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空即是色 [仏道]

 我々の頭の中で「私の判断基準」が構築され完成されています。
 我々の普段の生活において、現前の対象(色)に接している間は「私の判断基準」が自動的に働いています。

 何かを思索したり、他人とのコミュニケーションをとっている場合にはを考えたみましょう。
まず「イメージ」を頭に描き「私の判断基準=空」を基に対象(色)を作りあげていきます。

 レストランで「パスタ」を食べに行きましょうと話していれば、頭の中で様々な「パスタ」のイメージが自然と浮かんできます。「パスタ」という共通の「言葉」であるにもかかわらず、各々が別々の「パスタ」を思い浮かべています。頭の中の「パスタ」は単なる言葉であり実体がありません(空)。

 先にイメージや先入観によって対象(色)を頭の中で作り出します。「私の判断基準」で構築された対象(色)が頭の中で存在することになります。単なる「概念」と「言葉」だけで作り上げた「イメージ」と現物の対象(色)が照合されます。「イメージ」が優先され、実物の対象(色)を見て違和感を感じることもあります。

 頭の中の「言葉」は自体がない「空」です。頭の中では好きに着色したり壊したりできます。頭の中の「虚像」がそのまま対象(色)として優先します。各々が作り上げた「イメージ」が確立されています。中東の国では「甘い」食べ物をよく食べるので、「甘さ」の基準が高く相当甘くないと甘いとは言わないのでしょう。頭の中で「甘さ」に対しての「私の判断基準」が高く設定されています。
 各人がそれぞれの「私の判断基準」を設定して生きています。注射一つとっても、痛くも感じない人から、針をみただけで逃げ出したくなる人もいます。

色即是空:対象(色)たる実在は、本来比較され優劣をつけ区分される対象ではありません。
囚われることなく知覚すればよい。
空即是色:我々の生活では、「言葉」や「イメージ」でできた記憶があるために対象(色)と比較して混乱しています。「イメージ」と対象(色)が直結しています。
 単なる「言葉」という「虚像」で「苦」を味わう必要はありません。実在のないただの「言葉」で迷よわされています。「言葉」や「記憶」は実体のない「空」です。
「色是色」:実在は実在そのまま。
「空是空」:言葉は単なる言葉だけのこと。

碧眼録53則<馬祖野鴨>
百丈が師である馬祖と一緒に道を歩いていた。
その時、野鴨子(雁)の1群が空を飛んでいるのが見えた。
馬祖「あれは何だ?」。
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※全ては「あれ」でいいのです。我々は「概念」による「言葉」でこの世を構築しています。全てが「あれ」であれば何の問題もありません。一切が優劣のない「あれ」で十分です。年齢を重ねて「言葉」が思い浮かばず「あれ」と言ってごまかすときに使う「あれ」ではありません。
 意図的に「私の判断基準」を持ち込まず、対象(色)に対して使えばよいと思います。一切差別のない対象(色)であるとして「あれ」と見るのです。
 「あれは何だ?」と馬祖も「野鴨」であることくらい知っています。あえて「あれ」として聞いたのです。「言葉」と「概念」を超えなさいとチャンスを与えました。まだ、「頭」の中の「意味のない思考」で生きているのか?
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百丈「野鴨(雁)です」。
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※「己」の頭で記憶していることが「判断基準」となっています。ただの「言葉=固有名詞」を使って、何の疑問もなく躊躇なく返答してしまいました。何の疑いもなく自動的に行っていることに気づかなくてはなりません。つまり、何の躊躇もなく「言葉」が出ているということは、思慮分別が無意識で行われている証拠です。「野鴨」という「固有名詞」の返答があったことは、「主体」と「客体」の区別をしていると見抜かれました。  自分自身で「当たり前」が「苦」を作っているを見抜くチャンスだったのです。
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馬祖「どこへ飛んで行くのか?」。
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※「どこへ」と問うことの意味はなんでしょうか。東西南北や上下左右などの「概念」は、勝手に作った「概念」です。北極点からどちらへ進んでも南です。道に迷った時には北極星の位置を知ることは意味がありますが、普通の生活の中で東西南北など知らなくても生きていけます。なんら気にすることも気に病むこともありません。
 「ここ」はどこでもなく「ここ」でしかありません。我々は「どこへ」行こうが常に「ここ」に居るだけです。
 馬祖の「どこへ」との問いは、百丈の頭の中の「思考」について問うています。「主体」と「客体」が一体となっていないため、「己」の頭を中心に思慮分別していたのです。
 「野鴨(雁)」などただ「頭」の中に存在してる「言葉」であり実体のない「空」でしかありません。
 実在の「己」は「今ここに」存在しています。頭の中にあるだけの「虚像」が本体ではありません。普通の一般人が「野鴨(雁)」と「返答」しても怒られることはありません。頭の中だけに作られた言葉としての、実体のない「虚構の野鴨」はまだ頭の中に存在しているのか?
 「どこへ」というのは、お前の実在は「どこ」に存在しているのか?今の「己」を差し置いて、手の届かぬ空の中にある対象(色)など「偽物」である。今の「己」を差し出してみよ。
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百丈云く、「もう飛んで行ってしまいました」。
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※「私の判断基準」で、「さっきいた場所」が「記憶」の中にあり、その 「さっきいた場所」が「私の位置の判断基準」となりそこから離れたので「飛んで行った」と答えたのです。
 「私の判断基準」があるかぎり、遠いや近いがでてきます。遠くへ行っているわけでもなく近くへ来ているわけでもありません。ただ羽ばたいた結果位置がずれているだけです。「野鴨」はあなたの勝手な「基準」をずれているわけではありません。
 自分勝手な「基準」で物事を判断すれば「苦」となることは必然です。「ゴキブリ」は「ゴキブリ」の「いのち」を生きているだけのことであり、「人間様」に迷惑をかけ申し訳ないとは思っていません。「人間様」の都合で、嫌がられて殺されるほどの悪事は働いていなはずです。
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すると馬祖は不意に百丈の鼻柱を引っつかんで捻り上げた。
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※「思考」しているお前ではなく、実在のお前はどこにいる。今の「お前」は、ここにいるぞ痛みを感じているそのものが「お前」である。頭で構築した「虚像」と戯れているのは実在ではない。
空即是色:頭の中で「私の思い=空」思考して実在を見ている。思考は実在ではい。
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余りにも痛いので百丈はオウオウと泣き始めた。
馬祖「飛んで行ったと言うが、まだここに居るではないか!」。
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※百丈の実在は「今ここ」に存在しています。思いの中にある(空)である「野鴨(雁)」などどうでもいいのです。
 頭の中であれこれ考え、その考えに振り回され「己」を見失っている「己」に気づきなさい。
 頭を使って論理的思考ができる人は、自らが「苦」を作り出していることに気づかないのではないでしょうか。頭を使えばただ「妄想」がふえるだけのことです。
 
 器が空の状態にあるほうが有用です。器がいつも満たされていて、その器に何かを入れればあふれ出してしまいます。また、混ざったらおかしな物質になることさえあります。頭は常にスッカラカンの空っぽにしておけば有用な器として使えます。考えすぎれば病気になります。
 毎日毎日考え悩まずとも、一口のお茶を味わいボーとすることもいいと思います。
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この時百丈は冷や汗を流して悟った。
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※ 「己」の実在は、「今ここ」に在ることを骨身で感じさせられ感得できました。頭はどこへでも行きます。「今」に生きることは難しいことです。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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