知識や、概念をつぎはぎして構築する論理的思考によって達成するなら、義務教育を終えた人に修行など意味はありません。

 複雑化や混沌の中において、迷うことなく過ごすことができるでしょうか。科学知識や学問がどんどん増えていくばかりです。知識が増えたから正解に出会うチャンスが増えるというわけではないようです。
 逆に、作り出された知識や概念は原点からどんどんかけ離れていくため、正解を得ることがより困難な作業になります。不要な記憶や概念や思考が無くなればなくなるほど、見出されやすくなるのではないでしょうか。

 「空」の解釈にこだわり、「空」を理解しようとすることが「概念」の罠にはまります。「空」の概念よりも、言葉や思考なしに対象を知覚することができるようになり、対象に囚われなくなればいいだけのことです。

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「救済」という嘘 [仏道]

 宗教はどのようにして生まれたのでしょうか?
 我々ホモ・サピエンスは、哺乳類から進化し、地球環境の激変に順応させられ生き延びてきた「種」です。地球上の他の「いのち」と異なる点はいくつもありますが、特筆すべきは「手の器用さ」と、「言葉と文字」によって知識の保存と継承が行われていることに尽きるのではないでしょうか。

 「宗教」において「救済」する責務を負っている「」という「概念」はどのようにして作られたのでしょうか。

 ホモ・サピエンスが直面した数々の出来事がありました。人知を超える自然の力(津波、地震、火山噴火、雷などの天変地異)や自然現象(日食、月食、ハレーすい星、四季の移ろい)、また、避けがたい疫病による大量死などです。人類は、これらの「苦しみ」や悲惨な「災難」を経験してきました。あまりにもあっけない「いのち」を目撃し、記憶に刻みつけ次世代に継承していくことになったと想像されます。

 我々の祖先は、常に無力さに打ちひしがれ自己憐憫するしかありませんでした。自然の驚異に苛まれた人間は、慰みや救いに癒しを求めることは当然の成り行きです。地球上ではただの「いのち」の一つでしかありません。しかし、人間は「思考」することによって超人的な「力」や「永遠に生きたい」というあこがれを「概念化」することに「希望」を託しました。

 これほどまでに苦しめられるのは、何か原因があるはずだ。そうでなければこれほど苦しむはずがない、ということで「原罪」という「概念」を持ち出して自らを納得させたのです。
 ただ「原罪」だけでは救いがないので「」という概念を作り上げていきました。また、自然に対して力が及ばない微力な「己」を慰めるために「祈り」という逃げ口上を生み出したと推察されます。
 人間は臆病者で、怠け者であり、偽善者であり、自己正当化して他に責任転嫁する狡猾な「いのち」ではないでしょうか。老病死に対し潔くない、諦めきれないこだわりがあるのです。
 想像を超える自然現象や災難、苦難さえも超える全知全能なる「神」が霊感をもって代書させたと言われる言葉を拠り所とし、精神的混乱から逃れすすべを見出し「いのち」を存続させることに成功しました。「神」は必然的に作られた究極の現実逃避の「概念」であるといえます。

 「宗教」は、国や国王の権威づけのために利用されてきた。無知なる民衆に対して「神」のみぞ知る自然現象(月食、日食、ハレーすい星)などが正確に予言できるのは「国王の権威」と「神」が同等であると民衆に示すためでした。
 また、「宗教」は他の民族や他の国を征服するために正当化する拠り所として利用されてきた。神に祝福された聖戦であり、「聖なる土地」は征服者の所有地として約束された土地なのです。

 科学知識の進歩により、ある程度自然現象が予測できるようになったことにより、「」の権威や威厳はほとんど消失しています。地動説、進化論、日食、月食、地震、台風、引力、圧力、電磁気などにより、「神」の脅しが通じなくなってなっています。科学が進歩するにしたがって「神」の担っていた神秘など無いことはっきりしてきました。ただの自然現象でしかないのです。いつまでも脅されて頭を下げているバカバカしさから「目覚め」なくてはならないのではないでしょうか。

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神はみこころにかなった願いをするなら、必ず、かなえてくださると約束されています。(第1ヨハネ5章14-15節)
悪霊の障壁を打ち破るために祈ります。(マタイ17章14-21節)
祈りに欠けるということは、信仰に欠けていること、みことばを信用していないことの現われです。私たちが祈るのは、私たちが神に信仰を置き、みことばで神が約束しておられることを必ずしてくださるということを信じ、神は私たちの願うところのすべてを越えて豊かに施してくださると信じているからなのです。(エペソ3章20節)
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 一体どれくらいの人が祈りをささげていることでしょう。○○教での祈りで実現しないのは、信仰に欠け、信用していない現れとあります。このように逃げ道を作ってあるのが人間の狡猾さが現れています。祈っても実現しないのは、祈る人の責任であり「神」には責任がないのです。

 「神=全知全能」とは、すべてを知っていて、どんなことでもなし得る能力であります。しかし、完全無欠の知恵と才能がありながら永遠に眠ったまま、知っているだけで何一つ為してはいません。何も働かない「ニート」が「神」の実体です。「救済」などしたためしがありません。かえって、紛争の火種として君臨し人々を苦しめているだけです。

 また、「神」ができない逃げ道として「悪魔」という「概念」を作りました。悪いことが起こればすべて「悪魔」に責任転嫁させることができるようになっています。
 全知全能でありながら、「悪魔」の存在を放っておくのは、行動力がないもう一つの証拠だと言われてもしかたありません。全知全能ならば、面倒くさい「悪魔」をすぐさま消滅させればいいだけの話です。
 「悪魔」は「神」を存続させるための重要な悪役の位置づけです。「悪魔」がいなければ存在意義は半減します。どちらにしても「神」も「悪魔」もただの「概念」でつくった「言葉」でしかありません。

 細胞一つ一つに対し「神」の力を加えることができるでしょうか。「神」が細胞に働きかけることができるのなら、「医学」は必要なく、細胞に祈ればそれで済むことです。「いのち」は勝手に生かされているだけであり「祈り」によって干渉されることはないでしょう。

 老病死や自然現象に対して、「神」による「救済」など今までも行われていないし、これからも「救済」はできはしないでしょう。毎日毎日祈っても、病気になり死んでいくのです。ささいな病気一つ治せはしない、死者も甦らせることもできない。
 この世で、肉体を得た瞬間から重力による束縛、呼吸、体内の循環器系、細胞の寿命など様々な制約の中で生きていかなくてはなりません。永遠に生きたいとは、なんたる愚かなことでしょう。永遠の苦しみを受けることを容認することでしかありません。

 「己」の「考え方」を直接に変化させる存在などありません。「己」の細胞を直接に変化させることなど「神」でもできません。それが「唯我独尊」です。「己」の「心」を直接変えられるのは宇宙にただ一つの「己」だけなのです。「神」が変えることができるのなら悩む人などいないはずです。我々一人ひとりが、「己自身」が何者かによって直接に変えられないということを理解しているはずです。自分自身が「己」が「唯我独尊」であることの「証人」として存在しているのではないでしょうか。
 もし、全知全能の「神」が各人の「心」を変えることができるなら、眠っている間に改宗させ、目が覚めたらすべての人を○○教の信者にすればよいだけの話です。ある地域だけでも可能なら、その地域の争いがなくなるでしょう。
 過去の歴史からもあり得ないし、今後もあり得ないのではないでしょうか。
 
 祈っても祈っても、老いがあり、病気があり、死があります。どうして「病気」一つ治療できない「神」が「全知全能」なのでしょうか。一粒数十円の頭痛薬の方がよっぽど「効果」があります。
 苦しみでのたうちまわっている人には、「神」よりも「モルヒネ」のほうがありがたいのです。「神」は全知全能の力を発揮するところなど見たことがありません。

 そもそも諸外国の宗教を信じていない人にとっては、祈ることもないのでご利益もないかもしれません。生老病死においては「神」が救済してあげたことなどありません。死後復活した人など一人でもいるでしょうか。常識的に考えて、処女から生まれることなどありえません。現代の科学者なら、バカバカしい作り話であると一笑にふす話です。

 どんなに殺戮を繰り返している人でさえ「神」はほったらかしにしています。今すぐ戦争を止めさえすれば苦しんでいる人を救うことができるのに、なにを躊躇しているのでしょうか。「神」は無能で無力と言われても反論できないでしょう。判っているのに何もしないでただ見ている「神」はサディスト(他人に肉体的・精神的苦痛を与える事に喜びを感じる)であり、信仰している人間はマゾヒスト(肉体的・精神的苦痛を受ける事に喜びを感じる)と言う人も多いかもしれません。
 
<結論>
 老病死においては、「神」を信じることで「救われる=解決」ことはあり得ません。祈って虫歯が治ることもありません。老病死は「神」では「救済=解決」できません。老病死に対して何ものかに頼ることはあきらめることです。この世では、願っても祈っても「意味がない=解決しない」ことを理解し、何かにすがったり、拝んだり、頼ったりする必要は一切ないのだと安心して老病死を受け入れることです。
 的確な情報収集を行い最適な医療を受診すればいいだけのことです。病気は遺伝や生活習慣や環境など様々な要因によって起こるだけであって、逃れることは不可能です。怖がらずに定期に人間ドックを受診し、早期に発見することが第一です。早期に発見し対処した後は、生活習慣を見直すチャンスとして歓迎するほうがよいのではないでしょうか。雲をつかむような「何ものか」に頼っても、散財するだけです。

 このバカバカしい「神」というただの「概念」、自らが作った呪縛から抜け出すことができない限り、この世に縛られたままです。
 今ここで勇気を出して決着をつけることです。あなたの抱いている「神」と決別宣言するのです。実際あなたは「神」によって「救われた」ことがないなら遠慮はいりません。病気一つ治してもらった経験もないと思います。知人に確認しても、「祈り」によって病気一つ治せないのは明らかだと思います。あなたが決別してもだれにも知られることはありません。いつまで「己」が勝手に作っただけの「神=概念」に騙され続ける必要があるのでしょうか。

 「神」というあいまいなただの言葉だけの「概念」から解放され、すべての拠り所を「己」に置くことです。真なる勇者になり、誰にも頼らず他に責任転嫁しない「自由」を手にいれなければなりません。
 真に「己」を救済することとは、仏道を修し「輪廻再生」しないことではないでしょうか。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。



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「私」と「他人」 [仏道]

勝手な見解であり、愚か者の独り言。

誰も他人の感受を知ることはできません。
己は己の感受を他人に体験させることはできません。

誰も他人の混乱を完全に消し去ることはできません。
己は己の混乱を他人に体験させることはできません。

誰も他人を直接変化させることはできません。
己は己のみによって変化します。
誰も他人を強制して思いを変化させることはできません。

己は己のみによって確証を得ます。
誰(釈迦もキリスト)も他人を直接に悟らせることはできません。
己は己のみによって自己欺瞞を認知できます。

誰も他人の内面の体験を知ることができません。
己は己のみによって「受」から以降を断つことができます。
己は己のみによって「言葉」を使わずに観ることができます。

誰も他人の呪縛を解き放すことはできません。
己は己のみによって呪縛から解き放たれることができます。

誰(釈迦もキリスト)も他人を直接救うことはできません。
天上から救いの使者が来て救ってはくれません。
夢のようなことを期待しないで、現実を直視して地に足をつけて進むしかありません。

己は己のみによって救われます。
自分が何の努力もせずに、救われると思い込んでいるのは自己欺瞞ではないだろうか。
救われると思っている方は一生懸命に教学に励んでいます。
自身の信心が足りない事を気にしているのでしょうか。
信心があるほど救われ易く、仏に見つけもらえるのでしょうか。

己は己のみによって調息できます。
己は己のみによって坐禅できます。
全ては己の意志です。体調を整え、生活リズムを守り自戒によって生気に満ちた生を送る。

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  オオカミに育てられればオオカミと同じに生きなければなりません。ゴリラに育てられればゴリラと同じように生きなければなりません。人間は「霊長類」という動物であり、環境に適応して「いのち」に従って生きなければなりません。

 両親がどこの国の人であろうが、日本で生まれ日本の風習を学び日本語を話し、日本の教育を受ければ「日本人」として生きていくでしょう。

 環境や教育というもので「私」が作られます。最初から社会性を持ち道徳を遂行する高尚な人間であると言い切れるでしょうか。
 人間社会という環境に生まれ、己が自立して生きていくには「私=自我」を形成して「私=自我」とともに人生を生きなくてはなりません。

 「死」という「極限」状態に直面した時に、「私=自我」など何の役にも立たないことに気づくことでしょう。「私=自我」がどのように命じようとも「身体」は言うことを聞きません。一切の「私=自我」など無いとの知見に達することで「ありのまま」を受け入れるしかありません。

 「私=自我」など「無力」な存在であったということです。生まれたことによって、偉大な尊厳が身についているとの確証を得ている人は多いのでしょうか。
 人と接し、家族や地域、社会の一員として育まれて教育の中で「尊厳」という意味が身に付いていくと思われます。

 無に消え入り、無へと消え去る方を選択したい。特別な己は「私=自我」を増長させるだけです。
求めることを少しずつ減らし気苦労を減らし、今に寛ぎ「一杯のお茶」でも飲んで外の景色を眺めてはどうだろう。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。



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「私」とは [仏道]

 「天上天下唯我独尊」の独自見解を再掲載します。今、この瞬間に同時に生きている一切の「いのち」は、それぞれが全く異なる認識をしています。地球上だけでも何百兆の何乗の「いのち」が異なる認識をしています。

 内奥の実在は全く同じであり、まったく同じ宇宙とともにあります。宇宙の一部として宇宙を構成し、どの「いのち」も宇宙との接点を持つので宇宙そのものといえます。

 宇宙全体で、認識可能な「いのち」がどれほどの数が存在しているとしても、まったく同じ認識を持ってはいません。内奥の実在と一体となっている時は同じような波動・振動と同調しているので同じといえると思われます。

 明日の朝、目を覚まして部屋を見渡してください。その部屋を見て感受している「あなた」は宇宙でただ一人、「己」だけの認識を感受しています。もし、双子が同じ部屋で同じ対象を見ていようとも異なる認識をしていることでしょう。すなわち、宇宙全体の中で認識している「いのち」であり、たった1つの認識を持った「いのち」なのです。

 「あなた」が感受したことは、感受した「そのまま」を「言葉」を使って感受した「そのまま」を他人に伝えることはできません。「言葉」には限界があります。
 また、受け取る人も他人の感受を「そのまま」受け取ることはできません。生まれてからすべての瞬間瞬間、「あなた」だけの感受を受けて育ってきました。同じ哲学書を読んだとしても、同じ体験をしたとしても異なる見解を抱くことは明らかです。

 学べば学ぶほど、異なる認識が「知識」として積み重なります。学んで蓄積したことで同じ境地になることなどあり得ないことは容易に推察できると思います。学べば学ぶほど「知識」が増えれば増えるほど混乱します。混乱したところには「己」だけの固有の勝手な答えだけです。誰もが同じ答えを見つけ出すためには本源に戻るしかありません。
 「知識」・「観念」などを消し去り「単純・単一」にならなければ本源に出会うことはできないでしょう。

 鳥のさえずりは、同じ様に聞こえるはずです。しかし、同じ音として聞こえているはずですが、「受」としての認識、その認識に対する「反応」がそれぞれに異なります。「反応」が異なり混乱するのです。修行が進み「音」はただの「音」でしかない。「解釈」がなければ、だれもが同じ感受で完結するはずです。「解釈」は「自我」が瞬時に判別しているので「私」が聞いているように錯覚してしまいます。ただそこに「音」があり平等にただ「音」が響き渡っただけのことでしかありません。

 「あなた」は宇宙でただ1つの認識体であり、すべての瞬間で、他の認識体とまったく同じ感受はありません。瞬間瞬間ごとに、宇宙全体でそれぞれの認識体の異なる感受が存在しています。これほどの奇跡があるでしょうか。虫も、魚も、鳥も、あらゆる「いのち」が異なる認識で異なる生き方で異なる経験をしています。「自我」が作り出す独自の世界が展開されています。

 「私=自我」という「概念」によって勝手に苦悩をつくり出し、「私=自我」が勝手に苦しみその「私=自我」が必死に解決しようと努めているのです。「自作自演」の「おふざけ」を演じているのです。いつまでこの「ダンス」を踊らなければならないのでしょうか。

 「私=自我」が存在して「認識」があるわけではありません。六処によって「触」があり「受」があって、自動的に「認識」するだけです。ただ意識が向いて「ある音」を拾っただけ、意識が向いて「ある対象」が眼に入っただけです。「受」から「想」へと繋がらなければ認識体としての「ダンス」は起こりません。生命体の「いのち」の「反応」スイッチをONにしなければ実在と共にただあるだけです。「受」のままに放っておけば良いだけのことです。

 自他の分離によって、「時間=記憶」の概念が構築されると「私=自我」が生まれます。「自分のもの」という「概念」が出来上がると「記憶」しなくてはなりません。「記憶」したものの「特徴」が分からなければ「自分のもの」ということを主張できません。
 「記憶や記録」は「私=自我」を他人に証明するために必要なだけでしか価値を持ちません。「記憶」する必要が無ければ過去という「時間」などは要りません。あなた自身についての「記録」など何の意味もありません。他人に自己証明するために必要なだけです。
 自己証明するために、時計やバックや靴やファッションなど高価な品物でこれ見よがしに自己主張をしています。人は自分ファーストですから、自分ほど他人には興味ありません。一体他の存在があなたの所有物に興味があるのでしょうか。一番身近にいるペットの猫や犬でもあなたのファッションには一切興味はないようです。

 今この瞬間にあなたの「記憶や記録」が消失したとしてもあなたは死んだりしません。幸いなことに「私=自我」が消え去ってくれます。何者でもない「あなた=無我」、一切の過去を背負うことのない「自由」があります。
 特定の誰かとの繋がりが無くなる=全てと繋がることができるのです。そこには「過去」からの束縛がありません。所有という観念を放棄すると、私の所有物など一切ありません=所有物からの「自由」があります。「私の物」という執着心や保守すべきという神経質な義務や失う嘆きから「解放」されるのです。所有という概念が無くなれば、存在と一体であり、存在が我が物となります。無所有になれば、全てを所有することができます。

 「記憶」しようとすることで、「時間」の概念が生まれます。過去や未来と言う「今以外」に生きていると「私=自我」が必要となり「私、私のもの」という「観念」が起こります。
 霊長類の特色として、「社会」という枠組みの中で生きていることを知っているので「私」という居場所を確保しなくてはならないのです。社会の中で生きていくには、何らかの立場を主張する「私」という「概念」が非常に重要な意義をもってきます。

 「私」が考えているのではなく、「考えている」ことによって「私」という「概念」が生起します。「我思う故に我あり」から「我ありと思い込む故に我あり」と果てしいループにより「自我」が確立されます。
 あらゆる対象は勝手に作った「概念」であり、その概念を「言葉」にして「識別対象」として「記憶」しています。すべてを「概念化」して「己に対して善か悪か」の判断が出来上がっています。この「概念化」によって「私=自我」が作られました。

 肉体、感覚、思考、感情、認識などを通じて他と区別され、対象を認識する「本体」として「私=自我」という認識主体が存在しているはずです。

 全てはただの状況に応じたプロセスでしかありません。「私=自我」は「記憶」された「概念」を使って、「私=自我」が構築した「幻想=勝手に作られたそれ」に対し瞬時に判断しているスーパーコンピューターです。このスーパーコンピュータを凌駕する「思考=私=脳」は常に「執着と忌避」を判断して「私=脳」の決断に従って生きています。「私=自我」の判断を疑うことなく委ねているだけなのです。

 無常なる色(対象)に対しての自我の判断が「嘘」であると見抜いたのがお釈迦様です。縁によって起こり、消え去る現象。判断している「私=自我」も存在していない。夢の中にいて夢見ている人が覚めたのです。

 新しい問題がふりかかれば、新たな「概念」を構築し「言葉」を作り続ける。「己」の範疇になければ、「哲学」や「宗教」に解決のよりどころを求めます。限りない自己防衛と自己正当化と自己同一化の罠にはまっています。

 我々の問題解決方法が「概念=言葉」を「記憶」するということに依存していることに気づかなければなりません。この「私」が確固たる存在であるという「嘘の観念」から抜け出さなければなりません。「私=自我」が拠り所とし「思考」する主体である「私=自我」が、「私から目覚める」ことは難しいと思います。夢の中の自分がここは夢の世界であると気づかなければならないのです。

 魚を例にとると、魚が生きている「海中=当たり前=固定観念」を一度「破壊」しなくてはなりません。海中にいる魚は「当たり前」すぎて、己が海中にいることを知りません。
 「苦」「空」「道」「虚」「法」「無」などの言葉を使って「観念」を破壊し、海中にいる魚を陸に揚げ、海中以外の世界があり、海中の「己」を観る必要があります。

 海中は魚にとって「あたり前」の世界です。海中で泳いでいる魚と同じように、我々は小さい時から親の「観念」を押し付けられ、それが「当たり前」である世界として洗脳されてきました。また、自我によって、自らの経験で「私」というあやふやな「概念」をこつこつ作ってきました。

 自らが作った「」という「概念」を手放すのはむずかしいことです。「」を認めようが認めまいが「認識」は「認識」として有るだけです。「私」が呼吸しているのではなく、「私」が意図しなくても呼吸はただあり続けます。

 寝てる時に「私」はいるでしょうか。熟睡していて、蒲団ごと遠くに運ばれ湖の真ん中に放置されたとします。確固たる「私」がいるなら気づかなくてはなりません。
 「私」ではなく、感受のプロセスが働いていないだけのことです。つまり「私」ではなく、感受のプロセスが「私」という「概念」であると言えないでしょうか。

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壊苦性 [仏道]

正覚によりて(1) 南伝 相応部経部35-13  [阿含経典三巻 P24 増谷文雄著 筑摩書房]
 比丘たちよ、そのわたしに、やがて、このような思いが浮かんだのである。<すべて眼を縁として起こるところの楽しさと喜び、それが眼の味わいである。また、その眼がすべて無常かつ苦にして、移ろい変わるものであること、それが眼の禍いである。さらに、その眼における欲の貪りを離れ、欲の貪りを捨てること、それが眼からの脱出である。>

 比丘たちよ、しかるに、わたしは、そのように、これらの内なる六処の、味いを味いとして、禍いを禍いとして、また、脱出を脱出として、よく、あるがままに知るにいたった時、比丘たちよ、この時、わたしは、天神・悪魔・梵天の住む天界において、また、沙門・婆羅門・人天の住むこの世界において、最高の正等覚を現成したと自覚するにいたったのである。
 そして、わたしには智慧と直感とが生じた。<わたしの心解脱は確かである。これがわたしの迷いの生涯の最後であって、もはや、かかる迷いの生涯を繰返すことはないだろう>と」
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 執着はいかにして起こるか?それは眼に見ることを楽しみ、見ることに喜びを感じる。そのことが眼の味わいとして囚われる。しかし、見えるものは「無常」である。他の対象に眼を移せば、さっきまで見ていたものはすっかり消え去っている。さきほどまで見ていた対象は眼に残っていません。
 見たいということは、禍であると認識し、自覚する。味わい楽しみ見ることなく、ただ眼に対象がうつっているだけです。
 見えるままに放っておく。楽しんでいる「己」に気づき、「渇愛」になるとして喜ばない。

 「あるがまま」に見えているだけでそれでいいのではないでしょうか。感情や楽しみを起こすほどのものではありません。特別なという見方をせず、「好き嫌い」の二元的な見方にならないように、見えているままに受け取ればいいだけです。

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行苦性(5) [仏道]

 南伝 相応部経部22-48 [阿含経典二巻 P78 増谷文雄著 筑摩書房]
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、比丘たちに告げて説きたもうた。
「比丘たちよ、わたしは、いま、汝らのために、人間を構成する五つの要素(五蘊)と、生に取著する五つの要素(五取蘊)を説こう。よく聞くがよい。
比丘たちよ、では、人間を構成する五つに要素とはなんであろうか。
比丘たちよ、あらゆる色(肉体)は、それが過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、あるいは、内外、精粗、勝劣、遠近の別をとわず、それらは、すべて名づけて色蘊 となす。
比丘たちよ、あらゆる受(感覚)は、・・・すべて名づけて受蘊となす。
比丘たちよ、あらゆる想(表象)は、・・・すべて名づけて想蘊となす。
比丘たちよ、あらゆる行(意志)は、・・・すべて名づけて行蘊となす。
比丘たちよ、あらゆる識(意識)は、・・・すべて名づけて識蘊となす。
比丘たちよ、これらを名づけて五蘊となすのである。
では、比丘たちよ、生に取著する五つの要素とはなんであろうか。
比丘たちよ、あらゆる色(肉体)は、それが過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、あるいは、内外、精粗、勝劣、遠近の別をとわず、それらは、すべて、人の心を酔わせるものであり、生に取著するものである。かくて、それらは、すべて名づけて色取蘊 となす。
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<五蘊盛苦>
五蘊とは物質と精神の諸要素と言われています。
色:肉体
受:感受して苦楽を感じる感覚
想:イメージして心に浮かべる像(「りんご」という言葉で「りんご」が頭に作り出されます)
行:自らの意図を持った、意志・欲求・記憶、概念化
識:対象を識別(分別して振り分ける)して認識するします

 五蘊の時間的な対象に対しての囚われ、○年前・○年後の肉体(飛び跳ねていた身体、ストレスに苛まれていた身体、老いて横たわる身体)、○年前・○年後の感覚(苦労した、快感、おいしかった、楽しいだろうと期待する等)、○年前・○年後の想(昔はこうであった、こうありたいというイメージ、作ってみたい対象のイメージ等)、○年前・○年後の行(何かにアプローチしたい、ライフスタイル、人生哲学、理想像等)、○年前・○年後の識(過去のこだわり、瞬時での好き嫌い、嗜好、嫌悪等)、現在の五蘊。

内外:肉体であれば、内:眼で知覚できない内臓等、外:眼で確認できる身体の部分
受であれば、内(インプットされた感覚等)、外(外にある知覚対象 熱そう、凍えそう等)
精粗:肉体であれば、精(赤ちゃんのきめ細かい肌等)、粗(老いたざらざらの肌等)
勝劣:肉体であれば、勝(はがねのような肉体等)、劣(か弱い肉体等)
遠近:肉体であれば、遠(足先等)、近(顔や手等)

 この五蘊は、生に取著する五つの要素(五取蘊)となり、どちらにしても心を酔わせる。良いと思えば追っかけ、嫌だと思えば避けて逃れる。右に左に、上に下にと心が定まらないので、心を酔わせてしまう。酔えば「あるがまま」に見ることはできないでしょう。
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無常なるもの 南伝 相応部経部22-15[阿含経典二巻 P25 増谷文雄著 筑摩書房]
(略)
「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
 受(感覚)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
想(表象)は無常である。・・・
行(意志)は無常である。・・・
識(意識)は無常である。・・・
(略)
 比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、そのように観て、識を厭い離れる。厭い離るれば貪欲を離れる。貪欲を離るれば解脱する。解脱すれば、解脱したとの智が生じ、<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえ、もはや迷いの生を繰返すことはないであろう>と知るのである」
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 五蘊は「無常」であるから、いくら五蘊にしがみついても消え去る。消え去るので必ず失望する。「」「己」の計らいではどうしょうもできない。すべては制御できない「無我」なるものである。
 所有することもできない、身体も移ろい変わり「我」ではない。10年前の身体など、どこにもありません。
 わが本体にもあらず、本体として命じても「無常」によってきれいさっぱり消え去ってしまっています。
 「無常」であるからこそ、生きています。ちょっとの傷が、変化(良くなる)しないでそのままであったらどうなるでしょうか。変化は良くなることも悪くなることもあります。すべての変化が希望どおりに良くなるなら「苦」など存在しません。
 いつまでも「子供の身体、子供の知能、子供の心」のままなら進化を否定することになります。
 
 五蘊に囚われ、抱いたものに縛られることが「苦」であると認識しなければなりません。変化しつづける「あるがまま」に対して、あらゆることに対して自動的に「二元対立」していることで「苦」となるのではないでしょういか。
 こうありたいと思っていることは、現実の生活を基準として何割増しか数倍の生活水準でありたいと願っているのではないでしょうか。こうありたいとばかり願わず、この生活はすでに「天国」である。今ある現実をありがたくいただき、もったいなく思うことで、現状の何割減の生活で十分として生活するしょうにすれば「苦」と感じることもなくなってきます。「少欲知足

 病気になって「苦」を感じても、本来の「痛み」はこの2倍であるが、今味わっている「痛み」は半分の「痛み」で済んでいる。病気は病気したときでしか体験できない、病気をとことん味わってみようと考えてはどうでしょうか。全てをそのまま受け入れるしかありません。逃れる術などありません。
 
 我々は、「徳川家康」よりもいい生活をしているかもしれません。温かい炬燵に入り、スーパーに行けば地球の裏側の食べ物がいつでも手に入る。富士山からしか手に入らなかった氷が、冷蔵庫で何時でも手に入る。
 馬で何日もかかった土地へも、車だ新幹線だ飛行機だと好きな乗り物を使って行けるます。薪で何時間もかけて沸かしたお風呂が、ボタンを押せば「適温」でお湯を張ってくれます。
 数万円で、太平洋を見渡せる露天風呂に入り、船盛りの御馳走が頂ける。天下を取った殿様以上です。家臣の反乱に気を遣うこともありません。毒を気にして食事することもありません。
 家康も羨む生活を送っているのに、不満が尽きないのはどうしてでしょう。頭が働きすぎるのです、瞬時の「判断」をすることで「己」を苦しめています。好悪や善悪は、勝手に作り上げた幻想です。

 「塩」はしょっぱくないのです。「塩」という言葉はたんなる「概念」であって、「塩」という字をいくら見ても、文字を味わっても味などしません。「塩=しょっぱい」という「言葉=概念=記憶」という構図で、「塩」と聞いただけであなたの「脳内回路」が「反応」してしょっぱいという答えを出しただけです。英語を知らない子供に「salt」と言っても反応しないと思います。
 「言葉=概念」があるかぎり、二元対立は消えず「苦」を作り出しつづけることに気づかなくてはならないのではないでしょうか。

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行苦性(4) [仏道]

箭によりて 南伝 相応部経部36-6 [阿含経典三巻 P80 増谷文雄著 筑摩書房]
「比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。
比丘たちよ、それは、たとえば、第一の箭をもって人を射て、さらに、また、第二の箭をもってその人を射るようなものである。比丘たちよ、そのようにすると、その人は、二つの箭の受を感ずるであろう。それとおなじように、比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。
 すなわち、苦なる受に触れられると、彼は、そこで瞋恚(いかり)を感ずる。苦なる受にたいして瞋恚を感ずると、眠れる瞋恚の素質が彼を捉える。また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。なぜであろうか。比丘たちよ、おろかなる凡夫は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方途を知らないからではないか。そして、欲楽を欣求(きんきゅう)すると、眠れる貪欲の素質が彼を捉える。彼は、また、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、あるいはまた、それからの脱出の仕方も、ほんとうには知ってはいない。それらのことをよく知らないからして、苦でもない楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えることとなる。

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<怨憎会苦>
 一般に使われる「愛」の反対語は「憎しみ」です。何かを「愛」すれば、愛ではない「憎しみ」が起こります。片方だけ存在することはできません。明かりや光があれば闇や影があります。得する人がいれば損する人がいます。
 本能で生きている「いのち」にとっては、「恐怖といらだち」を感受しなければ生きてはいけません。六処により触があります。触が起こると受が起こります。

 各人が「満足」の条件(基準)を設けているので、その基準以下であれば怨む対象となります。「私の満足」を邪魔する対象はすべて「嫌いで忌避」すべきとの判断です。
 先輩が話をしているのに「スマホ」をいじっていることは、「基準」以下の後輩となり制裁を科すことになります。
 透けて見えるような紙ほどの「価値判断」の上か下かで「愛憎」が判断されます。「己」の価値判断に適合しない、「姿かたち」「態度」「物言い」「音量」「臭い」「味覚」「空調」「湿度」「温度」「触感」「乗り心地」「サービス」・・・等の数えきれない対象があることでしょう。
 これらは、「我がまま」がつくりだした「どうでもよい価値判断」ではないでしょうか。
  
 「いのち」とは、各人が他人に知られることもなく、また、他人も知ることができません。天上天下(宇宙や三界)での唯我独尊である存在です。その唯我独尊である他人が、あなたの「価値判断」など知る由もありません。
 「己」で「己の首」を絞めているのではないでしょうか。「私」が作った「勝手な価値判断」から見ている対象である「他」に責任はありません。勝手に「自分の価値判断」を他が判っていると思い込んでいるだけです。

 「己」に置き換えてみれば、我々が他の数えきれない「いのち」(人間だけで7億の価値判断)から暗黙に要求されている「判断」に対して、いちいち斟酌して「責任」を負って生きているでしょうか。
 「己」の自己防衛や自己愛のために作った「勝手な価値判断」など押し付けていいものでしょうか。
互いの「価値判断」を押し付けることにより「苦」を与える主体となっています。また同時に他から 「苦」を受け取ってもいるのです。
 主体(他に「苦」を与える主体)であり客体(他から「苦」を与えられる対象)でもあります。

 あなたが嫌っている人、あなたから嫌われている人は、あなたをあなた以上に嫌っているかもしれません。あなただけが嫌な思いをしているわけでなく。あなた自身も、あなたが嫌な思いをさせている人から見れば、客体(嫌いな対象)となっています。
 あなたは一人で外界を見る「ひとつの価値判断」の所有者です。他の70億人は「70億の価値判断」であなたを見ているのです。見られている「私」などちっぽけ(1/70億)でしかないのです。

 我々の周りに、全人類を代弁しているかのような尊大な「コメント」を言っている人はいないでしょうか。常に「己」の観点でしか見ていないのが、唯我独尊の「己」であると肝に銘じなくてはなりません。
 我々は、寝て、食べて、動いているだけなのに「人間」というだけで「誇れる存在価値」があるのでしょう。「愛」に満ちた「神」は「選ばれた人」だけでなく、あらゆる「いのち」を「愛」という交わりで救ってくれているのでしょう。
 「いのち」は、それぞれの異なる形態をいただき、それぞれの業と因縁と縁起によって精一杯生きています。もうそろそろ「己」中心の、捨てても困らない古びた「プライド」は、さっさと断捨離して自由になりたい。

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行苦性(3) [仏道]

結縛(けつばく) 南伝 相応部経部12-53 [阿含経典一巻 P190 増谷文雄著 筑摩書房]
「比丘たちよ、繁縛(けばく)するものを、じっと味わいながら観ていると、その人には愛着の念がいやましてくる。その愛によって取がある、取によって有がある、有によって生がある。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以である。」
 燈火があって、油をそそぐ
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愛別離苦:仏道での「愛」は、「愛着」です。
 愛別離苦とは、執着する対象(物質だけではない)とは離れ離れになる(消え去る)ことになる。執着しても「己」のものにすることはできずに必ず消え去る。一時的な慰みとして存在するにすぎない。結局は消え去るので「苦」である。「渇愛」の大きさに比例して「苦」となる。
 我々の最も溺愛している「肉体」も「死」によって儚く別れを告げることになります。我々が大切にしている「観念」や「記憶」も、自ら作ったものです。
 「あるがまま」の世界であるのに「我がまま」の世界へと「妄想」を作り出してしまいます。

 我々の「思考」を写真に撮ったらどうでしょうか、瞬間の景色を写真に撮れば一瞬を印画紙に再現できます。たとえば、川の流れを30秒ほど露出させて撮ってみると「霧」のようになっているのを見たことがあると思います。「思考」も30秒ほど経てば「霧」と同じです。実体のない「霧」であり消え去るだけです。「記憶」も「実体」はなく、ただの「空」でありいつかは消え去ります。
 なぜ、これほど「知識」「概念」「記憶」「思考」に囚われているのでしょうか。「いのち」を守るために構築して、「己」が一生懸命に作ったので、もったいなくて消せないのです。

 図書館の蔵書や雑誌の数を見てください、日々情報が増え続けています。いったい何を知ろうとしているのか、何を伝えようとしているのでしょうか?
 いつまで探究しても、どれほど探究しても答えが見つからないので作り続けているのではないでしょうか。増えれば増えるほど混沌としていくだけです。

 「情報」は増え続けるので「知識」で何かを得て達成することはありません。だれもが同じ「知識」を得て達成するのであれば、専門の大学で単位を取ればそれで「達成」です。

 得て達成するのではなく、「消し去って」根源にたどり着くのではないでしょうか。どんな大河であろうが「源流」があるはずです、「源流」を探し出すためには「遡る」ことです。
 「己」の中の「源泉」を見つけだすには、いらぬ「知識」「概念」「記憶」「思考」などの「こだわり」をはぎとってはどうでしょうか。

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行苦性(2) [仏道]

分別 南伝 相応部経部12-2[阿含経典一巻 P91 増谷文雄著 筑摩書房]
比丘たちよ、では、無明(無智)とはなんであろうか。比丘たちよ、苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、および苦の滅尽にいたる道についての無智である。比丘たちよ、これを無明というのである。
 比丘たちよ、かくのごとくにして、無明によりて行がある。行によりて識がある。・・・これがこのすべての苦の集積のよりてなるところである。また、無明をあますところなく滅することによって行は滅する。行を滅することによって識は滅する。・・・これがこのすべての苦の集積のよりて滅するところである」

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 無明によって、行(意志のうごき)がある。一切が苦であることを知らない(無明)。因縁や業によって勝手に起こっている(諸法無我)ことなのに、「」が自らの「身・口・心(意)」を制御して生きていると勘違いしています。
 肩が凝るので手で揉むのは、「」が揉もうと意志を働かせて揉んだのか、それとも「」と感じて自然と手を持ってきて揉んだのでしょうか。もし「」がいるなら、肩が凝らないようにできるはずです。「私=肉体」なら、「私のもの=肉体」であるはずなので思い通りにできて当然です。
 
 肉体そのものは、重力に逆らい老化に苛まれながら常に「」を受けているだけのことです。なんとか折り合いをつけて生きているだけの事。目は見えなくなり、耳は遠くなり、肌に艶はなくなり、歯ぐきは弱り、思うように身体は動かず、直ぐに息が上がる。わが身は「」であるにもかかわらず、徐々に衰えがきていることを認めながらも、「己」を納得させて付き合っているだけのことです。

 「己」の中にため込むすべては求不得苦です。「情報」、「知識」、「楽しみ」、「快楽」、「称賛」など、どんなに「求めても求めても」決して「満足できない己」がいるのです。正しく見れば、飽くことなく「」を一生懸命作り続けているだけのことです。
 他人の私生活を「知って」どうなるのでしょう。ほとんど「知る」意味のないことです。不必要な「情報」を「己」の中に入れることで「苦」となっていることを気づくことです。

 お金儲けや美食やその他の楽しみは「己」を幸せにすると思い込んでいるだけなのです。それは、一瞬であり、この世に引き留める我執を満たしてくれるものでしかありません。世間の皆がやっているので、何の疑いもなく「自己正当化」しているにすぎません。

 「立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」これで満足いかなければ、際限のない「欲望」に身を委ね、日々悶々とする思いに支配され「」を見逃し続けるだけではないでしょうか。

 死の床で、「私は自由であったか、寂静の時を過ごしたか」と問うても遅いのです。「何かを求めつづける心」に、未来のどこかで「寂静」があるといえるでしょうか。
 「」の連続で未来ができてるのであって、今が途切れれば未来など存在しません。1時間後に出会っている「」は、未来ではなく「」に出会っているだけです。

 これで満足ということはないから、戦争や略奪、破壊が繰り返されます。何もできない「いらだち」が、欲望を駆り立て「チャレンジ」するのですが、死によって根こそぎ夢の如く打ち砕かれるので「必ず負け」が確定してます。
 最初から、必ず負ける勝負をしている「愚かさ」に気づかないのです。心の奥底では気づいていても、欲望を満たそうとするのが「いのち」なのです。次の生ではもっとうまくできると頑張るけなげな「煩悩」の火種がなかなか消えないのです。

 もうそんなに騒ぎ立てる歳でもないでしょうに。「一期一会」を理解し、残された時間を「無駄な思考」で満たすことなく、「自らの意志を放棄」する時間を設けてはいかがでしょうか。

(勝手な造語)「一息一会」:今の一呼吸は、この世の人生でこの一息かぎりである。自らを救えるのは自らだけなのです。既に救われているのに探している、何もかも脱ぎ捨ててしまえば「それ」はいつもそこにあった。
「悟り」は「差とり:差を取り去る」、「あるがままの世界」と勝手に作っている「妄想の世界」との間にある「無明(苦集滅道を実践できないで苦しんでいる)」を取り去る。

 まさに、「」を作ってもがき苦しんでいる「己」から「」を理解して「」を取り去ることにほかならない。「一息一命」「一息一心」「一息無為」「一息寂静」

 天上天下唯我独尊について、辞書では「自己ほど尊い存在は無い」とあります。

(勝手な見解)天上天下唯我独尊である「私」は誰にも犯されず、誰にも直接変化させられない「己」である。「己」でしか「己」を変えることはできない。誰かが、誰かを直接に成就させるなどということは人類史上できたためしはなかったし、今後も誰も出来はしない。あなたが寝ている間に、「誰かによってあなたが変えられた」など起こりません。お釈迦様でも、「月をさす指」の役割しかできません。

 自らが尊いというのではなく、他の力によって変化させることなどできない「金剛の如き我」が存在している。勝手にあなたの「頭」を書き換えることなどできないということです。
 ヒマラヤでも宇宙のどこかに行ったとしても、そこに見出すのは必ず「己」でしかありません。宇宙の果てに行っても「己」。宇宙の全てを知っても「己」は金剛の如く変化しません。「神」も「あなた」には手出しができないことになっているのです。そもそも「他人を変えよう」など大それたことが出来なくなっているのが「宇宙の法則」ではないでしょうか。

 もし、「悩み苦しんでいる人」に対して「私(=神)の力で助けてあげよう」「私(=神)ならあなたを変えてあげる」という人がいたなら「ペテン師」と疑ってからでも遅くはないでしょう。私は「月をさす指」でしかありませんと言われれば救われる。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
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行苦性(1) [仏道]

一切 南伝 相応部経部35-23)[阿含経典三巻 P31 増谷文雄著 筑摩書房] 
一切」として阿含経に、
「比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。比丘たちよ、これを名づけて一切というのである。
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 無常(迷いの世界)とは常住(悟りの世界、生滅・変化なく永遠に存在すること。)と対比される。無常とは生成消滅ということであり、留まらず流れ続けていることである。

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無常なるもの 南伝 相応部経部22-15)[阿含経典二巻 P25 増谷文雄著 筑摩書房]
無常なるもの」として阿含経に、
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊は諸々の比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。「大徳よ」と、彼ら比丘たちは答えた。世尊はこのように説きたもうた。
 「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
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 行苦性とは、生老病死、求不得苦、愛別離苦、五蘊盛苦、怨憎会苦などの「一切の無常転変」によって起こる「」です。「一切」とは、人間が感知できる対象と感覚・感触・思考・観念・意識などです。行苦性は、生きていること全てが「」であるとおしゃっているのです。
 阿含経には「無常なるものは苦である」と繰り返し繰り返し出てきます。

「求不得苦」について考察してみます。
 追い求めるものはついには得ることが叶わない。たとえ得たとしても、求めた時の状態と手に入れた時の状態は「異なる」、得たとしても「求めた時」とは異なる対象である。(変化している:無常
 求めることが無くなれば、「」ではないということです。

 例えば、食べ物を食べた(得た)瞬間に口に入り(噛んでいるうちにどんどん消え去っていく)、得たと思った瞬間に食べ物は口の中で変化してしまい、求めたものは(そのままの形として)得てはいないも同じこと。(無常によって変化して「空」となって消えていきます)

 旅行という「楽しみ」について考察してみます。旅行という「楽しみ」は、旅行している時間経過とともに旅行という「楽しい体験」は次々に消え去っていきます。旅行が終われば、旅行という「楽しい体験」も終わってしまいます。旅行は旅行とともに逐一消滅して、得ては消え、得ては消えいってしまっています。
 残っているのはただの「記憶という思い出」だけでしかないのです。
 あながた食べてきたものは全て消え去っています。旅行の楽しさも消え去っています。求めて得たものは、直ぐに消え去る運命なのです。

 家を新築したとしても、住んだ瞬間に中古住宅となり新築の家などもう存在していません。
新車を購入しても、一度乗った瞬間に中古車になります。買う時のワクワク感はもうありません。すぐにこんなものかと慣れてしまい、得た時の新鮮さがなくなり、求めて得た物とは異なり「」となります。際限なく得ても、際限なく消え去っていくので「」でしかありません。

 他のあらゆる対象について考察しても同じです。
 売る方は買って欲しいので、常にニューモデルやニュースタイルを出してきます。今年の流行とは、来年になったら廃れるものです。新しいものを求めるとは、廃れる「ゴミ」を常に追い求めるのと同ではないでしょうか。翌年には、古着屋で1/10以下の評価となるだけです。

 歴史的新事実とか、物理、化学、医学、生物学、歴史などあらゆる分野で、今までの常識を覆す新発見ですということを聞いたことがあるかと思います。覆るまでは「真実」であったのです。しかし、新事実が発見された時点では、以前の常識が「」であったということです。滑稽にも、発見されたと発表されるまで「」を有難くいただいていたことになります。

 このように今の常識も「」かもしれないのです。だれも「間違いでした」と謝る人などいません。常識が変わることが「何事もなかった」かのように「蛙のつらに小便」「馬の耳に念仏」と同じように、誰もが平気でスルーしています。常識が覆ることに何らの驚きもなく、謝る人もいません。新しい真実が出るまでの「仮説」でしかないのです。すべてが「仮説」だらけ、我々が出会っているのは最新の「仮説」です。
 現在の「仮説」について、誰も真剣に信じていないし、誰も責任を感じていないし、真剣に理解してはいない証拠です。

 筏の喩をご存じのように、仏典も「方便」であり最後には捨て去らなければなりません。「知識」はすべて「ゴミ」でしかありません。このブログの内容も「ゴミ」であったと了知できれば幸いです。
 今まで、知りえたことは「己の見解」に合致したことでしかありません。真理を他人の智慧や知識に尋ねても参考になるだけです。
 話を聞いただけでは「己の体験との合致」を確認するだけです。「己」が「愚か」であったとの自覚によってのみです。「冷暖自知」なる体験のみが真実。

 「仏道をならふというふは、自己をならふなり。」とあるように、覚者を尋ねるよりも「己」に問うて答えを見つける必要があります。「無限の愛」や「ワンネス」などの魅力的な耳触りのよい言葉に踊どらされずに進みたいものです。「己」を「愚か」と自覚するどころか、「己」を「称賛」しているようでは自我のトラップに自ら飛び込むようなものではないでしょうか。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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苦々性 [仏道]

苦 南伝 相応部経部38-14  [阿含経典三巻 P107 増谷文雄著 筑摩書房]
「友よ、これらの三つが苦である。すなわち、苦々性・行苦性・壊苦性である。友よ、これらの三つが苦である」
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苦々性:肉体的苦痛に原因する苦
行苦性:一切の無常転変なるによりて生ずる苦である。生・老・病・死。
壊苦性:楽境の壊するによりて生ずる苦である。
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 我々が「いのち」としての役割(いのちの継承)を終えたらどうでしょう。細胞の本能のままにただ生きているだけです。食べて、動いて、寝て、目覚めて、日々が過ぎていくだけです。老いて死ぬまで同じような生活が続くのです。
 人生に意味づけなど必要あるでしょうか。「私」の生きた証を残しても誰も興味ありません。各人は各人の「私」に最も興味があるのであって他人には興味はありません。たとえ興味を持たれたとして、「己」が救われるのでしょうか。

 仏道の基本は「」をよく理解することから始まります。「」の反対は「満たされている」ことでしょう。精神的にも肉体的にも経済的にも社会的にも「満たされている人」にとっては、仏道を修行する人の気がしれないことでしょう。
 この世的に恵まれたとしても、豊臣秀吉やアラブの王であれ「四苦八苦」から逃れることはできません。いつかは、「」と正面から向き合わなければならないことになっています。

 この世の中で生きてきて「うんざり」するほど「」を味わうことになっているのです。「」と感じれば自ずと「滅」へと向かわざるを得ないのです。
幸いにも、この世で「」を味わうことができ仏道に出会えたならば、「禍を転じて福と為す」として「」を理解しましょう。

 阿含経では、「」は肉体的な「」と無常によって生じる「」と楽が消失して「」となる三つの「」であるとあります。
 地球上の人間である限りお釈迦様であったとしても、肉体的な「」がないわけがありません。経典で書かれているようにお釈迦様は人間としての経験により、誰もが受ける「」であると提示しています。

 もし、肉体的な「」がなければ人間は正常に生きていけるでしょうか。あなたが「幼い子供」であり、「知識」や「症状」の判断ができない状況であると想像してみてください。「苦」を認識できないで、次のケースがあなたに起こったらどうでしょう。
 お腹の中が炎症を起こしている、腱や筋が切れた、靭帯を損傷した、転んで頭部を強く打った、自動車に接触して内臓が破裂した、大やけどした、高いところ方飛び降りて骨折した、足が化膿している、体温が41度になっている、虫歯も感じない、これらの痛みや異常を感知できなければ長くは生きていけません。
 赤ちゃんであるあながた空腹であっても肉体的な「」を感じなければ、「泣いて」おかあさんに食事を要求することができずに「死」を迎えることでしょう。手が燃えていてるのに何も感じず、見ているだけならば焼死してしまいます。「肉体的な痛み」は危険から身を守るために必携の安全装置です。
 肉体的な「痛み」は、大きな病気の前兆を知らせてくれる警報装置なのです。
「いのち」ある人間は、体があるので苦々性から逃れることができません。「」を受け入れ「」を理解し、残された時間に全精力を注ぎ「聖なる流れ」に入ったと自覚できるようにしたいものです。

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衆生本来佛なり [仏道]

白隠禅師「坐禅和讃」の最初に
衆生本来佛なり  水と氷のごとくにて  水をはなれて氷なく
衆生の外に佛なし
衆生近きを不知(しらず)して
遠く求(もとむ)るはかなさよ
譬(たとへ)ば水の中に居て
渇(かつ)を叫(さけぶ)がごとくなり
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 歴代の禅師はことごとく、衆生(全人類)は本来「」であると言われます。
 あなた方(悟りの自覚のない人)は既に悟っているのにただ気づいていない(自覚がない)。自覚とは、自ら覚るということです。つまり、自覚がないとは、自ら覚っていないのです。要は「決着」がついていないだけのことかもしれません。
 自覚のない我々は、「煩悩具足の凡夫」である「」がどうして「」であろうかと納得がいかないのです。

 修行によって悟ったとの自覚も無く、日々悩みに振り回されている「煩悩具足の凡夫」である「」に対し、私は「佛」であると自ら宣言できないのです。
自問自答すれば「」が「」であると肯定することなど無理であるというのは至極当然のことです。
 
 修行によって自らの本性を見極め、たどり着いた果てに発見した「」は修行の必要のない「=」だったというだけのことです。本来はであるとは、何かを得て「」になるのではないということの教えであって、修行しなくても良いと言っているわけではないと思われます。自らを省みれば既に悟りの真っただ中にあったではないか、渇を叫ぶことも必要ない。一瞬たりとも悟りから離れたことなどなかったこの身であった。

 お釈迦様も「苦行」は意味がなかったとのことですが、求めるて得ることが「無意味」だということです。「得る行為ではなく気づく」だけのこと。どこかに行くとか、知識を得て悟るのではないのです。
 坐禅は「」の肉体をいじめる「苦行」ではなく、静かに「内観」するだけのことです。「」が「」である確認のための「道」であると思われます。

 覚醒した人の話の中で、“何の努力の必要もなくあなたは既に「神」です。”などと言って、自らを「神」と認めるだけでいいのです。何もせずともそのまま「神」ですよと、ことさらに強調される文面が散見されます。修行も「内観」もしないで「認めよ」というのは飛躍しすぎではないでしょうか。「内観」なくては決して自覚は得られないのではないでしょうか。

 混乱し悩んでいる「」の前に、お釈迦様が現前したとします。そしてお釈迦様が「あなたは既に悟っているです」と言っていただきました。煩悩具足の「」が“そうだお前(お釈迦様)と私は対等だ”と言い切れるでしょうか。

 「」自身に「そもそも私はである」と言い続けるだけで納得(決着)がいくのでしょうか?
 “私がであるなどとは嘘であり納得できない”と思っている「」が存在しているはずです。「内観」もせずに遊び回り、金の亡者であり、権力を求め、嘘や暴言を吐き生活している、他人を踏み台にして平気な人、この世に執着を持っている人、未来の事ばかり考えて悩み、過去の出来事にこだわり、酒浸りの人が、“私は本来佛であるから好きなことして大丈夫、菩薩様が救ってくれる”と安心立命な人生を送っていけるでしょうか。死ぬ間際で“「」は「」として死に切ることができた”と大往生できるでしょうか?

 「」は本来「」であり、物欲を満たして何が悪い。そう思い込んでしまっている人から見れば、真面目に修行している修行者こそ気が触れていることになります。
 ここにいる「」という「」であることは疑いの余地は無いとしても、心が煩悩に振り回され「」と一体にならず、心が二つであれば「」とは言えないのではないでしょうか。本性の「」と今の「」にずれが生じているのでは真の「」ではありません。二心なる「」など存在しないのです。

 何事にも執着していない、「ぶれ=二心」のない「今」に在ればそのまま「」なのではないでしょうか。坐禅中の無念無想はまさしく「」そのもの。思慮分別で生きていれば「」とは言い難い存在です。

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苦の滅尽について [仏道]

苦(阿含経 南伝 相応部経部12-43)[阿含経典一巻 P169 増谷文雄著 筑摩書房]
「かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊はもろもろの比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。
「比丘たちよ、わたしはいま汝らのために、苦の生起と、苦の滅尽とを説こうと思う。汝らはそれを聞いて、よく考えてみるがよろしい。
(略)
比丘たちよ、では、苦の滅尽とは、どのようなことであろうか。
眼と色によって眼識が生じ、その三つのものが相合して触がある。触によって受がある。受によって愛あがる。しかるに、その愛をあますところなく滅することによって取の滅がある。取の滅によって有の滅がある。有の滅によって生の滅がある。生の滅によって老死・愁・悲・苦・憂・悩は滅する。かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以である。比丘たちよ、これが苦の滅尽である。
耳と声とによって耳識が生じ、・・・
鼻と香とによって鼻識が生じ、・・・
舌と味とによって舌識が生じ、・・・
身と触とによって身識が生じ、・・・
意と法とによって意識が生じ、その三つのものが相合して触がある。触によって受がある。受によって 愛がある。しかるに、その愛を余すところなく滅することによって取の滅がある。取の滅によって有の滅がある。有の滅によって生の滅がある。生の滅によって老死・愁・悲・苦・憂・悩は滅する。かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以である。比丘たちよ、これが苦の滅尽である。
これが苦の滅尽である。」

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 触によって受(感覚)となり、渇愛=「苦」となります。六処によって入力された情報に基づいて、あなたの中の「私」が対象を渇愛し欲することを願っても願っても、実際に手に入れたとしても手に入れた対象はいつか消え去ります。
 また、対象を手に入れたとしてもあなたが先に「死ぬ」ことで結局は所有することなどできません。この世で、王国を築き世界のすべての財宝を手にすることができる王になったとしても、「死」によってすべては夢の如く消え去ってしまいます。「露と落ち露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」(豊臣秀吉の辞世)

 受(感覚)として脳内に受け入れ、言葉と概念とに結びつくことで「苦」となります。どうして「苦」になるかというと、感受したものにいくら執着しても、対象はすべて「無常」なのです。「無常」なる故に「消え去る」ことは必然であり得ることはできません。(求不得苦)
 また、「忌避」したとしても「いやな思い」があるので「苦」となります。(怨憎会苦)
 結局、執着しても忌避しても、「あなた」の思いとは異なる結果となり「苦」で終わるのです。

 誰もが執着する対象に対して、「己」の勝手な思いを成し遂げたいと思っています。我々の身体から執着へ向かうベクトルと成就へ向かうベクトルが出ていると想像してみてください。「あなた」の勝手な思いに同調し協力してくれる人がいるでしょうか。各人のベクトルはちょっとした状況の変化で、上下左右・東西南北など至る方向にずれてしまいます。
 あなたの希望を叶えたいなら、「お金」を払って無理にでも協力を得るしかありません。

 次から次へと認識は変化し、ついさっきまでの感受は「記憶」の中でだけしか存在していません。すでに消え去っていますので「無」ですが、記憶の中にあるのは「空」です。
 感受は「空・無」であります。「今の瞬間」の感受に囚われ、その感受ごとに解決することなど不可能なのです。感受になにかしようなどという所詮無理なことを「願い」生きているのです。

 感受したことにを起こさずに「囚われずに、放っておく」ことにより「苦」として生起させない。認識を思考と言葉と記憶によって頭の中で創りだし(すでに過去のものであり実体は無い)、わざわざ「苦」を創りだして「己」の首を絞めています。このことに気づけば「苦」と成さずに「感受」をあるがままに観察できると思います。観察し判断や思慮しないことが智慧なのです。
 すべては完全なのに、何かがあるとか何かをしなければならないというのが「自我」なのです。「あるがまま」をすべて受け入れているところに「苦」など起こりようがありません。「あるがまま」が不完全だと決めつける心こそ不完全だと言えるのです。
 
 「あなた」と「聖者」が同じベンチに腰かけて、同じ状況なのに一体何が異なるのでしょうか。一方は「苦」と感じ、一方は「寂静」で居る。完全として受け取っているか、不完全として受け取っているかの違いだけです。存在に全幅の信頼を置いているか、存在を疑っているかの違いです。
また、「自我」のフィルターによってどうでもよい思考に惑わされ「あるがまま」から離れた妄想の中にいるのが「あなた」、「自我」が消え「無我」なる状態の無思考で「あるがまま」のなかで「あるがまま」と全面的に一体になっているかの違いです。

 目の前で起こっていることは、消えるままにしておけばよいのです。再現もできなければ思い通りにもいかないのです。
 感受しただけで終わらせればいいのに、思考に受け渡すことで「迷い=面倒=苦」が起こってくるのです。これは「自我」が芽生えたころからの習慣であり、当たり前となっていることです。この脳内で起こっている処理スピードが恐ろしい速さなので何の疑いも生まれず、気づかぬままに脳内で自動的に分別してしまっているのです。脳内で起こっている仕組みを捉えなくては対処はできません。

 肉体的な「痛み」は、病気の進行を教えてくれます。「痛み」がなく、末期となり「準備」もなく突然の「死」を迎えたらどうでしょう。そのほうがいいと言う人もいるでしょうが、「死ぬ」前に相続やら身の回りのことや心の準備があれば「死」を迎えることにとまどいがないと思われます。いつ死ぬかは誰にもわかりませんが、「痛み」がなければ「病死」とは言わず「突然死」です。
 また、「痛み」によって「健康」の有難さを再認識することもできます。「痛み」と折り合いをつけ、恐れることなく「痛み」も歓迎してはどうでしょうか。

 「痛み」がある時は「痛み」をこの身で精一杯味わいつくしてはどうでしょうか。あの「痛み」の時にもっと「痛み」と正面から付き合っていればよかったと後悔のないくらい味わってみてはどうでしょうか。

 誰よりも、この「痛み」を知っているのは「私」だ。この「痛み」の権威者であると胸を張るくらい、だだ「感受」するだけ、忌避も逃げも隠れもしなければ痛み」と一体となり痛みそのものになりきる。

 ただの身体の「痛み」であり、心と分離して存在しているだけ。心で認識すれば「苦痛」となります。苦痛となれば、まさに「苦」として攻撃してくるので、逃げる対象となります。その「痛み」が堪えられないほどの「痛み」となったときが逆にチャンスだとして受け入れるか、拒否するかが大きな分岐点です。

 「大死一番」=「身心脱落」=「他力本願」=「全てを手放す」=「解放」=「自由」=「投げ出す」など同じことだと思われます。一生懸命しがみついていた「己」の本体の真実を確認することができると思います。何もかも思考できなくなる「今の瞬間」に居続けられるチャンスでもあります。 頭の中がただ「痛い」だけから、もう「私=肉体」など要りません。命を捧げますとなれば「大死一番」となります。
 最初から「無」であった。「死する身心」も「捧げる我が身」も「本来の自己」の存在を確認すべきです。囚われは「己」が作り出した幻想であったと知るチャンスとして受け入れるのです。

 「苦」を認識できないと想像してみましょう。「苦」が体験できないなら、対極の「楽」の認識も「楽」の体験もできないでしょう。「苦」も「楽」もなければ「生きている」という実感がわいてこないでしょう。「生きる意味」の探究も起こらないかもしれません。
 「苦」を「苦」と認識していることは、すでに「智慧」がある証拠です。真の「凡夫」は「凡夫」であると思っていません。「煩悩具足の凡夫」と自覚できていることは、「智慧」によって分かったことです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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苦の生起について [仏道]

苦(阿含経 南伝 相応部経部12-43)[阿含経典一巻 P169 増谷文雄著 筑摩書房]

「かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊はもろもろの比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。
比丘たちよ、わたしはいま汝らのために、苦の生起と、苦の滅尽とを説こうと思う。汝らはそれを聞いて、よく考えてみるがよろしい。
 比丘たちよ、まず、苦の生起とは、どのようなことであろうか。
眼と色(物象)とによって眼識が生じ、その三つが相合して触がある。触によって受(感覚)がある。受によって愛(渇愛)がある。比丘たちよ、これが苦の生起である。

耳と声とによって耳識が生じ、・・・

鼻と香とによって鼻識が生じ、・・・

舌と味とによって舌識が生じ、・・・

身と触とによって身識が生じ、・・・

 意と法とによって意識が生じ、その三つのものが相合して触がある。触によって受がある。受によって愛がある。比丘たちよ、これが苦の生起である。」

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 我々は、素粒子でつくられた肉体という物体に感覚器官を備えています。感覚器官を内なるものとすると、外にある、認識可能な①対象(色)があります。次に、五蘊(肉体と精神の動き)を経て感覚器である②六処によって感知します。次に、感知されたものに対して③識が生じます。①②③が相まって触(接触)したことで入力である受(感覚)になります。

 五蘊では、認識した瞬間に脳内で処理(イメージや記憶との照合)が行われます。あまりに速すぎて処理過程を追うことができないため、瞑想によって実体験するしかありません。(名色分離智)

 一切の感受は思い通りにならないのです。見たいものだけを見ることもできず、見たくないものを見ないこともできません。聞きたいことだけを聞くこともできず、聞きたくないことを聞かないこともできないのです。
 つまり、「あなた」の意志など一切関与できていないので「無我」なのです。起こってほしいことは起こらないし、起こらないでほしい事は起こるのです。「諸法」(あらゆる事象)が制御者など存在していない「無我」であると気づかなくてはなりません。

 次に意(思考)と法(観念)によって意識が生じ、これも出力である受(感覚)となります。次に、愛となるには、色(物)・声・香・味・触・法(観念)に対する欲望が起こります。この欲望が「渇愛」となります。「渇愛」は満たされることがないので、「苦」が生起するのです。

 仏道の修行をしなければ、「あなた」が意図しようが意図しまいが、すべてが「」へと収束していきます。どんなに抵抗しようが反論しようが、「」が起きているのです。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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苦と楽について [仏道]

 息は吐いてから吸うのでしょうか、吸ってから吐くでしょうか。
息は吸ってから吐くようです。この世に誕生すると、赤ちゃんは肺呼吸を始めますので息を吸います。吸うことでこの世に生を受けたのです。死ぬときは、息を吐き切って死にます。
 この世では、吸う息が主体となり吐く息が決まります。吐き切らないで吸う方はいないと思います。深呼吸も吸うことが主であり、吐く息は吸った量に従い調整できます。

 吸う息が主であるように、楽よりも苦を主として観察しましょう。楽を先に求めるのではなく、苦を滅することを先に成せば自ずと楽となります。苦がまず先であり楽を主としない。
 苦がなければ楽を求める必要があるでしょうか?すでに寂静であれば、幸福をもとめる必要があるでしょうか?あるがままそのままのでOKなのです。

 智慧が現れたと言っても、現状を変化させるような超能力を得るのではありません。あるがままの中であるがままと共に在るだけのことです。(四智を調べてください)

 だれもが心の中で、様々な「」に遭遇していることに気づいています。我々の哺乳類脳では、常に何か楽しい事はないか探し回っています。仕事を一生懸命頑張って、ビールを飲もう。仕事を苦と認めて、楽で埋め合わせています。

 苦の大きさに応じて大きな楽を求めることに必死になっています。芸能界の一部の方には大きな苦があり、その苦を打ち消すために(プラスマイナスゼロ)大きな快楽をもとめるようになるのではないでしょうか。芸能界の一部の方は大変な苦のなかで生活されていると想像されます。

 楽でありつづけるなら、楽を求める必要はありません。一般社会生活において、楽でありつづけることはあるでしょうか。楽なシートに座り続けても、立ちたくなります。寝るのが楽なら寝続ければいいのですが、寝すぎても病気になります。楽といってもいつかは飽きてしまうのです。心の奥底では、常に満ち足りない不満がくすぶっています。

 美味しいものを食べても、食べ続けることはできません。食べ続けることも苦となるのです。すべては苦となるのが人生であると、お釈迦様は四諦を説かれました。
 修行のスタートは苦です。苦を楽によって帳消しにしないでください。苦をしっかりと理解し、世間から出離するよう修行の道に進み、預流となることを人生の目的にしましょう。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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阿含経での「五戒を犯す罪のおそれ」 [仏道]

五戒を犯す罪のおそれ(南伝 相応部経部12-41)[阿含経典一巻 P165 増谷文雄著 筑摩書房]
「長者よ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、よく五戒を犯す罪のおそれを鎮め、四つの預流支を身にそなえ、かつ、智慧をもって聖なる理法をよく見、よく理解した時には、もし彼が欲するならば、彼は彼自身を語って、つぎのように言明することができるであろう。
 すなわち、<わたしには、もはや地獄はない、畜生道も滅した、餓鬼道も滅した、堕ちてゆく処はない、悪道もない、破滅の道も無い。なんとなれば、わたしはすでに聖者の流れに入り、悪道に堕つることなき者であって、かならず正覚の終極にいたる者だからである>と。
では、五戒を犯す罪のおそれを鎮めるとは、どういうことあろうか。
 長者よ、生けるものの命をうばう者は、生けるものを殺すことによって、現在においても罪を犯したおそれを生じ、未来においても罪を犯したおそれを生じ、また、心のなかにおいても苦しみ・憂いを経験する。そのような殺生を断つことによって、この罪を犯したおそれは鎮められるのである。
 (略)
そのような偸盗を断つことによって、この罪を犯したおそれは鎮められるのである。
 (略)
そのような邪淫を断つことによって、この罪を犯したおそれは鎮められるのである。
 (略)
そのような妄語を断つことによって、この罪を犯したおそれは鎮めることができる。
 (略)
そのような飲酒を断つことによって、この罪を犯したおそれは鎮められるのである。
 (略)
 また、彼らは、聖者にふさわしい戒をその身に保っている。その戒は、壊れることなく、そこなわれることなく、純潔にして、汚点あることなく、彼に自由を保有せしめ、識者の称賛するところとなり、邪道に導くことなくして、定に資するところのものである。
 (略)
 長者よ、このように、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、よく五戒を犯す罪のおそれをしずめ、四つの預流支をその身にそなえ、かつ、智慧をもって聖なる理法をよく見、よく理解した時には、もし彼が欲するならば、彼は彼じしんを語って、つぎのように言明することができるであろう。すなわち、<わたしには、もはや地獄はない、畜生道も滅した、餓鬼道もなくなった。もはや堕ちてゆく処はない。悪道もない、破滅の道もない。なんとなれば、わたしはすでに聖者の流れに入り、悪道に堕つることなき者であって、かならず正覚の終極にいたる者だからである>と」
ーーーー

「五戒を犯す罪のおそれをしずめ」
戒とは「いましめ」のことであり、漢和辞典では武器を両手にしていましめるの意味です。やってはいけないことです。戒を守らなければ地獄・畜生・餓鬼へと堕ちていかなければなりません。堕ちるとは、くずれ落ちるということで生前の肉体は分解し業に適した世界に結実し、業果の苦しみを受けなければならないのです。

「心のなかにおいても苦しみ・憂いを経験する」:戒を身に保てなければ、心も「苦しみ」を経験し、記憶され何度も思い出され消えることはない。

「聖者にふさわしい戒」:戒を身に保つことが聖者である。戒を保てなければ聖者ではない。

「断つ」:戒を破った己を思い浮かべ、慚愧の念を起こし己の「愚かさ」を観る。
智慧によって戒を破ることができない己になる。戒を破ることなどできなくなる。

「定に資する」:戒を身に保つことで定(禅定)に資する。次に智慧が発現する。

「正覚の終極」:涅槃

 八正道の中では、戒と関連のあるものは、正語(妄語(嘘)・両舌(挑発)・悪口(罵詈雑言)・綺語(無駄話))、正業(殺生・偸盗・邪淫)、正命(不適当な言葉または行為で財物を得、生活を維持すること)の三つの実践となります。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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五戒について [仏道]

 真理のことば(ダンマパダ)中村元訳の中に
第1章 ひと組ずつ
 11.まことでないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではなしと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(マコト)に達しない。
第13章 世の中
 「178.大地の唯一の支配者となるよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(カイテイ)(預流果)のほうがすぐれている。」とあります。
 聖なる流れに入るには、世間の常識が全くの顛倒であるということを理解し、世間を是とする迷いが消え去るということです。世間が迷妄の世界であると解ります。
 
 この預流の前提となるのが、五戒を守ることです。五戒を守ることがなぜ必要なのか?
戒を守らないということは、爬虫類脳を統制できないまま勝手に働いてしまうということです。戒を守ることによって爬虫類脳の習性に従わなくなるのです。

 己の爬虫類脳をペットを扱うように手なづけるのです。安全で安心できる環境の中で暮らしている。この環境では本能を使わなくても良いのです。爬虫類脳を思うままに飼い馴らすのです。爬虫類脳が暴走し本能をあらわにする、怒りや、攻撃、色欲、妄想、錯誤、飲酒から遠ざかるのです。

1.不殺生戒 いかなる生き物も、故意に殺傷しない。
真理のことば(ダンマパダ)第10章 暴力
129.すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。
已が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

2.不偸盗戒 与えられていない物を、故意に我が物としない。
[スッタニパータ]
806.人が「これはがわがものである」と考える物、--それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。
3.不邪淫戒 不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない
[スッタニパータ]
817.かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。
4.不妄語戒 偽りの言葉を語らない。

5.不飲酒戒 アルコール類を飲まない。
[スッタニパータ]
106.「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たものをその度ごとに失う人がいる、──これは破滅への門である。」
264.悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、――これがこよなき幸せである。
 仏道では、「身口意」を清めなければ煩悩によって乱され落ち着くことができず、次のステップへと進むことはできません。


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タグ:仏教 涅槃
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「信じる」意味 [仏道]

 「信じる」とか「信じなさい」という言葉は、世間ではよく使われる言葉です。その本当の言葉の意味はどういうことでしょうか。「信じなさい=盲信」とは、「無知なままでいてください」と同じ意味ではないでしょうか。

 高さ100メートルの断崖絶壁から「神を信じて」・「自分を信じて」・「私を信じて」飛び降りてみてくださいと言われたらどうでしょうか。「神の力」・「信じる力」によって必ず助けてくれますよ、と言われて飛び降りる人がいったい何人いるでしょうか?
 実際には、誰も飛び降りようとしないと思います。それは、「無知ではなく結果がどうなるか明らかに知っている」からです。分からなくてもいいからとにかく「信じろ」と主張するのは、つまり、実証できず、ちゃんとした根拠がないからです。根拠があり実証でき、体験して分かっていればあえて「信じろ」とは言わず「何人も体験している」から大丈夫だと言えばいいだけの話です。

人間の作った「神」という概念について
 勝手に作り上げた概念である「絶対的な存在、全知全能の存在である神」を、長い年月をかけて磨きをかけ構築してきました。
 疑うことなど許されません。権力ある者が利用して「庶民」を「神」という概念で統率してきたのです。権力者は、「神」から認められた「王」であると、ものの見事に権威づけができていたのです。
 得体の知れない畏怖の対象である「神」に認められた「王」に逆らえば大変なことになると、洗脳するのはたやすいことだと想像がつくのではないでしょうか。
 権力者にとって、得体が知れず逆らったら罰を下してくれる「神」。権力者に都合のよい「神」をそうやすやすと手放すことがなかったと思われます。
 天動説では、「王国」に住む我々こそが「この世」の中心であり、我々の周りを太陽が回っているのだと主張していました。「自我」は、いつでも自己中心なのです。今でも、自国の世界地図の中心は自国ではないでしょうか。東の果ての国なのに日本の世界地図は日本が中心です。

 また、各家庭でも「神」を敬いなさいと子供の時から言われています。子供ですから何も疑わず従ってくれます。各家庭でも「神様」を祀り、お祈りをし、お供え物をささげます。その見返りとして、ちゃんとお守りを任せたと「神様」に見返りを要求しています。

 自分の「現世の欲」のために、毎日一生懸命にお供えや祈祷しても、人は老いて、病気になり、死んでしまいます。また、台風がくれば飛ばされ、大雨が降れば浸水し、火事になれば燃えてしまうのです。不摂生をして病気になったのに、「神」は何もしてくれなかったと陰口をたたくのですか?

 「神」はあまりにも当たり前に生活の一部となり、疑われる対象ではなくなっています。権力者により都合よく利用され、風習から習慣となり生活のいたるところに入り込み、なくてはならない有難いものとして確立されています。しかし、可愛そうな「神」は、人々にいいように「概念」を作り変えられ、ご都合主義で使いまわされているだけです。

 哲学者に注文すれば、あなたの希望どおりの「概念」である「神」を簡単に作り上げてくれます。また、作家や映画製作者にとっては「神」は最高の題材となるので感謝されているはずです。

 残念なことに「神」を人類の目の前にお披露目することは永遠にできません。もし、お披露目できれば、世界中の目が釘付けになるでしょう。「私」が抱いている「概念」と同じ「神」だろうか。
 お披露目が実現となれば賭けが始まり、賭け屋が眼の色や、髭はあるか、男か女か、肌の色や、服装や、身長や、体重など予想するかもしれません。しかし、「まばゆいばかりの存在」のままでいてほしいのでこの世には現れることはありませ。誰かが呼び出しお披露目させますと言えば、各人が構築した概念の「神」と違ったら大変です。

 世界各国の人が作り上げた「概念」だけの「神」は、目の色や肌の色や服装はどうでしょうか?似顔絵師に「神」を描いてもらったらどうなるでしょうか。女王蜂のような「神」でしょうか。雀のような「神」でしょうか。ゴキブリのような「神」でしょうか。黒髪で黒い目で髭を蓄えた「神」でしょうか。象と人間とライオンが合体したような「神」でしょうか。
 よくもまあ最強の「神」を作ったものだと感心するに違いありません。ドラゴンボールに出てくる「超人」のような「神」もいるかもしれません。

 我々の前頭葉にはあらゆるものを自由に作り出す想像力があるのです。しかし、記憶と経験したものを超えて作り出すことは困難なのです。宇宙人ですら、人間に似た姿になってしまいます。
 眼耳鼻舌身などの認識器官を持った「神」や「宇宙人」しか想像できないのです。

 「神」は、我々を見なくてはいけない、我々の言葉を聴かなくてはいけない、臭いを認識するはずだ、何かを食べているはずだ。という偏狭な思考によって作り上げられます。

 お供えをするのだから、感覚を感じる身体のようなものを持っているはずだ。「神」が快適に住みやすいように大きな建造物を創ろう。「神」は人間の食べるような粗雑な食事をするでしょうか。

 悲しいかな、人は人間の「概念」の枠を超えることができません。それに「神」は、言葉を理解して言葉で返答してくれるはずだと決めつけています。人間にとって、双方向に連絡ができて都合がよい、ありがたい「神」でなくては価値が無いからです。
 全知全能なら、とっくに「悪魔」を退治してくれればありがたいと思っている方も多いのではないでしょうか。なにも「悪」を懲らしめる「力」を誇示しなくても、わからないように1週間の間だけでも「悪」の根を消してくれないでしょうか。

 「悪魔」と「神」はどちらが先に「概念」として作られたのでしょうか?不幸があれば「誰か」のせいにしないとやっていけません。「まじめに生きている」のに、なんでこんなひどい目に遭うのか? だれかが、何かが悪さをしているに違いない。全部の「悪行」を引き受けてくれる寛容な「悪人」である「悪魔」が必要です。
 予期せぬ様々なことが「私」や「我々」に降りかかってくる。どうすれば救われるのか、「悪人」の反対の概念が必要です。そこで、「救いの神」が登場しなければならないのです。
 「泥棒」と「警察」どちらが先か、考えてみてください。「泥棒」がいなければ「警察」は必要でしょうか?「幸せ」に生活が送れていれば、「神」の出番はないのです。「悪魔」の方が先輩かもしれないのです。

 実証などできなくて結構、困ったことは「悪魔」のせいにすればすべて解決できます。「神」を「信じて」いくばくかの「恩」を売れば、お返しがあるはずだと勝手な「観念」を構築しているのです。
 己の努力を超えたところは、全部お任せするのです。悪ければ「悪魔」であり、善ければ「神様」のおかげです。余計な「心配」をしなくても日々の生活を楽に送れるのです。

 いったい頭の中で構築した「概念」である「神」を実際に見た人がいるのでしょうか?ただ「信じろ」と言う人は、私も「信じている=私も実証できない」からとにかく「信じれば」善い事があると言われても困ります。
 「神」は「奇跡」を起こせますと自信をもって説得しようとする人がいますが、実証できないものを「信じている」ことのほうが奇跡としか思えない人がほとんどだと思われます。

 「信じている人」の「概念」で作り上げた「神」は「他人に迷惑」をかけなければそれはそれで結構なのです。しかし、「信じる」という言葉の本当の意味を真剣に再考することも忘れてはいけません。体験もなしに「概念」に惑わされていては、はいつまでたっても真実を自知することはできません。

 仏道において心を清浄にしようと頑張っている人には、「神」は啓示などによって応援してくれることもありますが、己の欲のために「神」にお願いしても一時的なことでしかありません。心の清らかな人でなければ、どうして「神」が援助するでしょうか。よく考察してみましょう。

 仏道は「信じる」ことではなく、自ら学び自らの体験で確証を得ながら「疑い」を晴らしながら寂静となっていくのです。
「神様」を身近に感じるなら、霊的な成長を願わなくてはなりません。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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