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一切顛倒ー10 [仏道]

 「当たり前」にやっていること、「当たり前」に起こっていること、「当たり前」にできること、「当たり前」の事象、「当たり前」の感覚等に疑いの目を持ち、自らを真剣に観察し自らを正すことはなかなかできません。
 物理法則は「当たり前」に起こっている現象を「当たり前」として見過ごさずに、何か法則があるのではないかと観察して発見されました。いわゆるDiscover(カバーを取り去ることで隠されていた法則が見つかったこと)により実証されました。
 リンゴは「当たり前」に木から落ちていた。風呂に入れば「当たり前」に水かさが増え溢れだしていた。琥珀をこすると静電気が発生して糸くずが吸い付いていた。コイルのそばで磁石を動かすと電気が発生した。
 いくつもの法則の発見から様々な発明が行われ現代社会へと繋がっています。物理法則には再現性が求められますが、再現性がなければ偶然の出来事でしかありません。
 人間界で起こる現象や人間の内面の感覚を観察して法を発見し、実践法を示したのがお釈迦様であることは周知の事実です。

 仏教用語にある、四苦八苦、十二縁起、一切皆苦、諸行無常、諸法無我等の概念を「言葉」によって弟子(僧)に伝え「法」として現在に至っています。七科三十七道品の修行や禅、坐禅、公案禅、大乗仏教など様々に発展しています。
 修行結果は、個々人の実体験であり表現できるものでないため「不立文字」とされています。個々の体験は対面して確認するほかないようです。ある時点をとらえた一時的な現象が思い込みや錯覚である可能性があります。修行は終生続くもので、怠ることなく心を磨き続け清浄にしていくものです。

 「当たり前」に使っている「言葉」について考察してみます。
自灯明・法灯明」「すべてのものはやがて滅びるものである。汝等は怠らず努めなさい」(大涅槃経)
「ただひとり行くのがよい。 無知なる(愚かなる)者を 道連れとするな。 ひとり歩め。
悪いことをするな。 林の中にいる象のように、求めること少なくあれ。」(ダンマパダ330)

 お釈迦様が「自灯明・法灯明」と言い残したのは何故でしょうか。
自灯明の理由は、お釈迦様のような指導者が存在しなくなったとしても、自己観察により心を清浄する主体として存在し続けるからです。
法灯明の理由は、「言葉」は「概念」と共に作られたもので消え去ることがない。物質は消え去るが、 「言葉」は消え去ることなく「法」として生き続けることができるからです。
 地球上では、「法(言葉)」を理解し、自己探求できるのは人間だけです。他の生き物は「言葉」を理解できないし、いわんや修行により心を清浄にすることはできません。人間だけがこの世に結実しないように心を清浄にできるのです。仏になってない人が「犬に仏性」が有りますかと問われれば、「有る」とは言えません。己が成仏すれば「山川草木悉皆成仏」となり、他を成仏させ仏により成仏させられます。もし、菩薩に囲まれ暮らすことになったら一般人として生きていけるのでしょうか。狼と一緒に暮らしても人間として人間の常識を狼に押し付けて生きていけるでしょうか。
 「山川草木」に勝手に観念を押し付けて見ているだけです。「山川草木」は自然のまま何世代も変わらずに”いのち”を繋いでいるだけです。「山川草木」に対し悪意で見れば悪となり、善意で見れば善となる。

 「言葉」は「概念」ですから実体はありません。「無常」という「言葉」には実体はありません。「喜怒哀楽」に実体はありません。怒りを掴むこともちぎって投げ捨てることもできません。
「花」とはどこからどこまでが「花」なのでしょうか、根の1本1本が「花」ではないというなら根を全部切りとっても「花」のはずですが「花」は咲かないので「花」ではありません。花びらも「花」の一部ですが「花」そのものとは言えません。
 「花」は花の要素が集合されて「花」と定義しています。我々はあいまいな共通認識によって言葉をつかっているだけです。
 文字でかいた「花・はな・ハナ」も「花」と認識し、絵で描かれた「花」も「花」と認識し、写真の「花」も「花」と認識し、鉛筆で書かれた「花」も「花」と認識し、言葉で発音した「はな」も「花」と認識して各人の勝手に思い描いたイメージとして了解しているだけのことです。

 絵の花はただの輪郭でできた形と色の周波数を認識し、記憶にあるイメージの「花」というカテゴリー類似性に合致すれば「花」として了解することになります。「はな」と発音された言葉の周波数と、記憶にある様々なアクセントと照合して「花」と了解します。どれもこれも曖昧であり、他人の「花」のイメージなど確認していません。曖昧な「概念」を押し付けたり受け入れたりしています。このいい加減な合意によって社会生活を営んでいます。

 人間は、「花」の各部である根・茎・葉・花・雌しべ・雄しべ・葉脈・花粉・花柱・花柄などの集合した有様を見て「花」と呼び、共通の認識をいだいているだけです。
「花」は、一時的に花の各部が結合した有様でしかないのです。4枚の花びらの1枚が落ちて3枚の花びらでも「花」と言うことでしょう。本当にいい加減であいまいな「概念」でしかありません。
 「花」と認識することは、一時的に結合した有様であり「記憶」にある「花」の概念に合致したものです。すなわち、「花」であろうが「家」であろうが「人間」であろうが構成要素が集まったものです。その構成要素が、各自の抱いている「概念」と合致した状態であれば該当する「言葉」をあてはめます。

 「人間」も因縁結実し物質化され、この世に現れた一つの集合体です。時の経過によって必ず分解消滅する自然の中の現象でしかありません。
 因縁を持っているので「空」から卵子と精子、受精卵、胎児、新生児、小児、子供、小学生、中学生、大人、壮年、老人、病人、死体と様々な変化をしながら分解消滅していき恒常なる実体などありません。
 死ぬ1秒前までは人間であり、死ねば死体と呼ばれます。死体となればただの忌み嫌われる「物体」なのです。
 生まれる前は「空」から因縁によって結実され、因縁を持って死ねば分解され「空」となるだけのことです。渇愛の無くならない限り「人間」として、一時的にこの世に姿を現して生涯を通じて様々に変化しているにすぎないのです。もし、心を清浄にしつくして因縁を清算することができれば再生のエネルギーが消滅して「無」となる。

 この稀なる「人間」としての生をただ漫然と生かされていてはなりません。心(働き)が煩悩により汚れていくだけです。生きている間に心を清浄にして(停止させる・中道)「平安・自由」を体験することで、生に応えることになります。
 
 欲望とは欠乏を感じているということです。「身びいき」のために心を働かせるのではなく、心を清浄にするようにしなければなりません。心を渇愛のために働かせ、エネルギーを作り出すことで次なる結実の原因となります。
 
 聖者であろうが一般人であろうが色受想行識の「受」の段階では、同じように反応しています。暑ければ暑い、寒ければ寒い、美味しければ美味しい、苦しければ苦しい、痛ければ痛い、悲しければ悲しい、可笑しければ可笑しい、怖ければ怖い、息苦しければ息苦しい、目がかすめば目がかすむ、膝がいたければ思うように歩けない「当たり前」のことです。
 しかし、「身びいき」による渇望感があることで、必要以上の執着と忌避が起こります。この執着と忌避によって心が汚れ、作用(心の磁化)が起こると思われます。

 日々「当たり前」であるとして見過ごしてきたことを、逐一観察することで真理に触れることができるのではないでしょうか。

<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。


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