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壊苦性 [仏道]

正覚によりて(1) 南伝 相応部経部35-13  [阿含経典三巻 P24 増谷文雄著 筑摩書房]

 比丘たちよ、そのわたしに、やがて、このような思いが浮かんだのである。<すべて眼を縁として起こるところの楽しさと喜び、それが眼の味わいである。また、その眼がすべて無常かつ苦にして、移ろい変わるものであること、それが眼の禍いである。さらに、その眼における欲の貪りを離れ、欲の貪りを捨てること、それが眼からの脱出である。>

 比丘たちよ、しかるに、わたしは、そのように、これらの内なる六処の、味いを味いとして、禍いを禍いとして、また、脱出を脱出として、よく、あるがままに知るにいたった時、比丘たちよ、この時、わたしは、天神・悪魔・梵天の住む天界において、また、沙門・婆羅門・人天の住むこの世界において、最高の正等覚を現成したと自覚するにいたったのである。

 そして、わたしには智慧と直感とが生じた。<わたしの心解脱は確かである。これがわたしの迷いの生涯の最後であって、もはや、かかる迷いの生涯を繰返すことはないだろう>と」
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 執着はいかにして起こるか?それは眼に見ることを楽しみ、見ることに喜びを感じる。そのことが眼の味わいとして囚われる。しかし、見えるものは「無常」である。見える対象は、変化して消え去るので実体がない「空」であり「無」となる。
 他の対象に眼を移せば、さっきまで見ていたものはすっかり消え去っている。さきほどまで見ていた対象は眼に残っていません。眼自体は執着も記憶も言葉も概念も持ち合わせていません。見て認識して受となることで味わいが起こる。

 「見たい」ということは、禍であると認識し自覚しなくてはなりません。味わい楽しみの意思で見ることなく、ただ眼に対象が映っているだけで留めておく。
 見えるままに放っておく「思考」してはいけない。楽しんでいる「己」に気づき、「渇愛」になるとして喜ばない。惹き込まれたり、忌避してはいけません。眼自体は何も思わず何も判断していません。

 「あるがまま」に見えているだけ、それで完結しています。興奮したりがっかりしたり、感情や楽しみを起こさずただ見えたままそれだけ。特別なという見方をせず、「好き嫌い」の二元的な見方にならないように、見えているままに受け取ればいいだけです。
 聞く然り、匂い然り、味然り、感覚然り。音に善悪なし、匂いに善悪なし、味に善悪なし、感覚に善悪なし。

 すべては過ぎ去り消え去っています。きれいさっぱり消え去っていて、戻れないのです。
 ただ「記憶」や「郷愁」や「残念」や「悔しさ」などのさっきの「もう消え去った」ことに意見を立てて「苦」を自前で作り出しています。
 五感は一切の執着なく新たな「今この瞬間瞬間」の感受へと移り変わって「今この瞬間瞬間」を体験しているだけです。「今この瞬間瞬間」を見えるまま、聞こえるまま、感じるまま、味わえるままにどっぷりとただ在る、在り続ける。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
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