So-net無料ブログ作成
2017年12月| 2018年01月 |- ブログトップ

一切顛倒ー3 [仏道]

 「自我」は「いのち」を守るために、限られた些細な情報をもとに日々獅子奮迅の活躍をしています。受け取った情報や頭の中で構築した「思考」を振り分け、白黒をつけています。
 すべてが「いのち」のための自己愛、自己保身、自己保存のために、休むことなくけなげに働いています。せっかくこの世に「いのち」を授かったのですから、従順に「いのち」のを繋ぐシステムに従っています。このシステムに組み込まれているプログラム通りに「いのち」の保護と安全確保に徹しています。この「苦」から回避するプログラムの主体となっているのが「私=自我=思考」です。

 「自我=思考」は単なる「いのち」の保身のために作られましたが、肉体や感覚や感情や判断を統合した「私」という「概念」を作り出しました。
 「私」は「言葉」を使って現実を解釈することができ、他人に意思を伝えることもできるようになりました。また「言葉」によって意志を都合よく構築することができるようになりました。頭の中だけの「概念」や「言葉」を駆使することができ、頭の「意志」によって自らが行動できます。「思考→意志→行動」が何度も何度も繰り返される中で、「概念」でしかない「自我=私」が主体であると勘違いしてしまったのです。

 「己」の肉体はある程度意思通りに動きます。完璧には制御できないまでも歩く・立つ・伸ばす・曲げるなど最低限動かすことができます。「己」の感覚もある程度実感できます。体験されたことを「概念」を使って「言葉」で表現できるようです。「己」の感情も「喜怒哀楽」などの「概念」もある程度「言葉」で表現できます。「己」の判断も二元対立の「概念」によってある程度「言葉」で判断できます。すべてがある程度でしかありません。

 肉体や感覚や感情や判断は心もとない「ある程度」の動作や表現しかできないのです。「自我」ができることなど大海の一滴程度のことでしかないのです。「雨」の一滴でさえ降らせることもできないのです。種は蒔けますが、一輪の花さえ咲かせることもできません。あらゆることが出来ないと言っていいでしょう。
 「自我」は「私」という狭い「概念」の中で必死に自己主張しています。「私」という実体があるかのごとく振る舞っています。本来は実在していない「概念」だけの「私」なのに、あいまいなまま「私」と言って共通「概念」で通じ合っているだけのことです。これが顛倒です。

※「私」は辞書では、一人称・話し手、自分
-----
「私」に問いかけてみてください。
Q:5歳の時の肉体は「私」そのものでしたか?
A:それはまさに「私」でした。
Q:5歳の肉体はどこにありますか?
A:もうこの世には存在しません。5歳の「私」など今は存在していません。
Q:それでは、今の「私」は5年後、1年後、1か月後、1日後、1時間後、1分後、1秒後も今のまま存在していますか?
A:もう今は過ぎ去っているので、瞬間瞬間に全く同じ「私」など存在しません。確実に消え去っています。
もし、全く同じ「私」が存在しているのならだれも「生まれたままの赤子」のはずです。
 すべてが変化するということは、何かが生まれ何かが消え去ることです。今生きている地球上で変化しないものはありません。
Q:「私」は常に変化して、消え去っているのです。それを今まで使っていた「私」という一般「概念」のままでいいですか?実体があると勘違いしたままでいいですか?
A:よくありません。「私とは、瞬間瞬間消え去って捉えられない。実在しないものです」と新しく表現したいと思います。

Q:我々が使っている「私」という「概念」は、一般的に通用する「概念」を便宜上使っているということですか?
A:そうです。一般社会生活では、便宜上他人とのコミュニケーションをとるために「私」という「概念」をつかっています。
 しかし、正しく見るなら「私」はどの瞬間をとっても確固たる実体はありません。変化し続けている「私」という「言葉」であって「概念」でしかありません。本質は実体のない「空」でしかありません。
―――
 同様に、肉体を感覚、感情に置き換えて問いかけてみてください。何もかも存在していない「空」なのです。
 「私」は単なる「概念」であり、「私」と思っているものには実体はなく瞬間瞬間に消え去っています。これから先も確固たる存在なく「空」として瞬間瞬間を存在と共にただ在り続けるだけです。
 「私」が不在であっても、すべては自動的に起きています。見るのは「私」ではなく、見るが起きている、聞いているのは「私」ではなくて、聞くが起きている、すべてが「私」など無くてもただ起きているのです。

 私たちの知らない言語(例えばフランス語)を聞いても何の意味も無いただの「音」でしかないのに、日本語を聞くと意味をくみ取ろうと必死になります。もし、ここに書かれた言語がハングル文字やアラビア文字であったらただの記号でしかないのです。「自我」は意味を探り、なんとか意味のあるものにしようと必死にあがくのです。

 一体私たちの目の前に見えているこの瞬間の出来事をすべて「言葉」で表現して意味づけできるでしょうか?
 次の瞬間に目で見えているすべて、さらに次の瞬間に目で見えているすべて、さらに次々の瞬間瞬間の目で見えているすべてを表現できるわけはありません。瞬間を切り取って頭で処理して「言葉」で表現することは不可能なのです。ただ起こることをそのまま受け取るしかないのです。

 「自我」が存在に対して判断するということが、途方もない馬鹿げたことだと理解できていない証拠です。人間の視界の範囲で宇宙全体を判断して思い悩むようなものです。

 耳で聞こえていること、肌で感じていること、体調、雰囲気、空気感、呼吸、瞬き、舌触り、唾液、足の具合などなど、表現され得ぬ表現を超えたとてつもないことが瞬間瞬間に起こっては消えています。
 この壮大な存在を限られた「自我=思考」が、何十万語しか持ち合わせのない人間の語彙を使って、どうして受け取ることができるのでしょうか。また人間の語彙で表現することができるのでしょうか。

 「自我」ではオーバーフローしているのははっきりしています。AIが実用になり、カメラでとらえた存在の一瞬を言葉で表現しなさいとめいれいされたとします。どんなにAIが進化してもと「見る→思考する→語彙選択→表現する→表示する」と次から次へ瞬間瞬間の処理はとてもできるはずはありません。AIもギブアップすることでしょう。「自我」が存在の一切を受け取ることなどできません。あるがままを受け取るには、根源なる実在に委ねるしかありません。

 「自我」は大いなる存在にギブアップするほかありません。壮大な風景を見て「言葉」では表現できないことを真から理解できた瞬間があるはずです。数秒後に乏しい語彙の中から絞り出した賞賛の「言葉」で「素晴らしい、感動した」で終わらせてしまいます。「自我」は壮大な存在に完全に圧倒され敗北しているはずです。「自我」を明け渡さなければならないのです。
 山に行かなくても、庭の木々や公園の木々を見るだけでも、小指ほどの花さえ表現できる「言葉」は見当たりません。「自我=思考」の範疇をはるかに超えた存在が瞬間瞬間に広がっているのです。

 「自我」をそのままに、存在の一部に成り下がってはなりません。コペルニクス的転回が必要です。主体から客体となり大いなる存在に混ざり溶け込み存在そのものである主体そのものに成ることです。「抵抗」している「自我」は「言葉」での表現が及ばない存在へと混ざり「言葉」を捨て去り、「言葉」の無い存在へと溶け込み存在と一体となる。
 ただ受け取るだけ、頭を使って判断しないこと。存在とともにあり続ける。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(0) 
共通テーマ:学問

一切顛倒ー2 [仏道]

 「抵抗・摩擦」がゲームオーバーのための「マスターキー」の一つです。「抵抗」がいかなるものかを知れば、根源に戻るヒントが見つかるはずです。「抵抗」を知りつくし「抵抗」から抜け出さなければなりません。

 「抵抗」はエネルギーを生み出し、生きていることを実感させてくれる。「抵抗」が大きくなるほどエネルギーが必要になる。エネルギーを使えば使うほど生きている実感が感じられる。「私は生きている、私は闘っている、私はエネルギッシュだ」。「抵抗」は顛倒している。

 宇宙には「抵抗・摩擦」がない。宇宙のほとんどが「沈黙」であり、ほとんどが「空間」です。音も香りも味も何もないない「味気ない空間」である「空・無」がほとんどすべてである。宇宙空間の中で、音や香りや味や人や植物に出会うことは「奇跡」でしかない。我々の現前で、今の瞬間でしか味わえない現象が繰り広げられている。

 雨粒一つが「奇跡」、頬をなでる風が「奇跡」、鳥の鳴き声が「奇跡」、葉の落ちる音さえ「奇跡」、一筋の光が「奇跡」、数えきれない「奇跡」に出会っているのです。宇宙の全体を知ることに何の意味があるというのでしょうか。今この瞬間に「奇跡」の現場に居ながら、一体何を望み何を叶えれば満たされるのでしょうか。今この瞬間の「奇跡」を見逃し続け、この「奇跡」の連続より価値のある何を望んでいるのでしょうか?

 内なる「沈黙・空間」と一体になりましょう。目で音を聞き、目で味わい、目で質感を感じ、耳で情景を見る、耳で質感を感じ、耳で味わう、舌で見る、舌で音を聞く、・・・すべてを試して「奇跡」に出会い「奇跡」と共にあるのです。

 宇宙の深遠な沈黙の中にありながら、宇宙で地球上だけしか音が奏でられていると。地球だけで「響き渡る音」を聞き分けてみてください。その音には何の意味もありません。宇宙でただ一人あなただけが感受した「音」であり、その「音」は瞬時に消え去り「空・無」となっていることに気づいてください。
 「音」を手放して、何も探そうとはぜずに内なる「沈黙・空間」に出会ってください。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
nice!(0) 
共通テーマ:学問

一切顛倒-1 [仏道]

 自由とは思い通りにできることではない。自由とは自由を放棄することである。これは不可解であり理解し難い。顛倒しています。
 自由とは「自我」の束縛から自由となることです。「自我」から自由になれば「自我」の思い通りにはなりません。「自我」の自由を放棄するのです。「自我」の勝手な「思い」を放棄するのです。
 真の自由は「自我」の不在により達成されます。

 「自我=思考」が生ぜず「自我」の「思い」を無くすことで「自我」の囚われから自由となることです。
 「自我」の「思い」は放棄されたのです。「自我」がいなくなれば、この世で何かを達成すべきために「自我」が働きかけることはありません。「自我」というプレーヤーが不在となります。
 「あなた」は実在に委ねることで「自我=主体」が退き、実在が主体となります。委ね任せることで、あるがままの実在そのものとなります。

 「自我」が「自我」として存在している証しとしての「特別」を捨て去るのです。
 「こだわりを持った私」を放棄するのです。「自我」は「記憶」だけで成り立っています。「過去」は既に消え去ってしまっています。過去のアイデンティティにしがみつくのは止めて、とっとと別れを告げるのです。
 もともと「特別」な誰かなどいません。「特別」は「自我」が作り出した「自我」だけの幻想です。生まれたばかりのただの人となり、すべての実在と同等となればいいのです。

 「自我」を保持したままで無に等しいだけの存在となるか、それとも存在そのものとして生きていくのか。存在と分離したままで生き続けるのか、分離なく存在そのものとして生き続けるのか。

 「思い」は現実となるという謳い文句の誘惑は、「この世で永遠にゲームができますよ」という宣言をしているようなものです。「思い」を抱き、この世で運よく願いがかなったとしても、次の生で同じようになるとは限りません。違う経験をする筈です。成功率数%の確率が何度も何度も続いたらゲームの意味がありません。
 人間世界で、あらゆる体験をし尽くさなければ、ゲームオーバーにはならないのです。「思い」を抱き続ける限り「自我」の「欲望」は叶うかもしれません。しかし、ゲームでの通過点である「老病死」という点は必ず通過しなければなりません。

 「思い」が実現となり裕福になったとしても、たかが知れたものです。裕福になることはすばらしいことですが、「思い」を持ち続けていてはいつになっても「静寂」が訪れることがありません。
 リゾートで寛いでいるようですが頭の中は実現させたいという「思い」が荒れ狂ったような嵐のごとく吹き続けています。寛いだ気分でありながら真の楽しみは束の間の出来事でしかありません。
 願いが叶い喜ぶのは一瞬であり、「自我」はもっともっとと次から次へ願い求めます。際限なく「思考」を活動させています。
 
 本来ならば、無意味な「思考」のゲームから脱し「空・無」へと帰還しなくてはならないのです。「自我=思考」の罠にはまって足止めすることのないように気をつけたいものです。
 知らず知らずのうちに自己正当化の罠にはまってしまわぬように細心の注意が必要です。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(1) 
共通テーマ:学問

2017年12月|2018年01月 |- ブログトップ