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照見五蘊皆空ー4 [仏道]

 「自我」が構築したあらゆる「知識」「言葉」「観念」「概念」「判断基準」は、「空」へと解体すべきです。解体できなければ「自我」に囚われ続けることになります。「迷い」は「自我」によって作り出されたと理解できない限り囚われから抜け出せません。
 「老病死」などの「苦」に逆らうことはできないのです。逆らえないことに対しては放っておくことです。「老い」を受け入れられないのは「自我」が他人と比較して「若く」いた方が良いという社会からの脅しに迎合しているからにほかありません。

 まっさらな目で、「あるがまま」と対峙しなくては本来の姿は見えてきません。各人が思い思いの「想」を作ることで迷っています。「迷い」は「己」が勝手に作っていることを自覚しなければなりません。

 主体と思っている「己」が「客体」と見なしている宇宙のあらゆる対象は、1(己)対無限数(あらゆる対象)です。主体の「己」は「客体」から見れば、1/無限数となり、「」に等しい存在なのです。「己」は1であると同時に「無」です。

 純粋に映画を見るように目の前の出来事を観察するだけでいいのです。目の前で繰り広げられた破壊や恋愛や家族の絆などはただスクリーンの中で起こった光の点滅を見ただけのことです。観察が終われば、何も残っていません。音と爆風を感じたかもしれませんが、ただのスクリーンでの出来事です。

 地球上で起こっていることや宇宙で起こっていることに対して責任を取る必要はありません。今も病院で苦しんでいる人がいるはずですが、あなたが責任を感じるならすべての「いのち」を救わなければなりません。「医師」という専門家に任せておけばいいのです。
 「死」によってかえって「苦痛」から解放されているのです。生まれた「いのち」は死を迎える、それが「いのち」の法則であり、「いのち」の法則を歪めることはできません。

 我々は、「無限」の存在の客体として存在しています。宇宙の一部であり、宇宙そのものであるのです。「死」によって得ることも失うこともなく、この身も解体されて無となるだけのことです。
がつがつ生きたとしても、何も手にすることができないことなど自明なことであって理解できない人はいません。執着の根本である「渇愛」という囚われを離れなくては「寂静・自由」な生活を送ることは困難です。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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