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行苦性(3) [仏道]

結縛(けつばく) 南伝 相応部経部12-53 [阿含経典一巻 P190 増谷文雄著 筑摩書房]
「比丘たちよ、繁縛(けばく)するものを、じっと味わいながら観ていると、その人には愛着の念がいやましてくる。その愛によって取がある、取によって有がある、有によって生がある。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以である。」
 燈火があって、油をそそぐ
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愛別離苦:仏道での「愛」は、「愛着」です。
 愛別離苦とは、執着する対象(物質だけではない)とは離れ離れになる(消え去る)ことになる。執着しても「己」のものにすることはできずに必ず消え去る。一時的な慰みとして存在するにすぎない。結局は消え去るので「苦」である。「渇愛」の大きさに比例して「苦」となる。
 我々の最も溺愛している「肉体」も「死」によって儚く別れを告げることになります。我々が大切にしている「観念」や「記憶」も、自ら作ったものです。
 「あるがまま」の世界であるのに「我がまま」の世界へと「妄想」を作り出してしまいます。

 我々の「思考」を写真に撮ったらどうでしょうか、瞬間の景色を写真に撮れば一瞬を印画紙に再現できます。たとえば、川の流れを30秒ほど露出させて撮ってみると「霧」のようになっているのを見たことがあると思います。「思考」も30秒ほど経てば「霧」と同じです。実体のない「霧」であり消え去るだけです。「記憶」も「実体」はなく、ただの「空」でありいつかは消え去ります。
 なぜ、これほど「知識」「概念」「記憶」「思考」に囚われているのでしょうか。「いのち」を守るために構築して、「己」が一生懸命に作ったので、もったいなくて消せないのです。

 図書館の蔵書や雑誌の数を見てください、日々情報が増え続けています。いったい何を知ろうとしているのか、何を伝えようとしているのでしょうか?
 いつまで探究しても、どれほど探究しても答えが見つからないので作り続けているのではないでしょうか。増えれば増えるほど混沌としていくだけです。

 「情報」は増え続けるので「知識」で何かを得て達成することはありません。だれもが同じ「知識」を得て達成するのであれば、専門の大学で単位を取ればそれで「達成」です。

 得て達成するのではなく、「消し去って」根源にたどり着くのではないでしょうか。どんな大河であろうが「源流」があるはずです、「源流」を探し出すためには「遡る」ことです。
 「己」の中の「源泉」を見つけだすには、いらぬ「知識」「概念」「記憶」「思考」などの「こだわり」をはぎとってはどうでしょうか。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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