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照見五蘊皆空ー6 [仏道]

趙州録 「庭前の柏樹子」
僧問う「いかなるかこれ祖師西来意」
師(趙州)いわく「庭前の柏樹子」
僧いわく「和尚、境(客観)をもって人に示すことなかれ」
師いわく「われ境をもって人に示さず」
僧いわく「いかなるかこれ祖師西来意」
師(趙州)いわく「庭前の柏樹子」
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 多様性は変化を如実に現前させている。全てが同一であれば変化など読み取れない。存在の一切が異なっています。あらゆる存在は、常に変化しそれぞれに時間の差異があり、形状の変化として現れています。これが諸行無常の現れではないでしょうか。
 変化を自ら選択でき、変化を実現できることが自由で平等です。均一なところには自由も平等もありません。それなりの変化ができることが平等です。変化を望んでも変化できなければ不平等となります。

 一切は自ずから変化しています。すべてには実体のある主体的な我など存在せずに、縁起によって繰り広げられています「諸法無我」。我々は実体のない迷妄の中にあり、迷妄の中で達成することなど何もありません。迷妄を迷妄として受け取り、迷妄を迷妄として見るよりほかありません。

 存在は、それぞれがそれぞれを表現して現前しているだけす。己も柏も同じ存在です。宇宙も柏も「今」と言う同じ時間を共有し、同じ宇宙の一部であり宇宙そのものとして宇宙に存在している。それぞれの存在のどこに違いがあるでしょうか。柏の有り様は自然の理にかなった生き方をしています。
 
 己と他と区別する意味などあろうか。無常の中で縁起によって、どこかに生まれその「いのち」をただ生きているだけのこと、形は異なっても宇宙創成から様々な変遷を経て今ここに同時に出現して、縁起によって生きているではないでしょうか。

 柏は迷ってはいない、時節に応じ育ち「いのち」の営みをただ生きているだけのこと。各存在が与えられた特色そのままに振る舞っているだけのことです。存在はことさらにこうしようとか、ああしようとかの計らいは一切ありません。柏は「己」と変わることなく生滅を繰り返し枝を伸ばし葉を茂らせ生きています。柏だけでなくすべての存在は、自然のサイクルの中で「特別」など一切ありません。

 宇宙の縮図は、今ここにあります。森羅万象の現れであり仏性そのものです。柏の有り様がまさに宇宙の有り様であり、存在の有り様です。一つを見て全てを知らねばいつになっても真実に出会うことは叶いません。
 全てを調べなければ真実が理解できないのなら、真実の理解は永遠に不可能です。砂漠の砂粒1粒を知れば砂漠全体を知ることになります。砂漠の砂粒すべてを調べ尽くす意味などあろうはずはありません。

 人は何でもかんでも知りたがる。一つを知ればそれで終わりにすればいいのに。己を知れば他人を知ることになる。己も他人も知ればすべての人を知ることになる。全てを知れば知る意味など無いことに気づく。
 全知とはすべて知っているので新たに知る必要がないので「不知」・「無知」です。全能とは全てができるので新たに何かをする必要が無いので「不能」・「無能」です。「全知全能」とは「不知不能」・「無知無能」であるとも言えます。実際、人間が都合よく作り上げた「概念」である「神」は、何もできず何もしてくれません。

 神は、人間の理解を超えた出来事を説明するための「概念」であり、無知な人々を脅し服従させるために「利用」していました。支配者のご都合主義で作られた最高の「概念」と言われても否定のしようがありません。皆を悩ませる「サタン」をほんの1週間だけでも休んでいてほしいと思っている人も多いようです。「サタン」も恐怖を植え付けるのに便利に使えるので大事にされています。

 己を知れば知るほど己の空や無を体験することになります。我々はただ感受しているだけの代物でしかありません。それもある期間限定(生まれて死ぬ間)だけの感受でしかないのです。求める必要などなく、求めて得たとしても水泡のごとく手にすることはできません。
 
 陽を浴びて風になびく枝は、一切を拒むことなく受け入れています。雨や雪が降ろうと「いのち」のまま、その場所に生えたからにはその場所で生きていく定めです。己の意志で生まれたわけでもなく、己の意志で死ぬことも叶わず。成すこともなく成されるのみ、存在の定めに従い生きるよりほかありません。柏が椿に成れるわけでもなし、柏は柏としてそのまま仏性の中で「いのち」の赴くまま生きていることに不思議はありません。

 人はあらぬ欲望をもち天下を求めたり繁栄を希求するが、そのまま生きているといえるのでしょうか。「価値判断」のハードルを上げることなど必要ありません。むしろ「価値判断」のハードルを消し去れ。瞬間瞬間がそのままであり、そのままをそのままとして受け取り続けています。
 柏は柏という名前などなくとも、観る人は柏として受け取らざるを得ません。柏という「観念」なしに見るべきであり、柏も柏として育つ必要もありません。ひとつの「いのち」として育つだけのこと。自己を自己として意識して育つ必要もありません。

 人馬一体となり、乗る人も無く乗られる馬もいません。観られる柏も無く、柏を観る己も無い。主体と客体の区別など無くなります。
 徹底的に思いを無くし計らいもなくし夢もなくし、無くも無くし、空っぽの「空」となるしかありません。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
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