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「私」と「他人」 [仏道]

勝手な見解であり、愚か者の独り言。

誰も他人の感受を知ることはできません。
己は己の感受を他人に体験させることはできません。

誰も他人の混乱を完全に消し去ることはできません。
己は己の混乱を他人に体験させることはできません。

誰も他人を直接変化させることはできません。
己は己のみによって変化します。
誰も他人を強制して思いを変化させることはできません。

己は己のみによって確証を得ます。
誰(釈迦もキリスト)も他人を直接に悟らせることはできません。
己は己のみによって自己欺瞞を認知できます。

誰も他人の内面の体験を知ることができません。
己は己のみによって「受」から以降を断つことができます。
己は己のみによって「言葉」を使わずに観ることができます。

誰も他人の呪縛を解き放すことはできません。
己は己のみによって呪縛から解き放たれることができます。

誰(釈迦もキリスト)も他人を直接救うことはできません。
天上から救いの使者が来て救ってはくれません。
夢のようなことを期待しないで、現実を直視して地に足をつけて進むしかありません。

己は己のみによって救われます。
自分が何の努力もせずに、救われると思い込んでいるのは自己欺瞞ではないだろうか。
救われると思っている方は一生懸命に教学に励んでいます。
自身の信心が足りない事を気にしているのでしょうか。
信心があるほど救われ易く、仏に見つけもらえるのでしょうか。

己は己のみによって調息できます。
己は己のみによって坐禅できます。
全ては己の意志です。体調を整え、生活リズムを守り自戒によって生気に満ちた生を送る。

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  オオカミに育てられればオオカミと同じに生きなければなりません。ゴリラに育てられればゴリラと同じように生きなければなりません。人間は「霊長類」という動物であり、環境に適応して「いのち」に従って生きなければなりません。

 両親がどこの国の人であろうが、日本で生まれ日本の風習を学び日本語を話し、日本の教育を受ければ「日本人」として生きていくでしょう。

 環境や教育というもので「私」が作られます。最初から社会性を持ち道徳を遂行する高尚な人間であると言い切れるでしょうか。
 人間社会という環境に生まれ、己が自立して生きていくには「私=自我」を形成して「私=自我」とともに人生を生きなくてはなりません。

 「死」という「極限」状態に直面した時に、「私=自我」など何の役にも立たないことに気づくことでしょう。「私=自我」がどのように命じようとも「身体」は言うことを聞きません。一切の「私=自我」など無いとの知見に達することで「ありのまま」を受け入れるしかありません。

 「私=自我」など「無力」な存在であったということです。生まれたことによって、偉大な尊厳が身についているとの確証を得ている人は多いのでしょうか。
 人と接し、家族や地域、社会の一員として育まれて教育の中で「尊厳」という意味が身に付いていくと思われます。

 無に消え入り、無へと消え去る方を選択したい。特別な己は「私=自我」を増長させるだけです。
求めることを少しずつ減らし気苦労を減らし、今に寛ぎ「一杯のお茶」でも飲んで外の景色を眺めてはどうだろう。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。



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「私」とは [仏道]

 「天上天下唯我独尊」について。「今この瞬間瞬間」に同時に生きている一切の「いのち」は、それぞれが全く異なる認識をしています。地球上だけでも何百兆の何乗の「いのち」が異なる認識をしています。

 「いのち」の内奥の実在は全く同じであり、宇宙そのものとともにあります。我々の「いのち」は宇宙の誕生からできた物資から成っています。この「いのち」は宇宙の中で消え去っています。宇宙の一部として宇宙を構成し、どの「いのち」も宇宙の中にあり宇宙そのものです。

 宇宙全体に存在している「いのち」がどれほどの数であったとしても、まったく同じ認識を持っていることはありません。内奥の実在と一体となっている時は同じような波動・振動であり同じと思われます。

 明日の朝、目を覚まして部屋を見渡してください。その部屋を見て感受している「あなた」は宇宙でただ一人、「己」だけの認識を感受しています。 もし、双子が同じ部屋で同じ対象を見ていたとしても異なる認識をすることでしょう。つまり、宇宙全体の中でたった一つの独自の認識をしている「いのち」なのです。

 「あなた」が感受したことは、感受した「そのまま」を「言葉」を使って他人に伝えることはできません。「言葉」には限界があり受け取っている「そのまま」を「言葉」にして伝えることは不可能です。それほど膨大な「情報」とともに存在しています。

 「言葉」を聞いて理解しようとしても、他人の感受を「そのまま」実感することはできません。生まれてからすべての瞬間瞬間、「あなた」だけの感受を受けて育ってきました。同じ哲学書を読んだとしても、同じ体験をしたとしても一人一人が異なる見解となることは明らかです。

 学べば学ぶほど、異なる認識が「知識」として積み重なります。学んで蓄積したとしても同じ境地になることなどあり得ません。残念ながら、学んでも学んでも「不足感・不満足」が解消されるわけではありません。かえって「知識」が増えれば増えるほど混乱していきます。混乱すれば「己」だけの固有の勝手な答えで混乱をおさめるだけです。誰もが同じ答えに行き着くには本源に戻るしかありません。
 「知識」・「観念」などを消し去り「単純・単一」にならなければ本源に出会うことはできないでしょう。

 鳥のさえずりは、同じ様に聞こえるはずです。しかし、同じ音として聞こえているはずですが、「受」としての認識、その認識に対する「反応」がそれぞれに異なります。
 「反応」が異なり混乱するのです。修行が進み「音」はただの「音」でしかない。「解釈」がなければ、だれもが同じ感受で完結するはずです。
 「解釈」は「自我」が瞬時に判別しているので「私」が聞いているように錯覚してしまいます。ただそこに「音」の波動が耳に感受されただけのことでしかありません。「音」はすでに消え去っています。

 「あなた」は宇宙でただ1つの認識体であり、すべての瞬間で、他の認識体と異なった認識があります。瞬間瞬間ごとに、宇宙全体でそれぞれの認識体の異なる認識が存在しています。これほどの奇跡があるでしょうか。
 虫も、魚も、鳥も、あらゆる「いのち」が異なる認識で異なる生き方で異なる経験をしています。起こっていることは同じなのでただ「感受」して終わりにすればいいだけのことです。

 我々は「私=自我」という「概念」によって勝手に苦悩をつくり出しています。ありもしない「私=自我」が勝手に苦しみ、その「私=自我」が必死に解決しようと努めているのです。「自作自演」の「おふざけ」を演じているのです。いつまでこの「ダンス」を踊らなければならないのでしょうか。

 「私=自我」が存在して「認識」があるわけではありません。六処によって「触」があり「受」があって、自動的に瞬時に「認識」するだけです。
 ただ意識が向いて「ある音」を拾っただけ、意識が向いて「ある対象」が眼に入っただけです。「受」から「想」へと繋がらなければ認識体としての「ダンス」は起こりません。生命体の「いのち」の「反応」スイッチをONにしなければ実在と共にただあるだけです。「受」のままに放っておけば良いだけのことです。

 自他の分離によって、「時間=記憶」の概念が構築されると「私=自我」が生まれます。「自分のもの」という「概念」が出来上がると「記憶」しなくてはなりません。「記憶」したものの「特徴」が分からなければ「自分のもの」ということを主張できません。

 「記憶や記録」は「私=自我」を他人に証明するために必要なだけでしか価値を持ちません。「記憶」する必要が無ければ過去という「時間」などは要りません。あなた自身についての「記録」など何の意味もありません。他人に自己証明するために必要なだけです。
 自己証明するために、時計やバックや靴やファッションなど高価な品物でこれ見よがしに自己主張をしています。人は自分ファーストですから、自分ほど他人には興味ありません。一体他の存在があなたの所有物に興味があるのでしょうか。一番身近にいるペットの猫や犬でもあなたのファッションには一切興味はないようです。

 今この瞬間にあなたの「記憶や記録」が消失したとしてもあなたは死んだりしません。幸いなことに「私=自我」が消え去ってくれます。何者でもない「あなた=無我」、一切の過去を背負うことのない「自由」があります。

 特定の誰かとの繋がりが無くなる=全てと繋がることができるのです。そこには「過去」からの束縛がありません。所有という観念を放棄すると、私の所有物など一切ありません=所有物からの「自由」があります。「私の物」という執着心や保守すべきという神経質な義務や失う嘆きから「解放」されるのです。所有という概念が無くなれば、存在と一体であり、存在が我が物となります。無所有になれば、全てを所有することができます。

 「記憶」しようとすることで、「時間」の概念が生まれます。過去や未来と言う「今以外」に生きていると「私=自我」が必要となり「私、私のもの」という「観念」が起こります。
 霊長類の特色として、「社会」という枠組みの中で生きていることを知っているので「私」という居場所を確保しなくてはならないのです。社会の中で生きていくには、何らかの立場を主張する「私」という「概念」が非常に重要な意義をもってきます。

 「私」が考えているのではなく、「考えている」ことによって「私」という「概念」が生起します。「我思う故に我あり」から「我ありと思い込む故に我あり」と果てしいループにより「自我」が確立されます。
 あらゆる対象は勝手に作った「概念」であり、その概念を「言葉」にして「識別対象」として「記憶」しています。すべてを「概念化」して「己に対して善か悪か」の判断が出来上がっています。この「概念化」によって「私=自我」が作られました。

 肉体、感覚、思考、感情、認識などを通じて他と区別され、対象を認識する「本体」として「私=自我」という認識主体が存在しているはずです。

 全てはただの状況に応じたプロセスでしかありません。「私=自我」は「記憶」された「概念」を使って、「私=自我」が構築した「幻想=勝手に作られたそれ」に対し瞬時に判断しているスーパーコンピューターです。このスーパーコンピュータを凌駕する「思考=私=脳」は常に「執着と忌避」を判断して「私=脳」の決断に従って生きています。「私=自我」の判断を疑うことなく委ねているだけなのです。

 無常なる色(対象)に対しての自我の判断が「嘘」であると見抜いたのがお釈迦様です。縁によって起こり、消え去る現象。判断している「私=自我」も存在していない。夢の中にいて夢見ている人が覚めたのです。

 新しい問題がふりかかれば、新たな「概念」を構築し「言葉」を作り続ける。「己」の範疇になければ、「哲学」や「宗教」に解決のよりどころを求めます。限りない自己防衛と自己正当化と自己同一化の罠にはまっています。

 我々の問題解決方法が「概念=言葉」を「記憶」するということに依存していることに気づかなければなりません。この「私」が確固たる存在であるという「嘘の観念」から抜け出さなければなりません。「私=自我」が拠り所とし「思考」する主体である「私=自我」が、「私から目覚める」ことは難しいと思います。夢の中の自分がここは夢の世界であると気づかなければならないのです。

 魚を例にとると、魚が生きている「海中=当たり前=固定観念」を一度「破壊」しなくてはなりません。海中にいる魚は「当たり前」すぎて、己が海中にいることを知りません。
 「苦」「空」「道」「虚」「法」「無」などの言葉を使って「観念」を破壊し、海中にいる魚を陸に揚げ、海中以外の世界があり、海中の「己」を観る必要があります。

 海中は魚にとって「あたり前」の世界です。海中で泳いでいる魚と同じように、我々は小さい時から親の「観念」を押し付けられ、それが「当たり前」である世界として洗脳されてきました。また、自我によって、自らの経験で「私」というあやふやな「概念」をこつこつ作ってきました。

 自らが作った「」という「概念」を手放すのはむずかしいことです。「」を認めようが認めまいが「認識」は「認識」として有るだけです。「私」が呼吸しているのではなく、「私」が意図しなくても呼吸はただあり続けます。

 寝てる時に「私」はいるでしょうか。熟睡していて、蒲団ごと遠くに運ばれ湖の真ん中に放置されたとします。確固たる「私」がいるなら気づかなくてはなりません。
 「私」ではなく、感受のプロセスが働いていないだけのことです。つまり「私」ではなく、感受のプロセスが「私」という「概念」であると言えないでしょうか。


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壊苦性 [仏道]

正覚によりて(1) 南伝 相応部経部35-13  [阿含経典三巻 P24 増谷文雄著 筑摩書房]

 比丘たちよ、そのわたしに、やがて、このような思いが浮かんだのである。<すべて眼を縁として起こるところの楽しさと喜び、それが眼の味わいである。また、その眼がすべて無常かつ苦にして、移ろい変わるものであること、それが眼の禍いである。さらに、その眼における欲の貪りを離れ、欲の貪りを捨てること、それが眼からの脱出である。>

 比丘たちよ、しかるに、わたしは、そのように、これらの内なる六処の、味いを味いとして、禍いを禍いとして、また、脱出を脱出として、よく、あるがままに知るにいたった時、比丘たちよ、この時、わたしは、天神・悪魔・梵天の住む天界において、また、沙門・婆羅門・人天の住むこの世界において、最高の正等覚を現成したと自覚するにいたったのである。

 そして、わたしには智慧と直感とが生じた。<わたしの心解脱は確かである。これがわたしの迷いの生涯の最後であって、もはや、かかる迷いの生涯を繰返すことはないだろう>と」
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 執着はいかにして起こるか?それは眼に見ることを楽しみ、見ることに喜びを感じる。そのことが眼の味わいとして囚われる。しかし、見えるものは「無常」である。見える対象は、変化して消え去るので実体がない「空」であり「無」となる。
 他の対象に眼を移せば、さっきまで見ていたものはすっかり消え去っている。さきほどまで見ていた対象は眼に残っていません。眼自体は執着も記憶も言葉も概念も持ち合わせていません。見て認識して受となることで味わいが起こる。

 「見たい」ということは、禍であると認識し自覚しなくてはなりません。味わい楽しみの意思で見ることなく、ただ眼に対象が映っているだけで留めておく。
 見えるままに放っておく「思考」してはいけない。楽しんでいる「己」に気づき、「渇愛」になるとして喜ばない。惹き込まれたり、忌避してはいけません。眼自体は何も思わず何も判断していません。

 「あるがまま」に見えているだけ、それで完結しています。興奮したりがっかりしたり、感情や楽しみを起こさずただ見えたままそれだけ。特別なという見方をせず、「好き嫌い」の二元的な見方にならないように、見えているままに受け取ればいいだけです。
 聞く然り、匂い然り、味然り、感覚然り。音に善悪なし、匂いに善悪なし、味に善悪なし、感覚に善悪なし。

 すべては過ぎ去り消え去っています。きれいさっぱり消え去っていて、戻れないのです。
 ただ「記憶」や「郷愁」や「残念」や「悔しさ」などのさっきの「もう消え去った」ことに意見を立てて「苦」を自前で作り出しています。
 五感は一切の執着なく新たな「今この瞬間瞬間」の感受へと移り変わって「今この瞬間瞬間」を体験しているだけです。「今この瞬間瞬間」を見えるまま、聞こえるまま、感じるまま、味わえるままにどっぷりとただ在る、在り続ける。


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行苦性(5) [仏道]

 南伝 相応部経部22-48 [阿含経典二巻 P78 増谷文雄著 筑摩書房]

かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、比丘たちに告げて説きたもうた。
「比丘たちよ、わたしは、いま、汝らのために、人間を構成する五つの要素(五蘊)と、生に取著する五つの要素(五取蘊)を説こう。よく聞くがよい。
比丘たちよ、では、人間を構成する五つに要素とはなんであろうか。
比丘たちよ、あらゆる色(肉体)は、それが過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、あるいは、内外、精粗、勝劣、遠近の別をとわず、それらは、すべて名づけて色蘊 となす。

比丘たちよ、あらゆる受(感覚)は、・・・すべて名づけて受蘊となす。
比丘たちよ、あらゆる想(表象)は、・・・すべて名づけて想蘊となす。
比丘たちよ、あらゆる行(意志)は、・・・すべて名づけて行蘊となす。
比丘たちよ、あらゆる識(意識)は、・・・すべて名づけて識蘊となす。
比丘たちよ、これらを名づけて五蘊となすのである。

では、比丘たちよ、生に取著する五つの要素とはなんであろうか。
比丘たちよ、あらゆる色(肉体)は、それが過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、あるいは、内外、精粗、勝劣、遠近の別をとわず、それらは、すべて、人の心を酔わせるものであり、生に取著するものである。かくて、それらは、すべて名づけて色取蘊 となす。
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<五蘊盛苦>
五蘊とは物質と精神の諸要素と言われています。
色:肉体
受:感受して苦楽を感じる感覚
想:イメージして心に浮かべる像(「りんご」という言葉で「りんご」が頭に作り出されます)
行:自らの意図を持った、意志・欲求・記憶、概念化
識:対象を識別(分別して振り分ける)して認識するします

 五蘊の時間的な対象に対しての囚われ、○年前・○年後の肉体(飛び跳ねていた身体、ストレスに苛まれていた身体、老いて横たわる身体)、○年前・○年後の感覚(苦労した、快感、おいしかった、楽しいだろうと期待する等)、○年前・○年後の想(昔はこうであった、こうありたいというイメージ、作ってみたい対象のイメージ等)、○年前・○年後の行(何かにアプローチしたい、ライフスタイル、人生哲学、理想像等)、○年前・○年後の識(過去のこだわり、瞬時での好き嫌い、嗜好、嫌悪等)、現在の五蘊。

内外:肉体であれば、内:眼で知覚できない内臓等、外:眼で確認できる身体の部分
受であれば、内(インプットされた感覚等)、外(外にある知覚対象 熱そう、凍えそう等)
精粗:肉体であれば、精(赤ちゃんのきめ細かい肌等)、粗(老いたざらざらの肌等)
勝劣:肉体であれば、勝(はがねのような肉体等)、劣(か弱い肉体等)
遠近:肉体であれば、遠(足先等)、近(顔や手等)

 この五蘊は、生に取著する五つの要素(五取蘊)となり、どちらにしても心を酔わせる。良いと思えば追っかけ、嫌だと思えば避けて逃れる。右に左に、上に下にと心が定まらないので、心を酔わせてしまう。酔えば「あるがまま」に見ることはできないでしょう。
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無常なるもの 南伝 相応部経部22-15[阿含経典二巻 P25 増谷文雄著 筑摩書房]
(略)
「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
 受(感覚)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
想(表象)は無常である。・・・
行(意志)は無常である。・・・
識(意識)は無常である。・・・
(略)
 比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、そのように観て、識を厭い離れる。厭い離るれば貪欲を離れる。貪欲を離るれば解脱する。解脱すれば、解脱したとの智が生じ、<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえ、もはや迷いの生を繰返すことはないであろう>と知るのである」
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 五蘊は「無常」であるから、いくら五蘊にしがみついても消え去る。消え去るので必ず失望する。「」「己」の計らいではどうしょうもできない。すべては制御できない「無我」なるものである。
 所有することもできない、身体も移ろい変わり「我」ではない。10年前の身体など、どこにもありません。
 わが本体にもあらず、本体として命じても「無常」によってきれいさっぱり消え去ってしまっています。

 「無常」であるからこそ、生きています。ちょっとの傷が、変化(良くなる)しないでそのままであったらどうなるでしょうか。変化は良くなることも悪くなることもあります。すべての変化が希望どおりに良くなるなら「苦」など存在しません。
 いつまでも「子供の身体、子供の知能、子供の心」のままなら進化を否定することになります。
 
 五蘊に囚われ、抱いたものに縛られることが「苦」であると認識しなければなりません。変化しつづける「あるがまま」に対して、あらゆることに対して自動的に「二元対立」していることで「苦」となるのではないでしょういか。

 こうありたいと思っていることは、現実の生活を基準として何割増しか数倍の生活水準でありたいと願っているのではないでしょうか。こうありたいとばかり願わず、この生活はすでに「天国」である。今ある現実をありがたくいただき、もったいなく思うことで、現状の何割減の生活で十分として生活するしょうにすれば「苦」と感じることもなくなってきます。「少欲知足

 病気になって「苦」を感じても、本来の「痛み」はこの2倍であるが、今味わっている「痛み」は半分の「痛み」で済んでいる。病気は病気したときでしか体験できない、病気をとことん味わってみようと考えてはどうでしょうか。全てをそのまま受け入れるしかありません。逃れる術などありません。
 
 我々は、「徳川家康」よりもいい生活をしているかもしれません。温かい炬燵に入り、スーパーに行けば地球の裏側の食べ物がいつでも手に入る。富士山からしか手に入らなかった氷が、冷蔵庫で何時でも手に入る。

 馬で何日もかかった土地へも、車だ新幹線だ飛行機だと好きな乗り物を使って行けるます。薪で何時間もかけて沸かしたお風呂が、ボタンを押せば「適温」でお湯を張ってくれます。
 数万円で、太平洋を見渡せる露天風呂に入り、船盛りの御馳走が頂ける。天下を取った殿様以上です。家臣の反乱に気を遣うこともありません。毒を気にして食事することもありません。
 家康も羨む生活を送っているのに、不満が尽きないのはどうしてでしょう。頭が働きすぎるのです、瞬時の「判断」をすることで「己」を苦しめています。好悪や善悪は、勝手に作り上げた幻想です。

 「塩」はしょっぱくないのです。「塩」という言葉はたんなる「概念」であって、「塩」という字をいくら見ても、文字を味わっても味などしません。「塩=しょっぱい」という「言葉=概念=記憶」という構図で、「塩」と聞いただけであなたの「脳内回路」が「反応」してしょっぱいという答えを出しただけです。英語を知らない子供に「salt」と言っても反応しないと思います。
 「言葉=概念」があるかぎり、二元対立は消えず「苦」を作り出しつづけることに気づかなくてはならないのではないでしょうか。


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行苦性(4) [仏道]

箭によりて 南伝 相応部経部36-6 [阿含経典三巻 P80 増谷文雄著 筑摩書房]

「比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。
 比丘たちよ、それは、たとえば、第一の箭をもって人を射て、さらに、また、第二の箭をもってその人を射るようなものである。比丘たちよ、そのようにすると、その人は、二つの箭の受を感ずるであろう。
 それとおなじように、比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。

 すなわち、苦なる受に触れられると、彼は、そこで瞋恚(いかり)を感ずる。苦なる受にたいして瞋恚を感ずると、眠れる瞋恚の素質が彼を捉える。また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。なぜであろうか。比丘たちよ、おろかなる凡夫は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方途を知らないからではないか。そして、欲楽を欣求(きんきゅう)すると、眠れる貪欲の素質が彼を捉える。彼は、また、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、あるいはまた、それからの脱出の仕方も、ほんとうには知ってはいない。それらのことをよく知らないからして、苦でもない楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えることとなる。

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<怨憎会苦>
 一般に使われる「愛」の反対語は「憎しみ」です。何かを「愛」すれば、愛ではない「憎しみ」が起こります。片方だけ存在することはできません。明かりや光があれば闇や影があります。得する人がいれば損する人がいます。
 本能で生きている「いのち」にとっては、「恐怖といらだち」を常に感受しています。六処により触があります。触が起こると受が起こります。

 各人が「満足」の条件(基準)を設けているので、その基準以下であれば怨む対象となります。「私の満足」を邪魔する対象はすべて「嫌いで忌避」すべきとの判断です。
 先輩が話をしているのに「スマホ」をいじっていることは、「基準」以下の後輩となり制裁を科すことになります。

 透けて見えるような紙の厚さしかない「価値判断」の上か下かで「愛憎」が判断されます。「己」の価値判断に適合しない、「姿かたち」「態度」「物言い」「音量」「臭い」「味覚」「空調」「湿度」「温度」「触感」「乗り心地」「サービス」・・・等の数えきれない対象があり「忌避」と判断を下します。
 これらは、「我がまま」がつくりだした全くの「私」だけの「どうでもよい価値判断」ではないでしょうか。他人には全く関係のない「己」が作り出した「価値判断」でしかありません。
  
 「いのち」の営みは、他人に知られることもありません。また、他人の「いのち」も知ることができません。天上天下(宇宙や三界)での唯我独尊である存在です。その唯我独尊である他人が、あなたの「価値判断」など知る由もありません。

 勝手な「価値判断」は、「己」で「己の首」を絞めているのではないでしょうか。「私」が作った「私の勝手な価値判断」から見ている対象となる「他」にはなんら責任はありません。勝手に「自分の価値判断」を「他」が判っていると思い込み「私の勝手な価値判断」を押し付けているだけです。

 人間の「いのち」の数だけ「価値判断」があります。勝手な「価値判断」に対して、いちいち忖度して生きる必要があるでしょうか。
 他人に、「己」の自己防衛や自己愛のために作った「勝手な価値判断」など押し付けていいものでしょうか。
 互いの「価値判断」を押し付け合っています。各人が「苦」を与える主体となっています。また同時に他から「苦」を受け取ってもいるのです。
 主体(他に「苦」を与える主体)であり客体(他から「苦」を与えられる対象)でもあります。

 あなたが嫌っている人(あなたから嫌われている人)は、あなたをあなた以上に嫌っているかもしれません。あなただけが嫌な思いをしているわけではありません。
 あなた自身も、あなたが嫌な思いをさせている人から見れば、客体(嫌いな対象)となってるかもしれません。

 あなたは一人で外界を見る「ひとつの価値判断」の所有者です。他の70億人は「70億の価値判断」であなたを見ているのです。見られている「私」などちっぽけ(1/70億)でしかないのです。



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行苦性(3) [仏道]

結縛(けつばく) 南伝 相応部経部12-53 [阿含経典一巻 P190 増谷文雄著 筑摩書房]
「比丘たちよ、繋縛(けばく)するものを、じっと味わいながら観ていると、その人には愛着の念がいやましてくる。その愛によって取がある、取によって有がある、有によって生がある。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以である。」
 燈火があって、油をそそぐ
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愛別離苦:仏道での「愛」は、「愛着」です。
 愛別離苦とは、執着する対象(物質だけではない)とは離れ離れになる(消え去る)ことになる。執着しても「己」のものにすることはできずに必ず消え去る。一時的な慰みとして存在するにすぎない。結局は消え去るので「苦」である。「渇愛」の大きさに比例して「苦」となる。
 我々の最も溺愛している「肉体」も「死」によって儚く別れを告げることになります。我々が大切にしている「観念」や「記憶」も、自ら作ったものです。
 「あるがまま」の世界であるのに「我がまま」の世界の中に「妄想」を作り出してしまいます。

 我々の「思考」を写真に撮ったらどうでしょうか、瞬間の景色を写真に撮れば一瞬を印画紙に再現できます。たとえば、川の流れを30秒ほど露出させて撮ってみると「霧」のようになっているのを見たことがあると思います。「思考」も30秒ほど経てば「霧」と同じです。「思考」は実体のない「霧」であり消え去るだけです。「記憶」も「実体」はなく、ただの「空」でありいつかは消え去ります。

 なぜ、これほど「知識」「概念」「記憶」「思考」に囚われているのでしょうか。「いのち」を守るために構築され、「己」コツコツと必死に作ってきました。せっかく「己」と一体となって生活を共にしてきたものであり、自分を消すのに抵抗があるように消せないのです。

 図書館の蔵書や雑誌の数を見てください、日々記憶に値しない情報が増え続けています。いったい何を知りたいのでしょう、書き手の方も何を伝えようとしているのでしょうか?
 どれほど長くどれほど深く探究しても答えが見つからないのです。明確な答えがないので作り続けざるを得ないのです。情報が増えれば増えるほど混沌としていくだけです。

 「情報」は増え続けるので「知識」で何かを得て達成することはありません。だれもが同じ「知識」を得て達成するのであれば、専門の大学で単位を取ればそれで「達成」です。

 情報を得ることで達成するのではありません。余計なものを「消し去って」根源にたどり着くのではないでしょうか。どんな大河であろうが「源流」があるはずです、「源流」を探し出すためには「遡る」ことです。遡るスタート地点を間違ったら「源流」へ遡ることはできません。
 「己」の中の「源泉」を見つけだすには、いらぬ「知識」「概念」「記憶」「思考」などの「こだわり」を捨て去ってはどうでしょうか。


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行苦性(2) [仏道]

分別 南伝 相応部経部12-2[阿含経典一巻 P91 増谷文雄著 筑摩書房]
比丘たちよ、では、無明(無智)とはなんであろうか。比丘たちよ、苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、および苦の滅尽にいたる道についての無智である。比丘たちよ、これを無明というのである。
 比丘たちよ、かくのごとくにして、無明によりて行がある。行によりて識がある。・・・これがこのすべての苦の集積のよりてなるところである。また、無明をあますところなく滅することによって行は滅する。行を滅することによって識は滅する。・・・これがこのすべての苦の集積のよりて滅するところである」

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 無明によって、行(意志のうごき)がある。一切が苦であることを知らない(無明)。因縁や業によって勝手に起こっている(諸法無我)ことなのに、「」が自らの「身・口・心(意)」を制御して生きていると勘違いしています。

 肩が凝るので手で揉むのは、「」が揉もうと意志を働かせて揉んだのか、それとも「」と感じて自然と手を持ってきて揉んだのでしょうか。もし「」がいるなら、肩が凝らないようにできるはずです。「私=肉体」なら、「私のもの=肉体」であるはずなので思い通りにできて当然なはずです。
 
 肉体そのものは、重力に逆らい老化に苛まれながら常に「」を受けているだけのことです。なんとか折り合いをつけて生きているだけの事。
 目は見えなくなり、耳は遠くなり、肌に艶はなくなり、歯ぐきは弱り、思うように身体は動かず、直ぐに息が上がる。わが身は「」であるにもかかわらず、徐々に衰えがきていることを認めながらも、老化のせいにし「己」を納得させて付き合っているだけのことです。思い通りにならない「肉体」は「私」ではありません。

 「己」が要求するすべては求不得苦です。「情報」、「知識」、「楽しみ」、「快楽」、「称賛」、「特別でありたい」、「他人より優れている」など、どんなに「求めても求めても」決して「満足できない己」がいるのです。
 正しく見れば、飽くことなく「」を作り続けている「愚かな己」であるだけのことです。
 TVを見て「他人の私生活」や「他人の交友関係」を「知って」どうなるのでしょう。ほとんど「知る」意味のないことです。不必要な「情報」を「記憶」することが「苦」となっていることを気づく必要があります。

 お金儲けや美食やその他の楽しみは「己」を幸せにすると思い込んでいるだけではないでしょうか。「執着」することで「妄想」となり「寂静」とはかけ離れた行いです。それは、一瞬でありの喜びでしかありません。この世に引き留める「我執」を満たしてくれるものでしかありません。世間の皆がやっているので、何の疑いもなく「自己正当化」しているにすぎません。

 「立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」で満足いかなければ、際限のない「欲望」に身を委ねることになります。日々悶々とする思いに支配され「」を見逃し続けることになるだけではないでしょうか。

 死の床で、「私は自由であったか、聖なる道に入ったか」と問うても遅いのです。「何かを求めつづける心」に、未来のどこかで「寂静」があるといえるでしょうか。
 「」の連続で未来ができてるのであって、今が途切れれば未来など存在しません。1時間後に出会っている「」は、未来ではなく1時間後の「」に出会っているだけです。

 これで満足ということがないので、戦争や略奪、破壊が繰り返されます。何か物足りない「いらだち」が、欲望を駆り立て「チャレンジ」すます。しかし、死によって根こそぎ夢の如く打ち砕かれるので「必ず負け」が確定してます。
 最初から、必ず負ける勝負をしている「愚かさ」に気づかないのです。心の奥底では気づいていても、欲望を満たそうとするのが「いのち」なのです。次の生ではもっとうまくできると頑張るけなげな「煩悩」の火種がなかなか消えないのです。

 もうそんなに騒ぎ立てる歳でもないでしょうにと見透かされています。「一期一会」を理解し、残された時間を「無駄な思考」で満たすことなく、「今この瞬間」に生きる時間を設けてはいかがでしょうか。

(勝手な造語)「一息一会」:今の一呼吸は、この世の人生でこの一息かぎりである。自らを救えるのは自らだけなのです。既に救われているのに探している、何もかも脱ぎ捨ててしまえば「それ」はいつもそこにあった。
 「悟り」は「差とり:差を取り去る」、「あるがままの世界」と勝手に作っている「妄想の世界」との間にある「無明(苦集滅道を実践できないで苦しんでいる)」を取り去る。

 まさに、「」を作ってもがき苦しんでいる「己」から「」を理解して「」を取り去ることにほかならない。「一息一命」「一息一心」「一息無為」「一息寂静」

 天上天下唯我独尊について、辞書では「自己ほど尊い存在は無い」とあります。

(勝手な見解)天上天下唯我独尊である「私」は誰にも犯されず、誰にも直接変化させられない「己」である。「己」でしか「己」を変えることはできない。誰かが、誰かを直接に成就させるなどということは人類史上できたためしはなかったし、今後も誰も出来はしない。あなたが寝ている間に、「誰かによってあなたが変えられた」など起こりません。お釈迦様でも、「月をさす指」の役割しかできません。

 自らが尊いというのではなく、他の力によって変化させることなどできない「金剛の如き我」が存在している。勝手にあなたの「頭」を書き換えることなどできないということです。
 ヒマラヤでも宇宙のどこかに行ったとしても、そこに見出すのは必ず「己」でしかありません。宇宙の果てに行っても「己」。宇宙の全てを知っても「己」は金剛の如く変化しません。「神」も「あなた」には手出しができないことになっているのです。そもそも「他人を変えよう」など大それたことが出来なくなっているのが「宇宙の法則」ではないでしょうか。

 もし、「悩み苦しんでいる人」に対して「私(=神)の力で助けてあげよう」「私(=神)ならあなたを変えてあげる」という人がいたなら「ペテン師」と疑ってからでも遅くはないでしょう。私は「月をさす指」でしかありませんと言われれば救われる。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
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行苦性(1) [仏道]

一切 南伝 相応部経部35-23)[阿含経典三巻 P31 増谷文雄著 筑摩書房] 
一切」として阿含経に、
「比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。比丘たちよ、これを名づけて一切というのである。
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 無常(迷いの世界)とは常住(悟りの世界、生滅・変化なく永遠に存在すること。)と対比される。無常とは生成消滅ということであり、留まらず流れ続けていることである。

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無常なるもの 南伝 相応部経部22-15)[阿含経典二巻 P25 増谷文雄著 筑摩書房]

かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊は諸々の比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。「大徳よ」と、彼ら比丘たちは答えた。世尊はこのように説きたもうた。
 「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
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 行苦性とは、生老病死、求不得苦、愛別離苦、五蘊盛苦、怨憎会苦などの「一切の無常転変」によって起こる「」です。「一切」とは、人間が感知できる対象と感覚・感触・思考・観念・意識などです。行苦性は、生きていること全てが「」であるとおしゃっているのです。
 阿含経には「無常なるものは苦である」と繰り返し繰り返し出てきます。

「求不得苦」について考察してみます。
 追い求めるものはついには得ることが叶わない。たとえ得たとしても、求めた時の状態と手に入れた時の状態は「異なる」、得たとしても「求めた時」とは異なる対象である。(変化している:無常
 求めることが無くなれば、「」ではないということです。

 例えば、食べ物を食べた(得た)瞬間に口に入り(噛んでいるうちにどんどん消え去っていく)、得たと思った瞬間に食べ物は口の中で変化してしまい、求めたものは(そのままの形として)得てないと同じこと。(無常なるがゆえに「空」となって消え去ってしまいます)

 旅行という「楽しみ」について考察してみます。旅行という「楽しみ」は、旅行している時間経過とともに旅行という「楽しい体験」は次々に消え去っていきます。旅行が終われば、旅行という「楽しい体験」も終わってしまいます。旅行は旅行とともに逐一消滅して、得ては消え、得ては消えいってしまっています。
 残っているのはただの「思い出という記憶」だけでしかないのです。
 あながた食べてきたものは全て消え去っています。旅行の楽しさも消え去っています。求めて得たものは、直ぐに消え去る運命なのです。

 家を新築したとしても、住んだ瞬間に中古住宅となり新築の家など存在していません。
新車を購入しても、一度乗った瞬間に中古車になります。買う時のワクワク感はもうありません。すぐにこんなものかと慣れてしまい、得た時の新鮮さがなくなり、求めて得た物とは異なり「」となります。際限なく得ても、際限なく消え去っていくので「」でしかありません。

 他のあらゆる対象について考察しても同じです。
 売る方は買って欲しいので、常にニューモデルやニュースタイルを出してきます。今年の流行とは、来年になったら廃れるものです。新しいものを求めるとは、廃れる「ゴミ」を常に追い求めるのと同ではないでしょうか。翌年には、古着屋で1/10以下の評価となるだけです。

 歴史的新事実とか、物理、化学、医学、生物学、歴史などあらゆる分野で、今までの常識を覆す「新発見」です、ということを聞いたことがあるかと思います。覆るまでは「真実」であったのです。しかし、「新事実が発見」された時点では、以前の常識が「」であったということです。滑稽にも、発見されたと発表されるまで「」を有難くいただいていたことになります。

 このように今の常識も「」かもしれないのです。だれも「間違いでした」と謝る人などいません。常識が変わることが「何事もなかった」かのように「蛙のつらに小便」「馬の耳に念仏」と同じように、誰もが平気でスルーしています。
 常識が覆ることに何らの驚きもなく、謝る人もいません。新しい真実が出るまでの「仮説」でしかないのです。すべてが「仮説」だらけ、我々が出会っているのは最新の「仮説」です。
 現在の「仮説」について、誰も真剣に信じていないし、誰も責任を感じていないのは真剣に理解していない証拠です。

 「筏の喩」をご存じのように、仏典も「方便」であり最後には捨て去らなければなりません。「知識」はすべて「ゴミ」と気づくところまで進まなければなりません。仏典は確認するために使えばよいのです。このブログの内容も「ゴミ」であったと了知できれば幸いです。

 今まで、知りえたことは「己の見解」に合致したことでしかありません。真理を他人の智慧や知識に尋ねても参考になるだけです。
 話を聞いただけでは「己の体験との合致」を確認するだけです。「己」が「愚か」であったとの自覚があれば進歩したと確認することができます。「冷暖自知」なる体験のみが真実です。

 「仏道をならふというふは、自己をならふなり。」とあるように、覚者を尋ねるよりも「己」に問うて答えを見つける必要があります。「無限の愛」や「ワンネス」などの魅力的な耳触りのよい言葉に踊どらされずに進みたいものです。「己」を「愚か」と自覚するどころか、「己」を「称賛」しているようでは自我のトラップに自ら飛び込むようなものではないでしょうか。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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苦々性 [仏道]

苦 南伝 相応部経部38-14  [阿含経典三巻 P107 増谷文雄著 筑摩書房]
「友よ、これらの三つが苦である。すなわち、苦々性・行苦性・壊苦性である。友よ、これらの三つが苦である」
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苦々性:肉体的苦痛に原因する苦
行苦性:一切の無常転変なるによりて生ずる苦である。生・老・病・死。
壊苦性:楽境の壊するによりて生ずる苦である。
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 我々が「いのち」としての役割(いのちの継承)を終えたらどうでしょう。本能のままにただ生きているだけです。食べて、動いて、寝て、目覚めて、日々が過ぎていくだけです。老いて死ぬまで同じような生活が続くのです。
 人生に意味づけなど必要あるでしょうか。「私」の生きた証を残しても誰も興味ありません。各人は各人の「私自身」に最も興味があるのであって他人には興味はありません。たとえ他人から興味を持たれたとして、「己」が救われるのでしょうか。

 仏道の基本は「」をよく理解することから始まります。「」の反対は「平安・寂滅」でしょう。精神的にも肉体的にも経済的にも社会的にも「満たされている人」にとっては、仏道を修行する人の気が知れないと思っているでしょうか。もう十分なほど「恵まれている人」でも物質を追い求め続けます。物質世界に視点があれば、満たされることが無いのだという証拠です。限りない欲望があり、これで良いということがありません。頭の中は混乱と葛藤でいつもいっぱいであり、落ち着くことがあるのでしょうか。

 この世的に恵まれたとしても、豊臣秀吉やアラブの王であれ「四苦八苦」から逃れることはできません。いつかは、「」と正面から向き合わなければならないことになっています。

 この世の中で生きていく過程で「うんざり」するほど「」を味わうことになっているのです。「」と感じれば自ずと「滅」へと向かわざるを得ないのです。
 幸いにも、この世で「」を味わうことができ仏道に出会えたならば、「禍を転じて福と為す」として「」を理解しましょう。

 阿含経では、「」は肉体的な「」と無常によって生じる「」と楽が消失して「」となる三つの「」があるとあります。

 地球上の人間である限りお釈迦様であったとしても、肉体的な「」がなかったわけではありません。経典で書かれているようにお釈迦様は人間として経験したことにより、誰もが受ける「」があると提示しています。

 もし、肉体的な「」がなければ人間は正常に生きていけるでしょうか。あなたが「幼い子供」であり、「知識」や「症状」の判断ができない状況であると想像してみてください。「苦」を認識できないで、次のケースがあなたに起こったらどうでしょう。
 お腹の中が炎症を起こしている、腱や筋が切れた、靭帯を損傷した、転んで頭部を強く打った、自動車に接触して内臓が破裂した、大やけどした、高いところから飛び降りて骨折した、足が化膿している、体温が41度になっている、虫歯になっている、これらの痛みや異常を感知できなければ長くは生きられません。

 もし「赤ちゃん」が肉体的な「」を感じなければ、「泣いて」おかあさんに知らせることができずに「死」を迎えることでしょう。手が燃えていてるのに何も感じず、見ているだけならば焼死してしまいます。「肉体的な痛み」は危険から身を守るために必携の安全装置です。
 肉体的な「痛み」は、大きな病気の前兆を知らせてくれる警報装置なのです。

「いのち」ある人間は、体があるので「苦々性」から逃れることができません。「」を受け入れ「」を理解し、人生の残された時間を有意義に使い「聖なる流れ」に入ったと自覚できるようにしたいものです。


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いのち(7) [いのち]

 病気のほとんどが五臓六腑です。「脳」の病気も「血管や血液」の異常に由来するものです。血液の滞りや血液の凝固によって発症します。「脳」を正常に働かせるには「腸」を中心とした内臓系がいかに正常に機能しているかにかかっているのです。
 「脳」はとっさのときに交感神経を働かせ、身を守るために日夜働かされています。そのために、休息時間があたえられていますが、内臓系は日夜休みなく働いています。
 「脳」は「内臓」から摂取していただいた栄養を血管を通して供給していただき維持されているのです。、身体の一臓器であって、身体の「僕(しもべ)」かもしれません。「脳」は内臓系に作用できる範囲は小さいのに対し、内臓系から脳への関与は大きいのではないでしょうか。

 「脳」自体が血液を浄化したり、血液を造ったり、血液の流れを制御できるわけはありません。内臓からの指示を仲介して視床下部や延髄を経由して各器官に信号を渡しているだけではないでしょうか。内臓系は内臓の各器官がホルモンを分泌させて、精密な情報交換によって維持しています。「脳」はそれほど利口ではなく、生存のために危険な情報をすばやく察知し回避行動をすみやかにするために発達したまでの事ではないでしょうか。「脳」は、手足を巧みに動かすことで最も大切な「身体」を守ったり、「身体」に食料を提供するために活動させる役割を担っているだけだったはずです。

 「内臓」は各器官が分業して役割を果たしています。各器官に情報を伝える自律神経とホルモンがあります。それぞれの情報伝達スピードの違いで、その効果や持続時間にも相違があります。
 意志しないで、無意識的に働くのが脳幹(間脳・中脳・延髄)であり、内臓系神経と相互に情報交換することで、体内環境を維持しています。

 「脳」のみが主体となって身体を司っているわけではないと考えています。我々の身体の一つ一つの細胞は、まさに原初のマザーセルが息づいているはずです。細胞一つ一つが、原初のマザーセルから細胞分裂を繰り返し、それぞれの細胞が我々の意志とは無関係に、「いのち」の法則のとおりに活動しているだけではないでしょうか。
 それぞれの細胞は「生きたい」のです。その細胞の集合体である我が身は「生きたい」のだから生きる意味は、細胞そのものの本能です。細胞に対して一切の制御はできないのです。本能である「いのち」とは離れた、本能でない「脳」の「思考」によって「自我」が作り出す「負けないぞ諦めないぞ」という「意地」。煩悩を強める「無駄」なことは諦めることを試してはどうでしょうか。
身体の声に耳を傾け、自然の力に委ねることも時として大切なことです。

 「脳」が主であるという観念を拭い去り、「脳」を制御してやろうなどと考えず、坐禅により「脳」の活動を鎮め「脳」の呪縛から解放され、「内臓」が生き生きと機能してくれる生活を送る必要があるのではないでしょうか。

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衆生本来佛なり [仏道]

白隠禅師「坐禅和讃」の最初に
衆生本来佛なり  水と氷のごとくにて  水をはなれて氷なく
衆生の外に佛なし
衆生近きを不知(しらず)して
遠く求(もとむ)るはかなさよ
譬(たとへ)ば水の中に居て
渇(かつ)を叫(さけぶ)がごとくなり
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 歴代の禅師はことごとく、衆生(全人類)は本来「」であると言われます。
 あなた方(悟りの自覚のない人)は既に悟っているのにただ気づいていない(自覚がない)。自覚とは、自ら覚るということです。つまり、自覚がないとは、自ら覚っていないのです。要は「決着」がついていないだけのことかもしれません。
 自覚のない我々は、「煩悩具足の凡夫」である「」がどうして「」であろうかと納得がいかないのです。

 修行によって悟ったとの自覚も無く、日々悩みに振り回されている「煩悩具足の凡夫」である「」に対し、私は「佛」であると自ら宣言できないのです。
自問自答すれば「」が「」であると肯定することなど無理であるというのは至極当然のことです。
 
 修行によって自らの本性を見極め、たどり着いた果てに発見した「」は修行の必要のない「=」だったというだけのことです。本来はであるとは、何かを得て「」になるのではないということの教えであって、修行しなくても良いと言っているわけではないと思われます。自らを省みれば既に悟りの真っただ中にあったではないか、渇を叫ぶことも必要ない。一瞬たりとも悟りから離れたことなどなかったこの身であった。

 お釈迦様も「苦行」は意味がなかったとのことですが、求めるて得ることが「無意味」だということです。「得る行為ではなく気づく」だけのこと。どこかに行くとか、知識を得て悟るのではないのです。
 坐禅は「」の肉体をいじめる「苦行」ではなく、静かに「内観」するだけのことです。「」が「」である確認のための「道」であると思われます。

 覚醒した人の話の中で、“何の努力の必要もなくあなたは既に「神」です。”などと言って、自らを「神」と認めるだけでいいのです。何もせずともそのまま「神」ですよと、ことさらに強調される文面が散見されます。修行も「内観」もしないで「認めよ」というのは飛躍しすぎではないでしょうか。「内観」なくては決して自覚は得られないのではないでしょうか。

 混乱し悩んでいる「」の前に、お釈迦様が現前したとします。そしてお釈迦様が「あなたは既に悟っているです」と言っていただきました。煩悩具足の「」が“そうだお前(お釈迦様)と私は対等だ”と言い切れるでしょうか。

 「」自身に「そもそも私はである」と言い続けるだけで納得(決着)がいくのでしょうか?
 “私がであるなどとは嘘であり納得できない”と思っている「」が存在しているはずです。「内観」もせずに遊び回り、金の亡者であり、権力を求め、嘘や暴言を吐き生活している、他人を踏み台にして平気な人、この世に執着を持っている人、未来の事ばかり考えて悩み、過去の出来事にこだわり、酒浸りの人が、“私は本来佛であるから好きなことして大丈夫、菩薩様が救ってくれる”と安心立命な人生を送っていけるでしょうか。死ぬ間際で“「」は「」として死に切ることができた”と大往生できるでしょうか?

 「」は本来「」であり、物欲を満たして何が悪い。そう思い込んでしまっている人から見れば、真面目に修行している修行者こそ気が触れていることになります。
 ここにいる「」という「」であることは疑いの余地は無いとしても、心が煩悩に振り回され「」と一体にならず、心が二つであれば「」とは言えないのではないでしょうか。本性の「」と今の「」にずれが生じているのでは真の「」ではありません。二心なる「」など存在しないのです。

 何事にも執着していない、「ぶれ=二心」のない「今」に在ればそのまま「」なのではないでしょうか。坐禅中の無念無想はまさしく「」そのもの。思慮分別で生きていれば「」とは言い難い存在です。

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いのち(6) [いのち]

<哺乳類と人間>
「恐怖と不安」を感受しているのは六根の情報が入ってくる脳です。脳の働きは、瞬時の情報収集と瞬時の情報伝達を担っているだけです。ヒトと動物を区別する根本的な特色は言語の使用であるという説に疑問を挟む者はいない。つまり、あらゆる事柄や対象に特定の意味を与える能力である。「象徴化の機能」である。
 内臓神経系は泰然自若です。体内に入った食物を選別し、好ましくなければ吐きだすこともあります。各臓器の役割を完璧にこなして、血液を循環させ栄養を全身に送ることで身体を維持しています。脳の神経を作用させるのにも、薬を脳に直接投与するのではなく内臓系によって脳に働きかけているのです。
 初期人類の脳の大きさはゴリラ程度で、現在の人間の約3分の1にすぎない。脳の拡大は、手指などの運動機能や視覚などの感覚機能の発達、言語能力の獲得、精神活動の活発化などによると考えられます。火の使用による調理された食料により顎の使用が後退し、脳の増大に繋がったとみられています。
雌雄が生殖能力を喪失した後も生存し続けることも動物独特のものがあります。雄のカマキリは生殖行動が終われば雌カマキリに食べられます。陽炎は羽化して生殖すれば死んでしまいます。他の生物は生殖が終われば、お役御免です。
 コピーして次世代へと「いのち」を繋いだので、細胞の役割は終わっています。しかし、社会構築の働き手としての役割があります。また、文化の継承や知識や技術の継承のために生存しなくてはならなかったかもしれません。生物的役割は終焉していますが、社会的な役割が残っています。
 社会的な役割を終えたら、精神性の成長をしなくては意味がありません。会社を定年された方は、残された期間に仏道へと進み聖なる道へ入らなければならないのではないでしょうか。

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いのち(5) [いのち]

 「いのち」が生き続けるには、「己」の生存につながることは摂取(執着)し、損になることは排除(忌避)することです。

 爬虫類と哺乳類の違いはなんでしょうか。本能から自己の意志を表現できる感情の感覚と、記憶を得たことだと思われます。
 人間の脳は脳幹(爬虫類脳:本能・欲望)、大脳辺縁系(犬などの哺乳類脳:好き嫌い・記憶)、大脳新皮質(霊長類脳・知性)のようにどんどん継ぎ足された三層構造でできていると言われている。

 魚類、両生類、爬虫類では、脳幹が脳の大部分を占めている。脳幹は反射や、えさを取ったり交尾するといった本能的な行動をつかさどっている。
 魚類と両生類では、生きていくために必要な本能や感情をつかさどる「大脳辺縁系」のみである。
鳥類や哺乳類になると、小脳と大脳が大きくなる。特に大脳の新皮質が発達し、「感覚野」「運動野」といった新しい機能を持つようになる。霊長類では新皮質 がさらに発達して大きくなり、「連合野」が出現し、より高度な認知や行動ができるようになった。ヒトでは、新皮質が大脳皮質の90%以上を占めている。

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 ヒトから人間(ホモ・サピエンス)へは、腔腸動物からヒトへの進化の過程と同じように進化したと想像されます。(これからは勝手な仮定)
 南アフリカでのホモ・サピエンスは、腔腸動物のように生まれた地域で生活していました。次に、徐々に行動範囲を広げていきました。徐々に群れを形成していった。
 群れはよりよい生活環境を求め互いに争いが起こっていった。水場の近くの群れは、水場に集まる動物を捕獲することで食糧に苦労することはなかった。
 
 水場争奪戦は、新たな知能戦となった。その日に食べる食料だけで良かったので、時間をずらして食料確保が行われていた。効率的に食料調達するために、罠を作り出す群れも現れた。
 手を使うことで大脳への血流が急激に増えることにより大脳ネットワークが構築されていった。大脳が使われることにより手の器用さも向上していき、発明が加速される相乗効果が起こった。
 
 フロンティア精神を抱いた群れのリーダーのもと、新たな水場をもとめて、あらゆる方向に散らばっていったのである。ホモ・サピエンスは行く先々で交配を重ねることで多種のDNAの多様化を受け入れ、あらゆる環境に適応できるようになっていった。
 また、言葉によるコミュニケーションを駆使して効率的な狩りや、群れの統制ができていったと想像される。生命維持のための心配は顕著に少なくなってきていた。

 人間の人体と同じように分業ができ始め、狩り専門職、武器製造専門職、調理専門職などがでてきた。
また、非常に大事なポイントとして火を使うことによって、暖と他の動物からの防御、火による食料の調理、地中の炭水化物の調理ができるようになった。さらに他の動物から食料を守る知恵が発達した。食料の保存・保管ができるようになり未来への備えが可能となったと思われる。炭水化物を分解して、脳に必要なグルコースという糖分がさらに脳の進化を促すことができた。

 その日暮しから解放されるにしたがい、道具などの発明に時間を確保できるようになっていった。
自然に翻弄され「今」だけの「恐怖と不安」に対処すればよかった「いのち」が、未来と言う「時間」の概念を手に入れた。これが新しい「いのち」への転換点になっていった。この転換点から未来への「恐怖と不安」に苛まれることになってきたのではと勝手に想像しています。

 保管や簡易な保存ができるようになってくることで「所有」という「概念」が生まれ、それが強い所有欲の「執着」となった。「所有物」の争奪戦によって「瞋恚」という「概念」も生まれた。
 「言葉」とともに「概念」が作られ、ありもしない「恐怖と不安」が作られていったのではないでしょうか。

 草原、二足歩行、水場、塩分、手の使用、大脳の発達、火、保管・保存、分業、専門職、言葉、概念、時間、未来、所有欲、争奪、ストレスなどのキーワードでヒトから人間への進化を勝手に理解し納得すればいいと思われます。

 「いのち」としては食べたり食べられたりは、「当たり前」のことです。進化の過程で「執着」や「怒り」も「当たり前」のこと。自らの煩悩が「当たり前」であると「安心」することがスタート地点です。ホモ・サピエンスが「神」や「真理」の概念に出会うにはまだまだ先のこと。

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いのち(4) [いのち]

 7億年から5億年ほど前の腔腸動物(ヒドラやイソギンチャク)から脊椎動物と無脊椎動物にわかれたとの説があり、その一方の雄である脊椎動物の頂点が、われわれヒトであるのと同様に、もう一方の雄はすなわち無脊椎胴部の頂点、節足動物、つまり昆虫です。 

 腔腸動物とは、近くにある餌となるものを体内に取り入れ栄養として生きていた「いのち」です。動物は植物と異なり、生きるためにただ「食べる」必要があったのです。
 腸の役割は、必要なものを取り入れ、不要なものは排出することです。我々の行動は、瞬時に反応し「己」がほしいと感じたものに囚われ執着し、腔腸動物の触角の働きと同じように、危険なものから手を引くような反射的な反応をしているのです。

 動物の行動であり「いのち」の営みですからその行動には「善悪」などありません。「いのち」として「己」の命を守り(栄養摂取)少しでも長く生きて(危険回避)いくことなど当たり前のことです。

 動物の中で、脳や脊椎、心臓がない「いのち」はいますが、「」がない動物はいません。身体の中で最も古く、最も大切にしなければならない臓器は「」ではないでしょうか。
 「」からすべての内臓が分化し、内臓神経系として心肺内臓神経,腹部骨盤内臓神経,骨盤内臓神経の3つが作られていったようです。

 動物の中で動物性機能と植物性機能があります。動物性機能は運動や感覚が含まれ、植物性機能には栄養・成長・生殖などが含まれます。「」は消化器官ですので植物性機能です。
 人間の受精卵の胚発生の段階に動物極と植物極が認められます。これは、まさしく陰陽太極図を思い浮かべるほかありません。
 「腸」がつくられ、次に神経系がつくられていくのです。受精してからの進化は、魚類、両性類、爬虫類、哺乳類、ヒトとなって、この世に生まれ出でます。

 この数十億年の進化の過程を、10か月余りの間に体験してしまうのです。この地球上で数えきれない生死を繰り返した進化の最終形がヒトではないでしょうか。生物学的には、貪瞋痴の煩悩はなんら非難されることはありません。
 しかし、この「いのち」の飽くなき生存を「」と認識したのですから、「解決」しなくてはならないのです。もううんざりすると感じたのなら、この生の中で解決することです。次を期待すれば、また一からのスタートになるのです。(個人的な見解)

 頭(動物性機能)で納得するのではなく、身体(植物性機能)での納得が必要となります。頭で解ったではなく、腑に落ちる必要があるのです。腑とは内臓をしまいこむ部分の身体です。身体での理解がなければ真の理解とは言えないのではないでしょうか。頭だけの理解は、知識でことたりますが、身体での理解は体験が必要です。只管打座を何故勧めるかは言うまでもありません。(個人的な見解)

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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いのち(3) [いのち]

<何のために生きるか>
 「いのち」の根本単位である細胞は、生存のために己の消滅を脅かされることに対して「恐怖と不安」がプログラムされていると思われます。(勝手な想像)
 この「恐怖と不安」を解消するために、自らをコピーし増殖することで己そのものの「いのち」を繋いで生きつづけようと必死であると思います。(コピーされても「恐怖と不安」は消えない)

 いかなる細胞であろうとも、自ら積極的に死のうとする細胞があるでしょうか。役割を終えて死ぬだけの細胞はあります。(カエルになるときにはオタマジャクシの尾)。
 細胞の「いのち」はすぐに終わってしまいます。そのわずかの時間の「いのち」の細胞が集合することで生命となります。
 細胞の集合体が臓器を作り、臓器の集合体が身体を作り、神経を集合させ脳という集合体をつくり、各集合体の集合体が人の「いのち」となります。

 部分的に寿命がきたとしても、他の部分の細胞が「いのち」を維持させることができます。細胞の観点から見ると、人間の死は、プログラムされた①アポビオーシスと②ネクローシスに分けられます。
 人間は他の臓器が複合的に不全とならない限り、プログラムされた死と言われるアポビオーシス (細胞の寿命死)によって死にます。 神経細胞や心筋細胞などの非再生細胞心筋細胞の寿命が「いのち」の寿命そのものとなります。

 細胞が集まった「いのち」は「物」です。自ら動かずに太陽エネルギーを摂取できるのが「植物」です。直接に太陽エネルギーを摂取できず動き回り、間接的に太陽エネルギー摂取をしなければならない「動物」であると思われます。

 ヒトは、有機物のグルコースなどを細胞の中に取り込みます。そして、細胞の中で、その有機物から酸素と酵素を使って反応することでエネルギーを取り出します。細胞自体がエネルギー源そのものです。
 植物は、植物の細胞に含まれる葉緑体は、1細胞あたり数十個〜百個以上と言われています。
葉緑体は、チラコイドにおいて光合成を行うことによって光エネルギーを生体エネルギーに変換し、さらにそのエネルギー を利用して二酸化炭素から糖などの有機化合物を合成するということです。

 ヒトは食物と酸素の摂取によって「いのち」を維持しています。細胞と同じで次の世代に己の遺伝子を繋げばそれで役割は終わりです、お払い箱なのです。

 「何のために生きるか」の前に、どうして生まれてきたかですが、それは縁によって生まれてきて「いのち」の法則に従い生きているだけです。
 人間社会で言われているような、望んだものを得る「財産を得る」「権力を得る」「名誉を得る」のが目的でしょうか。それは、細胞レベルから猿レベルに進化しただけのことです。

 己の「執着」に振り回され、己を見失うことになります。細胞レベルで役割を果たしたのなら、「毒矢の喩」にあるように、どうでもよいことから手を引き「安心立命」となりましょう。
 世間での「評価を得ること」と己の「恐怖と不安の解消」のどちらを選べばよいのでしょうか。他の評価に揺さぶられる「自己満足」か、揺さぶられない「自己理解」かだけの問題です。

 現世への執着をかなぐり捨てることで「恐怖と不安」を払拭し、縁を消滅することが残された人生で歩む道ではないでしょうか。


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いのち(2) [いのち]

<いのちの多様化>
 原始細胞はメスしかおらず、その細胞のコピーで成り立っていた。しかし、変化する環境に適応するために遺伝子の半分を他の細胞に移し、その生き残った細胞と結合することにした。その戦略とは、様々な環境に適合できる細胞の多様化であった。目の前の環境に適応できる細胞だけが次の世代へと引き継がれることとなった。

 ヒトの染色体数は常染色体22対で44。性染色体2本です。合計46本あります。 性染色体は、女性はXX,男性はXY.人は約23000個の遺伝子と、30億の遺伝子情報があるとのことです。

 DNAの一致率は、ヒトとバナナでは50%、ヒトと犬では80%、ヒトとチンパンジーのDNAは99%一致しているとのこと。
 その一致とは、ヒトの25%のゲノムとチンパンジーの18%のゲノムを無視して、残りの部分だけの約24億の遺伝子情報を比較して出されたのが「人間とチンパンジーはDNAが99%一致している」という99%一致といわれています。

<ヒトとして生まれる>
 人間の受精は、約2~3億の精子の中で最初に卵子にたどり着いた強い精子だけが卵子の中に入ることが許されるのです。女性は一生の間で、360~400前後の排卵があります。
 両親から1人の子供だけ生まれたとするならば、2億(精子)分の1×380個(卵子)分の1 =7600億分の1の確率です。(受精して生まれる確率)
 
※男性が一生で1回の射精だけで受精した場合です。もし、毎週1回で年52回、20年とすると1040回の性交があり射精してただ1人だけ生まれたとすれば、約1000倍してもいいと思います。
 また、女性の主席卵胞も約1000個から1個となりますので、もう約1000倍してもいいと思います。
1000×1000=1×10^6=100万倍となります。

 1世代前の父母のどちらも存在している確率が7600億分の1ですから。父母とも存在している確率は、7600億+7600億=1兆5200億分の1です。
 今の世界において、父母が日本人として生まれた確率は、世界総人口が50憶、日本の人口が1億とすると、50分の1の確率です。
 日本人の父母から日本で生まれる確率は、
①1兆5200億×50=1.52×10^12×50=75×10^12です。(^はべき乗です)
 
 日本の中ので、同一県内で生まれた男女が結婚したと仮定してみましょう。生まれた県内の総人口を200万人として、男女比が1:1と仮定すると、男100万人、女100万人です。その中で結婚適齢期の人口割合が男女各20%とすれば、男20万人、女20万人の中の2人が結婚する確率は、
②20万×20万=2×10^5×2×10^5=4×10^10 400億分の1です。

よって、日本人で同じ県内の男女からこの世に生まれる確率は①×②
①(75×10^12)×②(4×10^10)=300×10^22 =3×10^25となります。
 3兆×1兆分の1の確率で生まれたことになります。これは、1世代前の父母から生まれる確率ですので、脈々とつづく陸から隔離された日本という国、その国で生まれて存在している日本人。
 日本人としてこの世に生まれ、さらに仏法に出会う確率は想像をはるかに超えた宇宙レベルの確率ではないでしょうか。

 また、身体の細胞は40兆近くあるといわれています。その細胞の分裂可能回数は50回程度と言われています。「今この瞬間」に持ち合わせている細胞構成は一瞬です。常に身体の中で細胞分裂が起こっています。この奇跡的な生を無駄にしていいのでしょうか。
 サハラ砂漠の中から特定の砂粒を見つけ出すような確率で生を受けて、この世に出現して外界を認識している己なのです。
 
 同じ体で、同じ場所で、同じ感受はこの瞬間瞬間でしか味わえません。それが「一期一会」なのではないでしょうか。瞬間は消えてはまた生起してすぐに消えています。心は常に生まれ変わっているので新鮮な驚きと共に「一期一会」の出会いが続いていくだけです。
 過去も未来も「無」であるのですが、「記憶」が「有」と言い張っているだけではないでしょうか。できればいくばくかでも智慧が開けるよう精進したいものです。


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いのち(1) [いのち]

 地球上の「いのち」は、46億年前に強い紫外線や放射線大気はほとんどが二酸化炭素であり酸素のない環境の中で生まれたという仮説があります。DNAを含み酸素を使わない原核生物と酸素を使う細菌との細胞内共生により、ミトコンドリアとDNAを核とする動物細胞となったとのことです。
 
 また、植物細胞はミトコンドリアと葉緑体とDNAを核とする細胞として分化したようです。動物と植物の違いは単に葉緑体の有無の違いです。直接太陽エネルギーから有機物をつくることのできる植物と直接太陽エネルギーを摂取できない動物とに分かれました。
 
 動物は、植物もしくは他の生物からエネルギーを取り入れることでグルコースを使い、呼吸することによってATPに蓄えADP+Pに変換して生命活動としています。

 シアノバクテリア(27億年前、初めて光合成をした生物、光合成によって酸素を作り出した、光と水と二酸化炭素、)によって、大気中に酸素ができた。
 「いのち」の出発点において細胞自身が外界との間を細胞膜で隔てていたのです。細胞レベルの段階から「己」と「外界」は分離したものであった。


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苦の滅尽について [仏道]

苦(阿含経 南伝 相応部経部12-43)[阿含経典一巻 P169 増谷文雄著 筑摩書房]
「かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊はもろもろの比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。
「比丘たちよ、わたしはいま汝らのために、苦の生起と、苦の滅尽とを説こうと思う。汝らはそれを聞いて、よく考えてみるがよろしい。
(略)
比丘たちよ、では、苦の滅尽とは、どのようなことであろうか。
眼と色によって眼識が生じ、その三つのものが相合して触がある。触によって受がある。受によって愛あがる。しかるに、その愛をあますところなく滅することによって取の滅がある。取の滅によって有の滅がある。有の滅によって生の滅がある。生の滅によって老死・愁・悲・苦・憂・悩は滅する。かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以である。比丘たちよ、これが苦の滅尽である。
耳と声とによって耳識が生じ、・・・
鼻と香とによって鼻識が生じ、・・・
舌と味とによって舌識が生じ、・・・
身と触とによって身識が生じ、・・・
意と法とによって意識が生じ、その三つのものが相合して触がある。触によって受がある。受によって 愛がある。しかるに、その愛を余すところなく滅することによって取の滅がある。取の滅によって有の滅がある。有の滅によって生の滅がある。生の滅によって老死・愁・悲・苦・憂・悩は滅する。かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以である。比丘たちよ、これが苦の滅尽である。」

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 触によって受(感覚)となり、渇愛=「苦」となります。六処によって入力された情報に基づいて、あなたの中の「私」が対象を渇愛し欲することを願っても願っても、実際に手に入れたとしても手に入れた対象はいつか消え去ります。
 また、対象を手に入れたとしてもあなたが先に「死ぬ」ことで結局は所有することなどできません。
 この世で、王国を築き世界のすべての財宝を手にすることができる王になったとしても、「死」によってすべては夢の如く消え去ってしまいます。「露と落ち露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」(豊臣秀吉の辞世)

 受(感覚)として脳で認識し、「言葉と概念」に結びつくことで「苦」となります。
 どうして「苦」になるかというと、感受したものにいくら執着しても、対象はすべて「無常」なのです。「無常」なる故に「消え去る」ことは必然であり、得ることはできません。(求不得苦)
 また、「忌避」したとしても「嫌な思い」があるので「苦」となります。(怨憎会苦)
 結局、執着しても忌避しても、「あなた」の思いとは異なる結果(得ることもなく、嫌なことを忘れることもなく)となり「苦」で終わるのです。

 誰もが執着する対象に対して、「己」の勝手な思いを成し遂げたいと思っています。我々の身体から執着へ向かうベクトルか何かを成し遂げたいと向かうベクトルが出ていると想像してみてください。「あなた」の勝手な思いに同調し協力してくれる人がいるでしょうか。各人のベクトルはちょっとした状況の変化で、上下左右・東西南北など至る方向にずれてしまいます。
 あなたの現世での希望を叶えたいなら、「お金」を払って無理にでも協力を得るしかありません。

 次から次へと認識は変化し、ついさっきまでの感受は「記憶」の中でだけしか存在していません。先ほどの現象は、すでに消え去っていますので「無」となっています。記憶の中にあるのは実体のない「空」です。
 感受はすでに過ぎ去り消え去っていることなので「空・無」です。「今の瞬間」の感受に囚われ、その感受ごとに解決することなど不可能なのです。感受になにかしようなどという所詮無理なことを「願い」生きているのです。もう手遅れの消え去っているいることに囚われて「苦」としています。

 感受したことにを起こさずに「囚われずに、放っておく」ことにより「苦」として生起させない。認識を思考と言葉と記憶によって頭の中で創りだし(すでに過去のものであり実体は無い)、わざわざ「苦」を創りだして「己」の首を絞めています。このことに気づけば「苦」と成さずに「感受」をあるがままに観察できると思います。観察だけに留め、判断や思慮しないことが智慧なのです。
 すべては完全なのに、何か意味があるとか、起こったことに何かをしなければならない。というのが「自我」なのです。「あるがまま」をすべて受け入れているところに「苦」など起こりようがありません。「あるがまま」が不完全だと決めつける心こそ不完全だと言えるのです。
 
 「あなた」と「覚者」が同じベンチに腰かけて、同じ状況でいるのに一体何が異なるのでしょうか。一方は「妄想」で頭が一杯になっていて落ち着かない、一方は「寂静」を楽しんでいる。
 「あるがまま」の状況を完全として受け取っているか、「あるがまま」と一体となることができず、「妄想」を起こしているかの違いだけです。存在に全幅の信頼を置いているか、存在を疑っているかの違いです。

 また、「自我」のフィルター(貪り・怒り・無知)によってどうでもよい思考に惑わされ「あるがまま」から離れた妄想の中にいるのが「あなた」、「自我」が消え「無我」なる状態の無思考で「あるがまま」のなかで「あるがまま」と全面的に一体になっているかの違いです。

 目の前で起こっていることは、起こるままにしておけばよいのです。「今この瞬間」に対しては再現もできなければ思い通りにもいかないのです。
 「今この瞬間」は変えることはできないし、何が起こるかも分からないので従うべき「真正・神聖」があります。

 感受しただけで終わらせればいいのに、分別という「思考」に受け渡すことで「迷い=面倒=苦」が起こってくるのです。これは「自我」が芽生えたころからの習慣であり、「当たり前」となっていて「疑問」と思わずにいます。
 「観察」していなければ、この隙間を見破ることは困難となります。「己」自身で「体験」しなくてはなりません。
 脳内で起こっている認識の処理スピードは凄まじい速さです。何の疑いも生まれず、気づかぬままに脳内で瞬時に分別して白黒をつけているのです。脳内で起こっている処理過程を正確に捉えなくては「苦」の対処はできません。

 肉体的な「痛み」は、病気の進行を教えてくれます。「痛み」がなく、末期となり「準備」もなく突然の「死」を迎えたらどうでしょう。そのほうがいいと言う人もいるでしょうが、「死ぬ」前に相続やら身の回りのことや心の準備があれば「死」を迎えることにとまどいがないと思われます。いつ死ぬかは誰にもわかりませんが、「痛み」がなければ「病死」とは言わず「突然死」です。
 また、「痛み」によって「健康」の有難さを再認識することもできます。「痛み」と折り合いをつけ、恐れることなく「痛み」も歓迎してはどうでしょうか。

 「痛み」がある時は「痛み」をこの身で精一杯味わいつくしてはどうでしょうか。あの「痛み」の時にもっと「痛み」と正面から付き合っていればよかったと後悔のないくらい味わってみてはどうでしょうか。
「痛み」から学び成長しなくてはなりません。つらい思い出にするか克服され消え去ったこととするか、どちらを選びますか。

 誰よりも、この「痛み」を知っているのは「私」だ。この「痛み」の権威者であると胸を張るくらい、だだ「感受」するだけ、忌避も逃げも隠れもしなければ痛み」と一体となり痛みそのものになりきる。

 ただの身体の「痛み」であり、心と分離して存在しているだけ。心で認識すれば「苦痛」となります。苦痛となれば、まさに「苦」として攻撃してくるので、逃げる対象となります。その「痛み」が堪えられないほどの「痛み」となったときが逆にチャンスだとして受け入れるか、拒否するかが大きな分岐点です。

 「大死一番」=「身心脱落」=「他力本願」=「全てを手放す」=「解放」=「自由」=「投げ出す」など同じことだと思われます。一生懸命しがみついていた「己」の本体の真実を確認することができると思います。何もかも思考が必要のない「今この瞬間」に居続けられるチャンスでもあります。 頭の中がただ「痛い」と感じているだけから、もう「私=肉体」など要りません。命を捧げますとなれば「大死一番」となる可能性があります。
 最初から「無」であった。「死する身心」が「捧げる我が身」か「本来の自己」であるかを確認すべきです。囚われは「己」が作り出した幻想であったと知るチャンスとして受け入れてはどうでしょうか。

 「苦」を認識できないと想像してみましょう。「苦」が体験できないなら、対極の「楽」の認識も「平安」の体験もできないでしょう。「苦」も「楽」もなければ「生きている」という実感がわいてこないでしょう。「生きる意味」の探究も起こらないかもしれません。
 「苦」を「苦」と認識していることは、すでに「智慧=気づき」がある証拠です。真の「凡夫」は「凡夫」であると思っていません。「煩悩具足の凡夫」と自覚できていることは、「智慧」によって分かったことです。


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