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照見五蘊皆空ー7 [仏道]

 老齢になって何をしたらいいか分からないので、とりあえず「働くこと」で社会と繋がっていたい。孫ができれば気晴らしもできます。しかし、死期は遠ざかることはなく確実に歩を進めます。何を為すべきか、分からないままでも「働いていれば」勝手に時が進んでくれます。何をなすべきかも分からず過ごしていては虚しく時を過ごすことになります。

 寂静となり平安を体験すれば、何のために生まれた来たかが自ずと体験できます。誰も導いてはくれません。「己こそ己のよるべ」です。己に問えば己が答えそのものとなります。

 平和だけ存在することはない。生だけが存在するわけではない。静寂だけ存在することはない。喧騒だけ存在することはない。苦だけ存在することはない。怒りだけ存在することはない。憎しみだけ存在することはない。愛(一般世間での愛)だけ存在することはない。迷いだけ存在することはない。悟りだけ存在することはない。

 宇宙に存在するあらゆるものは、対極と共に存在する。あらゆる「概念」も相反するものと混じりあっている。すべては気づきのためのゲームであり、パラドックスなのです。

 闘争や戦争があるからこそ平和を実感できる。死があるので生を実感できる。喧騒があるので静寂が実感できる。「」があるので楽を実感できる。不幸があるので幸福を実感できる。貧乏があるので裕福を実感できる。病気があるので健康を実感する。怒りや忌避があるので平安を実感する。憎しみがあるので愛(一般世間での愛)を実感します。他方の「概念・感情」があるからこそ対極の「概念・感情」を実感することができます。

 二つは、二元対立でもあり混ざり合ってもいるのです。磁石と同じでどんなに細分化して結合して巨大化されようとも陰陽でありつづける。陰陽図では、陰の中に陽が僅かにあり、陽の中に陰が僅かにある。憎しみの中に僅かに愛(一般世間での愛)があり、愛(一般世間での愛)の中に僅かに憎しみがある。時として、憎しみは瞬時に愛(一般世間での愛)に変わり、愛(一般世間での愛)は瞬時に憎しみに変わる。可愛さ余って憎さ百倍。

 二つは同じだ。深い愛(一般世間での愛)には深い憎しみが潜んでいる。深い憎しみには深い愛(一般世間での愛)が潜んでいる。男の中に女が、女の中に男が内在している。我々は男と女が混じりあった存在である。男は女に成り得る。女は男になり得る。大きな一つの実在(宇宙)の中に小さな実在があり、小さな実在の中に大きな実在がある。

 すべてはパラドックス。得ようと思えば失う。失えば得る。逃げれば追いかけてくる、追いかければ逃げられる。探せば離れ、探さなければ訪れる。知れば知るほど混乱し、探究を止めれば探究は完成する。

 真実の愛は他者を必要としない、本源から沸き起こる愛である。他を愛しなさいとは己の内側から沸き起こる愛と同じく、無償であり見返りを求めない愛でなくてはなりません。一般世間での愛は取引であり見せかけの愛でしかありません。偽りのない本源から沸き起こる悦び、寂静には対極は無いそのままの悦び、そのままの寂静があるだけである。

 毒の中に薬が、薬の中に毒がある。毒は毒を制する。薬を大量に摂取すれば毒となる。
 不幸の中に幸せが、幸せの中に不幸が潜んでいる。不幸であれば少しの恵みが大きな幸せを運んでくれる。何不自由なく生きてきた人には少しの不幸で人生を棒に振ってしまう。

 悲しみの中に笑いが、笑いの中に悲しみがある。極限の悲しみを経験してしまうと、そもそも自分の努力では何もできないということを痛感する。最初から何も出来なかったと知るだけ。努力することの意味がなかったと理解できる。バカバカしい努力をあざ笑うしかない。笑わされている己は、何もしていない。何も出来ていない置き去りにされた「己」に、悲しみが襲って来ることもある。

 真理の中に嘘が、嘘の中に真理が潜んでいる。真理を探し求めて探し回っていること自体が嘘である。己の幻想でできた「この世」が嘘と理解し幻想を捨て去れば真理を観ることができるだろう。
 バカバカしさの中に真実が、真実の中にバカバカしさが潜んでいる。乾きの中に潤いが、潤いの中に渇きがある。

 夕暮れと夜の境界では明と暗が混ざり合っている。地球と宇宙の境界は既知と未知が混ざり合っている。人の世界と動物の世界は混ざり合っている。生と死は混ざり合っている。人と仏は混ざり合っている。

 迷いと悟りは混ざり合っている。思考から離れた時を観察していくと、雲間に広大な青空を垣間見ることがある。
 迷いがあるので悟りがある。迷いが消えれば悟りも消える。悟りは得たり獲得するものではない。得るものであったら皆が得ることができる。知識や観念であればだれでも得ることができる。マニュアル通りに動いたり覚えたりすればいいだけのこと。

 「いのち」は、生きている実感を味わいたいのだ。何もかも経験したい。憎しみも愛も、悪も善も、苦も楽も、戦争も平和も、混乱も平安も、若さも老いも、病気も健康も、生も死も、希望も絶望も、神も悪魔も、女も男も、すべての二元は設定事項。全てが混ざり合っているだけのこと。
 
 般若心経は「照見五蘊皆空」だけで十分だ。混ざり合ったものは区別できるものではない。どちらでもない囚われることなどできない「空」として観るほかありません。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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照見五蘊皆空ー6 [仏道]

趙州録 「庭前の柏樹子」
僧問う「いかなるかこれ祖師西来意」
師(趙州)いわく「庭前の柏樹子」
僧いわく「和尚、境(客観)をもって人に示すことなかれ」
師いわく「われ境をもって人に示さず」
僧いわく「いかなるかこれ祖師西来意」
師(趙州)いわく「庭前の柏樹子」
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 多様性は変化を如実に現前させている。全てが同一であれば変化など読み取れない。存在の一切が異なっています。あらゆる存在は、常に変化しそれぞれに時間の差異があり、形状の変化として現れています。これが諸行無常の現れではないでしょうか。
 変化を自ら選択でき、変化を実現できることが自由で平等です。均一なところには自由も平等もありません。それなりの変化ができることが平等です。変化を望んでも変化できなければ不平等となります。

 一切は自ずから変化しています。すべてには実体のある主体的な我など存在せずに、縁起によって繰り広げられています「諸法無我」。我々は実体のない迷妄の中にあり、迷妄の中で達成することなど何もありません。迷妄を迷妄として受け取り、迷妄を迷妄として見るよりほかありません。

 存在は、それぞれがそれぞれを表現して現前しているだけす。己も柏も同じ存在です。宇宙も柏も「今」と言う同じ時間を共有し、同じ宇宙の一部であり宇宙そのものとして宇宙に存在している。それぞれの存在のどこに違いがあるでしょうか。柏の有り様は自然の理にかなった生き方をしています。
 
 己と他と区別する意味などあろうか。無常の中で縁起によって、どこかに生まれその「いのち」をただ生きているだけのこと、形は異なっても宇宙創成から様々な変遷を経て今ここに同時に出現して、縁起によって生きているではないでしょうか。

 柏は迷ってはいない、時節に応じ育ち「いのち」の営みをただ生きているだけのこと。各存在が与えられた特色そのままに振る舞っているだけのことです。存在はことさらにこうしようとか、ああしようとかの計らいは一切ありません。柏は「己」と変わることなく生滅を繰り返し枝を伸ばし葉を茂らせ生きています。柏だけでなくすべての存在は、自然のサイクルの中で「特別」など一切ありません。

 宇宙の縮図は、今ここにあります。森羅万象の現れであり仏性そのものです。柏の有り様がまさに宇宙の有り様であり、存在の有り様です。一つを見て全てを知らねばいつになっても真実に出会うことは叶いません。
 全てを調べなければ真実が理解できないのなら、真実の理解は永遠に不可能です。砂漠の砂粒1粒を知れば砂漠全体を知ることになります。砂漠の砂粒すべてを調べ尽くす意味などあろうはずはありません。

 人は何でもかんでも知りたがる。一つを知ればそれで終わりにすればいいのに。己を知れば他人を知ることになる。己も他人も知ればすべての人を知ることになる。全てを知れば知る意味など無いことに気づく。
 全知とはすべて知っているので新たに知る必要がないので「不知」・「無知」です。全能とは全てができるので新たに何かをする必要が無いので「不能」・「無能」です。「全知全能」とは「不知不能」・「無知無能」であるとも言えます。実際、人間が都合よく作り上げた「概念」である「神」は、何もできず何もしてくれません。

 神は、人間の理解を超えた出来事を説明するための「概念」であり、無知な人々を脅し服従させるために「利用」していました。支配者のご都合主義で作られた最高の「概念」と言われても否定のしようがありません。皆を悩ませる「サタン」をほんの1週間だけでも休んでいてほしいと思っている人も多いようです。「サタン」も恐怖を植え付けるのに便利に使えるので大事にされています。

 己を知れば知るほど己の空や無を体験することになります。我々はただ感受しているだけの代物でしかありません。それもある期間限定(生まれて死ぬ間)だけの感受でしかないのです。求める必要などなく、求めて得たとしても水泡のごとく手にすることはできません。
 
 陽を浴びて風になびく枝は、一切を拒むことなく受け入れています。雨や雪が降ろうと「いのち」のまま、その場所に生えたからにはその場所で生きていく定めです。己の意志で生まれたわけでもなく、己の意志で死ぬことも叶わず。成すこともなく成されるのみ、存在の定めに従い生きるよりほかありません。柏が椿に成れるわけでもなし、柏は柏としてそのまま仏性の中で「いのち」の赴くまま生きていることに不思議はありません。

 人はあらぬ欲望をもち天下を求めたり繁栄を希求するが、そのまま生きているといえるのでしょうか。「価値判断」のハードルを上げることなど必要ありません。むしろ「価値判断」のハードルを消し去れ。瞬間瞬間がそのままであり、そのままをそのままとして受け取り続けています。
 柏は柏という名前などなくとも、観る人は柏として受け取らざるを得ません。柏という「観念」なしに見るべきであり、柏も柏として育つ必要もありません。ひとつの「いのち」として育つだけのこと。自己を自己として意識して育つ必要もありません。

 人馬一体となり、乗る人も無く乗られる馬もいません。観られる柏も無く、柏を観る己も無い。主体と客体の区別など無くなります。
 徹底的に思いを無くし計らいもなくし夢もなくし、無くも無くし、空っぽの「空」となるしかありません。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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照見五蘊皆空ー5 [仏道]

[碧巌録]
ある僧が禾山(かさん)和尚に尋ねた。
 「悟りを本当に得るとは、どんなことですか」
 禾山は、ただこう答えた。
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「ならば、最高にありがたいものとは」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「もう少し変わった答え方をしたらどうなのか」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「私を若輩だと思って馬鹿にしているのか。もし、ここに慧能大師がおられたら、どんな答え方をされるのか」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
―――

「悟りを得たら、どうなるのですか」
「太鼓を叩いた音が、ドンドン、ドドン」
自分で叩こうか、嫌いな人が叩こうが、好きな人が叩こうが、名演奏家が叩こうが、子供が叩こうが、山で叩こうが、高原で叩こうが、自宅で叩こうが、「己」にとってどのような人が、どのような場所で叩いたとしても、その太鼓が叩かれたままに叩かれた音としてそのままに聞こえるほかありません。ダイレクトに耳に届いた音の認識があるのみです。

 「音」はただの「音」であり感受された「音」でしかありません。「自我」が勝手に「想」として処理することで、好いとか悪いとか心地よいとか不愉快とか攻撃されているとか何かの合図だとか不吉だとか吉報だとか・・・・。まったく狂おしいほどの様々な「価値判断」によって「迷い」の世界にとどまることになります。
 
 道元禅師が、帰国したとき「眼横鼻直空手還郷」と言われました。
 「己」が勝手に描いた人物像はことごとく意味が無く、経典すら必要なかった。仏陀の三十二相八十種好などただ「神格化」しただけのこと、人はだれでも「眼横鼻直」であり「特別」など無かったのです。寂静である人であろうが、悩んでいる人であろうが見分けはつきません。外見が別人になるわけではありません。

 寂静であったとしても「特別」な生活を送るわけでもありません。光輝くこともありません。同じように食べて同じように排泄する「いのち」です。「老病死」が無くなるわけでもなし。「特別」な体験をするわけでもなし。「特別」な能力を身につけるわけでもありません。あらゆることを「特別」として見ることもなく知ることもありません。ありのままをありのままに受け取り、無意味な「想」から先に進みません。無意味なことに興味もなく、無意味なことをせず、無意味なことに囚われない、無意味なことは考えません。

 「自我」は、未来への恐怖を抱き、ちょっとでもいいから「楽」になることを欲しています。あらゆることを知り、「知識」と「概念化」したいのです。
 図書館にある本をすべて「記憶」したとして、「平安」になるでしょうか。それとも「混乱」するでしょうか。すべての作者は「己」が正しいという前提で本を書いています。本に書かれている真逆な概念を「記憶」し「知識」としていては、二元対立の世界から抜け出すことは困難です。

 子供にとっては「ピカソ」の絵を見ても、したり顔で評価したりしません。ありがたくも高額であるとの思いもありません。ただの油絵の具が布に塗ったものでしかありません。「特別」などありません。

 すべては「空」です。何かを測りたいということは、その行為や思い自体に「分別」をもちこんでいます。何センチだから多いとか少ないかその何センチで判断しています。雪の量を見ればそれで感じればそれでいいだけです。
 気温もそのまま感じるままを感じればいいだけです。カリフォルニアの温度が何度で湿度が何パーセントなど聞いても意味はありません。「冷暖自知」。

 「空」であるものを、機器を使って「己」の知識の範疇で知ることで「想」によって「分別」しています。目はカメラ、耳はスピーカー、味は塩分計、触は風速計・体温計・温度計・湿度計などや他のセンサー、本来「空」で見えない「対象」も機器によって知識としています。

 火星を知って何の意味があるのでしょうか。ヨーロッパの天気やヨーロッパの事件や出来事を知ってどうするのでしょうか。将来は、月に観測機器を設置して月の環境をお知らせするかもしれません。「知った」としても何もできないのです。月の温度を知って「悩み」が減るのか増えるのでしょうか。月の「今」と「己」の「今」のどちらを見なくてはならないのか。
 すべては「起こるように起こっている」だけです。「今」起こっている以外の事は、知ろうが知るまいがどうでもよいのです。手出しもできず制御もできないことを「知る」ことは、かえって「迷い」と「悩み」が増えるだけのことです。

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 「ならば、最高にありがたいものとは」
ありがたいのは、仏でも衆生でも同じように叩いたままに聞こえることです。

 「もう少し変わった答え方をしたらどうなのか」
問うている僧は、まだ理解できていませんのでしつこく問うています。同じ答えでは理解できないので違う「言葉」で「知識」を得たいのです。「言葉」や「知識」から離れ「音」は「音」で受け取りなさいと答えるほかありません。

 「私を若輩だと思って馬鹿にしているのか。もし、ここに慧能大師がおられたら、どんな答え方をされるのか」
 ここにおよんでも、「不立文字」の真意を理解できません。真理を「言葉」で表現することはできません。ギリギリ「言葉」として表現しています。

 他の禅師であったとしたらどうなんですかと異なる答えを求めています。
 だれが仏道を説こうが「如実知見」であり、自ら体験するべきです。「冷暖自知」。



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照見五蘊皆空ー4 [仏道]

 「自我」が構築したあらゆる「知識」「言葉」「観念」「概念」「判断基準」は、「空」へと解体すべきです。解体できなければ「自我」に囚われ続けることになります。「迷い」は「自我」によって作り出されたと理解できない限り囚われから抜け出せません。
 「老病死」などの「苦」に逆らうことはできないのです。逆らえないことに対しては放っておくことです。「老い」を受け入れられないのは「自我」が他人と比較して「若く」いた方が良いという社会からの脅しに迎合しているからにほかありません。

 まっさらな目で、「あるがまま」と対峙しなくては本来の姿は見えてきません。各人が思い思いの「想」を作ることで迷っています。「迷い」は「己」が勝手に作っていることを自覚しなければなりません。

 主体と思っている「己」が「客体」と見なしている宇宙のあらゆる対象は、1(己)対無限数(あらゆる対象)です。主体の「己」は「客体」から見れば、1/無限数となり、「」に等しい存在なのです。「己」は1であると同時に「無」です。

 純粋に映画を見るように目の前の出来事を観察するだけでいいのです。目の前で繰り広げられた破壊や恋愛や家族の絆などはただスクリーンの中で起こった光の点滅を見ただけのことです。観察が終われば、何も残っていません。音と爆風を感じたかもしれませんが、ただのスクリーンでの出来事です。

 地球上で起こっていることや宇宙で起こっていることに対して責任を取る必要はありません。今も病院で苦しんでいる人がいるはずですが、あなたが責任を感じるならすべての「いのち」を救わなければなりません。「医師」という専門家に任せておけばいいのです。
 「死」によってかえって「苦痛」から解放されているのです。生まれた「いのち」は死を迎える、それが「いのち」の法則であり、「いのち」の法則を歪めることはできません。

 我々は、「無限」の存在の客体として存在しています。宇宙の一部であり、宇宙そのものであるのです。「死」によって得ることも失うこともなく、この身も解体されて無となるだけのことです。
がつがつ生きたとしても、何も手にすることができないことなど自明なことであって理解できない人はいません。執着の根本である「渇愛」という囚われを離れなくては「寂静・自由」な生活を送ることは困難です。


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照見五蘊皆空ー3 [仏道]

 眼・耳・鼻・舌・身・意という感覚器官に、色・声・香・味・触・法という認識対象が触れることで認識(六識)が生まれます。このとき、認識する主体として「自我」が作られました。

 我々の体は、ただの感受しているだけです。「想行識」によって脳が「意味づけ」することで「自我」が主役の立場となって働きます。
自我」は、さまざまな「苦」という「抵抗」を受けることで一層の存在意義を強化していきます。

 「苦」があることにより、「楽」や「悦び・喜び・歓び・成功、happy,joy,pleasure,congratulate」が「私」は生きていると実感させてくれます。「苦」はできることなら忘れたい逃れたい避けたいので、どこまでも「楽」を求め続けることになります。

 常に恒常なる感受(受想行識)などありえず、恒常なる対象(色)もあり得ません。凄まじいスピードで変化しているので「自我」が連続して存在しているかに見えるだけです。パソコンやTVのドットが点滅して像が作られます。「自我」は、実在しないのに像とし写し出されるのに似ています。「自我」は頭の中で作り出している幻影だとの見解を得なくてはなりません。

 受の段階で終わってしまえば何の問題もありません。次の、想行識となることで確固たる「自我」が形成されてしまいます。
 色も空、受も無常です。認識したときにはすでに消え去っています。感覚器官に囚われても意味はありません。瞬間瞬間で消え去っているのですから、きっぱりと忘れ去ることです。音も景色も皮膚で感じる温暖も消え去っているからこそ味わいがあるのです。

 想:単なる光の波長、音の周波数、鼻にある臭覚を刺激する匂い、舌にある味覚を刺激する味、皮膚の感覚神経を刺激する感覚。ただの刺激データを脳で「言葉」に変換することで「苦」を作っているのです。

 例:エレベータの中で嫌いな人と体が触れた。エレベータの中で好意を持っている人と体が触れた。
エレベータの中で見ず知らずの人と体が触れた。エレベータの中で汗臭い人と体が触れた。エレベータの中でかわいい子供と体が触れた。エレベータの中で犬を抱いている人の犬と体が触れた。

 その他さまざまな状況がありますが、嫌いな人は実は双子の一方であり初対面の人かもしれないのです。好意を持っている人も双子で、何の知り合いでもない人であるかもしれません。
 人と体が触れたという状況でも、「自我」の想によって異なるのです。

 全てが成長するための「試験」として対処しなくてはなりません。嫌いになった他人を変えることなどできません。「己」の見方や観念を変えればいいだけの話です。
 好き嫌いは、「自我」が勝手に作っている幻想だということを自覚しなくてはなりません。対象を「空」として好き嫌いをなくすことです。


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照見五蘊皆空-2 [仏道]

 「いのち」はただ「いのち」を繋ぐために生きることが目的であった。「いのち」は生まれた瞬間から「死」を宿命づけられ、「己」の遺伝子を次なる「いのち」に引き継ぐことで「己」の価値を見出してきた。

自我」は五蘊を「主体」とみなして活動しています。「自我」は何故生まれたか?
自我」を成り立たせている五蘊というシステムがどうして必要だったのでしょう。「己」を生存させるために「自我」という仮の「存在」を作り上げたのです。

 仮の「存在」は恐怖からの防衛のために常に「思考」することになりました。本来は仮であった「自我」が主人であると勘違いしてしまったのです。
 「己」を脅かす恐怖の楯となっている「自我」が生存の主体となりました。「自我」は主体であることに疑うことなく生きています。
 「いのち」を脅かす恐怖によって「自我」が作られたと言えるのではないでしょうか。

 現在人はどのような恐怖(苦、ストレス)にさらされているのでしょうか。
「いのち」として避けられない老病死、未来に対しての恐怖である求不得苦・愛別離苦・怨憎会苦、瞬時の恐怖である五蘊盛苦があります。
これ以外の恐怖(苦、ストレス)には次のようなものがあるのではないでしょうか。

[肉体的な恐怖]
肉体的な「死」の恐怖(必ず死ぬのだから恐れても意味がない)
肉体の一部が奪われる恐怖(病気による手術等によって切断・摘出)
病気の恐怖(健康であれば当たり前にできたことができなくなる、気が滅入る)
認識不能の恐怖(突然におこる認識不能の恐怖、耳が聞こえなくなる、目が見えなくなる)
認知できなくなる恐怖(社会生活上での自分の世話ができなくなる)
未知の恐怖(将来の不安、身の回りで起こっていることを知らないとすぐに対処できない)
[知識に関連する恐怖]
知識や想像力による恐怖(知識によってかえって不幸な出来事を想像してしまう)
知らないことの恐怖(知っていれば助かったのに知らないばかりに大変な目に遭う)
理解できないことへの恐怖(神などの概念や体験が認知できない)
[望んでいないが将来起こるも知れない]
災害による恐怖(予知・予見できない突発的な災害)
無所有の恐怖(すべてが奪われる恐怖)
失うことの恐怖(失いたくないので執着してしまう)
社会からの恐怖(社会的な弱者となり虐げられる)
貧困の恐怖(余裕を持って生きていたいが、生活が立ち行かなくなる)
[職業生活]
期限を守れない恐怖・責任を果たさなければいけない恐怖(信頼を失う)
仲間外れにされる恐怖(いじめ、いやがらせ)
期待されたことができない恐怖(評価が下がり相手にされなくなる)
ハラスメントの恐怖(一人では対処できない)
[対人]
人間関係の恐怖(馬鹿にされたくない、仲間外れにされたくない、居場所がなくなる)
他人とのトラブル恐怖(安心した生活をおくれない、不安に苛まれる)
変化に対応できない恐怖(状況に対処できない、信頼低下)
感情を制御できない恐怖(すぐに感情的になり制御できなくなりトラブルを起こす)
[偶発的]
襲われる恐怖(他人が信用できない、眠れない、鍵をかける、防犯対策)
嫌な事にあう恐怖(勝手に作り出す恐怖、平穏な生活に難題が持ち上がる)

 日々様々な恐怖(苦、ストレス)にさらされている「自我」は、思考や知識や概念や言葉を使って「己」自身で解決するか、コミュニケーションによって他人と関わりながら解決するかの何れかです。

 肉体的要素と精神的要素からできている「五蘊=自我」によって恐怖(苦、ストレス)となるのですから、「自我」を消滅させることが恐怖から離れ「平安」でいられる「道」として教えられています。

 他人はいつまでも頼りに出来ることはできません。すべてが「己」の問題であり、結局は「己」が解決しなくてはなりません。
 「私、私の、私が偉い、私の尊厳、私の未来」にこだわることによる諸問題です。この問題を解決するには、自灯明・法灯明によって現在位置を確認しながらクリアしていくことです。

 他人も忙しく、時間と費用も掛かります。手っ取り早いのはリタイヤすることです。しかし、現実は、家族の生活もありそうもいきません。この点において、職業生活をしながら仏道修行を行うことは至難を極める道です。
 しかし、地道な努力を続けることで成しえないことはありません。「」という「概念」を使うことが一つの方法であると般若心経で説いています。


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照見五蘊皆空ー1 [仏道]

「照見五蘊皆空 度一切苦厄」 

 「般若心経」では、五蘊(色受想行識)それぞれがみな「」であると知見できた。「」を理解し執着がなくなれば、一切の苦や災いから離れることができる。
 智慧を完成するには「」を理解することである。初めから答えを先に提示してから考察しています。

 この世には神秘も秘密も一切ありません。ただ人の目が節穴なだけのこと。「リンゴ」はいつも地面に落ちていました。風呂に入れば水があふれ出ていました。風が吹けば涼しく感じます。日が照ればあたたかくなります。川は川と呼ばれる前から川です。「私」は「名前」で呼ばれ「思考」することで「私」となっただけ。ただ一つの「いのち」が「認識」しているだけのこと。

 「自我」は苦(恐怖、ストレス)が「己」を守るために作り出した幻想。
 「自我」を存続させ、「自我」たらしめているのは五蘊です。「肉体と精神(脳の働き)」によって「自我」と主張しています。五蘊は常に「苦」によって攻撃され、「苦」によって「苦しめられている」と思い込んでいるのです。
 「般若心経」では、五蘊が受ける「苦」は「空」であって実体がないものです。よって「自我」という幻想を守る必要がないことを知見しなさいということです。


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空即是色 [仏道]

 我々の頭の中で「私の判断基準」が構築され完成されています。
 我々の普段の生活において、現前の対象(色)に接している間は「私の判断基準」が自動的に働いています。

 何かを思索したり、他人とのコミュニケーションをとっている場合にはを考えたみましょう。
まず「イメージ」を頭に描き「私の判断基準=空」を基に対象(色)を作りあげていきます。

 レストランで「パスタ」を食べに行きましょうと話していれば、頭の中で様々な「パスタ」のイメージが自然と浮かんできます。「パスタ」という共通の「言葉」であるにもかかわらず、各々が別々の「パスタ」を思い浮かべています。頭の中の「パスタ」は単なる言葉であり実体がありません(空)。

 先にイメージや先入観によって対象(色)を頭の中で作り出します。「私の判断基準」で構築された対象(色)が頭の中で存在することになります。単なる「概念」と「言葉」だけで作り上げた「イメージ」と現物の対象(色)が照合されます。「イメージ」が優先され、実物の対象(色)を見て違和感を感じることもあります。

 頭の中の「言葉」は自体がない「空」です。頭の中では好きに着色したり壊したりできます。頭の中の「虚像」がそのまま対象(色)として優先します。各々が作り上げた「イメージ」が確立されています。中東の国では「甘い」食べ物をよく食べるので、「甘さ」の基準が高く相当甘くないと甘いとは言わないのでしょう。頭の中で「甘さ」に対しての「私の判断基準」が高く設定されています。
 各人がそれぞれの「私の判断基準」を設定して生きています。注射一つとっても、痛くも感じない人から、針をみただけで逃げ出したくなる人もいます。

色即是空:対象(色)たる実在は、本来比較され優劣をつけ区分される対象ではありません。
囚われることなく知覚すればよい。
空即是色:我々の生活では、「言葉」や「イメージ」でできた記憶があるために対象(色)と比較して混乱しています。「イメージ」と対象(色)が直結しています。
 単なる「言葉」という「虚像」で「苦」を味わう必要はありません。実在のないただの「言葉」で迷よわされています。「言葉」や「記憶」は実体のない「空」です。
「色是色」:実在は実在そのまま。
「空是空」:言葉は単なる言葉だけのこと。

碧眼録53則<馬祖野鴨>
百丈が師である馬祖と一緒に道を歩いていた。
その時、野鴨子(雁)の1群が空を飛んでいるのが見えた。
馬祖「あれは何だ?」。
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※全ては「あれ」でいいのです。我々は「概念」による「言葉」でこの世を構築しています。全てが「あれ」であれば何の問題もありません。一切が優劣のない「あれ」で十分です。年齢を重ねて「言葉」が思い浮かばず「あれ」と言ってごまかすときに使う「あれ」ではありません。
 意図的に「私の判断基準」を持ち込まず、対象(色)に対して使えばよいと思います。一切差別のない対象(色)であるとして「あれ」と見るのです。
 「あれは何だ?」と馬祖も「野鴨」であることくらい知っています。あえて「あれ」として聞いたのです。「言葉」と「概念」を超えなさいとチャンスを与えました。まだ、「頭」の中の「意味のない思考」で生きているのか?
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百丈「野鴨(雁)です」。
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※「己」の頭で記憶していることが「判断基準」となっています。ただの「言葉=固有名詞」を使って、何の疑問もなく躊躇なく返答してしまいました。何の疑いもなく自動的に行っていることに気づかなくてはなりません。つまり、何の躊躇もなく「言葉」が出ているということは、思慮分別が無意識で行われている証拠です。「野鴨」という「固有名詞」の返答があったことは、「主体」と「客体」の区別をしていると見抜かれました。  自分自身で「当たり前」が「苦」を作っているを見抜くチャンスだったのです。
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馬祖「どこへ飛んで行くのか?」。
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※「どこへ」と問うことの意味はなんでしょうか。東西南北や上下左右などの「概念」は、勝手に作った「概念」です。北極点からどちらへ進んでも南です。道に迷った時には北極星の位置を知ることは意味がありますが、普通の生活の中で東西南北など知らなくても生きていけます。なんら気にすることも気に病むこともありません。
 「ここ」はどこでもなく「ここ」でしかありません。我々は「どこへ」行こうが常に「ここ」に居るだけです。
 馬祖の「どこへ」との問いは、百丈の頭の中の「思考」について問うています。「主体」と「客体」が一体となっていないため、「己」の頭を中心に思慮分別していたのです。
 「野鴨(雁)」などただ「頭」の中に存在してる「言葉」であり実体のない「空」でしかありません。
 実在の「己」は「今ここに」存在しています。頭の中にあるだけの「虚像」が本体ではありません。普通の一般人が「野鴨(雁)」と「返答」しても怒られることはありません。頭の中だけに作られた言葉としての、実体のない「虚構の野鴨」はまだ頭の中に存在しているのか?
 「どこへ」というのは、お前の実在は「どこ」に存在しているのか?今の「己」を差し置いて、手の届かぬ空の中にある対象(色)など「偽物」である。今の「己」を差し出してみよ。
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百丈云く、「もう飛んで行ってしまいました」。
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※「私の判断基準」で、「さっきいた場所」が「記憶」の中にあり、その 「さっきいた場所」が「私の位置の判断基準」となりそこから離れたので「飛んで行った」と答えたのです。
 「私の判断基準」があるかぎり、遠いや近いがでてきます。遠くへ行っているわけでもなく近くへ来ているわけでもありません。ただ羽ばたいた結果位置がずれているだけです。「野鴨」はあなたの勝手な「基準」をずれているわけではありません。
 自分勝手な「基準」で物事を判断すれば「苦」となることは必然です。「ゴキブリ」は「ゴキブリ」の「いのち」を生きているだけのことであり、「人間様」に迷惑をかけ申し訳ないとは思っていません。「人間様」の都合で、嫌がられて殺されるほどの悪事は働いていなはずです。
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すると馬祖は不意に百丈の鼻柱を引っつかんで捻り上げた。
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※「思考」しているお前ではなく、実在のお前はどこにいる。今の「お前」は、ここにいるぞ痛みを感じているそのものが「お前」である。頭で構築した「虚像」と戯れているのは実在ではない。
空即是色:頭の中で「私の思い=空」思考して実在を見ている。思考は実在ではい。
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余りにも痛いので百丈はオウオウと泣き始めた。
馬祖「飛んで行ったと言うが、まだここに居るではないか!」。
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※百丈の実在は「今ここ」に存在しています。思いの中にある(空)である「野鴨(雁)」などどうでもいいのです。
 頭の中であれこれ考え、その考えに振り回され「己」を見失っている「己」に気づきなさい。
 頭を使って論理的思考ができる人は、自らが「苦」を作り出していることに気づかないのではないでしょうか。頭を使えばただ「妄想」がふえるだけのことです。
 
 器が空の状態にあるほうが有用です。器がいつも満たされていて、その器に何かを入れればあふれ出してしまいます。また、混ざったらおかしな物質になることさえあります。頭は常にスッカラカンの空っぽにしておけば有用な器として使えます。考えすぎれば病気になります。
 毎日毎日考え悩まずとも、一口のお茶を味わいボーとすることもいいと思います。
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この時百丈は冷や汗を流して悟った。
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※ 「己」の実在は、「今ここ」に在ることを骨身で感じさせられ感得できました。頭はどこへでも行きます。「今」に生きることは難しいことです。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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色即是空ー2 [仏道]

勝手な「空」の「概念」ですので、信じることなく自らの修行にて確認してみてください。

1.空とは、実体がなく頭の中で構築された「概念」からなる単なる「判断基準」である。
  無判断=空
2.空とは、恒常の固定したものでなく、生滅しているためにしがみつくことができないこと。
  無常=空
3.空とは、あらゆる事象に隠れた原理原則や法則であり、事象を現出させるものである。
  法則・原理の根源=空
4.空とは、今の瞬間に認識できていない全てである。認識できない故に迷いようのない世界。
  認識不可能=空
5.空とは、あらゆるものを生み出し、また、あらゆるものを分解し還元され戻るところである。
  発生と消滅=空

 1番目の空の「概念」を用いて、「色即是空」を考察することで「概念」という囚われから自由になりましょう。

 我々は、生まれてから「己」に付けられた識別名としての「名前」によって呪縛されています。誰でもないただの一つの「いのち」として生まれただけです。親から「名前」を付けられることによって識別対象となりました。
 日々「名前」を呼ばれることで「私=自我」が自然に形成されたようです。他の人も異なる「名前」であるため、当たり前に分離された「自我」が確立します。すべてに名前がついているので、すべてが「己」に対比される「他の存在」であるとの錯覚のままに生きています。

 パンダにさえも「名前」を付けています。なぜ「名前」が必要なのでしょうか。我々の知識の範疇におきたいこと。「名前」によって、実物がなくても「概念」のやりとりができ新たな「概念」を作ることができます。
 この「概念」のやりとりによる会話は、実物を介在させない「空虚」な話でしかありません。体重など実感できるわけがないのに、頭の中で重さのイメージを必死に作りだしています。「体重」はただの言葉であって実際の重さを実感できないかぎり「判断・推測=空」でしかありません。

 あらゆる対象を「概念化」して「名前」をつけ、「好き」「嫌い」「どちらでもない」の三つに区分する習慣が身についています。
 「名前」を聞いただけで、自動的に分別・選別を行います。「富士山」と聞いただけで勝手な「イメージ」が頭の中で出来上がっているのです。この「イメージ」が「妄想」であり「苦」なのです。現実の目の前の「今この瞬間の富士山」を見ればそれでいいだけのことです。目の前の現前にない「空」なる対象を「言葉」を使って「妄想」しているだけのことです。「今この瞬間」をまた見逃してしまっています。1日に1秒を1回の瞬間とすると、寝ている時間を除いて17(時間)×60(分)×60(秒)=61,200回の瞬間があります。この61,200回のうちどれくらい「妄想」で見逃していることでしょう。
 見逃しは、「妄想」と気づかずに疑うことなく日々の生活に流されているからです。「妄想」という「雲」で覆われていては「智慧」で「無明」を照らすことはできません。「妄想」していると気づくことで「妄想」は消えていきます。日常でこの「気づき」を入れることで「妄想」は見破られ徐々に消え行きます。

 頭の中で起こっていることは、瞬時の判断であり「疑問」は抱きません。大切なことは「当たり前」にあえて疑問を呈し探究することです。「己」の作った「判断」の奴隷となっていることに気がつかないで生きているかもしれません。「当たり前」が正しいなら、すべての人が「寂静」であるはずです。

 対象(色)がインプットされると、今までの経験で作られた記憶の中のイメージ(実物でなく観念でつくられているので「空」)で出来上がった「私の判断基準」と対象(色=現物)が照合されます。「私の判断基準」以上であれば執着、「私の判断基準」以下であれば忌避、未確認の対象やどうでもよい対象にたいしては「保留、無視」と、瞬時に分別され自動的に反応します。

 色(対象)を認識すると、頭で構築した実体のない「判断基準=空」と結びつきます。対象はそのままの存在であるにもかかわらず、「瞬時=即時=伝達信号」に頭の中で「判断基準=空」としての対象となります。これが、認識対象は瞬時に頭のイメージとしてある。「色即是空
 「空」は無いのではなく、実体のないただの「判断基準」という「概念」だということです。

 我々が対象(色)を感受すれば、「判断基準=空」というフィルター(プログラムされた判断)を通ることによって、その対象(色)に対して執着しようが忌避しようが必ず「苦」となります。
 本来の「空」は「判断基準」が無いということです。全ての対象(色)に対して「イエス」。全てに対して「期待」しないでいることです。あらかじめ対応を考えて生きることは「生」のダイナミズムと一体となっていないことです。

 対象(色)に対して「私の判断基準」を持って接していては「苦」につきまとわれ、自由や解放には程遠いといえるのではないでしょうか。
 たまに、「私の判断基準」を超えた絶景や出来事に遭遇した場合には、あなたの「記憶」の中に該当する「概念」を見つけることができません。その体験は「言葉」には出来ません。「概念化」できないので「概念」から解放され、自由な「判断基準のない空」を体験できるのではないでしょうか。

 「リンゴ」は「リンゴ」という名前が付けられなくても存在しています。目の前の「リンゴ」に対して赤いとか黄色いとか酸っぱいとか甘いとか、硬いとか柔らかいとか勝手に「己」の頭の中で作り上げた「イメージ」ができあがっています。そのイメージと比較して食べていては、今味わっている「リンゴ」を真に味わっているとはいえません。

 今味わっている「リンゴ」は硬くもなく柔らかくもないのです。「私の判断基準」より硬ければ硬いだけのことです。「私の判断基準」など一切とっぱらって、今食べている「リンゴ」は一生に一回しか食べられない「一期一会」の「リンゴ」です。今食べている「リンゴ」を「私の判断基準」なしに「ありのまま」を味わい尽くすだけのことです。この固さこの味以上でも以下でもない「不増不減」、まさに「今味わっている」そのものです。それで、中道ができたことになります。
 「固有名詞」をつけないで「これ」を味わえばそれでOKです。「リンゴ」を食べているのではなく、「今この瞬間」にある「これ」でしかありません。他人と会話するときは「リンゴ」で言わないと「記憶力」を疑われます。「己」の頭では「リンゴ」とは言わず「これ」も言わないでただ味わうだけです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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色即是空ー1 [仏道]

 色は我々が認識可能な対象。
 「空」は我々が作り出した「概念」を破壊するための「概念」として使ってみましょう。この世に対しての「執着や忌避=苦」から解放され「自由=寂静」になるために使えばいいのです。
 何故「概念」を破壊しなければならないのでしょうか。それは、「概念」によってこの世で迷い囚われているからです。

 進化の過程で手に入れた「言葉」と「概念」が自由の障害となり「己」を束縛しています。色は本来思慮分別されるものではありません。「概念」によって分別が起こり、執着や忌避となり「苦」となります。

 この世で普通に生活して「寂静」となることが当然と仮定してみます。世間が正しく「己」も正しければ悩む人などいません。この社会の知識や常識や物の見方で「寂静」となれれば「観念」を破壊する必要などありません。
 図書館に行って本に書いてある知識を理解するか、ある程度教育を受ければ「寂静」が自動的に実現します。ただ記憶して吐き出すだけの知識や、概念をつぎはぎして構築する論理的思考によって達成するなら、義務教育を終えた人に修行など意味はありません。誰でもが自然に「寂静」でいられるのです。

 残念ながら、普通に生活していても「寂静」でいられないのです。
 複雑化や混沌の中において、迷うことなく過ごすことができるでしょうか。科学知識や学問がどんどん増えていくばかりです。知識が増えたから正解に出会うチャンスが増えるというわけではないようです。
 逆に、作り出された知識や概念は本源からどんどんかけ離れていくため、「寂静」を得ることがより困難な作業になります。不要な記憶や概念や思考がなくなればなくなるほど、見出されやすくなるのではないでしょうか。

 「空」の解釈にこだわり、「空」を理解しようとすることが「概念」の罠にはまります。「空」の概念よりも、言葉や思考なしに対象を知覚することができるようになり、対象に囚われなくなればいいだけのことです。「今この瞬間瞬間」とともにあり続けるのです。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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