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照見五蘊皆空ー5 [仏道]

[碧巌録]
ある僧が禾山(かさん)和尚に尋ねた。
 「悟りを本当に得るとは、どんなことですか」
 禾山は、ただこう答えた。
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「ならば、最高にありがたいものとは」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「もう少し変わった答え方をしたらどうなのか」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
 「私を若輩だと思って馬鹿にしているのか。もし、ここに慧能大師がおられたら、どんな答え方をされるのか」
 「太鼓を叩くと、ドンドン、ドドン」
―――

「悟りを得たら、どうなるのですか」
「太鼓を叩いた音が、ドンドン、ドドン」
自分で叩こうか、嫌いな人が叩こうが、好きな人が叩こうが、名演奏家が叩こうが、子供が叩こうが、山で叩こうが、高原で叩こうが、自宅で叩こうが、「己」にとってどのような人が、どのような場所で叩いたとしても、その太鼓が叩かれたままに叩かれた音としてそのままに聞こえるほかありません。ダイレクトに耳に届いた音の認識があるのみです。

 「音」はただの「音」であり感受された「音」でしかありません。「自我」が勝手に「想」として処理することで、好いとか悪いとか心地よいとか不愉快とか攻撃されているとか何かの合図だとか不吉だとか吉報だとか・・・・。まったく狂おしいほどの様々な「価値判断」によって「迷い」の世界にとどまることになります。
 
 道元禅師が、帰国したとき「眼横鼻直空手還郷」と言われました。
 「己」が勝手に描いた人物像はことごとく意味が無く、経典すら必要なかった。仏陀の三十二相八十種好などただ「神格化」しただけのこと、人はだれでも「眼横鼻直」であり「特別」など無かったのです。寂静である人であろうが、悩んでいる人であろうが見分けはつきません。外見が別人になるわけではありません。

 寂静であったとしても「特別」な生活を送るわけでもありません。光輝くこともありません。同じように食べて同じように排泄する「いのち」です。「老病死」が無くなるわけでもなし。「特別」な体験をするわけでもなし。「特別」な能力を身につけるわけでもありません。あらゆることを「特別」として見ることもなく知ることもありません。ありのままをありのままに受け取り、無意味な「想」から先に進みません。無意味なことに興味もなく、無意味なことをせず、無意味なことに囚われない、無意味なことは考えません。

 「自我」は、未来への恐怖を抱き、ちょっとでもいいから「楽」になることを欲しています。あらゆることを知り、「知識」と「概念化」したいのです。
 図書館にある本をすべて「記憶」したとして、「平安」になるでしょうか。それとも「混乱」するでしょうか。すべての作者は「己」が正しいという前提で本を書いています。本に書かれている真逆な概念を「記憶」し「知識」としていては、二元対立の世界から抜け出すことは困難です。

 子供にとっては「ピカソ」の絵を見ても、したり顔で評価したりしません。ありがたくも高額であるとの思いもありません。ただの油絵の具が布に塗ったものでしかありません。「特別」などありません。

 すべては「空」です。何かを測りたいということは、その行為や思い自体に「分別」をもちこんでいます。何センチだから多いとか少ないかその何センチで判断しています。雪の量を見ればそれで感じればそれでいいだけです。
 気温もそのまま感じるままを感じればいいだけです。カリフォルニアの温度が何度で湿度が何パーセントなど聞いても意味はありません。「冷暖自知」。

 「空」であるものを、機器を使って「己」の知識の範疇で知ることで「想」によって「分別」しています。目はカメラ、耳はスピーカー、味は塩分計、触は風速計・体温計・温度計・湿度計などや他のセンサー、本来「空」で見えない「対象」も機器によって知識としています。

 火星を知って何の意味があるのでしょうか。ヨーロッパの天気やヨーロッパの事件や出来事を知ってどうするのでしょうか。将来は、月に観測機器を設置して月の環境をお知らせするかもしれません。「知った」としても何もできないのです。月の温度を知って「悩み」が減るのか増えるのでしょうか。月の「今」と「己」の「今」のどちらを見なくてはならないのか。
 すべては「起こるように起こっている」だけです。「今」起こっている以外の事は、知ろうが知るまいがどうでもよいのです。手出しもできず制御もできないことを「知る」ことは、かえって「迷い」と「悩み」が増えるだけのことです。

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 「ならば、最高にありがたいものとは」
ありがたいのは、仏でも衆生でも同じように叩いたままに聞こえることです。

 「もう少し変わった答え方をしたらどうなのか」
問うている僧は、まだ理解できていませんのでしつこく問うています。同じ答えでは理解できないので違う「言葉」で「知識」を得たいのです。「言葉」や「知識」から離れ「音」は「音」で受け取りなさいと答えるほかありません。

 「私を若輩だと思って馬鹿にしているのか。もし、ここに慧能大師がおられたら、どんな答え方をされるのか」
 ここにおよんでも、「不立文字」の真意を理解できません。真理を「言葉」で表現することはできません。ギリギリ「言葉」として表現しています。

 他の禅師であったとしたらどうなんですかと異なる答えを求めています。
 だれが仏道を説こうが「如実知見」であり、自ら体験するべきです。「冷暖自知」。



<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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