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苦の生起について [仏道]

苦(阿含経 南伝 相応部経部12-43)[阿含経典一巻 P169 増谷文雄著 筑摩書房]

「かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊はもろもろの比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。
比丘たちよ、わたしはいま汝らのために、苦の生起と、苦の滅尽とを説こうと思う。汝らはそれを聞いて、よく考えてみるがよろしい。
 比丘たちよ、まず、苦の生起とは、どのようなことであろうか。
眼と色(物象)とによって眼識が生じ、その三つが相合して触がある。触によって受(感覚)がある。受によって愛(渇愛)がある。比丘たちよ、これが苦の生起である。

耳と声とによって耳識が生じ、・・・

鼻と香とによって鼻識が生じ、・・・

舌と味とによって舌識が生じ、・・・

身と触とによって身識が生じ、・・・

 意と法とによって意識が生じ、その三つのものが相合して触がある。触によって受がある。受によって愛がある。比丘たちよ、これが苦の生起である。」

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 我々は、素粒子でつくられた肉体という物体に感覚器官を備えています。感覚器官を内なるものとすると、外にある、認識可能な①対象(色)があります。次に、五蘊(肉体と精神の動き)を経て感覚器である②六処によって感知します。次に、感知されたものに対して③識が生じます。①②③が相まって触(接触)したことで入力である受(感覚)になります。

 五蘊では、認識した瞬間に脳内で処理(イメージや記憶との照合)が行われます。あまりに速すぎて処理過程を追うことができないため、瞑想によって実体験するしかありません。(名色分離智)

 一切の感受は思い通りにならないのです。見たいものだけを見ることもできず、見たくないものを見ないこともできません。聞きたいことだけを聞くこともできず、聞きたくないことを聞かないこともできないのです。
 つまり、「あなた」の意志など一切関与できていないので「無我」なのです。起こってほしいことは起こらないし、起こらないでほしい事は起こるのです。「諸法」(あらゆる事象)が制御者など存在していない「無我」であると気づかなくてはなりません。

 次に意(思考)と法(観念)によって意識が生じ、これも出力である受(感覚)となります。次に、愛となるには、色(物)・声・香・味・触・法(観念)に対する欲望が起こります。この欲望が「渇愛」となります。「渇愛」は満たされることがないので、「苦」が生起するのです。

 仏道の修行をしなければ、「あなた」が意図しようが意図しまいが、すべてが「」へと収束していきます。どんなに抵抗しようが反論しようが、「」が起きているのです。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
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苦と楽について [仏道]

 息は吐いてから吸うのでしょうか、吸ってから吐くでしょうか。
息は吸ってから吐くようです。この世に誕生すると、赤ちゃんは肺呼吸を始めますので息を吸います。吸うことでこの世に生を受けたのです。死ぬときは、息を吐き切って死にます。
 この世では、吸う息が主体となり吐く息が決まります。吐き切らないで吸う方はいないと思います。深呼吸も吸うことが主であり、吐く息は吸った量に従い調整できます。

 吸う息が主であるように、楽よりも苦を主として観察しましょう。楽を先に求めるのではなく、苦を滅することを先に成せば自ずと楽となります。苦がまず先であり楽を主としない。
 苦がなければ楽を求める必要があるでしょうか?すでに寂静であれば、幸福をもとめる必要があるでしょうか?あるがままそのままのでOKなのです。

 智慧が現れたと言っても、現状を変化させるような超能力を得るのではありません。あるがままの中であるがままと共に在るだけのことです。(四智を調べてください)

 だれもが心の中で、様々な「」に遭遇していることに気づいています。我々の哺乳類脳では、常に何か楽しい事はないか探し回っています。仕事を一生懸命頑張って、ビールを飲もう。仕事を苦と認めて、楽で埋め合わせています。

 苦の大きさに応じて大きな楽を求めることに必死になっています。芸能界の一部の方には大きな苦があり、その苦を打ち消すために(プラスマイナスゼロ)大きな快楽をもとめるようになるのではないでしょうか。芸能界の一部の方は大変な苦のなかで生活されていると想像されます。

 楽でありつづけるなら、楽を求める必要はありません。一般社会生活において、楽でありつづけることはあるでしょうか。楽なシートに座り続けても、立ちたくなります。寝るのが楽なら寝続ければいいのですが、寝すぎても病気になります。楽といってもいつかは飽きてしまうのです。心の奥底では、常に満ち足りない不満がくすぶっています。

 美味しいものを食べても、食べ続けることはできません。食べ続けることも苦となるのです。すべては苦となるのが人生であると、お釈迦様は四諦を説かれました。
 修行のスタートは苦です。苦を楽によって帳消しにしないでください。苦をしっかりと理解し、世間から出離するよう修行の道に進み、預流となることを人生の目的にしましょう。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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阿含経での「五戒を犯す罪のおそれ」 [仏道]

五戒を犯す罪のおそれ(南伝 相応部経部12-41)[阿含経典一巻 P165 増谷文雄著 筑摩書房]
「長者よ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、よく五戒を犯す罪のおそれを鎮め、四つの預流支を身にそなえ、かつ、智慧をもって聖なる理法をよく見、よく理解した時には、もし彼が欲するならば、彼は彼自身を語って、つぎのように言明することができるであろう。
 すなわち、<わたしには、もはや地獄はない、畜生道も滅した、餓鬼道も滅した、堕ちてゆく処はない、悪道もない、破滅の道も無い。なんとなれば、わたしはすでに聖者の流れに入り、悪道に堕つることなき者であって、かならず正覚の終極にいたる者だからである>と。
では、五戒を犯す罪のおそれを鎮めるとは、どういうことあろうか。
 長者よ、生けるものの命をうばう者は、生けるものを殺すことによって、現在においても罪を犯したおそれを生じ、未来においても罪を犯したおそれを生じ、また、心のなかにおいても苦しみ・憂いを経験する。そのような殺生を断つことによって、この罪を犯したおそれは鎮められるのである。
 (略)
そのような偸盗を断つことによって、この罪を犯したおそれは鎮められるのである。
 (略)
そのような邪淫を断つことによって、この罪を犯したおそれは鎮められるのである。
 (略)
そのような妄語を断つことによって、この罪を犯したおそれは鎮めることができる。
 (略)
そのような飲酒を断つことによって、この罪を犯したおそれは鎮められるのである。
 (略)
 また、彼らは、聖者にふさわしい戒をその身に保っている。その戒は、壊れることなく、そこなわれることなく、純潔にして、汚点あることなく、彼に自由を保有せしめ、識者の称賛するところとなり、邪道に導くことなくして、定に資するところのものである。
 (略)
 長者よ、このように、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、よく五戒を犯す罪のおそれをしずめ、四つの預流支をその身にそなえ、かつ、智慧をもって聖なる理法をよく見、よく理解した時には、もし彼が欲するならば、彼は彼じしんを語って、つぎのように言明することができるであろう。すなわち、<わたしには、もはや地獄はない、畜生道も滅した、餓鬼道もなくなった。もはや堕ちてゆく処はない。悪道もない、破滅の道もない。なんとなれば、わたしはすでに聖者の流れに入り、悪道に堕つることなき者であって、かならず正覚の終極にいたる者だからである>と」
ーーーー

「五戒を犯す罪のおそれをしずめ」
戒とは「いましめ」のことであり、漢和辞典では武器を両手にしていましめるの意味です。やってはいけないことです。戒を守らなければ地獄・畜生・餓鬼へと堕ちていかなければなりません。堕ちるとは、くずれ落ちるということで生前の肉体は分解し業に適した世界に結実し、業果の苦しみを受けなければならないのです。

「心のなかにおいても苦しみ・憂いを経験する」:戒を身に保てなければ、心も「苦しみ」を経験し、記憶され何度も思い出され消えることはない。

「聖者にふさわしい戒」:戒を身に保つことが聖者である。戒を保てなければ聖者ではない。

「断つ」:戒を破った己を思い浮かべ、慚愧の念を起こし己の「愚かさ」を観る。
智慧によって戒を破ることができない己になる。戒を破ることなどできなくなる。

「定に資する」:戒を身に保つことで定(禅定)に資する。次に智慧が発現する。

「正覚の終極」:涅槃

 八正道の中では、戒と関連のあるものは、正語(妄語(嘘)・両舌(挑発)・悪口(罵詈雑言)・綺語(無駄話))、正業(殺生・偸盗・邪淫)、正命(不適当な言葉または行為で財物を得、生活を維持すること)の三つの実践となります。

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五戒について [仏道]

 真理のことば(ダンマパダ)中村元訳の中に
第1章 ひと組ずつ
 11.まことでないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではなしと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(マコト)に達しない。
第13章 世の中
 「178.大地の唯一の支配者となるよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(カイテイ)(預流果)のほうがすぐれている。」とあります。
 聖なる流れに入るには、世間の常識が全くの顛倒であるということを理解し、世間を是とする迷いが消え去るということです。世間が迷妄の世界であると解ります。
 
 この預流の前提となるのが、五戒を守ることです。五戒を守ることがなぜ必要なのか?
戒を守らないということは、爬虫類脳を統制できないまま勝手に働いてしまうということです。戒を守ることによって爬虫類脳の習性に従わなくなるのです。

 己の爬虫類脳をペットを扱うように手なづけるのです。安全で安心できる環境の中で暮らしている。この環境では本能を使わなくても良いのです。爬虫類脳を思うままに飼い馴らすのです。爬虫類脳が暴走し本能をあらわにする、怒りや、攻撃、色欲、妄想、錯誤、飲酒から遠ざかるのです。

1.不殺生戒 いかなる生き物も、故意に殺傷しない。
真理のことば(ダンマパダ)第10章 暴力
129.すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。
已が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

2.不偸盗戒 与えられていない物を、故意に我が物としない。
[スッタニパータ]
806.人が「これはがわがものである」と考える物、--それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。
3.不邪淫戒 不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない
[スッタニパータ]
817.かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。
4.不妄語戒 偽りの言葉を語らない。

5.不飲酒戒 アルコール類を飲まない。
[スッタニパータ]
106.「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たものをその度ごとに失う人がいる、──これは破滅への門である。」
264.悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、――これがこよなき幸せである。
 仏道では、「身口意」を清めなければ煩悩によって乱され落ち着くことができず、次のステップへと進むことはできません。


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タグ:仏教 涅槃
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「信じる」意味 [仏道]

 「信じる」とか「信じなさい」という言葉は、世間ではよく使われる言葉です。その本当の言葉の意味はどういうことでしょうか。「信じなさい=盲信」とは、「無知なままでいてください」と同じ意味ではないでしょうか。

 高さ100メートルの断崖絶壁から「神を信じて」・「自分を信じて」・「私を信じて」飛び降りてみてくださいと言われたらどうでしょうか。「神の力」・「信じる力」によって必ず助けてくれますよ、と言われて飛び降りる人がいったい何人いるでしょうか?
 実際には、誰も飛び降りようとしないと思います。それは、「無知ではなく結果がどうなるか明らかに知っている」からです。分からなくてもいいからとにかく「信じろ」と主張するのは、つまり、実証できず、ちゃんとした根拠がないからです。根拠があり実証でき、体験して分かっていればあえて「信じろ」とは言わず「何人も体験している」から大丈夫だと言えばいいだけの話です。

人間の作った「神」という概念について
 勝手に作り上げた概念である「絶対的な存在、全知全能の存在である神」を、長い年月をかけて磨きをかけ構築してきました。
 疑うことなど許されません。権力ある者が利用して「庶民」を「神」という概念で統率してきたのです。権力者は、「神」から認められた「王」であると、ものの見事に権威づけができていたのです。
 得体の知れない畏怖の対象である「神」に認められた「王」に逆らえば大変なことになると、洗脳するのはたやすいことだと想像がつくのではないでしょうか。
 権力者にとって、得体が知れず逆らったら罰を下してくれる「神」。権力者に都合のよい「神」をそうやすやすと手放すことがなかったと思われます。
 天動説では、「王国」に住む我々こそが「この世」の中心であり、我々の周りを太陽が回っているのだと主張していました。「自我」は、いつでも自己中心なのです。今でも、自国の世界地図の中心は自国ではないでしょうか。東の果ての国なのに日本の世界地図は日本が中心です。

 また、各家庭でも「神」を敬いなさいと子供の時から言われています。子供ですから何も疑わず従ってくれます。各家庭でも「神様」を祀り、お祈りをし、お供え物をささげます。その見返りとして、ちゃんとお守りを任せたと「神様」に見返りを要求しています。

 自分の「現世の欲」のために、毎日一生懸命にお供えや祈祷しても、人は老いて、病気になり、死んでしまいます。また、台風がくれば飛ばされ、大雨が降れば浸水し、火事になれば燃えてしまうのです。不摂生をして病気になったのに、「神」は何もしてくれなかったと陰口をたたくのですか?

 「神」はあまりにも当たり前に生活の一部となり、疑われる対象ではなくなっています。権力者により都合よく利用され、風習から習慣となり生活のいたるところに入り込み、なくてはならない有難いものとして確立されています。しかし、可愛そうな「神」は、人々にいいように「概念」を作り変えられ、ご都合主義で使いまわされているだけです。

 哲学者に注文すれば、あなたの希望どおりの「概念」である「神」を簡単に作り上げてくれます。また、作家や映画製作者にとっては「神」は最高の題材となるので感謝されているはずです。

 残念なことに「神」を人類の目の前にお披露目することは永遠にできません。もし、お披露目できれば、世界中の目が釘付けになるでしょう。「私」が抱いている「概念」と同じ「神」だろうか。
 お披露目が実現となれば賭けが始まり、賭け屋が眼の色や、髭はあるか、男か女か、肌の色や、服装や、身長や、体重など予想するかもしれません。しかし、「まばゆいばかりの存在」のままでいてほしいのでこの世には現れることはありませ。誰かが呼び出しお披露目させますと言えば、各人が構築した概念の「神」と違ったら大変です。

 世界各国の人が作り上げた「概念」だけの「神」は、目の色や肌の色や服装はどうでしょうか?似顔絵師に「神」を描いてもらったらどうなるでしょうか。女王蜂のような「神」でしょうか。雀のような「神」でしょうか。ゴキブリのような「神」でしょうか。黒髪で黒い目で髭を蓄えた「神」でしょうか。象と人間とライオンが合体したような「神」でしょうか。
 よくもまあ最強の「神」を作ったものだと感心するに違いありません。ドラゴンボールに出てくる「超人」のような「神」もいるかもしれません。

 我々の前頭葉にはあらゆるものを自由に作り出す想像力があるのです。しかし、記憶と経験したものを超えて作り出すことは困難なのです。宇宙人ですら、人間に似た姿になってしまいます。
 眼耳鼻舌身などの認識器官を持った「神」や「宇宙人」しか想像できないのです。

 「神」は、我々を見なくてはいけない、我々の言葉を聴かなくてはいけない、臭いを認識するはずだ、何かを食べているはずだ。という偏狭な思考によって作り上げられます。

 お供えをするのだから、感覚を感じる身体のようなものを持っているはずだ。「神」が快適に住みやすいように大きな建造物を創ろう。「神」は人間の食べるような粗雑な食事をするでしょうか。

 悲しいかな、人は人間の「概念」の枠を超えることができません。それに「神」は、言葉を理解して言葉で返答してくれるはずだと決めつけています。人間にとって、双方向に連絡ができて都合がよい、ありがたい「神」でなくては価値が無いからです。
 全知全能なら、とっくに「悪魔」を退治してくれればありがたいと思っている方も多いのではないでしょうか。なにも「悪」を懲らしめる「力」を誇示しなくても、わからないように1週間の間だけでも「悪」の根を消してくれないでしょうか。

 「悪魔」と「神」はどちらが先に「概念」として作られたのでしょうか?不幸があれば「誰か」のせいにしないとやっていけません。「まじめに生きている」のに、なんでこんなひどい目に遭うのか? だれかが、何かが悪さをしているに違いない。全部の「悪行」を引き受けてくれる寛容な「悪人」である「悪魔」が必要です。
 予期せぬ様々なことが「私」や「我々」に降りかかってくる。どうすれば救われるのか、「悪人」の反対の概念が必要です。そこで、「救いの神」が登場しなければならないのです。
 「泥棒」と「警察」どちらが先か、考えてみてください。「泥棒」がいなければ「警察」は必要でしょうか?「幸せ」に生活が送れていれば、「神」の出番はないのです。「悪魔」の方が先輩かもしれないのです。

 実証などできなくて結構、困ったことは「悪魔」のせいにすればすべて解決できます。「神」を「信じて」いくばくかの「恩」を売れば、お返しがあるはずだと勝手な「観念」を構築しているのです。
 己の努力を超えたところは、全部お任せするのです。悪ければ「悪魔」であり、善ければ「神様」のおかげです。余計な「心配」をしなくても日々の生活を楽に送れるのです。

 いったい頭の中で構築した「概念」である「神」を実際に見た人がいるのでしょうか?ただ「信じろ」と言う人は、私も「信じている=私も実証できない」からとにかく「信じれば」善い事があると言われても困ります。
 「神」は「奇跡」を起こせますと自信をもって説得しようとする人がいますが、実証できないものを「信じている」ことのほうが奇跡としか思えない人がほとんどだと思われます。

 「信じている人」の「概念」で作り上げた「神」は「他人に迷惑」をかけなければそれはそれで結構なのです。しかし、「信じる」という言葉の本当の意味を真剣に再考することも忘れてはいけません。体験もなしに「概念」に惑わされていては、はいつまでたっても真実を自知することはできません。

 仏道において心を清浄にしようと頑張っている人には、「神」は啓示などによって応援してくれることもありますが、己の欲のために「神」にお願いしても一時的なことでしかありません。心の清らかな人でなければ、どうして「神」が援助するでしょうか。よく考察してみましょう。

 仏道は「信じる」ことではなく、自ら学び自らの体験で確証を得ながら「疑い」を晴らしながら寂静となっていくのです。
「神様」を身近に感じるなら、霊的な成長を願わなくてはなりません。


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あなたが勝手につくった「この世」 [仏道]

 我々が思う(こうあってほしいと願う)「この世」は、各自の「自我」が持っている「概念」で勝手に妄想した世界です。自分の都合の良いように妄想して作っています。よって、いのち(自らが認識できる全てのいのち)の数だけ妄想の世界があるのです。

 たとえば、同じ本を読んでもらい400字詰めの原稿用紙1枚の読書感想文を書いてもらったとします。その読書感想文は十人十色であり、一字一句まったく同じ読書感想文などあり得ないと思われます。
 100万人に数を増やしたとしても、一字一句まったく同じ読書感想文はないと想像できるはずです。同じ本を読んでも、各読者の行間を読む能力や感想を書く表現力が異なるからです。

 また、日本人であるあなたの思い描く「富士山」を10号(530x410)のキャンパスに描いてください、と宿題を出されたとします。同じ画題であり、日本人なら誰でも知っている「富士山」です。この限定された「富士山」であっても、線の太さや稜線や季節感や色使いなど、全く同じに描かれた絵が存在しえないことも想像に難しくはありません。

 「富士山」と限定せずに、ただの「山」をB4の鉛筆で描いてくださいと言ってもしかりです。線の筆圧や線の太さやキャンパスでの描く位置や大きさや稜線が異なって描かれるのはなぜでしょうか?
 「山」だけ描くのではなく、「月」や「鳥」や「川」を書き加え「山」を際立たせて描く人もいるかもしれません。各自の思い描いた情景としての「山」が頭の中の「概念」として現前しているのです。つまり、各人の「山」の「概念」が見事に異なっているからなのです。

 「山」という言葉は、各自が頭の中で作り上げた勝手な「概念」からなる「山」として存在しているのです。会話の中で、二人の人が「山」と言っても全く異なる「山」が各自の頭の中にあるのです。

 「お金」と聞いても、日本人では「円」ですがアメリカ人は「ドル」なのです。また、500円玉は日本では500円で通用するのですが、外国ではただの「日本のコインか銅と亜鉛とニッケルでできた金属」です。日本だけで通用するものであり本質は金属でしかありません。
 100万円を持って、南米でもどこでもいいのですがその100万円を両替するところがないところでは、ただの印刷された紙切れでしかありません。焚火のために火をつけるのに都合がいいだけのただの紙切れです。

 本質は、ただの紙切れなのに、紙切れのために身を粉にして働いているのです。その、大事な大事な紙切れを賭け事や薬物や淫欲などにあっというまに使い果たしてしまうとはどういうことでしょう。少ない稼ぎでも少ないなりに、欲望に振り回されない清浄な生活の方を維持したほうがよいのではないでしょうか。

 時価数10億円の絵があったとしても、それは有名な画家が描いた世界に1枚しかない絵だから価値があるのであって、価値の判らない子供や欲のない大人からすればただの「絵」でしかありません。

 「勝義諦」から見れば、額の中に入っていて、様々な色の絵の具が適当に塗ってある布でしかありません。この世に価値あるものと見なしているのは人々が勝手に作り上げた妄想でしかないと気づくいていくのです。
 「この世」では、すべてが借り物であり仮物(一時的であり、消え去ってしまう)であるとの智慧が現れてくればよいのですが。「執着」しているかぎりすべてに何らかの価値があり執着の対象となります。

 「群盲象を評す」と言われるように、象の一部だけを触って感想を語り合っているかのごとく。各自が勝手に己の「概念」で作り上げた各自の「私の世界」で生きているからなのです。

 イソップ寓話に、「父親と二人の娘」という話があります。男には二人の娘があった。一人は、庭師と結婚し、もう一人は、煉瓦職人と結婚した。同じ雨が降ったとしても、庭師は草花に水がやれて喜び、煉瓦職人は瓦が乾かないで困ります。このように同じ雨でも受け取る人によって、「いい雨」と「悪い雨」と分かち、苦や楽に感じてしまうのです。

 「大きな波」は、サーファーにとってはわくわくするものでありますが、沿岸の漁師にとってはありがたくありません。「降雪」はスキーヤーにとってはありがたいのですが、老いた人にとっては除雪の苦労が増えることになります。要は、我々の生きている環境や気候などはどっちにころんでも苦や楽のどちらかを経験することになります。
 「自我」が勝手に“こうなってほしい”という思惑の世界に生きている限り、常に変化する環境に左右される「苦の世界」で生きていかなければなりません。
 
 「あるがままの世界」は、あなたの「希望や期待」など一切配慮しない世界です。環境を変化させている主体など存在しないのです。あなたを困らせようとする主体も存在しません。一切は「無我」の世界であり、その「どうにもならない世界」で生きていることを理解しなくてはなりません。

 では何故「あるがままの世界」を受容できないかというと、自分勝手な「自我」の働きによる「あがき」があるからです。
 「物質的なかたち(我)を厭うて離れ」とお釈迦様は表現されたことは、身口意のそれぞれを清浄にしなさい。これも各人の思いの一つであり、一つの表現です。

 智慧が現れると、己の「愚かさ」に気づいていきます。「愚かさ」に気づくと自然と笑いが起こります。何故今まで気づかなかったのか?「バカだった」と笑ってしまえばその「悩み」は消え去ります。
 つまり、己が「愚かであった」と気づいたなら少しずつ智慧が現れ「己の愚かさ」を笑い飛ばし、「悩み」が消え去って少しずつ清浄になっていくのです。
 他人が「悩み」を解決してくれるわけではないのです。「自灯明、法灯明」己の中に全ての答えがあるのです。

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解脱へ [仏道]

 原始仏典(中村元編)に、「物質的なかたち(我)を厭うて離れ、感受作用(六処による六識)を厭うて離れ、表象作用(想)、もろもろの形成作用(行)、識別作用(識)を厭うて離れる。厭うて離れるから、貪りから離れる。貪りから離れるから解脱する。解脱した時に、<わたしがすでに解脱した>と知るに至る。『生存はすでに尽きた。清らかな行いは修せられた。なすべきことはなされた。もはやこの世の生存を受けることはない』と確かに知るのである。」とあります。

 物質的なかたちとは、我なる身体である我が身です。まさに「私」そのものです。「私」は、常にどこかに不満をくすぶらせています。もっと良い生活、もっと快適に、もっと快楽を得たいと病的に追い求めているのが「私」です。

 この事実を素直に認めて、熟考してみましょう。今のわが身が「不憫で苦とともにある」と心の奥底で気づいているはずです。自我はじっとしていることができません。常に何かに駆り立てられています。今に留まることができなければ、今を把握することは困難です。そこで「今の私」を観察する瞑想が必要なのです。

 「」が旅行に行っても、美味しいものを食べても、美しい景色を堪能しても、ペットを飼ってみても、宝石を買っても、最新の電化製品を買っても、服を買っても、皆でお酒を飲んでも、映画を見ても、ニュースを見ても、コンサートにいっても、興奮するチャレンジをしてみても、プロジェクトを成功させても、イベントを成功させても、大金を手に入れても、権力者になっても、有名人になっても、世界の頂点に立っても、エリートといわれても、すべては無常であり一時的であり過ぎ去り消え去ってなくなります。
 賞賛もそのうち忘れ去られ、権力の座についても面倒が起こり疎ましい、常に誰かに監視されているように感じます。
 地位や権力を得ることで責任が増えれば自由がなくなり、制限された中での生活を送ることになります。

 望み通りに金持ちになったとして、塀に囲まれた邸宅に住んでいるようです。つきあう連中は世渡り上手であり、金で人を自由に動かせると考えている人が多くを占めます。
 意地汚く見栄っ張りで、人のあら探しやゴッシップを楽しんでいる下世話な人達との付き合いが増えてきます。また、持ち物で人を天秤に掛け、が欲で動かされていて苦しんでいることを認めようとはしません。かえって、欲を満たし楽しむのが人生だと決めつけているようです。

 我々はこの世に執着を断ち切れず、満たさることがないために、何回もこの世に生を受け続けるのです。

 1時間ごとに眠り、目ざめると想像してみてください。起きている1時間に「欲を満たして楽しんで生きていこう」と思っている人は、眠りから覚めても「欲を満たして楽しんで生きていこう」とこの世に執着していることは簡単に想像できます。それでは次に、1時間を1秒に短縮してみてください。1時間と同様に「欲を満たして楽しんで生きていこう」と執着が残ったままです。

 この世に執着している人が、今この瞬間に死んだとして、この世に執着のある人が目ざめた時にはまた、この世に生を受けることになると推測することは難しくはありません。逆に、この世に何ら執着がなければ行先は「空」もしくは「無」もしくは「本源」かもしれません。 
 
 「本来無一物」でこの世に生を受けたのですから、死ぬ時も一切持ってはいけないのです。しかし、この世に未練がありこの世という頭で作り上げた「あなたのこの世」に執着して、「あなたのこの世」でもっと色々なことができると信じ、いつになっても「空」である「あなたのこの世」に気づかないままでいるのです。
 「あなたのこの世」のものをいつまでも所有できると執着して、「あなたのこの世」ではなくリセットされた「まったく新しいこの世」に再生するのです。目の前にある物質を「色是色」として、また「空是空」としてはっきり認識できていないのです。

 今でも、目の前にある物質に手を触れることができているし、重さも感じるし、物質の感触も感じている。「私」の認識しているあらゆる存在に、なんの疑いもなく生きてきたし生きています。しかし、全ての物質を最小単位に分析してみてください。全ては素粒子です。本来は、全てに実体など無いのです。一時的に結実して機能しているだけです。縁がなくなれば分解し素粒子として拡散して「空」へと還元されます。

 宇宙ステーションから、肉眼で日本のどこかを歩いている「あなた」など認識できはしないのです。認識されなければ、「あなた」など「無」に等しいのです。

 「あなた」は確かに存在しています。それは、人間が勝手に地球と定義した惑星の”ある時間のある地点”に存在しているだけです。認識している人以外にとっては、「あなた」など「無」です。しかし、存在しているので「無」ではなく「空」です。
 「あなた」の存在が認識されれば「無」ではなく「空」なのです。

 身体はあなたを制約し、あなたの思いどおりには成らない厄介者なのです。この厄介者に大金をつぎ込み、高価な食べ物、高価な装飾品、高価な服、高価な化粧品、高価な靴、高価な時計、高価な住宅、高価な車、高価な乗り物、高価な宿など贅沢三昧の大盤振る舞いのオンパレードです。
 そのくせ、欲を満たしてくれる食べ物は、おいしいと感じてもあっという間にその味覚は消え去ってしまい、どんなに高級食材であっても汚物となり、糖尿病やら痛風やら高脂血症やら高血圧、心臓病、腎臓病などの原因となります。

 どんなに着飾っても、老いて皺だらけになり、関節は消耗し衰えは加速するばかり、どんなに大金を積んでも最後は死んで朽ち果てて焼却処分です。大金をつぎ込んだこの身体をほしがる人など誰一人いません。かえって忌み嫌われ疎ましい、汚れた物体でしかないのです。
 この身体の欲求に、いつまで騙され続けるのでしょうか?厭い離れなくてはなりません。
 
 では、どうすれば厭い離れられるでしょうか。身体の欲求に対して、いちいち反応せずに放っておくことです。お腹一杯に食べたいという欲求があれば、よく噛んでゆっくり食べればよいのです。要は欲を楽しんで、さらに欲に油を注いではいけないのです。 「今この瞬間」で精算し続け、一切の未練をなく「今この瞬間」の中に没入することです。何かは「概念・言葉」でできています。「概念・言葉」が執着を作り出します。
 執着を消し去り、もはやこの世の生存を受けることはないと体験するのが仏道なのです。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
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