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一切顛倒ー3 [仏道]

 「自我」は「いのち」を守るために、限られた些細な情報をもとに日々獅子奮迅の活躍をしています。受け取った情報や頭の中で構築した「思考」を振り分け、白黒をつけています。
 すべてが「いのち」のための自己愛、自己保身、自己保存のために、休むことなくけなげに働いています。せっかくこの世に「いのち」を授かったのですから、従順に「いのち」のを繋ぐシステムに従っています。このシステムに組み込まれているプログラム通りに「いのち」の保護と安全確保に徹しています。この「苦」から回避するプログラムの主体となっているのが「私=自我=思考」です。

 「自我=思考」は単なる「いのち」の保身のために作られましたが、肉体や感覚や感情や判断を統合した「私」という「概念」を作り出しました。
 「私」は「言葉」を使って現実を解釈することができ、他人に意思を伝えることもできるようになりました。また「言葉」によって意志を都合よく構築することができるようになりました。頭の中だけの「概念」や「言葉」を駆使することができ、頭の「意志」によって自らが行動できます。「思考→意志→行動」が何度も何度も繰り返される中で、「概念」でしかない「自我=私」が主体であると勘違いしてしまったのです。

 「己」の肉体はある程度意思通りに動きます。完璧には制御できないまでも歩く・立つ・伸ばす・曲げるなど最低限動かすことができます。「己」の感覚もある程度実感できます。体験されたことを「概念」を使って「言葉」で表現できるようです。「己」の感情も「喜怒哀楽」などの「概念」もある程度「言葉」で表現できます。「己」の判断も二元対立の「概念」によってある程度「言葉」で判断できます。すべてがある程度でしかありません。

 肉体や感覚や感情や判断は心もとない「ある程度」の動作や表現しかできないのです。「自我」ができることなど大海の一滴程度のことでしかないのです。「雨」の一滴でさえ降らせることもできないのです。種は蒔けますが、一輪の花さえ咲かせることもできません。あらゆることが出来ないと言っていいでしょう。
 「自我」は「私」という狭い「概念」の中で必死に自己主張しています。「私」という実体があるかのごとく振る舞っています。本来は実在していない「概念」だけの「私」なのに、あいまいなまま「私」と言って共通「概念」で通じ合っているだけのことです。これが顛倒です。

※「私」は辞書では、一人称・話し手、自分
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「私」に問いかけてみてください。
Q:5歳の時の肉体は「私」そのものでしたか?
A:それはまさに「私」でした。
Q:5歳の肉体はどこにありますか?
A:もうこの世には存在しません。5歳の「私」など今は存在していません。
Q:それでは、今の「私」は5年後、1年後、1か月後、1日後、1時間後、1分後、1秒後も今のまま存在していますか?
A:もう今は過ぎ去っているので、瞬間瞬間に全く同じ「私」など存在しません。確実に消え去っています。
もし、全く同じ「私」が存在しているのならだれも「生まれたままの赤子」のはずです。
 すべてが変化するということは、何かが生まれ何かが消え去ることです。今生きている地球上で変化しないものはありません。
Q:「私」は常に変化して、消え去っているのです。それを今まで使っていた「私」という一般「概念」のままでいいですか?実体があると勘違いしたままでいいですか?
A:よくありません。「私とは、瞬間瞬間消え去って捉えられない。実在しないものです」と新しく表現したいと思います。

Q:我々が使っている「私」という「概念」は、一般的に通用する「概念」を便宜上使っているということですか?
A:そうです。一般社会生活では、便宜上他人とのコミュニケーションをとるために「私」という「概念」をつかっています。
 しかし、正しく見るなら「私」はどの瞬間をとっても確固たる実体はありません。変化し続けている「私」という「言葉」であって「概念」でしかありません。本質は実体のない「空」でしかありません。
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 同様に、肉体を感覚、感情に置き換えて問いかけてみてください。何もかも存在していない「空」なのです。
 「私」は単なる「概念」であり、「私」と思っているものには実体はなく瞬間瞬間に消え去っています。これから先も確固たる存在なく「空」として瞬間瞬間を存在と共にただ在り続けるだけです。
 「私」が不在であっても、すべては自動的に起きています。見るのは「私」ではなく、見るが起きている、聞いているのは「私」ではなくて、聞くが起きている、すべてが「私」など無くてもただ起きているのです。

 私たちの知らない言語(例えばフランス語)を聞いても何の意味も無いただの「音」でしかないのに、日本語を聞くと意味をくみ取ろうと必死になります。もし、ここに書かれた言語がハングル文字やアラビア文字であったらただの記号でしかないのです。「自我」は意味を探り、なんとか意味のあるものにしようと必死にあがくのです。

 一体私たちの目の前に見えているこの瞬間の出来事をすべて「言葉」で表現して意味づけできるでしょうか?
 次の瞬間に目で見えているすべて、さらに次の瞬間に目で見えているすべて、さらに次々の瞬間瞬間の目で見えているすべてを表現できるわけはありません。瞬間を切り取って頭で処理して「言葉」で表現することは不可能なのです。ただ起こることをそのまま受け取るしかないのです。

 「自我」が存在に対して判断するということが、途方もない馬鹿げたことだと理解できていない証拠です。人間の視界の範囲で宇宙全体を判断して思い悩むようなものです。

 耳で聞こえていること、肌で感じていること、体調、雰囲気、空気感、呼吸、瞬き、舌触り、唾液、足の具合などなど、表現され得ぬ表現を超えたとてつもないことが瞬間瞬間に起こっては消えています。
 この壮大な存在を限られた「自我=思考」が、何十万語しか持ち合わせのない人間の語彙を使って、どうして受け取ることができるのでしょうか。また人間の語彙で表現することができるのでしょうか。

 「自我」ではオーバーフローしているのははっきりしています。AIが実用になり、カメラでとらえた存在の一瞬を言葉で表現しなさいとめいれいされたとします。どんなにAIが進化してもと「見る→思考する→語彙選択→表現する→表示する」と次から次へ瞬間瞬間の処理はとてもできるはずはありません。AIもギブアップすることでしょう。「自我」が存在の一切を受け取ることなどできません。あるがままを受け取るには、根源なる実在に委ねるしかありません。

 「自我」は大いなる存在にギブアップするほかありません。壮大な風景を見て「言葉」では表現できないことを真から理解できた瞬間があるはずです。数秒後に乏しい語彙の中から絞り出した賞賛の「言葉」で「素晴らしい、感動した」で終わらせてしまいます。「自我」は壮大な存在に完全に圧倒され敗北しているはずです。「自我」を明け渡さなければならないのです。
 山に行かなくても、庭の木々や公園の木々を見るだけでも、小指ほどの花さえ表現できる「言葉」は見当たりません。「自我=思考」の範疇をはるかに超えた存在が瞬間瞬間に広がっているのです。

 「自我」をそのままに、存在の一部に成り下がってはなりません。コペルニクス的転回が必要です。主体から客体となり大いなる存在に混ざり溶け込み存在そのものである主体そのものに成ることです。「抵抗」している「自我」は「言葉」での表現が及ばない存在へと混ざり「言葉」を捨て去り、「言葉」の無い存在へと溶け込み存在と一体となる。
 ただ受け取るだけ、頭を使って判断しないこと。存在とともにあり続ける。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道の修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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