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照見五蘊皆空ー7 [仏道]

 老齢になって何をしたらいいか分からないので、とりあえず「働くこと」で社会と繋がっていたい。孫ができれば気晴らしもできます。しかし、死期は遠ざかることはなく確実に歩を進めます。何を為すべきか、分からないままでも「働いていれば」勝手に時が進んでくれます。何をなすべきかも分からず過ごしていては虚しく時を過ごすことになります。

 寂静となり平安を体験すれば、何のために生まれた来たかが自ずと体験できます。誰も導いてはくれません。「己こそ己のよるべ」です。己に問えば己が答えそのものとなります。

 平和だけ存在することはない。生だけが存在するわけではない。静寂だけ存在することはない。喧騒だけ存在することはない。苦だけ存在することはない。怒りだけ存在することはない。憎しみだけ存在することはない。愛(一般世間での愛)だけ存在することはない。迷いだけ存在することはない。悟りだけ存在することはない。

 宇宙に存在するあらゆるものは、対極と共に存在する。あらゆる「概念」も相反するものと混じりあっている。すべては気づきのためのゲームであり、パラドックスなのです。

 闘争や戦争があるからこそ平和を実感できる。死があるので生を実感できる。喧騒があるので静寂が実感できる。「」があるので楽を実感できる。不幸があるので幸福を実感できる。貧乏があるので裕福を実感できる。病気があるので健康を実感する。怒りや忌避があるので平安を実感する。憎しみがあるので愛(一般世間での愛)を実感します。他方の「概念・感情」があるからこそ対極の「概念・感情」を実感することができます。

 二つは、二元対立でもあり混ざり合ってもいるのです。磁石と同じでどんなに細分化して結合して巨大化されようとも陰陽でありつづける。陰陽図では、陰の中に陽が僅かにあり、陽の中に陰が僅かにある。憎しみの中に僅かに愛(一般世間での愛)があり、愛(一般世間での愛)の中に僅かに憎しみがある。時として、憎しみは瞬時に愛(一般世間での愛)に変わり、愛(一般世間での愛)は瞬時に憎しみに変わる。可愛さ余って憎さ百倍。

 二つは同じだ。深い愛(一般世間での愛)には深い憎しみが潜んでいる。深い憎しみには深い愛(一般世間での愛)が潜んでいる。男の中に女が、女の中に男が内在している。我々は男と女が混じりあった存在である。男は女に成り得る。女は男になり得る。大きな一つの実在(宇宙)の中に小さな実在があり、小さな実在の中に大きな実在がある。

 すべてはパラドックス。得ようと思えば失う。失えば得る。逃げれば追いかけてくる、追いかければ逃げられる。探せば離れ、探さなければ訪れる。知れば知るほど混乱し、探究を止めれば探究は完成する。

 真実の愛は他者を必要としない、本源から沸き起こる愛である。他を愛しなさいとは己の内側から沸き起こる愛と同じく、無償であり見返りを求めない愛でなくてはなりません。一般世間での愛は取引であり見せかけの愛でしかありません。偽りのない本源から沸き起こる悦び、寂静には対極は無いそのままの悦び、そのままの寂静があるだけである。

 毒の中に薬が、薬の中に毒がある。毒は毒を制する。薬を大量に摂取すれば毒となる。
 不幸の中に幸せが、幸せの中に不幸が潜んでいる。不幸であれば少しの恵みが大きな幸せを運んでくれる。何不自由なく生きてきた人には少しの不幸で人生を棒に振ってしまう。

 悲しみの中に笑いが、笑いの中に悲しみがある。極限の悲しみを経験してしまうと、そもそも自分の努力では何もできないということを痛感する。最初から何も出来なかったと知るだけ。努力することの意味がなかったと理解できる。バカバカしい努力をあざ笑うしかない。笑わされている己は、何もしていない。何も出来ていない置き去りにされた「己」に、悲しみが襲って来ることもある。

 真理の中に嘘が、嘘の中に真理が潜んでいる。真理を探し求めて探し回っていること自体が嘘である。己の幻想でできた「この世」が嘘と理解し幻想を捨て去れば真理を観ることができるだろう。
 バカバカしさの中に真実が、真実の中にバカバカしさが潜んでいる。乾きの中に潤いが、潤いの中に渇きがある。

 夕暮れと夜の境界では明と暗が混ざり合っている。地球と宇宙の境界は既知と未知が混ざり合っている。人の世界と動物の世界は混ざり合っている。生と死は混ざり合っている。人と仏は混ざり合っている。

 迷いと悟りは混ざり合っている。思考から離れた時を観察していくと、雲間に広大な青空を垣間見ることがある。
 迷いがあるので悟りがある。迷いが消えれば悟りも消える。悟りは得たり獲得するものではない。得るものであったら皆が得ることができる。知識や観念であればだれでも得ることができる。マニュアル通りに動いたり覚えたりすればいいだけのこと。

 「いのち」は、生きている実感を味わいたいのだ。何もかも経験したい。憎しみも愛も、悪も善も、苦も楽も、戦争も平和も、混乱も平安も、若さも老いも、病気も健康も、生も死も、希望も絶望も、神も悪魔も、女も男も、すべての二元は設定事項。全てが混ざり合っているだけのこと。
 
 般若心経は「照見五蘊皆空」だけで十分だ。混ざり合ったものは区別できるものではない。どちらでもない囚われることなどできない「空」として観るほかありません。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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