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「救済」という嘘 [仏道]

 宗教はどのようにして生まれたのでしょうか?
 我々ホモ・サピエンスは、哺乳類から進化し、地球環境の激変に順応させられ生き延びてきた「種」です。地球上の他の「いのち」と異なる点はいくつもありますが、特筆すべきは「手の器用さ」と、「言葉と文字」によって知識の保存と継承が行われていることに尽きるのではないでしょうか。

 「宗教」において「救済」する責務を負っている「」という「概念」はどのようにして作られたのでしょうか。

 ホモ・サピエンスが直面した数々の出来事がありました。人知を超える自然の力(津波、地震、火山噴火、雷などの天変地異)や自然現象(日食、月食、ハレーすい星、四季の移ろい)、また、避けがたい疫病による大量死などです。人類は、これらの「苦しみ」や悲惨な「災難」を経験してきました。あまりにもあっけない「いのち」を目撃し、記憶に刻みつけ次世代に継承していくことになったと想像されます。

 我々の祖先は、常に無力さに打ちひしがれ自己憐憫するしかありませんでした。自然の驚異に苛まれた人間は、慰みや救いに癒しを求めることは当然の成り行きです。地球上ではただの「いのち」の一つでしかありません。しかし、人間は「思考」することによって超人的な「力」や「永遠に生きたい」というあこがれを「概念化」することに「希望」を託しました。

 これほどまでに苦しめられるのは、何か原因があるはずだ。そうでなければこれほど苦しむはずがない、ということで「原罪」という「概念」を持ち出して自らを納得させたのです。
 ただ「原罪」だけでは救いがないので「」という概念を作り上げていきました。また、自然に対して力が及ばない微力な「己」を慰めるために「祈り」という逃げ口上を生み出したと推察されます。
 人間は臆病者で、怠け者であり、偽善者であり、自己正当化して他に責任転嫁する狡猾な「いのち」ではないでしょうか。老病死に対し潔くない、諦めきれないこだわりがあるのです。
 想像を超える自然現象や災難、苦難さえも超える全知全能なる「神」が霊感をもって代書させたと言われる言葉を拠り所とし、精神的混乱から逃れすすべを見出し「いのち」を存続させることに成功しました。「神」は必然的に作られた究極の現実逃避の「概念」であるといえます。

 「宗教」は、国や国王の権威づけのために利用されてきた。無知なる民衆に対して「神」のみぞ知る自然現象(月食、日食、ハレーすい星)などが正確に予言できるのは「国王の権威」と「神」が同等であると民衆に示すためでした。
 また、「宗教」は他の民族や他の国を征服するために正当化する拠り所として利用されてきた。神に祝福された聖戦であり、「聖なる土地」は征服者の所有地として約束された土地なのです。

 科学知識の進歩により、ある程度自然現象が予測できるようになったことにより、「」の権威や威厳はほとんど消失しています。地動説、進化論、日食、月食、地震、台風、引力、圧力、電磁気などにより、「神」の脅しが通じなくなってなっています。科学が進歩するにしたがって「神」の担っていた神秘など無いことはっきりしてきました。ただの自然現象でしかないのです。いつまでも脅されて頭を下げているバカバカしさから「目覚め」なくてはならないのではないでしょうか。

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神はみこころにかなった願いをするなら、必ず、かなえてくださると約束されています。(第1ヨハネ5章14-15節)
悪霊の障壁を打ち破るために祈ります。(マタイ17章14-21節)
祈りに欠けるということは、信仰に欠けていること、みことばを信用していないことの現われです。私たちが祈るのは、私たちが神に信仰を置き、みことばで神が約束しておられることを必ずしてくださるということを信じ、神は私たちの願うところのすべてを越えて豊かに施してくださると信じているからなのです。(エペソ3章20節)
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 一体どれくらいの人が祈りをささげていることでしょう。○○教での祈りで実現しないのは、信仰に欠け、信用していない現れとあります。このように逃げ道を作ってあるのが人間の狡猾さが現れています。祈っても実現しないのは、祈る人の責任であり「神」には責任がないのです。

 「神=全知全能」とは、すべてを知っていて、どんなことでもなし得る能力であります。しかし、完全無欠の知恵と才能がありながら永遠に眠ったまま、知っているだけで何一つ為してはいません。何も働かない「ニート」が「神」の実体です。「救済」などしたためしがありません。かえって、紛争の火種として君臨し人々を苦しめているだけです。

 また、「神」ができない逃げ道として「悪魔」という「概念」を作りました。悪いことが起こればすべて「悪魔」に責任転嫁させることができるようになっています。
 全知全能でありながら、「悪魔」の存在を放っておくのは、行動力がないもう一つの証拠だと言われてもしかたありません。全知全能ならば、面倒くさい「悪魔」をすぐさま消滅させればいいだけの話です。
 「悪魔」は「神」を存続させるための重要な悪役の位置づけです。「悪魔」がいなければ存在意義は半減します。どちらにしても「神」も「悪魔」もただの「概念」でつくった「言葉」でしかありません。

 細胞一つ一つに対し「神」の力を加えることができるでしょうか。「神」が細胞に働きかけることができるのなら、「医学」は必要なく、細胞に祈ればそれで済むことです。「いのち」は勝手に生かされているだけであり「祈り」によって干渉されることはないでしょう。

 老病死や自然現象に対して、「神」による「救済」など今までも行われていないし、これからも「救済」はできはしないでしょう。毎日毎日祈っても、病気になり死んでいくのです。ささいな病気一つ治せはしない、死者も甦らせることもできない。
 この世で、肉体を得た瞬間から重力による束縛、呼吸、体内の循環器系、細胞の寿命など様々な制約の中で生きていかなくてはなりません。永遠に生きたいとは、なんたる愚かなことでしょう。永遠の苦しみを受けることを容認することでしかありません。

 「己」の「考え方」を直接に変化させる存在などありません。「己」の細胞を直接に変化させることなど「神」でもできません。それが「唯我独尊」です。「己」の「心」を直接変えられるのは宇宙にただ一つの「己」だけなのです。「神」が変えることができるのなら悩む人などいないはずです。我々一人ひとりが、「己自身」が何者かによって直接に変えられないということを理解しているはずです。自分自身が「己」が「唯我独尊」であることの「証人」として存在しているのではないでしょうか。
 もし、全知全能の「神」が各人の「心」を変えることができるなら、眠っている間に改宗させ、目が覚めたらすべての人を○○教の信者にすればよいだけの話です。ある地域だけでも可能なら、その地域の争いがなくなるでしょう。
 過去の歴史からもあり得ないし、今後もあり得ないのではないでしょうか。
 
 祈っても祈っても、老いがあり、病気があり、死があります。どうして「病気」一つ治療できない「神」が「全知全能」なのでしょうか。一粒数十円の頭痛薬の方がよっぽど「効果」があります。
 苦しみでのたうちまわっている人には、「神」よりも「モルヒネ」のほうがありがたいのです。「神」は全知全能の力を発揮するところなど見たことがありません。

 そもそも諸外国の宗教を信じていない人にとっては、祈ることもないのでご利益もないかもしれません。生老病死においては「神」が救済してあげたことなどありません。死後復活した人など一人でもいるでしょうか。常識的に考えて、処女から生まれることなどありえません。現代の科学者なら、バカバカしい作り話であると一笑にふす話です。

 どんなに殺戮を繰り返している人でさえ「神」はほったらかしにしています。今すぐ戦争を止めさえすれば苦しんでいる人を救うことができるのに、なにを躊躇しているのでしょうか。「神」は無能で無力と言われても反論できないでしょう。判っているのに何もしないでただ見ている「神」はサディスト(他人に肉体的・精神的苦痛を与える事に喜びを感じる)であり、信仰している人間はマゾヒスト(肉体的・精神的苦痛を受ける事に喜びを感じる)と言う人も多いかもしれません。
 
<結論>
 老病死においては、「神」を信じることで「救われる=解決」ことはあり得ません。祈って虫歯が治ることもありません。老病死は「神」では「救済=解決」できません。老病死に対して何ものかに頼ることはあきらめることです。この世では、願っても祈っても「意味がない=解決しない」ことを理解し、何かにすがったり、拝んだり、頼ったりする必要は一切ないのだと安心して老病死を受け入れることです。
 的確な情報収集を行い最適な医療を受診すればいいだけのことです。病気は遺伝や生活習慣や環境など様々な要因によって起こるだけであって、逃れることは不可能です。怖がらずに定期に人間ドックを受診し、早期に発見することが第一です。早期に発見し対処した後は、生活習慣を見直すチャンスとして歓迎するほうがよいのではないでしょうか。雲をつかむような「何ものか」に頼っても、散財するだけです。

 このバカバカしい「神」というただの「概念」、自らが作った呪縛から抜け出すことができない限り、この世に縛られたままです。
 今ここで勇気を出して決着をつけることです。あなたの抱いている「神」と決別宣言するのです。実際あなたは「神」によって「救われた」ことがないなら遠慮はいりません。病気一つ治してもらった経験もないと思います。知人に確認しても、「祈り」によって病気一つ治せないのは明らかだと思います。あなたが決別してもだれにも知られることはありません。いつまで「己」が勝手に作っただけの「神=概念」に騙され続ける必要があるのでしょうか。

 「神」というあいまいなただの言葉だけの「概念」から解放され、すべての拠り所を「己」に置くことです。真なる勇者になり、誰にも頼らず他に責任転嫁しない「自由」を手にいれなければなりません。
 真に「己」を救済することとは、仏道を修し「輪廻再生」しないことではないでしょうか。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。



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